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20/11/20 ロラン・バルト『物語の構造分析』メモ 構造分析vsテクスト分析

物語の構造分析

物語の構造分析

物語の構造分析

 

お題箱に「作者の死」に関する投稿が来ていたのでやむを得ず読んだ。
ロラン・バルト及びその著作については「構造主義ブームの記号論&物語担当」くらいの解像度でしか把握していなかったが、実際に著作を読むとロラン・バルト自身はグレマスやプロップのような古典的な構造分析に対しては明確に距離を取っているのが意外だった(同じ界隈だと思っていた)。
バルトのポジションは「作者ベースの批評(歴史的批評)vs読者ベースの批評(構造主義批評)」という対立において後者というよりは、構造主義批評の中で更に分裂した「構造分析vsテクスト分析」という対立において後者という方がしっくり来る(そしてテクスト分析は構造分析よりは歴史的批評に近い)。構造分析が単に所定の枠組みで作品を捉える原始的な構造主義であるとすれば、テクスト分析はその自律性に疑いを持つポストに片足を突っ込んだ構造主義という印象。

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実際、メインの論文である『物語の構造分析序説』では主として構造分析を深化させたモデルを提示しながらも、要所でテクスト分析の必要性を示唆する構成になっている。
バルトが提示する機能-行為-物語行為という三段階層モデルは直観的にも理解しやすく、構造への当てはめゲームに終始する節がある機能リストや行為項モデルに比べると、ゆがみや拡大といった説得力のある魅力を扱える点で上位版のように感じる。
ただ、この論文における最大の力点は決して機能-行為-物語行為モデルそのものではなく、むしろこの単純な腑分けに収まらない余剰への意識であるように思われる。それはバルトが物語行為について語るところで顔を出すが、これに関してはバルト自身より日本語訳者(花輪光)の訳解の方がはっきりと書いている。

物語の自律性を前提とする内在分析は、「物語の状況」に関して十分な意味規定をおこなうことができず、逆に外在的条件までも考慮すれば、物語外の要素の介入を避けえない。物語の構造分析のこのディレンマを解決するためには、物語のディスクールを含む包括的な「ディスクール言語学」、いやさらに「エクリチュール言語学」が必要であろう。

ここで物語の構造分析を補完する「エクリチュール言語学」として現れるのがテクスト分析であることは明らかだ。ちなみに統語論に終始して文化的価値体系と接続しない構造分析のことはレヴィ=ストロースも批判していたらしい。

実践を行う『天使との格闘』でも主にバルトが行ってみせるのは古典的な構造分析に過ぎないが、その過程でテクスト分析を示唆するという『物語の構造分析序説』と同じ構成を取る。こちらの方が構造分析とテクスト分析を峻別する態度がはっきりしており、構造分析を行っている最中にわざわざ「私の本意ではないのだが」という留保をいちいち挟むのが面白い。

最後にわたしは――もっと自分を殺して――われわれのテクストに二種類の構造分析を応用し、そうした応用の利点を示したいと思う――わたし自身の作業はいくぶん異なった方向を目ざしているのであるが

また、ではテクスト分析とは何なのかという自然な疑問に対して(比較的)明晰なバルトの定義が与えられるのもこの論文だ。

テクスト分析はもはや、テクストがどこからやって来るか(歴史的批評)、またどのように構成されているか(構造分析)を言うのではなく、テクストがどのように解体され、爆発し、散布されるか、つまり、テクストがコード化されたどのような道を通って立ち去るか、を言おうとつとめるのである。

ここでもやはり歴史的批評と構造分析とテクスト分析の三種がはっきりと区別されている。この論文では嫌々行われる構造分析が主題であり、テクスト分析そのものは陽に行われてはいないが、最後にその具体的な手続きが僅かに触れられている。

周知のように、換喩的論理は、無意識の論理である。それゆえおそらく、この方面にこそ探求を続けていくべきであろう。つまり、繰りかえして言うなら、テクストの読み取りを、テクストの真実ではなくテクストの散布を、追求していくべきであろう。(中略)少なくともわたしが身に課す問題は、実際「テクスト」を、何であれ一つの記号内容(歴史的、経済的、民間伝承的、ケリグマ的)に還元せず、テクストの表意作用を開かれた状態に保つようにすることなのである。

バルト自身も触れているように、この一節にはラカン精神分析の影響があることは明らかだ。事物を記号的に構築された構造の中でしか捉えられないとするならば、次第にその構造からはシニフィエが欠落してしまい(構造は自律して存在できるのだから)、通常のシーニュではなくシニフィアンだけが残るという見解が共通していることが伺える。

よって、『作者の死』に収録されている、「エクリチュール」に並んで有名なフレーズ「作者の死」もこの文脈で捉える必要があるだろう。
「作者の死」というキーワードだけからスタートしてバルトのテクスト分析を語ろうとすることはミスリーディングとは言わないまでも、少なくとも「読者の誕生」の方がウェイトが高いことは事実だろう。作者が死ぬこと自体は、作品を単純な構造の中に分類しようとするプロップらの構造分析の時点で既に見られるからだ。作者を排除して自律的に作品を捉える閉鎖性はむしろ構造分析の特徴ですらある。
バルト自身のテクスト分析としては、作者を廃してもなお到来する領域として読者に向かっての開きを確保したところに力点がある。ラカン精神分析では「無意識」に割り当てられているような本質的に解釈不可能な領域が、バルトでは「読者の読み」に相当しているように思われる。テクストについて語ることが主題の『作品からテクストへ』でもテクストはなかなか肯定形ではっきりとは定義されず、隠喩や否定形でのみ語られることにも納得がいく。

20/11/13 2020年9月消費コンテンツ

2020年9月消費コンテンツ

9月は『ルフランの魔女と地下迷宮』が終わらないばかりに50時間くらい奪われてしまい、変な和ゲーはもう金輪際やめようと心に決めた(この記事を書いてる今もまだ終わってない)。
俺が極稀にゲームを遊びたくなったときは「据え置き最新機種のパッケージで出てる」「オリジナル」「萌えとは言わないまでもJRPG系かアニメ系の絵柄」「願わくば女性主人公」みたいな基準でとりあえず選ぶのだが、これをもうやめたい。
この基準そのものが面白くないゲームを導くとは思わないのだが、これを満たすゲームを供給する国内サードが片手で数えられるほどしかない(ネプテューヌと愉快な仲間たち)。基本的に彼らのゲームを俺は面白いと思わないので、この基準で選んでいると終わることにようやく気付いた。

メディア別リスト

映画(4本)

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒
マッドマックス
バーフバリ
バーフバリ2

書籍(7冊)

蜂の寓話
カントの哲学 シニシズムを超えて
14歳からの哲学入門
寝ながら学べる構造主義
クリプキ 言葉は意味を持てるか
コロナ時代の哲学
フーコー入門

漫画(13冊)

がっこうぐらし(全12巻)
ドM女子とがっかり女王様(1巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

蜂の寓話
クリプキ 言葉は意味を持てるか
ドM女子とがっかり女王様

消費して損はなかったコンテンツ

バーフバリ
寝ながら学べる構造主義
フーコー入門
14歳からの哲学入門
がっこうぐらし
カントの哲学 シニシズムを超えて

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒
コロナ時代の哲学
マッドマックス
バーフバリ2

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

 (特になし)

ピックアップ

蜂の寓話

かなり面白かった。サブタイトル「私悪すなわち公益(Private Vices, Public Benefits)」がカッコイイ。
サブタイトルから予想されるように、いわゆる悪徳とされる利己主義が社会の繁栄と安定のために必要不可欠であることについて論じている。1714年刊行であり、「個々人が利益を追求していれば(=悪徳)、社会は勝手に安定する(=公益)」という文脈で経済学の祖たる1723年生のアダムスミスにも繋がっている。影響力の大きな書籍である割には内容はエッセー調かつシンプルに文章が面白いので非常に読みやすい。

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まもなくわたくしは小さなずんぐりした聖書を投げつけられ、頭を割られて死ぬであろう。そうした聖書は、真鍮の留め金をつけられて災いをおよぼすようにしかけが施されており、慈善学校の学習がやめになったので、閉じたままほかならぬ実戦にも真の論戦にも適するようになっているのである

ここで一分くらい笑ってしまった。「実戦にも適する聖書」という概念の世界観が『ベルセルク』だが。聖書に真鍮の留め金を付けると有利になる「真の論戦」って何?

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終始この調子で、主たる論旨に関してもデータを用いて客観性のある分析をしているというよりは、都合の良い主観的なエピソードを次々に出してきているガバガバ理論な感は否めない(だから面白いのだが)。
とはいえ、そのあたりの方法論を整備したらしいデュルケムが登場したのも19世紀後半だし、当時の社会学(?)の水準はこんなものなのかもしれない。数値に基づいた論証を行っていないために事実と考察が分離しておらず、常に経済的な側面と道徳的な側面が融合した独特のモザイクの中で主張がなされていく。

まず道徳的な側面については、「美徳とは追従が自負に生ませた政治的な申し子である」という金言が全てを表している。
人間の根源にある欲望とは自負すなわち自惚れであって、人に何かをさせようと思えば自惚れをくすぐるように賞賛や侮辱を与えれば事足りる。利他的な行為を持ち上げる価値観を形成しておけば、人々は賞賛を求めて追従し、逆の行為は侮辱を嫌って忌避するというわけだ。すなわち美徳とは、それに人間の自惚れをくすぐり模倣させることで社会を調停するものに他ならない。美徳とは結局私欲によってしか駆動しないため、それが退けたところの悪徳そのものである。

経済的な側面については、「結局のところ奢侈こそが社会を回すのだ」という旨の主張が無数の恣意的なエピソードによって延々と語られ続ける。
ただし、ここで「富めるものが富むことで社会が繁栄する」という理由で「富むべき」とされている範囲は上流階級に限定されている。「上流階級が富むことで結果的に貧者も富む」というトリクルダウンの構図は全く想定されていない。
むしろ貧者は貧者のままで過酷な肉体労働をして社会の下部を支えていてもらわなければ困るとして一貫して階級格差肯定の立場を取る。不用意な啓蒙をすることは社会を攪乱するので下級階層は無知のままで一生を終えてほしいという思いが「ロシアには知識のある人間が少なすぎるし、大ブリテンには多すぎるのである」という金言で表明されている(この本、金言が多すぎる)。

今から見ると相対的に過激な思想ではあるが、著者のマンデヴィルが公益を追求する気持ちが本物であることについては注意が必要だろう。
この本で公益と言われているものは本当に文字通りの社会繁栄と安定であり、マンデヴィルは利他主義者でこそないものの局所的な功利主義者で有り得る。よって、社会を攪乱して終末に追いやる破滅型の「悪徳」は、『蜂の寓話』においては「私悪」としてカテゴライズされていない。それは恐らくマンデヴィルにとっても忌避すべき対象である。

更なる実践編として、「慈善と慈善学校における試論」で(一般的に道徳的な行為とされているところの)慈善と慈善学校の二つに最強の攻撃を加える補論が収録されている。
道徳的には慈善学校など周りからよく見られたいという自負心によって作られているにすぎないし、経済的にも子供たちを啓蒙することは長期的に見れば労働層を弱体化させて社会を不安定にする。慈善とはもはや悪徳の手を離れて遊離してしまった美徳であるために公益に寄与しない。
冒頭で「聖書にぶち殺される」と卑屈になっているのは、慈善学校でしょうもない読み書きの教科書や聖書の手引きで教育するのをやめてほしいというマンデヴィルの主張が通れば仕事を失った製紙工場業者の恨みを買うからだ。

クリプキ 言葉は意味を持てるか

ウィトゲンシュタインを論じたクリプキを論じるという二重入れ子構造になっている本。
大雑把には「人間にとって言葉の意味など存在しない」という懐疑論について。この記事は内容解説記事ではないので詳述はしないが、「現実的に人間は人生の中で有限の知見しか得られないのにそこから無限の精度を持つ論理的意味を帰納することはできない」というような論旨である。
前回の機械学習回でもちょろっと言及したが(→)、この手の言説が「機械は意味を理解できない」というAI関連でよくある批判に対してのアクロバティックなカウンターとして機能するわけだ、「機械だって人間と同じように意味を理解している」という常識的な反論の逆を行くという意味で。
いま改めて考えてみても、確かにこの方向で人間と機械の意味理解(という錯覚)の間に差が見いだせるとは思われない。人間は意味を理解しないとすれば、況や機械をや。

ただ、論理的に考えて不合理なことなど主に自然科学の領域には無数にあるわけで、懐疑論を是認したあとは「よくよく考えたら不合理でありながら何故それを当然のように享受しているのか」という問いに進む方が建設的ではある。

バーフバリ・バーフバリ2

バーフバリ伝説誕生(吹替版)

バーフバリ伝説誕生(吹替版)

  • メディア: Prime Video
 

1は面白かったが、2で一気に陳腐な話になってしまった。

1の時点では主人公のバーフバリが宗教的な色彩を交えて超越的な存在として称えられており、それは主に絶対的な上下関係によって担保されていたように思う。具体的にはカッタッパからバーフバリへの揺るがない忠義や、バーフバリからシヴァガミへの崇拝じみた信頼がそれに当たる。
インドらしい身分が強い世界の中では人々は生まれた時点で能力や階級が固定されており、誰もそこから逸脱することはできない。それ故に上位の者には身分相応の誇りと強さが求められると同時に、下位の者は上を仰ぎ見て安心感を得ることができる。
こうした階級社会制度は今では反リベラルな「悪」と括られがちではあるが、それ故に(あまりにも粗雑で安直な対立ではあるが)自由主義に毒されたアメリカ映画に対するカウンターとして身分制度を重視するインド映画というポジションがハマっていたように感じた。

だが、2では泥臭い権力闘争が話の本筋になり、それに応じて上下関係も曖昧なものに弱体化してしまう。
シヴァガミが王族の誇りにかけて立てた息子への誓いよりもデーヴァセーナの自由恋愛の方が尊重されるようになってしまうし、ラスボスであるバラーラテーヴァの目的にも王としての誇りは全く伺えず、ただひたすらに強大な権力を握るというハリボテのヴィランなものでしかない。1の頃にあった天上界で営まれるような荘厳な雰囲気は消え失せ、地上的な悪を倒すヒーロー映画に落ち着いてしまった。

補足355:ただ、1の段階で「王族が奴隷と食事を共にする」というエピソードが「分け隔てなく接する」的な文脈で肯定的に語られていたり、バーフバリ自身が身分を隠して雑魚のフリをすることに躊躇いが無かったりと、身分制度を否定するような描写もいくつかある。俺は現代のインド文化がどれだけリベラルかとかインド映画の制作事情がどうなっているかとかは全く知らないのであまり迂闊なことは言えないが、そのあたり元々かなり海外向けに作られていたような気配も感じる。

上下関係が崩壊して話がリベラルに転換していくことによって、荒唐無稽な表現に対してもどんどん冷めていってしまった。荒唐無稽な表現とは、具体的には船が空を飛び始めたり、いきなり皆揃って踊り出したり、いきなり民衆が合唱したり、「そうはならんやろ」的なやつのことだ。
上下関係に担保されたバーフバリの崇高さが維持されていた1の頃はそうした描写にも「それだけ強大な存在だから」という納得感があったのだが、それが消えてしまった2ではただ単に幼稚で子供だましのものに見えてしまう(ヒーロー映画と同じ)。船が空を飛ぶような描写が聖書によくある盛り話のような神格めいた崇高さの表現なのか、ピクサーのアニメーションのような子供っぽいファンタジーなのかは本当に紙一重だ。

がっこうぐらし

saize-lw.hatenablog.com

上の記事ではアニメ版と漫画版をまとめて割と肯定的なことを書いたが、2020年9月に消費したのは漫画版だけなので正直なところあまり得るものがなかった。漫画版はアニメ版で示した枠組みを超えていない上に基本的にアニメ版の方が優れていたことは既に書いた通り。学校卒業以降は概ね蛇足で、アニメを見れば十分な感じだ。
せめて好きなキャラが一人でもいればキャラ萌えパワーで戦えた気がするが、残念ながらその路線でも戦えなかった。

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(字幕版)

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(字幕版)

  • 発売日: 2020/05/22
  • メディア: Prime Video
 

あのハーレイ・クインがあのジョーカーと別れたという期待の持てるキャッチーな導入に対して、続く内容は本当に面白くなかった。
男性に抑圧されてきた女性たちの結束というモチーフがあまりにも透けて見えすぎている。ドラマ版『ウォッチメン』と全く同じ流れで、前作『スーサイド・スクワッド』が面白かったのに続編がポリコレにやられたシリーズとしてガッカリしてしまった。

主人公がジョーカーという男性に抑圧されてきた女性、女刑事が男上司に手柄を奪われて抑圧されてきた女性、女暗殺者が男マフィアに家族を殺されて抑圧されてきた女性、ダンサーが男性ボスに暴力を盾にいいように扱われて抑圧されてきた女性。全く同じ背景を持つ女性が四人も出てきて、「男性に抑圧されてきた女性たちよ、今こそ立ち上がれ」と叫びながら実際にそれをするだけの話だ。

念のために言っておくが、俺は女性が戦ったり暴れたりする作品は(政治的な実効性を抜きにして個人的なフェチズムとして)かなり好きな方だと思う。『ファイナルガール』だの『セブン・シスターズ』だの『トラジディ・ガールズ』だのといった、名前からしてうっすら内容に想像が付く駄作たちを見かけるたび、とりあえず借りて目を通している。
『華麗なる覚醒』が面白くないのは、彼女たちが男性に対するカウンター以外にどういう人物でどういう利害関係を持っているのかが全然見えてこないことだ。特にハーレイ・クインなんて元々そこらをうろつくキャラをミキサーにかけて三回ほど濃縮還元したような「濃い」キャラのはずなのに、クライマックスに向かっていくにつれてどんどんプロットの操り人形になっていく様子には涙を禁じ得なかった。

更に悲しいのは、これがDCEUの続編であることだ。本来DCEUの世界観は欲望と愛に満ちている。悪名高い「母の名前がマーサ」が象徴するように、愛があれば結果を問わないという破滅的なヒーロー像がMCUへのカウンターでもあり得ることは以前にも書いた。

saize-lw.hatenablog.com

それは『華麗なる覚醒』の前日譚にあたる『スーサイド・スクワッド』でも一貫している。『スーサイド・スクワッド』ではヴィランたちが色々あって世界を救ったにも関わらず、ラストでは破滅の化身であるジョーカーが監獄を破ってハーレイ・クインを救出しに来るシークエンスがハッピーエンドとして描かれることで、世界の救済とジョーカーの破滅的な愛が同じ直線上にあることが示される。
それが『華麗なる覚醒』では異性愛というだけの理由で退けられてしまい、代わりに女性というだけで何となく緩く連帯するだけの熱力のないコミュニティが何となく勝利して終わってしまう(これがレズビアンコミュニティであるならばまだ納得もいくのだが)。

コロナ時代の哲学

コロナ時代の哲学

コロナ時代の哲学

 

時代の当事者としてコロナ禍を人文的に語るタイプの書籍を一冊くらいは読んでおくかと思っていたところ、あの大澤真幸が出しているものを見つけたので読んだ。面白くはあったが、値段と期待ほどではなかったという感じ。

メインの論文『ポストコロナの神的暴力』では主に中国をモデルケースに想定してコロナ対策と監視社会のトレードオフをどう捉えるかが論じられる。
常識的には対立項にある全体主義と民主主義が陰陽魚の如く交代する機構について論じるところは実に大澤真幸らしく読み応えがあったし、そこだけで読む価値はある(「徹底した末の反転」というモチーフは『虚構の時代の果て』でも主題となっていて親近感があるものだ)。

だが、監視社会への具体的な対抗策を挙げるところでは一気にガッカリしてしまった。

モニタリング民主主義のIT版ということについての具体的なイメージを与えるならば、それは、スノーデンやウィキリークスがやったことである。彼らは非合法なことをやったとして国から逃亡せざるをえなくなっているが、むしろ、彼らはモニタリング民主主義の英雄である。つまり、スノーデンやウィキリークスの活動を合法的な市民運動として許容すれば、これが、そのままIT時代のモニタリング民主主義の実践例になるのだ。

「それはそうだろうよ」と口をあんぐり開けてしまうのは俺だけではないと信じたい。それが出来ないから監視社会なのであって、これは単なるちゃぶ台返しだ。
もっとも、この論文は実践的な具体策ではなく哲学的な知見を交えて考察を加えることに力点があるため、ことさらに具体例を取り上げるのはアンフェアな失望かもしれない。ただ、コロナ禍の当事者としての期待を持ってこの本を読んでいる以上は具体策に関心が偏ってしまうのも仕方ないではないか?

20/11/10 がっこうぐらしの感想 日常は二度終わる

がっこうぐらしの感想

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アニメ版は2015年の放送当時に全話見たが、5年越しで最近完結した漫画版も一気に読んだ。
先にアニメ版を見ていた頃に思ったことを書けば、当時からこの作品がまどマギみたいな文脈でカジュアルに消費されていたことには漠然とした不満があった。確かに「日常かと見せかけてシリアス」は一つの陳腐なジャンルとして流行していたし、『がっこうぐらし』がプロモーション戦略としてその流れに便乗していたのは認めざるを得ない。
しかし、その手の「種明かし」は『がっこうぐらし』では第一話で済ませる基本設定に過ぎないこともまた事実だ。「日常と見せかけてシリアス」それ自体ではなく、その先にある事態が描かれている。世界にはゾンビが溢れかえっていたことが明らかになってもゆきの精神は壊れたままで妄想を続けるし、学園生活部の面々も仮初の日常を求めてごっこ遊びを続けてしまう。一度日常が破壊されて圧倒的な現実が現れたあと、むしろだからこそそれ故に現実逃避の妄想が日常系として展開する。この捻じ曲がった鍔迫り合いが『がっこうぐらし』の基本線だ。

補足352:「日常」とか「日常系」とかいうワードには不毛な定義論争が付随することがあるが、以下「特筆するような事件があまり起きない安寧な世界観」くらいの意味で使う。言われなければわからないような特殊な含意をするつもりは全くないので、適宜常識的に読み替えてもよい。

そして『がっこうぐらし』で展開する緊張関係は「ゾンビたちの過酷な現実」vs「現実への反動としての安寧な日常系」という分かりやすい二項対立だけではない。後者の内部でも分裂が起きている。
分裂の一つの極は、精神を患っているゆきが幻視する個人的な認識としての日常系である。耐え難い現実に対するゆきのアプローチは、自分を取り巻く環境そのものを否定してゾンビなど最初から存在していないと思い込むことだ。ゆきが無理矢理捏造した安寧な原因からは安寧な結果しか引き出されず、ゆきを中心として仮初で痛々しい日常系が営まれることになる。
そして分裂のもう一つの極は、学園生活部が共同体として営む日常系である。りーさんや胡桃はゆきとは違ってここが過酷な現実であることは認識しているが、だからといってそれを正面から受け止められるほど精神的に強靭なわけではない。ゆきが妄想を作り出したのに対して、りーさんや胡桃はごっこ遊びに縋る。安寧な原因ではなく安寧な結果の方を先に作り出すという倒錯によって、やはり彼女たちは仮初で痛々しい日常系を手に入れる。

少なくとも高校編において、ゾンビによる生命の危機という限りなくシリアスな現実に対してこの二種類の日常が癒着していた。
日常という結果を得るために妄想で原因を捏造するゆきと、原因なき結果だけを得るためにごっこ遊びに縋る学園生活部。この二つが共犯関係にあることは言うまでもない。ゆきはりーさんや胡桃が「ごっこ遊び」に付き合ってくれることで「妄想」を維持できているのだし、学園生活部もゆきの「妄想」を支えにした「ごっこ遊び」で何とか日々を生き抜いている。
すなわち『がっこうぐらし』で一貫して問題になっていたのは、この共犯関係をどう調停していくかである。確かにゆきの妄想は精神的成長によって治療されるべき病気だが、だからといって、ゆきが完全に立ち直って「これからは正面からゾンビと戦っていくぜ」と言えば解決する話でもないのだ。ゆきだけが脱出したところで今度はりーさんや胡桃が取り残されてしまう。ゆきが妄想を打開して個人的な認識としての日常系を捨て去るにあたり、共同体によって営まれる日常系にもケリを付けてしっかりと葬送すること。

こうした問題設定に対し、ゆき自身が辿る道は漫画版でもアニメ版でも大きくは変わらない。妄想を卒業したゆきは、永続する安寧な時間を、すなわち日常系を諦めることをはっきりと宣言する。

生きるのは怖いよ……みんなと一緒にいたいよ 最期までずっと一緒にいたかったよ でも……それじゃだめなんだ

(漫画版 第77話)

でもどんなに良い事も終わりはあるから……ずっと続くものは無くて……悲しいけど、でもそのほうが良いと思うから……だから学校はもう終わりです

(アニメ版 第12話)

こうした台詞によって『がっこうぐらし』はわかりやすくアンチ日常系作品として幕を閉じる。漫画版でもアニメ版でも大雑把な枠組みは同じで、

①本編開始前にあった日常(回想で示唆されるもの)
②ゾンビによる日常の破壊と過酷な現実(本編の基本設定)
③現実への反動としての日常系の再帰(ゆきの妄想と学園生活部)
④日常系を諦めて現実に戻る(成長したゆきの演説)

という4段階で日常系が放棄された。冒頭で書いたような「まどマギっぽい」という解釈は極々部分的に①→②だけ捉えているに過ぎず、そこから更に「あえて」を2回変転する。

補足353:ちなみに漫画版ではゆきは5巻でゾンビに対面して妄想を維持できなくなり、その後は比較的まともな精神状態のキャラクターとして振る舞うようになる(相変わらずめぐねえを幻視したりはしているが、周りがどんどん狂っていくので相対的にまともになっていく)。ゆきが妄想から解放されつつあることの表現として、俺は6巻のこのギャグシーンが本当に好きだ。

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たまたま目を覚ましたときにみーくんと胡桃がりーさんに説教されているのを目撃してしまい、それを夢だったことにして再び眠りにつくゆき。妄想と現実の区別が全く付かなかったゆきが、現実と夢を峻別した上であえて現実を夢ということにして眠りに付くという極めて高度な判断によって事態に対処しているのだ。しかもそれが台詞ではなくモノローグでなされているため、彼女は自分自身の心理状態を正しく運用していることがわかるという、二重三重に情報が詰まった感動的なシーンである。ゆきが妄想から醒めるシーンそのものはそこまで明示的には描写されないのだが、こういう細やかな描写でゆきが正気に戻りつつあることを示しているのが素晴らしい。ここが漫画版のベストシーンまである。

さて、上のセリフで放棄されているのは直接的にはゆきが持つ個人的な認識としての日常系(=妄想)だが、それは学園生活部が囚われているような共同体で営まれる日常系(=ごっこ遊び)との共犯関係にあることを書いてきた。ゆきが妄想を放棄することに伴って共同体の方がどう変化するのかは、漫画版とアニメ版では大きく異なっている。

まず、漫画版ではシンプルにゾンビ騒動そのものが収拾され、医学的にまともなアプローチで対処していくエピローグが描かれる。日常系を捨てた先としてあるのは社会的な事態であり、モラトリアムを脱して皆がそれぞれ自分の道にコミットすることへの決意表明としてゆきの台詞を読むことができる。周辺の共同体それ自体がより社会的な場になっていくことによって、皆で中身もなくいちゃつくごっこ遊びは終わりを告げる。

漫画版がゾンビ退治にまで辿り着いた一方、アニメ版では尺の都合でゾンビ騒動は先行きが全く見えない状態でエンディングを迎えることになる。それでも漫画版の最終話と同じ境地にゆきが駆け足で辿り着いていることは先に引用した台詞で示されている。
しかし漫画版のように「社会へのコミット」というアプローチが取れないアニメ版は、ここに来てアクロバティックな解決法を提示することになる。先の台詞をもう少し前から引用すると以下の通り。

下校時刻になりました 学校に残っている生徒はおうちに帰りましょう
(中略)
皆も好きだよね ずっとずっと好きだから だからここにいるんだよね
でもどんなに良い事も終わりはあるから……ずっと続くものは無くて……悲しいけど、でもそのほうが良いと思うから……だから学校はもう終わりです

ここで「生徒」「皆」と名指されているのはゾンビである。ゾンビを「学校に残っている生徒」「学校が好きな人たち」と決めつけるのは若干唐突な印象も受けるが、ゾンビが生前の行動を漠然と繰り返すのはゾンビものの基本設定だし、言われてみればなるほど確かにしっくり来る。
つまりアニメ版ではそれまで日常を破壊する現実だったゾンビが最終話で完全に反転し、むしろ現実を見ずに学校に妄執する日常として再定義される。崩壊した学校で学校ごっこをしていたのは学園生活部ではなかったのだ。実はゾンビたちこそが学校でごっこ遊びをしている日常系の化身であり、ゆきによって葬送されるべき存在となる。
こうして当初の問題だった共犯関係も綺麗に清算される。ゆきの妄想と徘徊するゾンビは実は対立項ではなく同類項なのだから、ゆきが精神的に成長して日常系の妄想を破棄することはそのまま日常系のゾンビ(これは比喩である!)を破棄することでもある。

驚くべきことに、ゾンビこそを日常系の亡者とする視点は漫画版では一度も出てこない。漫画版でゆきが初めてゾンビの存在をはっきり認識する第29話では、焼け焦げたゾンビは見開きでグロテスクに描かれ、ゆきの甘い妄想を破壊する圧倒的な現実として飛び込んでくる。最終話においてもゾンビは解決すべき現実的な問題の象徴であることは既に述べた通りだ。アニメ版で離れ業が披露されたのは原作サイドが元々用意していた別案だったのか、それともアニメサイドにアイデアマンがいたのかは気になるところではある。

以上、『がっこうぐらし』は主人公のゆきが日常系を葬送する話であって、アニメ版でも漫画版でも過酷な現実と安寧な日常との対立を前提として、更に後者の中で個人的な執着と共同体規模のパフォーマンスの共犯関係をどう調停するかという問題を提起していた。これに対する回答は大きく異なっており、漫画版はゆきの成長をオーソドックスに現実に立ち向かって対立していくものとして捉えた一方で、アニメ版は最初から現実に潜んでいた矛盾を剔抉することで対立そのものを無化した。

問題提起の時点で優れているタイプの作品なので回答のどちらを高く評価するかは比較的些末な好みの問題だと思うが、脱構築っぽい感じとかオシャレな論理展開を好む俺がアニメ版の方に傾くことは言うまでもない。

補足354:ところで、漫画版でゾンビ騒動の真相を「人類はどっかのバカが手洗いをサボったせいで滅んだんだ」で終わらせてそれ以上遡らなかったのは非常に良いバランス感覚だった。確かに少しずつ真相が明らかになるサスペンスな魅力もあったのは事実だが、がっこうぐらしの主題はゾンビが発生する世界に対してどう立ち向かうかであってゾンビそれ自体ではないのだから、ゾンビ発生の原因や陰謀をあれ以上掘り下げていたら駄作になるのは免れなかったように思う。

2020/11/3 第八回サイゼミ ゼロから始めるニューラルネット

第八回サイゼミ

2020年10月31日に八丁堀で第八回サイゼミを催した(過去のサイゼミは「カテゴリ:サイゼミ」を参照→)。
今回のテーマは機械学習、特に今最も熱いニューラルネットについて。

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いつものサイゼミは座談会形式だが、今回は久しぶりに俺が前に立って5時間くらい板書して話し続けるガチ講義回になった。今回のサイゼミは俺と俺以外で目的が分かれており、他の参加者はニューラルネットを理解すること、俺は線形回帰も知らない人々にニューラルネットをわからせること。
もともと業務とか研究とかでニューラルネットを触ったことがあるのが俺ともっちーさんくらいで、入門書を何冊か読んできた人も少なくないが、全体的な参加者のレベル感は基本的には高校数学がギリギリわからないくらいの感じだった(完全無勉勢もいた)。

俺は大学で研究していた頃からニューラルネットの原理くらいは中学数学レベルで完全に理解できると思っていたので、今回はその実験として講義を試みた。
もちろん中学数学では偏微分や連鎖律は扱えないので最急降下法誤差逆伝播法の数学的な表現は捨象することになるわけだが、俺はパラメタ決定に伴う計算技法は別にニューラルネットの本質ではないと思っている。初学者がまず抑えるべきなのはむしろニューラルネット以外の機械学習にも通底するアイデアであって、その上でニューラルネットについては独特のモデル表現を掴めば十分だろう。そしてそれらは幸いにも加減乗除だけで理解できる程度のものでしかない。
そんな感じで、この記事には主に俺が初学者に機械学習を説明するにあたって取った戦略などについて書き残しておく。別に機械学習そのものを説明する記事ではないので、勉強したい人は以下のブックレビューでも参照して各自で勉強してほしい。

saize-lw.hatenablog.com

人工知能パラダイムシフト

具体的なモデル作成に入る前に、ひとまず抑えておくべきなのは人工知能における大雑把なパラダイムシフトだ。とかく素人が勘違いしがちな以下の2点については強調してもしすぎることはない。

①今の機械学習の隆盛は、論理・知識ベースから統計ベースへという思想の転換によってもたらされている。
演算の高速化やメモリの大容量化といった計算機の連続的な性能向上によって人工知能も連続的に性能が上がっているというわけでは決してなく、根本にあるアイデアが非連続的に変化している。

②今の機械学習では、基本的に経験知を備えた職人は不要である。
今メジャーな統計ベースの機械学習は、(人間が論理や知識を与えるのではなく)膨大なデータを機械が自動的に処理して論理や知識に相当するものを発見するという手続きで進行する。よって「結局人間が機械を作っているので機械は専門家より賢くならない」という言説は程度問題ですらなく完全な誤りだ。

アリストテレスが『オルガノン』において定式化した三段論法の枠組みで言うならば、大前提を保持するAIが第一世代の論理ベースAI、小前提の集合を保持するAIが第二世代の知識ベースAIと言えようか。第三世代の統計ベースAIは小前提の集合を与えることによって帰納的に大前提に辿り着き(学習)、それを用いて演繹的に結論を得る(推論)。三段論法の運用として見れば、人間の振る舞いが統計ベースAIに準じていることは言うまでもない。

機械学習の3ステップとモデルのバリエーション

以上のような前提の下、では実際に統計ベースの処理とはどういうものなのかという文脈で機械学習の説明に入ることになる。統計ベースの発想を大雑把に「集めたデータから傾向を掴むもの」だとすれば、概ね以下の3ステップで捉えられる。

①パラメタ\thetaを含むモデルf_\thetaを作成
②データセットを用いて誤差関数E(\theta)を導出
③誤差関数を最小化するパラメタ\thetaを決定

機械学習の全てがこの流れというわけでは決してないが、少なくともニューラルネットはこの流れで最後まで戦える。

サイゼミでは「①モデルf_\thetaの作成」についてかなり力を入れて話した。
新しい発想をドライブしているのはまず何よりもモデルであり、誤差関数の扱いはそれを可能にするための補助輪に過ぎないと考えるからだ。また、幸いにもモデルの説明は比較的難易度が低い。冒頭の写真ではロジスティック回帰を行う人工ニューロンモデルについて説明しているが、加減乗除シグモイド関数くらいで済むので別に難しくない。

その一方、「②誤差関数E(\theta)導出」「③パラメタ\theta決定」についてはあまり掘り下げなかった。
具体的には、「②誤差関数E(\theta)導出」については分類タスクにおいては尤度関数というものを使う方が一般的であることに言及したくらいで、説明に用いる誤差関数は最初から最後まで最小二乗法で通した。また、「③パラメタ\theta決定」についても一般的な計算上の工夫はアイデアだけ説明するに留めた。例えば、パラメタは大域最適解が求まれば理想だが現実的には全範囲を無限の解像度で探索するのは不可能なので最急降下法で近傍を探索することや、複雑に絡まった無数のパラメタを処理する際にはパラメタの決定順序と手順を定めるアルゴリズムである誤差逆伝播法を用いることにだけ触れた。

特に「③パラメタ\theta決定」をこの解像度で済ませたことにより、微分は一度も使わずに済んだ(\frac{dy}{dx}の類は一度も板書していない)。
「数式は使わない」というよくあるフワフワ機械学習セミナーはやりたくないのだが(実際、数式自体は冒頭の板書でもバリバリに使っている)、単に微分計算はニューラルネットの原理を理解するのに必須ではないと判断しただけのことだ。すなわち「解析的な大域最適解はわからないので微分を用いた複雑なアルゴリズムを使って近似解を求める」という手続きは実装上の問題であり、原理上の問題ではないと判断した。
この判断については諸説あるだろうが、ニューラルネットの動作原理に関する本質は「誤差関数E(\theta)を最小化するパラメタ\thetaを見つける」という合目的的な意識である。それを具体的にどう実行するかは比較的些末な問題に過ぎない。技術者にはブッ飛ばされそうだが、ラマヌジャンみたいな神託者がいきなり大域最適解を出してくれることにしていい。 紙の上から出ないなら!

というわけで、サイゼミではモデルに注目してニューラルネットに関連する以下の7つのバリエーションを扱った。どれもモデル内容が少し変わっただけのマイナーチェンジだ。誤差関数の導出とパラメタの決定は全く同じなので改めて説明し直す必要もない。

A.ニューラルネットの基礎
A-①:線形回帰
A-②:ロジスティック回帰(人工ニューロン
A-③:ニューラルネット

B.ニューラルネットの応用
B-①:CNN(画像認識)
B-②:オートエンコーダ(次元削減、異常検出、原始的な生成)
B-③:GAN(生成)
B-④:DQN強化学習

別に機械学習そのものを解説する記事ではないというのは最初に書いた通りなので、各モデルの詳細は省略する。

当日の手ごたえ

こうして見るとかなり詰め込んでいるが、当日は全て問題なく理解された。それは俺が勝手に自己満足して思っているわけではなく、その証拠として適切な理解をしていなければ不可能な質問が複数の参加者から飛んできた。
というか、参加者の質が良すぎた感じはある。数学の水準としては平方完成すらよくわかっていないのに、俺が一言も説明していないニューラルネットの重要な振る舞いやチューニングについて勝手に発見して質問してくるのでめちゃめちゃ楽だった。講義中に出た質問は例えば以下の通り。

Q1:「分類タスクで誤差関数に尤度を用いる場合と最小二乗を用いる場合では最終的に求まるモデルのパラメタそのものが変わるのか、それとも最終的には同一の結果を得るために異なる表現と手続きを与えているのか?」
A1:「前者が正しい。尤度と最小二乗では求まる結果自体が変わってくるし尤度関数を使う方が一般的だが、ニューラルネットで最終的に大事なのは精度なので、そこで満足いく精度が出るなら特に決まりはない」

Q2:「各ユニットに特徴量が格納されるとか言いながらわかりやすく特徴の例を挙げて説明してるけど、それってたまたま事後的に解釈が成功した場合の話であって、一般的には機械が勝手に見つけるわけだからそういうわかりやすい説明が出来るとは限らないよね?」
A2:「完全に正しい。むしろ一般的にはユニットの特徴量を解釈できないことの方が多いし人間が勝手に解釈すると機械に任せた意味が無くなる危険もあるのだが、口頭で説明するときは自然言語で特徴量の例を喋らないとそもそも特徴量が格納されるイメージをわかってもらえないという説明上のジレンマがある」

Q3:「だいたいの重みがゼロで余ってそうなユニットあったらもう計算時間無駄っぽいしネットワークから外しちゃってよくない?」
A3:「完全に正しい。いわゆる枝刈りと呼ばれるテクニックそのもの」

Q4:「CNNの畳み込み層でフィルターを適用するやつって拡大と縮小に対応できなくない? あるサイズの猫の特徴量に対して完璧なフィルターがあったとして、全く同じ猫が大きく写ったら終わりでは?」
A4:「その懸念は正しい。逆転の発想で、学習させる画像のデータセットの方を引き延ばしたり回転させたりしてバリエーションを水増しする前処理をして対応する」

Q5:「オートエンコーダにおける隠れ層のユニット数って入力の複雑さによって変える感じ?」
A5:「概ね正しい。ニューラルネットにどの程度の表現力が必要かは入力次元ではなくデータセットの多様性に依存するので、極端に言えば入力画像が1億次元でも非常に単純なパターンしかなければ隠れ層は1層3ユニットとかで済みうる」

Q6:「GANでgeneratorが生成した偽データってあくまでも中間産出物で誤差関数に入るものじゃないから評価の指標が怪しくない?」
A6:「概ね正しい。一応discriminatorの正答率が0.5になる時点で収束したと考えることはできるが、分類タスクにおいて正答率に完全な信頼がおけるのとは異なり、偽データそのものを評価する方法は最終的には人間の感性に依存してくる」

Q7:「DQNって枠組みとしてはQ-learningに便乗しただけでGANみたいに学習というアイデアが本質的に寄与しているわけではないよね?」
A7:「かなり正しい。DQNに対するDNNの寄与は相対的に小さいが、特にゲーム画面のような未知の状態が多いタスクに対応しやすくなったことが大きい」

実は質問そのものは割とどうでもよく、たった5時間でこういう質問を繰り出せる水準まで参加者が育ったのがかなり感動的だった(人間学習!)。俺的には「高校数学すら怪しい連中にニューラルネットをわからせる」という目的が十全に果たされた証左でもあり、こういう質問を繰り出せる人々が「ニューラルネットを雰囲気だけで理解している」などと謗られることはまず有り得ないだろう。

結局、ニューラルネットには何ができて何ができないのか

結局のところニューラルネットとは値と値の関係を自動で扱う技術であり、値しか扱えない代わりに値にさえできれば大抵のものは扱える汎用性を持つ。
特に2014年のGAN発明は非常に画期的で、それまでの「答えがはっきりわかっているタスクにしか取り組めない」という認識を覆した。僅か3年でGANがちょっとした白黒画像から写真と見分けが付かないレベルにまで発展したことはニューラルネットが日進月歩で発展していることを象徴するエピソードだが、最近は機械が自動生成した動画や画像がTwitterによく流通しているので、(機械学習パラダイムが知識ベースから統計ベースに移行したことなどに比べれば)人工知能が生成タスクを非常にうまくこなせるようになっていることは既に周知の事実かもしれない。

と、ニューラルネットの原理をざっくり理解するところまでが前置きで、それをどう捉えるかが本題だ。別に我々はニューラルネットを実装する技術屋の集団ではなく、どちらかというと人文的な懸念について正確な知識で議論する方が目的に近い。
個人的なことを言えば情報処理能力としてのAIの知性はもう普通に人間を超えていると思うが、その上で一般的に人工知能の限界と言われていることについて、実装上の限界を二つ、哲学的な限界を二つ取り上げた(ここで哲学的な限界というのは哲学のボキャブラリーで記述するのが一番やりやすい話くらいの意味)。

実装上の限界①:フレーム問題

実装上の限界の一つ目として、いわゆるフレーム問題が挙げられる。
フレーム問題とは概ね「有限の情報処理能力しか持たないロボットが現実に起こり得る問題全てに対処できない」というような問題のことだ。例えば、ロボットが街中を目的地まで移動するだけでも天気を調べて混雑度合いを見てルートを考える必要があるが、突然の道路崩落や民衆の暴徒化までは想定しなくていい。こうした考慮すべきこととすべきでないことの区別を明示的に与えることは困難で、汎用性を追求しようとすると融通の利かないロボットは膨大な情報量の前に立ち尽くしてしまう。
……と昔はよく言われていたが、これは基本的に時代遅れの懸念というのが俺の認識だ。確かに原因・環境・論理ベースで対応しているとハマるが、結果・反射・統計ベースで対応してればかなり耐えられる。つまり、周囲の環境を見て「IF 電信柱が倒れてくる THEN 避ける」とか「IF 前を歩いている人が襲ってくる THEN 避ける」というように原因を逐一論理的に想定しているとキリがないが、観測範囲を周囲5メートル程度に局所化し、「とりあえずそこそこの大きさのものが高速で近付いてきたらヤバいので避ける」くらいの認識で反射的に対応していれば当面の危険は避けられる。また、その手のアバウトな傾向を掴むのは統計ベースAIの得意技でもある。
そもそも俺が気に入らないのは、「有限の情報処理能力しかないロボットは~」とか言うものの、人間も別に無限の処理能力は持ってないし対処できない問題も普通によくあるということだ。人間だって手を繋いで歩いている親密な恋人がいきなり刺してきたら回避できる人の方が少ないわけで、ことフレーム問題に限って「人間がどのように無限に近い情報を処理しているのかは未だ謎が多い」などと言って悦に浸るのはそろそろやめてほしい。

実装上の限界②:創造の新規性

実装上の限界の二つ目として、創造の新規性がある。
確かにGANの研究が進んだことで生成タスクは高度化し、人間が作ったとしても遜色ない絵や曲くらいなら簡単に作れるようにはなった。しかし、それらは原理上「既存のデータを見て傾向を掴み、傾向に沿ってはいるがまだ存在しないものを作り出す」という振る舞いしかできない。ここに「流れに沿ったバリエーションを作ることは出来ても根本的な新規性を提出することは出来ないのではないか」という懸念があり、更に言えばそれは「流れに沿わない完全なる新規性」なるものが果たして存在するのかという問題にも接続する。

補足348:ディヴィッド・ルイスが主著『世界の複数性について』で可能世界の構成要素を論じる際、基本的には全要素の順列組み合わせに過ぎないとしながらも、そうした枠に当てはまらないものを「エイリアン」というタームで指示していたことを思い出す。

実際、これが定量的な問題に過ぎないか本質的なボトルネックかはよくわからない。
ただ確実に言えることは、この問題は形式的な問題と内容的な問題の二重構造になっているということだ。形式的な問題とは、そもそも「学術的な新理論」とやらを値で表現できるかどうかである。ニューラルネットは値しか扱えない以上、理論のような高度な概念を扱いたければそれを過不足なく値に落とし込む表現が必要になる。もう一つの内容的な問題とは、仮に理論を過不足なく値で表現できたところで、それを例えばGANにかけたときに果たして解釈可能な新しいものが生まれるかどうかということだ。

「そもそもGANのような発想の生成タスクにおいて、もし完全に新しいものが生まれたところで我々はそれを認識できるのか」という疑問も哲学畑のA級から提出された。
理系の人間としては「理論を作成するGANが投げてきた新理論っぽいものを精査して1000本に1本でもvalidなものがあれば当たり」という運用でも万々歳であるのだが、それは理論の有効性を検証できる実証主義の学問におけるチェックに過ぎない。必ずしも実証できるわけではない広義の政治的な理論に対しては、理論が新しいのかどうかを人間がフィルタリングする段階で古いドクサによるフィルタがかかるという問題がある。
つまるところ、実証不可能な理論に対しては「理解できなければ生成の成否を判定できないが、理解できてしまえば新しくない」というアポリアがあるのだ。これは質問Q6で上がっていた、GANの生成に対する判定の問題でもある。

哲学的な限界①:クオリア的内面の不在

ペッパーくんのような人工知能に対して昔からよく言われることとして、「彼らは本当に意味を理解しているわけではない」というものがある。ニューラルネットの学習がモデル内のパラメタ調整に帰着されるのを見れば明らかなように、機械学習とは結局のところ統計処理であって人間が言うような意味理解はしていない(サールが提起した「中国語の部屋」問題がまさにそうで、ここで改めて付け加えることも無いのでwikipediaでも読んでほしい→)。

ただ、俺はこの問題は良くて問題設定を誤っているか、悪ければ論じるに値しないものだと思っている。機械に対する人間の優位性を確保したい一心で恣意的に設定された難癖ですらある。俺に言わせれば、「機械は意味を理解できるのか」という疑問が既に誤っており、正しくは「俺以外は意味を理解できるのか」だ。だから「人間と機械」という区分ではなく「俺とそれ以外」で問いを立てるのが正しい。他の人間が哲学的ゾンビであることを否定する証拠は特に何もない以上、機械を他者よりも優位に置く理由は無い。
また、「人間だって別に言葉の意味なんてわかってない」ということは分析哲学者がよく指摘している。ウィトゲンシュタイン言語ゲーム」、グッドマン「グルーのパラドックス」、クリプキクワス算」など、意味というタームの寄る辺なさを指摘する議論は枚挙に暇がない。ついでに言えば、冒頭で紹介したAIのパラダイムシフトはウィトゲンシュタインの前期から後期への移行に対応している。

補足349:ただ、俺自身はこの手の分析哲学者の言説にはそれほど同意するわけではない。白状すると実は俺がきちんと読んだのはクリプキウィトゲンシュタイン論くらいなのだが、少なくともそれを読む限り、言葉の寄る辺なさから意味理解の寄る辺なさを帰結する議論には「私がいる指標の特別性」という独我論的な視点が欠落しているように思われてならなかった。例えば、クリプキは仮に過去において私が「緑」という言葉を理解していなかったならば今においても理解していないというように、時間的なスライドを行うことに躊躇いがない。俺の考えでは、「スライドしてはいけない」とは言わないまでも、少なくとも「スライドしてもよい」という判断は著しく直観に反している。今という指標における俺の俺への確信は特異点であり、自明に過去に置き換えることはできない。それは他者が意味を理解していないとしてもなお、今ここでこの俺だけが俺に対して言葉を正しく運用していると確信できるのと同じことだ。

哲学的な限界②:欲望の欠如

ここで言う欲望とは「内発的に生まれてくる動機」くらいの意味だ。AIは欲望を持たない、つまり、「AIは与えられたタスクは上手くこなせるが、与えていないタスクはこなせない」という限界がある。こうして書くと「それはそうだろう」というトートロジーのようだが、人間は明らかに誰からも明示的に指示されないタスクをこなしているためAIとは大きな違いがあることがわかる。

補足350:この限界によって「進歩したAIが人間に反逆し始めた」みたいなよくあるSF設定は眉唾で、「人間がAIにそういう設定をすれば有り得なくはない」という程度に留まる。ちなみに映画『AI崩壊』は(「AIが人間の選別を始めた」という地雷っぽいあらすじの割には)この辺の考え方がきっちりしており、またあとでコンテンツ消費記事を書くときにちょっと褒めたいと思っている。

俺的にはこれがAIの限界として最も興味深い観点で、シンギュラリティで最も重要な論点もここだと思う。シンギュラリティの定義を機械が自己の再生産を行う地点とするならば、産出された時点で最初から機械が再生産の欲望を持つことがマストだからだ。
欲望がどこから来るのかは典型的な哲学の問題でもあり、最も代表的なのはフロイトラカン精神分析における無意識概念だが、それを援用したドゥルーズガタリボードリヤールの消費社会論、マルクスの予想を超えて暴走を続ける資本主義論など枚挙に暇がない。
ただ、これは俺の勉強不足かもしれないのだが、こうした欲望に関するポスト構造主義的な言説は今現れている現象を上手く説明できるように欲望の起源を措定するものではあったとしても、欲望が発生する原理を説明しうるものではないという印象がある。「欲望を持たないAIに欠如しているものは何か」という問いに答えられる理論は人文的な領域にあるのだろうか?

補足351:西垣通が『AI原論』で言及しているが、サイゼミ第4回でやったオートポイエーシス理論(→)は、傍観者の客観性しか持たないAIへの対抗として当事者の主観視点から内発的動機を扱える生命の理論を作るというポジションがある。

なお、こうした欲望の起源に対して、理系的な視点で「人間における欲望も別に神秘的な領域から湧き上がるものではなく既に規定された脳内物質か何かの運動に過ぎない」と答える立場がある。これを機械学習的に言えば、実は欲望も込みで人間も人生を通じて何らかの誤差関数の最小化をしているに過ぎないということになるか。
サイゼミでも「意外だ」と言われたが、俺はこういう見方には与したくはないと割と強く思っている。表面的な論理の領域は別にAIで代替する程度のもので全く構わないし実際そうだろうと思っているのだが、言葉では言い表せない非論理的な領域、欲望や自傷分裂病に関してはある種の神秘的な聖域として固持したい思いがあるのだろう。これは別に何かの政治的な意図やそれらしい経験則があって言っているわけではないが、とにかくそういうことだ。

20/10/25 お題箱:『構造と力』を読む前に / Vtuberには萌え声を出してほしいetc

お題箱73

192.現代思想初見で「構造と力」買ったんですけど結構読みにくいです…
これ行く前に何か読んでおくべき本とかありますか?

初手『構造と力』は相当厳しいと思います。初めての料理でシューマイを作るくらい厳しいです。
『構造と力』はどう贔屓目に見ても日本有数の難解書籍であることは間違いないのですが、その実態とは逆に「『構造と力』は現代思想の簡単な入門書」などと紹介されがちなのが厄介なところです。浅田自身も「チャート式参考書のつもりで書いた」とか言ってますし。

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これは仲正昌樹ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義』の序文ですが、ここでもやはり「簡潔で分かりやすい、現代思想の入門書」などとコメントされています。
ただそう言わざるを得ない事情も続けて書かれている通りで、元ネタのドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』が絶望的な難易度の書籍であるため、そちらに比べれば涙が出るほどわかりやすいということです。『構造と力』出版当初は後で挙げるようなもっと簡単な解説書籍もまだ存在していなかったため、当時日本語で読める中では実際かなり入門的なポジションだったことが伺えます。

いずれにせよ『構造と力』は出版当初には他の書籍に比べると相対的にわかりやすかったというだけなので、ある程度予習してから望むのが安全だと思います。テーマである構造主義からポスト構造主義までの話については(本当の)入門書も今は充実しているため、まずはその辺から読むのがベターです。
構造主義自体は割と無限に擦られている話ではあって、コンパクトな新書にも良著が多いです。特に初手から入れるものとしては内田樹『寝ながら学べる構造主義』とか橋爪大三郎『はじめての構造主義』あたりが良いと思います。

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これは橋爪大三郎『はじめての構造主義』の巻末ブックガイドで、やはり『構造と力』は「入門書」と評されていますね。ただ、「いきなり『構造と力』じゃむずかしすぎる人に」という非常に気の利いた補足が付いています。
実際、竹田青嗣現代思想の冒険』は『構造と力』よりは読みやすく、近代哲学からポスト構造主義までのより広い範囲を網羅しているため先に読んでおくのもアリでしょう。『現代思想の冒険』でもまだ難しすぎる場合は、だいたい同じ範囲を扱っていて誰でも絶対に読める本として飲茶『14歳からの哲学入門』も挙げておきます。こういうポップ哲学っぽい本は普段は人に勧めませんが、この前Kindleを購入したときの気の迷いでちょっと読んでみたら意外と良い本でした。
ポスト構造主義は元々かなり難解で僕もよくわかっていませんが、岡本裕一朗『フランス現代思想史』で主要登場人物と雰囲気くらいは掴めると思います。

背景の思想を予習するのではなく『構造と力』そのものにフォーカスした書籍を読んでおきたければ、佐々木敦『ニッポンの思想』が詳しいです。1980年代以降の日本における思想動向の出発点に『構造と力』を据え、内容と意義がかなりの紙面を割いて語られているので、実はこれが一番良いかもしれません。

 

193.遊戯王再評価シリーズ好きなので、この勢いで初代についても語って欲しいです!

saize-lw.hatenablog.com

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上の記事で初代遊戯王とその続編である劇場版については少し書きました。初代遊戯王に関してはパイオニアとしてあまりにも偉大過ぎて功績を体系的に語ることはかなり困難なので、僕のカードゲーマーとしての経験に寄ったことを書いています。

ちなみに現行のSEVENSは面白いんですが、コロナ禍で一旦中断して復活以降は視聴が止まっています。どうも僕は自分がプレイしていないカードゲームのアニメを見るのは苦手なようです。

 

194.LWさんはVtuberのオタクを二次元のオタクと三次元のオタクのどっちにカウントされていますか?

二次元のオタクか三次元のオタクかって恐らくアニオタ派生のオタクかドルオタ派生のオタクかくらいの意味ですよね。やたらクオリティの高い3DCGは技術的には三次元ぽいですが、ニュアンス的には前者でしょう。

まずVtuberが二次元か三次元かみたいなことを言う前に、Vtuberは二次元と三次元をアウフヘーベンしてたみたいな話はどうなったんだっけということが気になります。なんか黎明期には「Vtuberはキャラのイラストは二次元だけど演じている人が三次元で、二次元でも三次元でもない全く新しいキャラクターとコミュニケーションできて凄いんだ」みたいな2.5次元的な言説が一般的な理解として流通してませんでした?
が、なんか今思うとVtuberに対するスタンスって「二次元でも三次元でもない全く新しいもの」みたいな折衷というよりは「あるときは二次元であるときは三次元」みたいな往復という方がしっくり来ます。二次元と三次元の間にある中間項に定位したわけでは決してなく、あくまでも二次元と三次元の間を反復横跳びしてるだけのような気がします。反復横跳びが超高速になったらそれは中間項と見分けが付かないのかもしれませんが。

Vtuberのオタクが二次元のオタクか三次元のオタクかという話に戻ると、どっちもいて一部は両方でもあるという典型的な二要素のベン図みたいになっているのが真相だろうとは思います。
ただ、僕自身は前者でありたいしVtuberにも前者であってほしいという願いはかなり強く持っています。はっきり書いたことはまだ一度もないかもしれませんが、僕は声オタ文化やドルオタ文化が全然わからないタイプのオタクです。「リアルの女性でいいならオタクやる意味なくない?」「ドルオタなんかやってないでアイドルみたいな女性と付き合って結婚すればよくない?」という疑問をドルオタに対して持っているし、リアルな性欲を扱うのが気持ち悪いという素朴な嫌悪感もあります。
発話の二重性みたいな話にこだわるのも、「萌えキャラに萌えているだけで決してニコ生主に萌えているわけではない」と理論武装するためではないと言えば嘘になります。演者の女性に対して萌えているというスタンスを絶対に取りたくないので、何とかしてそれを回避できるロジックを確保したいということです。

あと二次元か三次元かみたいな切り分けに際して言えることとして、Vtuberも要素によって明らかに二次元寄りの部分(アニメ寄り)と三次元寄りの部分(ニコ生主寄り)の部分がありますよね。
例えば、TwitterVtuberのエロ絵が流通しているのを見ると、僕はそれをかなり二次元的な事態だなと感じます。というのは、声オタ文化に声優のエロ絵を描くカルチャーは無いので、Vtuberのイラストが演者への性的な目線で駆動している可能性はかなり低いはずだということです。別にエロ絵でなくても静止したイラストに描かれるのはキャラクターの方だと思いますし、そういう意味で僕はイラストについては全く葛藤なくカジュアルにファボしたりリツイートしたりすることに抵抗がありません。
その一方、もっと三次元寄りなのは声です。プロの声優ならちゃんとした技術を使って声を作るので香風智乃の声と水瀬いのりの声を判別できないことはまずないんですが、声優崩れとか素人のVtuberの場合はそこまで萌え声を作らなかったりしますし、地声で喋るのが面白いとされる風土があったりもします。
僕は二次元萌えがなし崩し的に三次元萌えになる事態を警戒しているため、キャラの声と演者の声が判別できない事態を避けようとすることが多いです。「Vtuberは腹から萌え声を出せ(地声で喋るな)」みたいなことを言うのもそのためですし、鈴原るるとか白上フブキの動画を好むのも同じです。彼女たちは精神と声が安定していて奇声を上げることがほぼなく、常に作った萌え声を出しているため、境界を踏み越えてくる不安があまりありません。

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補足347:ただ、このあたりの萌えというか性欲が絡む話ってどうしても倫理的な偽装とか無意識な意図を含みがちなので、疑おうとするといくらでも疑えてしまいます。例えばVtuberのエロ絵を描く文化が本当は演者に向けられている性欲を隠蔽するための隠れ蓑である可能性はあります。声優のエロを描くのは「それは流石にダメだろ」という自制心が働くのですが、Vtuberの場合はキャラを経由することで表面的には否定している性欲を描けてしまうということです。その場合、巧妙に偽装された性欲の拡散は明け透けに描かれたそれよりも表面的な正当性を確保しているためにより悪質ということになるでしょう。

補足348:昔RFAが流行ったときに「Vtuberが運動をしてハァハァ言っているときに『エッッッッ』『えっちだ』みたいなコメントをしないでください(性的でない喘ぎ声を性的に消費しないでください)」みたいなことを言ったVtuberがいたと思います。この事態も両方の側面から考える必要があって、まずVtuberがアニメのキャラクターなら喘ぎ声を性的に消費するのは別に全然構わないはずです。それが文脈を破壊する低俗な営みであるにせよ、アニメキャラに対して無差別に欲情すること自体が倫理的な問題を孕むとは思えませんし、実際、ニコニコアニメチャンネルではそういうコメントはよくあってそれほど問題視されません(僕は結構問題だと思っていますが)。よって、RFAで警告を出さなければならない状況は、基本的にはVtuberが演者として捉えられていることの証左となるように思われます。アニメキャラではない女性に対して(彼女自身が欲情してほしいと思っているのでない限り)見境の無い欲情は宜しくないという見解は常識的に理解できます。よって、RFAの流行に付随した性欲に関する道徳の形成はVtuberを演者寄りに見ることを肯定する事態だなと思って見ていました。

補足349:ただ、この話にももうワンステップ先があります。補足348の段階では意図的に「アニメキャラには無差別に欲情してもよく、リアルな女性には無差別に欲情してはいけない(アニメキャラは倫理的に考慮すべき対象ではないが、リアル女性は倫理的に考慮すべき対象である)」と切り分けました。ただ、これってただ単にアニメキャラはコミュニケーション可能な存在ではないので自分に向けられている性欲を知ることが出来ないからというだけの理由であって、Vtuberがそうであるようにキャラ自身が性欲を感知できるとするのであれば、恐らく萌えキャラも倫理的に考慮されるべき対象になり得るように思われます。だからVtuberが萌えキャラだとしてもなお、彼女が性的に扱われることを拒むという理由によって、欲情の表出が封殺されるべきだという規範は十分に有効であり得ます。ここに「萌えキャラに対する倫理=考慮すべき対象としての萌えキャラ」という、「考慮する必要のない萌えキャラ」でも「考慮すべきリアル女性」でもない第三の領域が立ち上がってくるとすれば、このあたりに二次元と三次元がアウフヘーベンする契機が蘇ってくるのではないかと思うところもあります

195.yubit映研オープン企画 vol.1 「LWのサイゼリヤ」特別講義、過去ログを見かけてめちゃくちゃ内容が気になってるんですけど、今後ブログに詳細な内容を掲載される予定はありますか?

2年前くらいにやったやつですね。
興味を持って頂けるのは非常にありがたいですが、ブログに掲載する予定はあんまりないですね……DMをくれればスライド資料をあげます。
基本的に書籍の内容をまとめて紹介するような講義で僕の独自性があるわけでもないので、種本を読むのが良いと思います。例えば投稿タイミング的には以下の記事でスライドを一枚引用したところで反応されたのかなと思うのですが、これは書いた通りマリー=ロール ライアン『可能世界・人工知能・物語理論』に書いてある内容なので、それを図書館とかで借りて読めば良いでしょう。

saize-lw.hatenablog.com

ただ、マリー=ロール ライアンはベースになっている可能世界論をそれほど丁寧に解説していないので(著者は解説しているつもりかもしれませんが僕が読んだときは理解に苦労したので)、三浦俊彦『可能世界の哲学』か野上志学『ディヴィッド・ルイスの哲学』を先に読むことをお勧めします。

 

196.ブログ記事「サムライ8はなぜ失敗したのか」とても興味深い内容で、サムライ8も鬼滅の刃も読んでみたくなりました。
ひとつ気になった点があります。サムライ8を全く読んだことのない人間の戯言としてお読み下さい。

義や勇などのサム8の複雑な設定はあくまで少年マンガのコテコテの価値観をシステム化したに過ぎず、それ自体は欠点ではない、とのことですが、これまでシステム化されずにひとりひとりが自己完結的に抱いていた「義」や「勇」をシステムに組み込んでしまったことで、それらの意義が無に帰したという可能性はないのでしょうか?
ゾロが「背中の傷は剣士の恥だ」という信念を持って貫くのは格好いいけど、「剣士は背中に傷を受けると散体する」というシステムがワンピース世界に存在し、そのシステムのためにゾロは背中に傷を受けないように気をつけているとしたら格好悪いと思います。

"『サムライ8』が描いてきた美学に共通するのは徹底した自己完結性だ。"とありますが、「男の美学」は、その内容がどれだけ堅物で一辺倒であっても、彼らが生きる世界のシステムや設定といった外部に依存するものではなく、あくまで自分の内部に依存するもの=自己完結しているものでなければならず、「男の美学」を見事に表現した『サムライ8』は、見事に表現することで「男の美学」を根本から台無しにしたのではないでしょうか。

鬼滅の刃』との比較でいえば、『サムライ8』の失敗は確かに「男の美学がウケる時代ではなくなってきているため」なのかもしれませんが、上に述べたように「男の美学を巧みにシステム化すること自体が失敗だった」線もあるのでは、と思いました。

saize-lw.hatenablog.com

この記事に対するコメントです。
これはもう完全に仰る通りですね。あまりにも仰る通りすぎて書き足すことが思いつきません。まさにこの理由によって『サムライ8』は少年漫画の価値観の扱いを根本的にしくじっていたというのはかなり真実であるように思われます。
話の構造とか価値観だけではなく、それを表出させるやり方がクリティカルなこともあるんですね。勉強になりました。ありがとうございます。

 

197.「男性的でない」を「女性的である」と言い換えるのって男性的過ぎませんか?

この投稿も上のサムライ8の記事に対するものです。

まあ概ね仰る通りなんですが(以下の回答は反論ではなくこの指摘を認めるものですが)、一応『鬼滅の刃』を男性の否定形という消極的な理由ではなく、もっと積極的に女性的と言う理由もないわけではないです。一つは作者の吾峠呼世晴が女性らしいということ、もう一つは女性読者が多かろうことを念頭に置いてはいます(厳密なデータがあるわけではありませんが、少なくともBLEACHNARUTOに比べれば恐らく)。

とはいえ、そんな些末で怪しいエビデンスは話の本質ではなく、二つの対照的な価値観を男女の対立に対応させるというステロタイプな比喩のやり方自体がバイアスドで時代遅れな書き方であるということですよね。僕にも多少の自覚はあって、投稿時はもうちょっと決めつけ調だったのを少しマイルドに修正したりはしています。

これに関しては、ただ単に僕の規範意識はそこまで優先度が高くないというだけのことです。単純な二項対立を導入することで話がわかりやすくなるのであれば、無意識の加害に加担することを選ぶ程度のものでしかありません。表現一般に関しても、僕は「女々しい」「姦しい」「女房を質に入れる」といった言葉は長期的に見れば廃止されていくべきだと思っている方ではありますが、常に代用の語句を持ってくるほどモチベーションが高いわけではないというくらいの感じです。

 

198.ワールドトリガー、面白いですよ(ジャンプSQですが、集英社で1番好きな作品です)

割と好きな漫画で、前に感想を書いたことがあります。

saize-lw.hatenablog.com

saize-lw.hatenablog.com

たしかヒュースを勧誘するあたりまで読みましたが、情報量が多い漫画で時間を空けるとすぐに内容を忘れてしまうため、次に読むのは完結して最初から読み直すときのような気がします。

 

199.キズナアイ

そうです。

 

200.https://www.nicovideo.jp/watch/sm37567302
音MADって文化いいですよね

音MADはあまり聞かないですね……まずうちうちうちさぁうちさぁみたいなやつを音MADに含むなら結構聞いてるかもしれません。

20/10/17 機械学習入門書籍レビュー

機械学習入門書籍レビュー

機械学習書籍を6冊読んだのでメモがてらレビューを書いておく。

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技術書は人文書に比べて内容が似通りがちなので、きちんと書き残しておかないと細かい内容の差異を忘れてしまう。とはいえ理系界隈では最終的に普遍性のある知見を醸成することが目的であり、解説書それぞれの差異を評価したい気運は薄いような気もするが。
最初に一応前置きしておくと、いつも素人知識を振り回している俺にしては珍しいことに、俺は機械学習に関しては素人ではない(別に玄人でもないが)。というのは分析哲学現代思想に関しては学術的な背景が特にないのに対して、機械学習はあるということだ。動物が表紙に描いてあるタイプの標準的な書籍の内容は既に頭に入っているしフルスクラッチフレームワークでの実装経験もある。

深層学習 (機械学習プロフェッショナルシリーズ)

深層学習 (機械学習プロフェッショナルシリーズ)

  • 作者:岡谷 貴之
  • 発売日: 2015/04/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
ゼロから作るDeep Learning ―Pythonで学ぶディープラーニングの理論と実装

ゼロから作るDeep Learning ―Pythonで学ぶディープラーニングの理論と実装

  • 作者:斎藤 康毅
  • 発売日: 2016/09/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

よって、別に初学者としてわかりやすさを評価しているわけではない。が、次のサイゼミでは多分俺が他の人に機械学習を教えることになるであろう都合で、初学者にとってわかりやすいかどうかを終始気にしている。入門書ばかりを読んでいるのもそのせいだ。ちなみに挙げている本は図書館で目についた本を片っ端から掴んだだけで、選定の理由は特に無い。

1.高校数学でわかるディープラーニングの仕組み

高校数学でわかるディープラーニングのしくみ

高校数学でわかるディープラーニングのしくみ

 

良い意味で非常に平均的な解説をする良著。
ニューロンのモデル化からニューラルネットワークの計算グラフまで手早く辿り着き、学習はとりあえず後回しにして推論の説明のみでCNNやRNNの解説まで進めるスピーディーな構成は初学者でも読みやすいだろう。誤差関数周りで混乱しやすい尤度関数を導入せずに最小二乗のみで戦うのも気が利いている。

データを用いたモデル更新、すなわち学習パートは最終章でようやく出現する。この本に限ったことでもないが、ディープラーニング解説において最大の山場は間違いなく誤差逆伝播法だ。高校数学までには無い最急降下法という逐次更新のアイデアを導入すること自体がまず困難であり、数学的にも全微分偏微分というイメージと数式の結び付きを要求する高度な概念をクリアし、更にはそれを自在に運用して漸化式を得るところまで行かなくては何が逆伝播なのかわからない。

補足343:正直なところ、実装をしないのであれば俺は誤差逆伝播法はディープラーニングの理解に必須ではないと思っている。誤差関数の最小値を取るパラメタなんて大域最適解が求められることにしてしまって、「まあ実際には求められないので本当は誤差逆伝播法を使います」と補足しておけばとりあえずそれで原理を理解したことにしてよいと思う。実装上の限界を本質的なボトルネックと見るかどうかは信仰告白の領域だが、俺は見ない寄りに与する。

この本は誤差逆伝播法をかなりスマートに解説しているが、それでもタイトルにある「高校数学でわかる」という範囲は明らかに超えてしまっている。一応付録に多変数関数や偏微分の教科書的な解説が添付されており、それも込みで「高校数学しかわからなくても付録を読めばわかる」ということではあるのだろう。

2.基礎から学ぶ人工知能の教科書

基礎から学ぶ 人工知能の教科書

基礎から学ぶ 人工知能の教科書

 

タイトル通り、人工知能について広く浅く学べる教科書的な書籍。
とにかく扱っている内容の幅が広く、人工知能については概要・歴史・技術・限界、機械学習については音声・画像・自然言語・ゲーム、具体的な技術についてもGANからQ-leaningまで扱っている。

ニューラルネットについては近年の人工知能のコア技術ということもあって記述は相対的に充実しており、人工ニューロンから始めてニューラルネットの構築まで数式もきちんと使いながら標準的な説明を加えている。
誤差逆伝播法については偏微分を用いた証明を放棄して更新式を日本語で説明するという荒業によってとりあえずの記述を済ませており、なるほどその手もあるなと膝を打った。本来は数学的な正しさを確認した上で数式を解釈すべきだが(統語論的な正当性を確認してから意味論的な正当性を確認すべきだが)、説明上は逆向きでもまあいいだろう。例えば誤差関数をある重みで偏微分して得た値を「その重みが誤差に対して及ぼす影響力」と言い換えてしまえば、それを「その重みが繋がっているユニットの影響力」×「その重みにかかる入力の大きさ」で表示するのは直感的に理解できる。

強いて欠点を挙げれば、内容が幅広いことに反比例して細部の記述は貧弱なことも多い。
例えばLSTMのゲート制御が「必要に応じて」としか書かれていなかったり、ホップフィールドネットワークや自己組織化マップについても申し訳程度に描かれた計算グラフのイラストの横に解説は数行しかないので俺は全然理解できなかった。とはいえ、全く書かないよりは少しでも触れておいて学習の糸口を作ろうという意図なのだろうし、教科書と名乗る書籍としては正しい選択だ。 

3.機械学習 データを読み解くアルゴリズムの技法

機械学習 ─データを読み解くアルゴリズムの技法─

機械学習 ─データを読み解くアルゴリズムの技法─

 

既にそこそこ詳しい人向けの書籍。
行列や確率のような数学の基本や、なんなら機械学習自体を理解している前提で知識を整理する内容。わりと「わかってると思うけど一応説明しとくね」くらいのスタンスなので、初学者には全くお勧めできない。

第一章が機械学習の大枠を紹介する内容、第二章以降が各論となる。
第二章以降ではニューラルネットを扱っていなかったのでとりあえず一章しか読んでいないが、かなり有益な内容だった。機械学習をタスクとモデルと特徴量の三つに分解した上で、モデル構築の思想を幾何ベース・確率ベース・論理ベースの三種類に分けているのが非常にわかりやすかった。
前から思っていたのだが、機械学習では学習を行うモデルをどう捉えるかは状況によってかなりまちまちだ。二次元平面にデータをプロットして決定境界を引くというわかりやすい方針を取っていたかと思えば、突然条件付き確率P(A|X)が出現して尤度関数を最大化し始めるし、その次には決定木で論理的な分岐をベースにして分類をしましょうなどと言い出す。どれも直感的には正しいことがただちにわかるだけに、結局色々ある手法の違いはどこなのだよと混乱することがよくあった。

こうした違いは現象に対するモデルをどう取るかという違いに過ぎないため、完全に同一のタスクにおいてすら3つのモデルのどれを使っても良いしどれでも機械学習はできると書いてあるのを読んで、なるほどそうなのかと腑に落ちた。
例えば、メールをスパムとハムに分類する典型的なタスクの機械学習を考えよう。幾何モデルを使うならば二次元平面上にメールをプロットして決定境界を引くようなイメージで考えればよいし、確率モデルを使うならば確率過程がメールを生成しているイメージで考えればよいし、論理モデルを使うならば一定の条件式に対するTRUE/FALSEで分岐していく木のイメージで考えればよい。別にどう扱ってもよいのだ。
そしてこの三つは決して排反ではないしむしろ緩やかに連帯するというのが厄介であり面白いところでもある。結局のところどのモデルでも学習されるのはデータが持つクリティカルな要素としての特徴量であり、特徴量を欲して止まない点は共通している。

この書籍にニューラルネットに関する記述は無いが、特徴量ベースで捉えることによって幾何モデル・確率モデル・論理モデルを縦横無尽に横断するのがニューラルネットだというイメージを持つことができた。パーセプトロンのように結果を図示できるレベルの原始的なニューラルネットにおいて決定境界を描くのが幾何モデル的な捉え方、シグモイド関数・softmax関数を用いて出力を確率と見做して最尤推定を行うのが確率モデル的な捉え方、CNNで顕著なように特徴量をよく表現した隠れ層に注目して「耳や鼻があるorない」といったif分岐で解釈するのが論理モデル的な捉え方だろう。
それは数理的なテクニックというよりは思想的なアスペクトであり、ニューラルネットに先立って存在する。それがわかっただけでもかなり良い本だった(第一章しか読んでいないが)。

4.機械学習入門 ボルツマン機械学習から深層学習まで

機械学習入門 ボルツマン機械学習から深層学習まで

機械学習入門 ボルツマン機械学習から深層学習まで

  • 作者:大関真之
  • 発売日: 2016/12/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

悪書でこそないが、かなり微妙な本のように感じた。
姫と鏡の対話形式でフレンドリーに進んでいくので一見わかりやすそうだが、読み進めていくと暗黙の知識や実装しないとわからない欠点が挿入されたりしてスムーズに進めない。また、レベルが乱高下しがちで「この段階でそのレベルのこと言う!?」と声が出がちだ。しかしAmazonレビューではわかりやすかったという評価が多いので俺が悪いのかもしれない。
サブタイトルは「ボルツマン機械学習から深層学習まで」だが、実際にはその二つしか扱っていない。「何から何まで」的なニュアンスがミスリーディングなので「ボルツマン機械学習と深層学習」に改題してほしい。

この書籍ではニューラルネットのパラメタが「レバー」として表現されており、姫やお手伝いさんがレバーを動かすという人海戦術でパラメタを調整して最適解を探すというイメージが導入されている。それ自体は良い比喩だと思うし、数学的に説明すると割と厄介な最急降下法アルゴリズムをとりあえず直感的にわかりやすく提示できているのはかなり良かった。
ただ、レバーを用いた勾配消失問題の記述には非常に引っかかった。シグモイド関数が原因で発生した超水平面に差し掛かると姫が「レバーが硬くなって引いても動かない」と仰るのだが、正しくは「レバーをどう引いても誤差関数が少しも変わらない、変わらないのでどっちに引けばよいかわからない」のはずだ。

補足344:ここで勾配消失問題について詳説する気はないが、誤差関数のどのパラメタ方向への偏微分値もゼロになってパラメタ更新式が動かなくなるやつのこと。

ここではレバーの比喩とアルゴリズムの実体が噛み合っていない印象を受ける。
レバーの比喩で捉えている限りはパラメタは能動的に動かせるもの、設定者の考えと完全に連動した主体的な動きを行うものだと俺は解釈した。しかしアルゴリズムの実体においては主体的に振る舞うのはアルゴリズムであり、パラメタはアルゴリズムに指定されたように受動的に動くもの、働きかけられる対象となる。
よって、勾配消失した際にアルゴリズム上での受動的なパラメタは動けなくなるが、設計者の思い付きによって任意に指定すること自体は依然として動作可能である。レバーそのものが動かない事態があるとしたらそれは特異点写像先が未定義の点に進もうとしている場合のはずで、かなりミスリーディングな記述のように感じた。

5.やさしく学ぶ機械学習を理解するための数学のきほん

説明がわかりやすい良著だが、別に言うほど優しくはない気はする。
「数学の基本」というよりは「『機械学習の数学』の基本」であり、「数学は既にある程度理解しているが機械学習の数式がよくわからない」という人に向けた本であるような印象を受ける。確かに総和記号シグマの使い方から教えてくれる付録が巻末に付随してはいるが、逆に言えば「数学の基本」は巻末で読んで自分で勉強してねというくらいの扱いと言うことだ。ミオがアヤノに教えるという対話形式を取っているが、アヤノも一応理系プログラマーなので物分かりが良すぎるような印象も受ける。
別に偏微分概念それ自体を優しく説明しているわけではない代わりに本文中では機械学習に頻出する数式を丁寧に微分したりすることに労力が割かれている。その説明は確かに非常に丁寧で、特に式変形を一つ一つ追ってくれるのは嬉しいところだ。数学書や技術書を読んだときに式変形に飛躍があって意味不明になった経験のない理系はこの世に存在しないだろう。その点、この本は合成関数を分解してそれぞれを第一項から微分していくということを丁寧にやってくれるため、躓くことがない。

書籍の後ろ半分は評価と実装についての話題が占めており、機械学習自体の理論的内容は前半分程度に留まる。扱われているトピックは「回帰タスクに対する線形回帰」「分類タスクに対するロジスティック回帰」の二つだ。重み付き線形和であるパーセプトロンシグモイド関数を付けたロジスティック回帰用のユニットとは要するに人工ニューロンであるため、この書籍を完了すれば自動的にニューラルネットの理解も八割がた完了するだろう。

補足345:この本ではパーセプトロンは単なる重み付き線形和と定義されているのでそれを尊重して上のように書いたが、一般的には重み付き線形和にシグモイド関数を付けたところまで込みでパーセプトロンと呼ぶような気がする(単純パーセプトロンはロジスティック回帰と等価では?)。

補足346:また、ロジスティック回帰の「回帰」とは確率に対する回帰であって、機械学習タスクとしては回帰ではなくむしろ分類をこなすというズレを説明しないとかなりミスリーディングな気がした。

難点を強いて言えばタスクやモデルがそこそこシームレスに(明確に違いを提示することなく)変わりゆくため、細部の解説が詳細であることも込みで今何のために何をやっているのかが途中でわからなくなりそうだなと少し思った。
例えばタスクが回帰から分類に変わったときに誤差関数を最小二乗から最尤推定に切り替える(幾何モデルから確率モデルへのモデルチェンジ)というそこそこ高度なことをやっているし、どこかでタスクとモデルの表でも書いて整理するようなページがあってもよいような気もする。また、パーセプトロンを図示する割にはシグモイド関数を描き加えて人工ニューロンにしたイラストが一枚もないが、それが一枚あればパーセプトロンからロジスティック回帰への接続を明示してニューラルネットへの橋渡しまで出来るのに勿体ない。

ちなみにこの本にはディープラーニングバージョンもあり、こっちも読んでみたい気持ちはあるが、図書館に無いし買うほどではないので多分読まない。

6.最短コースでわかるディープラーニングの数学

これすごい本。似たようなタイトルの入門書籍とは一線を画しており、タイトルに偽りが無い。本当に最短コースでわかるディープラーニングの数学について書かれている。

知識の積み上げ過程を整理したスキルツリーが付属しており、この流れ通りに学んでいけば必ず最後にはディープラーニングを理解させられるようにデザインされている。こういう論理的な整合性を突き詰めた偏執的な内容を書くタイプの著者は絶対東大か京大だろと思って著者情報を見たら俺と同じ学科の出身だった。

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このスキルツリーを点灯させていくために中身は大きく理論編と実践編に分かれており、理論編では教科書的な内容が次々に紹介されていく。
全く妥協がないため100ページ強が理論編に費やされており、何に使うかわからない数学知識をまず叩き込むというのはかなり苦行のような気もする。とはいえ、本当に基礎の基礎なので俺なら20分で読み終わる内容ではある。解説そのものというよりは、ディープラーニングに必要な知識だけを精選して詰め込んだという取捨選択にこそ価値があるのだ。数学の教科書を学び直そうとしたらもっと時間がかかるところ、必要部分だけを拾い上げる作業を行ってくれているのがこの書籍だ。

補足347:ただ、飛躍があるか無いかと言われれば、高学歴の人間に特有の、読者を過大評価しているような記述は稀にある。例えばかなり早い段階で「座標値の平均を原点とするような新しい座標系で考えると値を0にできます」とだけ述べて座標変換を行っているが、この書籍で想定しているような常微分から学ばなければならない読者にとって、その操作はかなり高度なことのように思われる。

特に狂気を感じるのは、ディープラーニングの入門書としては珍しいことに神経細胞ニューロンのモデル化を一度も行っていないことだ。モデル化から入った方が色々手間が省けて楽な気がするのだが、生物学的な知見から天下り的にモデルを輸入することは数学的な論理展開にとってはむしろ不純物だという判断があるのだろう。全て数学で説明し尽くせるという自信と、実際にそれを遂行するパワープレイぶりはすさまじい。他の本では割と難儀する誤差逆伝播法も正面から突破して終われる。

中学レベルの数学知識とやる気があるならこれ一冊で戦えるのは間違いない(そういう風に作られているから)。ただ、全く妥協が無いので対価に正当な労力を要求するというタイプの入門書だ。やる気があるならお勧めできる。

20/10/16 2020年8月消費コンテンツ

2020年8月消費コンテンツ

8月は第七回サイゼミ(→)に向けた資本論入門書籍を読むのに時間を吸われた感じがある。
あまりアニメを見ていないのはとりあえず見ようと思っていた作品をだいたい見てしまったからだが、これを書いている10月時点ではぼちぼち見たいアニメが生まれてきた。「映画を見たい時期」とか「本を読みたい時期」みたいなものは割と周期的に集中して来る(「バランスよく色々やりたい時期」はあまり来ない)。

また、7月に「久々にゲームしよう」と思い立ちプレイした『シドマイヤーズ シヴィライゼーション VI』が全く合わなかったため、代わりに『ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団』のプレイを始めた。そんなに面白くない割にはボリュームが想定外に大きく、9月の時間もだいぶ削った上に10月分にまで食い込んでいる。

メディア別リスト

映画(13本)

傷物語(全3部)
ウォッチメン(ドラマ全9話)
シンドラーのリスト

書籍(11冊)

罪と罰(上・中・下)
バカの壁
アトムの命題
これならわかるよ経済思想史
世界一簡単なマルクス経済学の本
武器としての資本論
マルクスの『資本論
マルクスと共に資本主義の終わりを考える
いま生きる「資本論

漫画(21冊)

夏目アラタの結婚(1・2巻)
SPY FAMILY(1~4巻)
サムライ8(全5巻)
テセウスの船(全10巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

サムライ8
これならわかるよ経済思想史
マルクスと共に資本主義の終わりを考える
世界一簡単なマルクス経済学の本
傷物語
武器としての資本論

消費して損はなかったコンテンツ

テセウスの船
アトムの命題
いま生きる「資本論

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

ウォッチメン(ドラマ)
シンドラーのリスト
罪と罰(上・中・下)
マルクスの『資本論
夏目アラタの結婚
バカの壁

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

SPY FAMILY

ピックアップ

資本論関連書籍

これならわかるよ経済思想史
マルクスと共に資本主義の終わりを考える
世界一簡単なマルクス経済学の本
武器としての資本論
いま生きる「資本論
マルクスの『資本論

saize-lw.hatenablog.com

第七回サイゼミ用、詳細は上の記事を参照。
更なるトピックとしてはベーシックインカムを武器にしたポスト労働社会構想について掘り下げるのが一番面白そうだ。ルサンチマン的な階級闘争はあまりにも時代遅れだが、アンチ労働運動は今でも十分な支持者を得られそうではある。次に興味が向いたらベーシックインカムの理論的基盤についての本を読んでもいい。

どうでもいいが、ちょうどサイゼミの直後に『武器としての資本論』著者の白井聡が暴言で炎上しており、それ自体はともかく京都精華大学の声明が結構良かった(→)。
大学のスタンスとしては教員の多様性を認めているため、白井氏が安倍晋三ガチアンチであること自体は不問に付すことを明記している。しかしその思想の自由が有効であるのは他人の自由を侵害しない限りであるため、量的な問題ではなく質的な問題として今回の発言は看過できないということだ。この姿勢には一貫性があり、わざわざ「個人の主義主張、思想、信条の表現や発言に寛容でありますが」と前置きするあたり好感が持てる。

傷物語アトムの命題

saize-lw.hatenablog.com

アトムの命題』はこの記事を書くために再読した。
物語シリーズ全般については化物語だけは放送当時にリアルタイムで見ていた。当時「会話シーンが面白いアニメあるんだ~」と感動した記憶があるが、その代わりに話はそんなに面白くなかったため(あと刺さる萌えキャラが特にいなかったため)、二期以降は見なかった。正直なところ今も同じような気持ちではある。

サムライ8

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上に書いたこと以上に思うことが何もない。

ウォッチメン(ドラマ)

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上の記事に書いたようにウォッチメンは映画が面白かったので非常に期待してドラマ版を見たのだが……本当に面白くなかった! 原因は明らかで、ポリコレ的要求によって黒人迫害の歴史を語る教育ビデオと化したことだ。

まず念のために言っておくが、俺は「ポリコレが映画をつまらなくする」という短絡的な言説には今のところ与するつもりはない。黒人が活躍すること自体は全く構わないし、実際、登場人物がほぼ全員黒人の『ブラックパンサー』は面白かった。
政治的な正当性と映画としての面白さは両立可能なはずで、前者を立てたが後者を立てないのはただ単に制作の怠慢である……と思うのだが、『ウォッチメン』や『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』の暗澹たる現状を見るに、最近は少し自信が無くなってきている。やはりそれらはトレードオフなのだろうか?

補足341:百合コンテンツがただ百合であるというだけで満足してしまい、それ以外の面白さの追求を放棄した結果、百合を取ったら何も残らない駄作が粗製乱造されてきたことにも似ている。

ドラマ版ウォッチメンでも黒人の歴史を知ることや黒人を擁護することが目的となった結果、話がシンプルに浅薄でつまらないものになっている。黒人女性の主人公が自分の家系図アイデンティティを再確認するだけのエピソードが必要だったとは思えないし、「KKKが黒人に催眠術をかけて暴動を起こさせていた」という真相には「バカか?」と声が出てしまった。

この作品が独立して面白くないだけならまだ良いのだが、なまじ続編であるだけに映画版の面白さも全て破壊されてしまっている。
Dr.マンハッタンは前作では「究極の力を持つが故に人間が理解できない」というアンチヒーローだったのに、ドラマ版では黒人女性に惚れた末に記憶喪失になるわ普通に負けて捕まるわで散々だ(Dr.マンハッタンは究極の力を持つが故に人間が理解できない……ただし黒人女性を除く!)。最終的にDr.マンハッタンの神にも等しい力は悪の秘密結社が欲しがる超能力にまで貶められてしまった。
オジマンディアスも前作では誰にも理解されないジョークを世界中に仕掛けて秘密裡に完遂する孤高のペテン師だったはずが、今ではその成果を誰かに認めてほしい承認欲求の塊と化した。ローリーはローリーで自己満足に陶酔する救いようのない女性だったはずが、有能で頭のキレる老女となっている……いや、それは成長したということで別にいいのか?
黄色いマスクと銀色のマスクに象徴されるコメディアンとロールシャッハの対立も、保存されているのは見た目くらいのものだ。すなわち「終わってしまった世界の中で自らも堕落したパロディとなるか無駄と知りながら狂人として徹底抗戦するか」という対立は人種的な対立へと挿げ替えられた挙句、「その対立を引き起こしていた真の黒幕がいた」とゴミ箱に放り込むように処分される。そういう「真の原因」がいないという絶望的な状況設定こそが映画『ウォッチメン』を傑作たらしめた最大のガジェットだったのではないのか。

ただ明確に良かったことも二点あるので挙げておく。

一つは黒人ヒーロー「フーデッド・ジャスティス」がマスクを被る際に外に露出する目の周りだけを白く塗ることで白人であるかのように偽るエピソードだ。ヒーローのマスクとは個性を象徴すると同時に隠蔽することを告発する、マスクの脱構築だ。
キャプテン・アメリカが典型的であるように、マスクとは装着者の強力な個性を示して彼の自己実現を強くサポートするものでありうる。しかし他方で、フーデッド・ジャスティスのようにマスクとは装着者のアイデンティティを欺いて別人へと変わり果てさせるものでもある。彼が活躍すればするほど彼自身は布の下へと隠されていくのだ。
個性的であることと個性を消すことが同一平面に有り得る、リベラルと反リベラルが鍔迫り合いをしている現場がヒーローマスクだという指摘は記憶に値する。

もう一つは、各話タイトルがどれもめちゃめちゃかっこいいことだ。「今は夏 氷が尽きそうだ」「コマンチ族の乗馬術による軍功」「彼女は宇宙ゴミに殺された」「私の物語が不満なら自分で書け」「落雷へのささやかな恐怖」「この尋常ならざる存在」「ほとんど宗教的な畏怖」「1軒の酒場に入る神」「彼らが飛ぶのをご覧よ」、いつかどこかで使いたい。

罪と罰(上・中・下)

罪と罰(上)(新潮文庫)

罪と罰(上)(新潮文庫)

 

悪徳の栄え』が好きだと言うと勧められることが多いので読んだが、あまり面白くはなかった。人を殺した程度でウジウジしないでほしい、ジュリエットを見習え。
「私は踏み越える権利があるのか否か」という問題意識は、当時宗教的な規範が揺らいで(ちょうど今のリベラルな規範と同じように?)自由主義と衝突していたりする時代ではアクチュアルなものだったかもしれないが、今ではどこまでもフィクションでしかない。
いみじくも永井均が言うように、「重罰である可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければやむをえない」。 それで終わりだ。

テセウスの船(全10巻)

テセウスの船(1) (モーニングコミックス)
 

表面的な内容は別に全然面白くない。主人公が誤認逮捕されている父親を救うためにタイムワープを繰り返して真相に辿り着くというサスペンスSFであり、ぽっと出のサイコパスが犯人という雑な解決を見る。

ただ、タイトルが『テセウスの船』なのが気合が入っている。
このサスペンスの力点は内容それ自体ではなく、主人公がタイムワープするたびに世界が少しずつ改変されていくという点にある。最後には主人公が事件を解決したとき、彼が救いたかった人々と世界は本当に元のそれらと一致しているのか。
主人公も犯人もタイムワープした末に死亡するが、解決した世界に生まれた主人公と犯人が死なずに生きていく。エピローグで改変された世界を歩き回る彼らは一体誰なのか? これこそタイムワープの末に生じたテセウスの船だ。事件を解決してしまったが故に世界は決定的に変動し、それは同じ名前で名指されているはずの主人公たちのアイデンティティを揺るがす。
何か感嘆に値するような回答が明示されたわけではないが、冒頭と結び、あとタイトルだけで真のテーマを示し、表面的なサスペンスストーリーの下に隠すという作りはなかなか面白かった。

補足342:加えて、俺は「貫世界的な存在者に対応者は存在するのか」という問題意識を受け取った(貫世界的とは「パラレルワールドを移動できる」くらいの意味、対応者とは「パラレルワールドにいる同一人物」くらいの意味)。貫世界的でない存在者、つまり単一の世界から出られない存在者であれば問題はあまり生じない。どのパラレルワールドにも彼に相当する同一人物、つまり対応者が存在するのは自然なことのように思われる。しかし、貫世界的な存在者、つまりパラレルワールドを渡り歩く存在者の場合はどうだろうか。『テセウスの船』では差し当たって貫世界的ではない対応者が提示されたわけだが、それは元の存在者とは「パラレルワールドを渡り歩けない」という点で経験も性質も決定的に異なるため対応者とは言うには違和感がある。様相実在論では貫世界的な存在者は存在しないので問題にはならないが、フィクションではその限りではない。