LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

21/5/9 第10回サイゼミ 現代アートの哲学/ 格ゲー入門/ TRPG入門

第10回サイゼミ

f:id:saize_lw:20210505134715j:plain

2021年5月4日に麻布十番で第10回サイゼミを催した(過去のサイゼミは「カテゴリ:サイゼミ」を参照→)。

補足378:第9回が抜けているのには事情がある。第9回は2月あたりに秋葉原Vtuber批評(『Vtuber存在論と指示論』)をやったのだが、それは俺がDMで誘われたVtuber批評同人誌に寄稿する予定の内容だったので、他媒体に載ることを考慮して個別の記事は書かなかった。結局その文章は四万字くらい書かれたのだが、同人誌の主催者と連絡が取れなくなりお蔵入りとなった。

今回はなんか色々なゲームの体験会みたいのしたいねという話になって、前座としてLWが最近読んだ『現代アートの哲学』の面白かったところだけ軽く喋ったあと、格ゲーとTRPGについて有識者が解説しつつプレイする進行だった。

サイゼミ現代アート

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

  • 作者:西村 清和
  • 発売日: 1995/10/01
  • メディア: 単行本
 

芸術界隈では学部生が読むような教科書的なやつらしく、欲しいものリストから送って頂いた。読み物として平易で面白いし一般教養も身に付きオタクコンテンツとの相性も良いという隙の無い一冊。

啓蒙のジレンマ

ここは書評解説ブログではないので内容については各自で読んでもらうとして(以下は読んだ前提の感想であって要約ではない)、ネットの普及によってSNSや人権思想で本格化した啓蒙のジレンマは芸術領域ではもっと以前から起こっていたのだなと思った。

「普遍的な人間精神の称揚」という意味でのいわゆる啓蒙は「誰しもが素晴らしい」として強固な自尊心を擁立する表面を持つ一方、「誰でも素晴らしい」として特権的な価値を認めずに解体していく裏面をも併せ持つ。当初はポジティブな表面によって楽観的な自画自賛が流通するが、しばらくするとネガティブな裏面の存在が気付かれて衝突が生じてくるという流れが様々な領域で起こっている。
例えばSNS普及当初のTwitterには「誰しもが価値ある意見を発信できる」という今思えば頭のイカれた期待が込められていた。これが啓蒙の表面で、個々の人間の価値を過度に高く見積もって参加者を無根拠な自尊心の渦に巻き込んでいく。しかしこの夢は大衆の暴走と共に崩壊し、いまや「誰でも無価値な野次を発信するにすぎない」という諦観がTwitterの言論空間(笑)を覆っている。
人権思想においても、フランス人権宣言の段階では「誰しもが自由と平等を持つ」という普遍性を基盤とする崇高な理想が掲げられていた。しかしネットの普及と前後して、実際の人間の多様性は当初想定されていたよりも極めて多彩であり、時には相互排他的であることが判明していく。「誰でも自由と平等」を本当に実現する上で乗り越えなければならない課題があまりにも多いという認識は現代ではむしろ常識に属している。

このような流れが芸術においてもあったらしい。近代美的モダンの時代においては普遍的人間精神の純粋な美的表現が可能であると信じられていたが、時代が下るにつれて崇高な普遍性は「芸術は誰でもできる」という俗物たちの舐めた態度に変質する。すなわち、芸術の普及による大衆化である。悪趣味、卑俗、キッチュ、生活空間への侵入、成金趣味、情緒過多……啓蒙が広がれば広がるほど、(少なくとも当初の意図からすると)実現されるもののクオリティはどんどん下がっていくというジレンマがある。

ちなみに、俺が次にこの啓蒙のジレンマに直面するだろうと思っているのはアバター文化及びXR界隈である。VRChatの魅力をプレゼンするとき、「誰しもが現実の制約を離れて理想的な容姿や声を手に出来るのは素晴らしいことだ」という実は極めて差別的な売り文句を口走らずにいられる者は多くない。なるほど確かに、冴えないオタクが美少女に、中年のおっさん同士が恋人になれるのは素晴らしいことだ。黄色人種でも黒人でも白人になれるということは。
そろそろ歴史に学べ! SNSが、人権思想が、芸術運動が、当初掲げていた「誰しもが素晴らしい」という理念が本当に誰にでもリーチしてしまったとき、辿り着いた終局がここでも再演される。それは恐らく民主化されたアバターの使用によって、バーチャル空間で特定の性別ないし人種ないし容姿ないし体型ないしエクリチュールが、要するにある種のステレオタイプが握った覇権に対する異議申し立てとして提出されるだろう。いずれそれが起きたとき、このブログを思い出してGoz-Mezに投稿してほしい。

やや意地の悪い憶測ではあるが、この転倒は捻れたエリーティズムの問題であろうと思う。というのも、最初に啓蒙の表面だけが発露している段階で「誰しもが素晴らしい」と述べることによって意図されているのは、実は本当に誰しもが素晴らしいということではなく「我々の素晴らしさには普遍的裏付けがある」ということに過ぎないのだ。根本にはエリーティズムが隠れており、本当に誰でも素晴らしくなってしまうと、差異によって担保されていた価値は音を立てて崩壊する。啓蒙は達成されない理想としては機能するが、現実に達成が近付くと少なくとも当初の形では維持されない。

しかしとはいえ、一応誤解のないように申し上げておくが、俺は「最初から普遍的な人間精神など擁立しなければよかったのだ」とか、「啓蒙は大衆にリーチすべきではない」と考えているわけではない。時には啓蒙の末路が悲惨であるとしても、啓蒙が行われなかった世界よりは行われた世界の方が「善い」という確信がある。それは恐らく趣味の領域なので大した理由は無いが、そちらの方が「フェアである」という漠然とした認識、そして俺自身が戦争状態を特に厭わないこと、闘争は回避すべき対象ではなくむしろどこにでも薄く広がっている基本状態であるという世界観に依っているように思われる。

寄生の美学

美的モダンの段階では芸術作品は作者の高尚な精神と結び付いてそれ自体価値あるものと見做されたが、大衆化によって生活の中で消費される段階に至るとそうした素朴な価値や様式は揺らぎ始める。『現代アートの哲学』においては近代の「自存性の美学」に代わって現代の新たな美学として挙げられている「寄生の美学」が興味深い。

寄生の美学が最もわかりやすいのは広告の美的戦略である。というのも、現代消費社会で流通する大量生産商品における「それ自体誇るような機能がもはや特にないのでどうにかして消費者にアピールする価値を表現しなければならない」という事情が、現代芸術作品が置かれた「作品自体が自明に価値を持てるわけではないので自ら何とかして価値を確保しなければならない」という状況と酷似しているからだ。
この状況において、広告が取る手口は消費者の持つ人生経験や既存の価値観に寄生することだ。例えば、辛く厳しい状況に置かれたケインコスギがファイト一発と言いながらリポビタンDを飲むことで一念発起して問題を解決するCMがある。そこで示されているのは実際に商品が持つ具体的機能に関する説明ではなく、消費者の「人生には辛く苦しいことがある」という経験及び「困難が解決するのは良いことだ」という出来合いの価値観でしかない。

近年オタク界隈で「エモ」とか「感傷マゾ」とか言われるものの一部はこの寄生の美学の最新形態のようにも思われる。作品それ自体の持つ情報量は大して多くなく、それが消費者に喚起する人生経験の方に力点があるからだ(とはいえ、俺はその手のカルチャーには疎く、文化的関心もあまりないので的を外しているかもしれない)。
仮にこれら他の何かに便乗して成り立っているように思われるコンテンツが寄生の美学に依っているとすれば、批判のメソッドも寄生の美学に対するそれを流用できる。例えば、可能な批判の一つとしては、寄生の美学によるコンテンツは経験として貧しいことがある。というのも、それ自体が新しい価値を提供するわけではなく消費者の中にある既存の要素を使い回しているだけなので、消費者の美的経験を拡充しないのだ。他にも、寄生の美学によるコンテンツは価値を詐称しているという批判も可能だろう。それは既にある経験を喚起しているに過ぎないので、実際に提供する価値よりも作品が持っている価値は小さいことになる。

とはいえ、こうした批判は未だ近代のドクサに囚われたアナクロなものではないかという声はサイゼミ内でもかなり上がった。作品の「本当の価値」とか「本当の美的経験」というものをナイーブに想定している時点でもう終わった近代から寄生の美学を評しているに過ぎないのであって、本当にパラダイムを転換したあとのポストモダンの美学として寄生の美学を認めるならば相互参照の中で価値概念それ自体が上滑りしている事態をまずは率直に承認すべきである。その上で可能なポジティブな評価の例としては、例えば東浩紀が『動ポモ2』で「ゲーム的リアリズム」を擁立したのも、ロラン・バルトが「読者の誕生」と言って意図していたのも、作品が独立した価値を持てない世界において代わりに何らかのネットワーク的なものの中で価値のようなものを創出しようとする営みだったはずだ。

こうして積極的に寄生の美学を承認していく立場からすると、そもそも寄生対象であるところのソリッドな「人生経験」だの「既成の価値観」だのが存在するかということも怪しくなってくる(それもまた「本当の〇〇」系の近代の遺物に過ぎないのでは?)。実際、感傷マゾ界隈(?)において「実際にあった経験」よりは「実際には無かった経験」をこそ想起の基準に置いていることは、そうした寄生先が不要であることを示す証左で有りうる。
ただ、個人的なことを言えば、俺は少なくとも個人が消費する限りにおいては人生経験とやらに寄生先としての特権的な地位を認めてもよいと思っている。そうした個人的な経験に立脚する言説は客観性を持たないために批評として機能せず発信する意味もないというだけの話だ。つまり、他人に向けて語る価値の有無と、各個人の中での価値の有無は厳密には別の話である。そして、実際の人生において経験の価値を語るのであれば後者の方が重要である局面は決して少なくないはずだ。

 

サイゼミ格ゲー部

f:id:saize_lw:20210506211334j:plain

何気にラスベガスの大会でそこそこ勝ち抜いたこともあるらしい格ゲーマーひふみが格ゲーの基礎を解説し、その後アケコン二台と巨大モニターによって体験会という最強の布陣(画像はパッドだが、このあとヨグルティがアケコンを追加で持ってきた)。

格ゲーの遊び方

まず最初に大抵の格ゲーで通用する普遍的な格ゲーの遊び方を教えてもらった。
プレイヤーが使える基本行動として投げ・打撃・ガード・ジャンプ・対空・波動拳あたりの間に明確な勝ち負け関係が設定されており、それを把握するのがスタート地点となる。その上でリスクリターンを認識しながら仕掛けたり、相手の挙動を見てからカウンターしたりして攻撃を通していくのが基本的な立ち回りである。

補足379:ちなみに俺は中下段への反応速度とコンボ精度が格ゲーだと思っていたのだが、その二つは最初は知らなくていいくらいどうでもいい部分らしい(たぶんGGの動画ばかり見ていたエアプ勢なので華やかな起き攻めとコンボに認識が偏っていた)。

この話だけだと格ゲーとは技相性でジャンケンをするだけのゲームのように聞こえるが、「状況ごとにいちいち出す手を決定しているわけではない」というのが誤解を打ち破るポイントだ。
というのも、格ゲーはタイムスパンが短いため、行動選択にかけられる時間が0.1秒もないことが珍しくない。相手が飛んだのを見てから「ジャンプに有利なのは対空行動! このキャラの対空は立K! よってK入力!」などとやっていては到底間に合わないのだ。よって、状況の変化に無意識で反応してボタンを叩けるシステム、先ほどの例で言えば「(相手が飛んだことを認識)→K」まで省略した回路を頭の中に作っておかなければならない。この回路を無意識で発動させるためには試合前に身体に叩き込んでおく必要があり、試合中に考えていては間に合わない。試合開始までにどれだけ完成度の高いルーチンを作っておけるかが一つの勝負になる。
つまり、試合中に使用できる道具は「無意識に使える行動を体系化したルーチンのシステム」であって、「一つ一つの状況に対応する個々の応手」ではないというのが最大のポイントだ。確かに相手の癖に応じて応手を変えることはできるが、それは反応の一つ一つを意識的に変えているのではない。試合前に前もって作ったいくつかのルーチンの総体を適宜切り替えているのだ。

ここでただちに出てくる疑問は、「それは結局『個別行動のジャンケン』が『システムのジャンケン』に変わっただけで、全体としてジャンケンであることは変わっていないのではないか?」というものだ。しかし、戦いの単位が個別行動からシステムに変わるとそう簡単にはいかなくなってくる理由が主に二つある。
まず一つには、シンプルに複雑さの問題がある。システムは個別行動よりも遥かに高度である。事前に完成度の高いシステムを身体に染み込ませて手札として自由に扱えるようにしておくにはそれ自体非常に手間がかかるし、環境の変化に応じて適宜アップグレードする必要もある。まして「今勝てるシステム」を試合中に自在に創造できるわけではない。極端な話、相手が用いるシステムに勝てる新システムが頭の中には思い描けていたとしても、それはその場で実行できるわけではない。しつこいようだが、システムとは元より思考していては間に合わないことを無意識でこなせるようにした訓練の賜物であり、試合中に思考しながら生成できるものではないのである。
また、システムの切り替えに伴うオーバーヘッドの問題もある。例えば俺は異なるシステムAとシステムBを使えるように訓練しており、今はシステムAで戦っているがシステムBに切り替えれば勝てることがわかっているとしよう。しかし、システムは「じゃあ次のフレームからシステムBで行こう」と自由自在に切り替えられるものでもないのだ。というのも、システムとは無意識レベルで発動するように身体に刷り込んで初めて意味を持つものだからだ。そうそう簡単にチェンジできるわけではなく、かなり熟練したプレイヤーですらラウンド間の小休止で間に合うかどうかという速度に留まる。

逆に言えば、豊富なシステムの引き出しを持ち、かつ、相手のシステムを見てから短時間でシステムを切り替えられるプレイヤーが最強である(ひふみによればウメハラがこれらしい)。ただ、それにはまずシステムを開発して定着させるという身体レベルの訓練と、それらを自在に切り替えるというメタレベルの訓練が必要になる。この状態は当初想定された「単なるジャンケン」を遥かに離れ、システム構築→身体訓練→システム運用という高度なスキルを求めることは明らかだろう。

カードゲームへの適用

サイゼミはもともとカードゲームのコミュニティからスタートしているため、カードゲームへの適用もかなり話題に上がった。つまり、格ゲーマーが様々な事態に無意識で対処できるルーチンを持つのと同様に、カードゲーマーも上級者は個々の応手はいちいち考えずに打てるようにルーチン化していることが多いということについてだ。
ただ、個人的にはこの二つは別の原因から来た別の事態であるように思われる。というのも、格ゲーの場合はタイムスパンが短いため無意識に行わなければならないという時間的な問題から判断のチャンク化が要請される一方で、カードゲームの場合は有限のリソースで一貫したプレイをしなければならないというリソース管理の問題から判断のチャンク化が要請されるからだ。

例えばカードゲームにおける無意識化されたルーチンの典型例として、コントロールミラーのマッチアップにおいて各カードの使用先が試合開始前からほとんど決まっていることがある。低速なデッキ同士では試合の再現性が非常に高いため、「このカードはあのカードの返しに打つ」とか「このカードは絶対に打たない」というようなルーチンが最初から決まっていて、それを間違えた時点でそのプレイヤーの敗北が決定する。そのようにカードの使用先が限定されているのは、いちいち手元のカードから勝ち筋やゲームプランを考え直していては思考にかかる負荷が高すぎるため、勝ち筋とゲームプランに照らして逆算した情報を試合前から持っておくからだ。
その背後には、カードゲームはデッキや手札にあるカードが限られているために勝ち筋の一貫性がなければ勝利に辿り着けないというリソース管理の問題がある。仮にお互いの手札に常にカードプールの全カードがあって何でも仕掛けられる状態であればセオリーの形成はほとんど意味を持たなくなり、相手の動きに応じたアドリブだけが勝負を分けることになるだろう。

一方で、実は格ゲーは手札に全カードがある状態に近い。(ゲージ等のリソース管理を一旦無視すれば)ニュートラル状態から使おうと思えばどの選択肢も使うことができ、立ち回りの上では特に制約が無い。カードゲームとは異なり、勝ちという目的に照らす限りでは判断に一貫性が求められる理由は特にない。体力さえ削れれば何をしてもいいし、波動拳は何度でも打てる。
ただし、格ゲーにおいては人間の認知的な限界がある。理論上は何でもできるとはいっても実際に状況に対して有効な速度でできる判断がそう多くない。それこそが事前に無意識レベルで取れる行動ルーチンを身体に擦り込んでおく理由だったはずだ。これはカードゲームには存在しない観点であり、「ゲームのタイムスパンが早い」というただその一点によって格ゲーは判断のパッケージングを要求する。

奇しくも、カードゲームと格ゲーで「構える」というワードが共通して使われることがこの違いを分かりやすく提示する。
格ゲーにおいて、波動拳に対して竜巻旋風脚を「構えておく」のは、有効なカウンターを食らわせるためには無意識のレスポンス速度で竜巻旋風脚を放つ必要があるからだ。一方、カードゲームで変異種に対して対抗呪文を「構えておく」のはデッキ内に一度着地した変異種を除去する手段がなく打ち消さねば敗北が確定するからで、限られたリソースから逆算したプレイの実行が根底にある。

格ゲー体験会

講義のあと、初心者たちで適当に戦ったり総当たりリーグを催したりした。なお、皆初心者なのでシステム構築までは全く到達しておらず、使えるスキルは行動ごとの相性の認識とそれを前提とした立ち回りというレベルに留まっている。

俺は昔少し一人でカチャカチャ遊んだくらいで対人経験が一切ないのだが、正直なところ他の人の格ゲーやったことなさがヤバすぎて相対的に一番強いくらいだった。
皆は波動コマンドも安定しておらず昇竜を狙って出せないレベルなので、俺は昇竜を出せるというアドバンテージだけでどうにかなる局面が多すぎた。攻撃の最中に相手がぶっ放した昇竜をきっちり防ぐというガード技術を持つ人がほぼいないため、攻められたら適当に昇竜を擦っておいてどこかの隙間フレームで暴れてどうにかなるというかなりセコいことをしていた。

今回解説を受けて基本がわかったことで、各キャラの特徴や各技の意図されている使い方が解釈できるようになったのが大きい。
例えばミカの両足キックは身体全体が浮くために下段を回避しながらカウンターを決めることができ、これは本来であれば下段をガードしてから一応有利フレームで反撃するところをカウンターヒットにまで昇華させる機能がある。
また、リュウとケンの竜巻旋風脚は見た目は似ているが用途が異なっており、リュウの竜巻は波動拳を消しながら進めるためジャンプでも届かない安全圏から放たれた波動拳咎められ、波動拳に対して無意識で打つ回答で有りうる。その一方、ケンの竜巻は波動拳を消せないが(少なくとも今回の参加者のレベルでは)後隙が少なく軌道が見辛いために突進技のように使うのが良さそうだった。

この段階で遊ぶのがやたら楽しいのは戦略に異様なまでの多様性があることだが、はっきり言ってそれは全体の練度が低いことに由来しているのは言うまでもない。具体的に言えば、一つにはそもそもそれぞれに可能な行動に制約がある(コマンドや昇竜を打てなかったりする)のでありあわせの武器でオリジナル戦略を作るしかないこと、もう一つにはキャラごとの行動の長所短所が把握されていないために攻略されるまでは「攻略されていない」というだけで有効な戦略になることだ。
俺は結構カジュアル勢なのでこれって多分全員のレベルが上がっていくと戦略はいくつかの最適解に収束していってバリエーションが減っていくのが寂しいねみたいなことを思ったが、ひふみによれば幸いにもその段階はかなり先らしい。

 

サイゼミTRPG

最後にクトゥルフ神話TRPGをプレイした。キャラメイキングはスマホでしてあとは口頭で進めるやつだったので写真が残っていない。
GM以外は初体験ということもあり、正直なところセッション自体は大した盛り上がりもなく事件は解決せず真相もよくわからんまま終わってしまった。派生なので当たり前だがマーダーミステリーにかなり似ており、そちらに比べると自由度が高い分だけ参加者の練度の低さがダイレクトに反映された形ではある。現実世界でも適当に物を判断する適当な性格の人間が多かったためにセッション中の選択も適当だったが、ドラマチックなセッションを作るためにはもう少しちゃんと生きた方が良さそうだ。

また、俺は一応趣味で小説を書いているので(リンク集も参照→)、オタク第一世代あたりがよく言う「小説を書きたいならTRPGをやれ」という言説がどれだけ説得力があるのか確かめたいという下心もあった。
正直なところ、俺にとっては小説を書くのにそこまで有効ではない印象だった。TRPGをガチ推ししている大塚英志が「各ジャンルの基本を抑えよう」と言っていたのと同じで「特に書きたいことが決まっていないが何かは書きたい」という人には極めて有益だろうが、俺はそのタイプではない(この話は前にも書いた→)。
とはいえポテンシャルは全然あるというか、何にせよ自由度が高すぎるので熟練すれば色々創作の役に立ちそうな気配はある。例えば完全なキャラクタードリブンでオマケ程度にストーリーを生成するタイプの創作者とか、二次創作でキャラクター設定が共有されている状態とか、とにかく流行っているキャラクター属性から商業的にウケそうな最大公約数的な話を作りたいとか、いずれにしても俺にはあまり縁のない話ではある。

21/5/3 ポインタと確定記述、変数名と固有名のアナロジーについて

C言語ポインタ完全制覇

俺はエンジニアではないのでC言語を使う予定は特にない(最近は非エンジニア向け言語であるところのSQLVBAに詳しくなりつつある)。よってポインタを完全制覇したところで意味は無いのだが、むかし情報系の人間だった頃に意味もなく購入して家に積まれていたので売るために読んだ。
読み物としてかなり面白かった。技術オタク丸出しの解説は立場に一貫性があって地に足が付いており、平易な割に説得力がある。

 

派生としてのポインタ

俺はポインタについて「アドレスに型情報が乗ったもの」くらいの解像度でしか理解していなかったのだが(挙動の理解にはそれで必要十分な気はするが)、そもそも規格書ではポインタ型は以下のような記載で与えられているというのは目から鱗だった。

ポインタ型は、被参照型と呼ぶ関数型、オブジェクト型または不完全型から派生してもよい。ポインタ型は、被参照型の実体を参照するための値を持つオブジェクトを表す。被参照型Tから派生されるポインタ型は"Tへのポインタ"と呼ぶ。被参照型からポインタ型を構成することを"ポインタ型派生"と呼ぶ。派生型を構成する方法は、再帰的に運用できる。

長いので要点だけ切り出すと以下の三点になる。

  1. ポインタ型は被参照型から派生する。
  2. ポインタ型は被参照型の実体を参照するための値を持つオブジェクトを表す。
  3. 派生型を構成する方法は再帰的に運用できる。

この見方がポインタの理解に新しい光を当ててくれるのは、被参照型とポインタ型の関係という観点からポインタを語っていることにある(派生という概念自体が、元になるものと新たに生成されたものの参照関係を前提していることは言うまでもない)。
通常の理解ではポインタとはコンパイラが型情報を付与した「アドレス」のことであって、間接参照演算子でアドレスを手繰って元の変数に到達できるのは、結果的にそうなっているに過ぎない。というのも、このイメージではintなりcharなりが宣言された時点でそれを格納している座標が先にメモリ上にあって、ポインタは論理アドレス空間上を走ってそれを拾ってくる使い走りでしかないからだ。
しかし、ポインタをまずは「派生型」と解釈するならば原因と結果が逆転する。ポインタが元の変数から派生したものであるというのが第一義的機能であるならば、それを変数がメモリ上に占める領域云々の話は間接的にそれを実現する実装の話に過ぎない。実際どれだけ本気かはわからないが、筆者は「たいていの処理系では『ポインタ型の値』は、実際にはメモリのアドレスのことです」と述べてポインタ型の値がアドレスではない実装も不可能ではないことを示唆している。

f:id:saize_lw:20210503224443j:plain

一般的な「アドレスのイメージ」が空間と座標で捉えるポインタだとすれば、上記の規格書に記述されている「派生のイメージ」は関係と指示で捉えるポインタとして対比できる。これらは実際にはポインタ概念の両面ではあろうが、どちらかといえば「派生のイメージ」の方が現実的に取り回しが良いように思われる。
というのも、派生のイメージによって、すなわち指示として理解できるポインタの使い方とは、むしろ極々一般的なポインタの使い方だからだ。複雑なコードの中でリスト構造を作る際に「さてどんな風にメモリが使われているのかしらん」などと思いを馳せながらnextメンバを記述する人はそうそういないだろう。逆に「アドレスのイメージ」の方が理解しやすいポインタの使い方としては、領域破壊じみた裏技の使用やmallocを用いた動的なメモリの確保があるかもしれない。

 

ポインタと変数名

ポインタを「派生のイメージ」で捉えたときに非常に気になってくることが一つある。ポインタが何らかの変数から派生して間接的にその値を指示するためのものだとして、ポインタが生まれる以前から全く同じ機能を持つものが既に存在しているということについてだ。それとはすなわち「変数名」である。

例えば

int a = 5;
int *a_p = &a;

と書いたとき、5という値に到達する手段は二つある。
一つはaのポインタであるa_pから間接参照演算子を用いて「*a_p」と書くことだ。しかしあまりにも当たり前すぎることだが、当然ただ単に「a」と書くことによっても同じものが返ってくる。いずれも同じ値を返すものだとすれば、ポインタと変数名の違いは何なのか。

むろん、技術的に説明するならば答えはあまりにも自明である。一つの答え方としては、「変数名は最初にコードに書くだけのもの、コンパイルされた時点で消えて実行時のバイナリレベルには残らない」というものがある。よって動的なメモリ確保には適さず、実行時点では詳細がわからないサブルーチン内で変数を確保したいときにはいちいち異なる変数名を付けることはできない。だからmallocで確保した領域にポインタを与えて使い終わった時点でfreeとかいう手順を踏むことになるわけだ。

しかし俺が気にしているのは、元変数から派生して値を指示するものとしてポインタを解釈したとき、指示の様態において変数名とポインタが持つ機能がどう異なるのかということだ。このあたりで俺の関心は必ずしも情報科学の話ではないと先に言ってしまった方がいいのかもしれない。
ではそうしよう。変数名やポインタが行う指示を言語における指示とアナロジカルに捉えたときの、それらの振る舞いの違いとは何か?

 

自動生成されるポインタときょうだいの名前

まずは入口として変数名とポインタの違いを「自動生成を受け付けるか否か」という点に求めたい。これが最もわかりやすいのは配列の生成である。例えば5人分の生徒の点数を格納する必要があるとき、初心者は以下のようなコードを書くかもしれない。

int alice_score, alex_score, bob_score, jon_score, kate_score;

これがかなり最悪なコードであることは言うまでも無い。それぞれの変数を独立して与えてしまっているのでforで走査できないし、読みづらいし書きにくいしタイプミスも起こる。普通は以下のように配列を宣言して済ませるだろう(どうしても名前の情報が欲しければ二次元配列か構造体配列にせよ)。

int score[5];

このとき、score[0]~score[4]は一括りに自動生成される。つまり4人目のscoreはわざわざ宣言していないにも関わらず、score[3]によってそれを呼び出せる。score[3]は*(score+3)と同値であるから、結局のところポインタを経由して4人目のscoreに相当する値への指示を自動生成したわけだ。

この配列による自動生成は、戦前の家庭がよく子供の名前を機械的命名していたのと似ている。五人のきょうだいが上から順に一郎、二郎、三郎、四郎……と名付けられていたとき、どう考えても二郎以降は生まれるたびに頭を捻って名前を考えられたわけではないだろう。名前は規則によって自動生成されたものであるから、子供が命名されている現場を見ていなくても、五人子供がいるならば四郎と呼べば対応する子供がいることが最初からわかっている。

逆に、こうではない命名の仕方としては、命名規則を作らずにきょうだいの名前を一人一人考えて付けていくことがある。例えば良太、義男、恒弘……といった具合に名付けられているきょうだいの列がそれだ。こうした場合、子供が命名される現場を見ていなければ子供の名前を呼ぶことができない。一つ一つ変数名を宣言する場合、それぞれを綴りまで追跡しなければならないのと同じだ。

だが、ここからが本題なのだが、少なくとも日本語においては、必ずしもこの二つは明瞭に分かれるわけではない。むしろ一つの名前が持つ二つのアスペクトとして考える方が妥当である。
例えば、いくら一郎、二郎、三郎、四郎……という名前が自動的に生成されるとしても、それは日本語話者にとっては自明というだけだ。一、二、三、四……という漢字の列に関する知識が無ければこの生成は成功しない。この意味において、完全に機械的に生成されているかのように思われた名前には、「漢字」という島国ローカルで予測しがたいオリジナリティが隠れている。厚切りジェイソンにとっては三郎の次が四郎であることは自明ではない。
同様に、良太、義男、恒弘……という名前群もまた、完全に規則から独立して文脈無く与えられているわけでもない。親が名前を考えていたとき見ていたドラマに義男という俳優が出ていたのかもしれないし、親が友人に借金を踏み倒された直後で「子供には義に篤い男になってほしい」という思いが生まれたのかもしれない。要するにその背景には恐らく確実に何らかの社会的文脈があって、命名の現場を見ていなくても、義男という名前を規則的に推測することも不可能ではないのである。

つまり、どんな名前においても社会的文脈に応じて自動生成される側面と、その名前に固有の意図でもって生成される側面があるはずだ。これらはウェイトが異なっており、一郎、二郎、三郎、四郎……列の場合は自動生成される側面の方が強く、良太、義男、恒弘……列の場合は固有の意図で生成される側面の方が強いという表現が妥当だろう。
この二つの対比が、変数の値に対する「ポインタとしての側面」と「変数名としての側面」とパラレルに対応していることは言うまでも無い。ポインタは派生として自動生成され、変数名はプログラマに固有の意図で生成されるからだ。

このアナロジーをついでにmallocにおける領域確保に対応させておこう。mallocした領域に固有の変数名をあてがうことができずポインタを割り振ることは、例えば紛争中の村で生まれた赤ん坊に名前を付ける両親がもう死んでいて、それを拾った治安部隊が応急処置として適当な管理番号を割り当てる場合に似ている。赤ん坊には赤ん坊自身に固有の命名儀式が欠落しているため、社会的ポジションから辛うじて呼び名を得ることしかできないのである。

 

確定記述としてのポインタ、固有名としての変数

ポインタあるいは社会的文脈に応じて自動生成される名前には、その名前自体にその人のポジションに関する情報が含まれており、この意味でその対象を確定する記述、確定記述と言える(二郎という名前には二番目に生まれたという情報が含まれている)。
一方、変数名あるいはそれ自身に特有の意図をもって命名される名前は一度限りのオリジナルで固有のもの、固有名と言える(義男という名前には二番目に生まれたという情報は含まれていない)。
だが、この二つの区別は少なくとも人間の名前においてはスペクトラム上の分配に過ぎず、全ての名前を二分する区別というよりはそれぞれの名前について有りうる二つのアスペクトであるということは既に述べた通りである。大雑把に言って、ポインタ(確定記述)が出生者の社会的文脈を尊重した保守的な呼び名である一方で、変数名(固有名)は先天的な性質に縛られないリベラルな呼び名であるようなイメージを得ておけば十分だ。

情報科学言語哲学のアナロジーがなかなか面白いことになってきた。このままどこまで突き進めるか試してみよう。ここまでポインタは配列絡みについてだけ扱ってきたが、他にメジャーな使い方としては「リスト構造」や「参照渡し」がある。

まずはリスト構造について。ここは技術ブログではないので詳説は省くが、どの入門書にも書いてある典型的な例として、例えば連絡網を管理するためにある家庭を表す構造体を定義し、自身のポインタ型変数としてnextをメンバに含めるあれのことだ。
そしてこれも言うまでもないことだが、リスト構造においてポインタの使用が要請される理由は主に高速化のためである。要素が入れ替わる際、いちいち実体を全てメモリ上でコピーペーストしていると処理に時間がかかってしまう。その点、ポインタならばただ参照先を張り替えるだけで済むため相対的にオーバーヘッドが小さい。
この局面でもポインタを「社会文脈に依存した確定記述」という名前のアスペクトに対応させると、一貫したイメージが得られる。そうした名前の側面とは、要するに現実の複雑さを一定程度捨象した上で既存の文化的流れの中にその名前を乗せようとする営みである。それぞれが個々に異なるオリジナリティを持っているということを無視して、「三番目に生まれたから三郎」「男だから花子ではなく太郎」とか呼んでしまう方が楽なのは当たり前のことだ。いちいちオリジナルな固有名を呼んでいると参照情報が増えて呼び間違えるリスクも増えるので、社会文脈から見た限りでの確定記述として呼んだ方が迅速なのだ。

続いて、参照渡しについて。これも目に穴が開くほど見た典型的な例だが、C言語でswap(a, b)を実装する際にはポインタを経由しなければ実際には値を変更できないという例の話だ。また、C言語は関数一つにつき値を一つしか返せないので、実質的に複数の結果を返したいときに複数のポインタを渡してそこに中身を詰めてもらうという用途で使うこともある。
この話の本質は明らかにC言語が標準で値渡しをするという挙動にある(最初から参照渡しならこんなポインタの使い方はしなくて済むのだし、実際他の言語ではそうなっていることも多い)。ここでもアナロジーを働かせるならば、人間において値渡ししかできないというのは、名前を剥ぎ取ってその人それ自体のコピーを渡すということだ。この局面において固有名による記載は闇に葬られる。というのも、そもそも固有名とはその人の持つ社会的文脈から寸断されて無関係に与えられたものだからだ。固有名は自動生成できず含みを持たないから、それを一度無理矢理剥がしてしまえばもう二度と復旧できない。
しかし、完全に記憶を喪失した人間にも呼び掛ける道はまだ残っている。それは社会的文脈の元へと彼を復帰させることだ。彼自身を見ていても何もわからないとしても、彼が三番目の入院患者であることさえわかれば、それに対応した適当な名前を復活させて看護師の間で流通させられるだろう。つまり、aという名前が剥ぎ取られていたとしても、&aというポジションは未だに機能しているのだ。ポジティブに見れば記憶喪失の人間が何度でも社会へと復帰できるのかもしれないし、ネガティブに見ればいくら自由になりたくても文脈からは拘束されて強制的に引き戻されるのかもしれない。

 

ポインタとしての確定記述、変数名としての固有名

言語哲学的には、名前のポインタ的側面はフレーゲ&ラッセルの名前観、変数名的側面はクリプキの名前観に対応する。
このあたりは説明すると長くなるので興味のある人は過去の記事を読むか(→)自分で調べてもらうとして(→)、このアナロジー言語哲学サイドからスタートしても有効なのかを「同一性」と「必然性」の二点から考察したい(問題設定についても詳説は略する)。

同一性の問題とは要するに「ヘスペラスはフォスフォラスである」という例文をどう解釈するかという話である。

補足377:楠栞桜が引退したので「夜桜たまは楠栞桜である」が使えなくなってしまった。

確定記述として見るならば、ヘスペラスとフォスフォラスは異なる情報を含む異なる名前と見做すことが許される。何故なら、名前とは対応する対象に到達するための情報が記述として刻まれているものであって、ヘスペラスとフォスフォラスは異なる情報を含んでいるからだ。
これはポインタ表現においては異なるポインタが間接参照によって同じ値を指す(同じポインタを格納する)のが許容されることと対応している。例えば、int* p;とint* qを宣言し、pとqに同じアドレスを格納することは全く可能である。というのも、pとqはたまたま同じ値に対応しているだけで、それらはそれぞれに異なる文脈的な経緯でアドレスを保持しているからだ。

一方で、固有名として見るならば、ヘスペラスはフォスフォラスは同じ情報を含む同じ名前である。何故なら、名前とはある対象がそれに与えられている情報とは独立してオリジナルに持つ固有のものであるはずなのに、それが同じ対象を指してしまっている以上は同一の固有性を持つもの、つまり同じものであるからだ。
これは変数名表現において同じ実体を指す名前はあらゆる意味で同じでなければならず、そのために変数名の重複が許容されないことと対応している。int a;とint b;が実は同じ実体であるということは有り得ないのだ。それぞれを一度個別に命名してしまったらそれは絶対に異なるものでなければならず、同じ実体を指すものがあるとすればそれは自分自身しか存在しない。この挙動がポインタと真逆であることは言うまでも無い。

最後に、必然性についても駆け足でさらっておこう。クリプキの直接指示としての固有名においては同じ名前は必然的に同じ対象を指示する。すなわち、状況の異なる可能世界においても固有の同じ対象を指示する。一方、確定記述においては状況の異なる可能世界では当然記述の内容が異なるので、同じ対象を指示できない。
C言語における可能世界は何かと言えば、コードが実行されるごとに異なることができる環境のことだろう。同じコードをコピペして別のマシンで動かすのでもいいし、同じマシンで違う日に動かすのでもいいし、同じマシンで並列に動かすのでもいい。
このとき、変数名(固有名)はどの環境で実行されようが同じ実体を正しく追跡する。というのも、変数名は実体がどのアドレスにどうあるかとは無関係に、宣言された時点でその実体に固有のものとして縛り付けられた形で存在するからだ。ソクラテスが仮にソフィストだろうが羊飼いだろうがどの世界でもソクラテスと呼ばれるのと同様、実行される環境が東大のスパコンだろうが京大のスパコンだろうが変数名は同じものに紐づけられる。
一方で、ポインタ(確定記述)はそうはいかない。アドレス空間の組成は環境によってまちまちであり、違う環境で実行されたポインタが同じアドレスを保有していることはほとんどないからだ。ある系ではpが0xbfffdc37だったのに別の系では0xbfeedc24だったなどということはいくらでも起こるのであって、前者の値をメモしておいてそれを使い回そうなどというコーディング(?)は愚の骨頂どころの騒ぎではない。それはソクラテスソフィストである世界で彼の有様を綿密に絵に描き起こしたとして、そのスケッチはソクラテスが羊飼いである世界では彼を発見するのに全く機能しないのと同じことである。

21/4/29 お題箱回:人狼延長戦

お題箱81

前回お題箱返答回で人狼に触れてからTwitterで色々リプライを貰ったりして完全にこのゲームを理解しました。色々来ている人狼関連の投稿に答えつつ、「我が人狼理解に一点の曇り無し」ということを証明します。

 

273.LWさんが人狼ゲームをどう認識しているのか、多少は理解できているつもりで質問するのですが
そもそも人狼が「各プレイヤーがどんなルールを内面化しているのか?」を互いに読み解き合う(騙り合う)ゲームで(も)ある、という側面についてはどうお考えになるでしょうか?

なまじ、偶発的に似た偏り方をして「ルール(定石ムーブ)」を前提かのように錯覚、共有する集団内でプレーするから「それは幻想だ!」という看破に意識を割かれるのであって、
そもそもが「偶発的に共有できた(かのように見える)ルールを手掛かりに、他プレイヤーの見ている"ルールの像"を読む(そして解釈を誘導する)」ところに力点があるゲームに思えます。
「その点は承知しており、かつそれを好ましいとは思わない」という感じかもしれませんが、何か語ることがあればお聞きしたいです。

少なくとも事実上、人狼が他プレイヤーが持っているルールの像(=無根拠な妄想)を推測するゲームとして営まれていることと、その妄想に寄り添うのが楽しまれていることについては同意します。
ただ一つ大きな異論があるのは、「『各プレイヤーがどんなルールを内面化しているのか?』を互いに読み解きあう」と表現できるほど妄想には多彩なバリエーションがあるわけではないだろうということです。それぞれが多様な妄想を持っているわけではなく、知らんけどどっかにセオリーと偽って書かれている支配的な妄想を皆が共有していて、「支配妄想の保持者」と「それ以外」に分かれているのが実情であるように思われます。
よって、「偶発的に似た偏り方をする」という表現にもあまり同意できません。現実的にも、皆がそれぞれ異なる源泉から異なる妄想を産出してそれがたまたま一致しているわけではなく、支配妄想を保持する方が有利になることに気付いた上で便乗しているはずです。既にある特定の妄想が支配的になっている場においては、それを取り込むのが最も有効であることは理解できます。

人狼における支配妄想を麻雀で喩えると、「三手目に中を捨てたやつは皆で狙い撃ちにするとよい」という妄想が流通している状態に近いです(ルール上は中と白と發は可換なはずなのに、何故か中だけが対象になっているあたりが妄想ポイントです)。
仮にこの妄想が麻雀界隈で支配的になっている場合、それを知らずに三手目に中を捨ててしまう新人プレイヤーはまず勝てないでしょう。何局か戦ってボコボコにされ続けた末に途中で妄想ルールの存在に気付き、自身もその妄想に従うことで負けを防げることを理解します。こうして支配妄想はニューカマーを取り込んで更に拡大し、実質的な追加ルールとして機能していきます。それはそれで戦略性のあるプレイを生み、多少は牌効率を崩してでも中は二手目や四手目に捨てることが勝率を最大化するためのセオリーとなるかもしれません。

ただ、仮に「三手目に中を捨てたやつは皆で狙い撃ちにするとよい」という支配妄想が十分に共有されていたとしてもなおそれが明文ルールと決定的に異なるのは、支配妄想は「ゲーム内のルールを参照している限りは絶対に把握できない」という意味でゲームの外部にある点です。
具体的に言えば、「334の塊からは4を落として刻子を狙うより、3を落として順子を両面待ちする方がツモ上がりしやすい」というセオリーはいつどこで誰と卓を囲んでいても正しいですが、「三手目に中を捨てない方がよい」というセオリーは皆が支配妄想を共有していることによってのみ成り立ちます。どちらも勝率を最大化するセオリーであるとしても、前者は明文ルールから生まれたゲーム内のセオリーである一方、後者は支配妄想から生まれたゲーム外のセオリーです。
よって、支配妄想由来のセオリーに沿わなかったという理由で敗北したとして、それはゲームに負けたことになるのかどうかが微妙なところです。もし麻雀プロリーグとかでトップランカーだけが「三手目に中を捨てたやつは皆で狙い撃ちにする」っていう妄想を共有してて、それを知らない新人は三手目に中を捨てて理由もよくわからないまま負けた場合に「新人は麻雀が下手だった」ということになるのでしょうか。それはゲーム前にどれだけ情報を集めたかを競う就活セミナーのビジネスマナーワークみたいなもので、少なくとも我々が通常ゲームと呼んでいる営みとはかなり異なる営みであるように思われます。

補足375:とはいえ、カードゲームのメタゲーム読みデッキ選択なんかはこの営みに近いので、これを言ってしまうとアグロが流行っているときにミッドレンジを持ち込むのもゲームではないと言わなければいけなくなる恐れがあります。ないかもしれませんが、少なくとも類似ケースではあります。

とはいえ、その支配妄想という名の既得権益が勝敗を決定する排他的で内輪な性質自体が悪辣とか陰湿とかいう攻撃をするつもりはあまりありません(まあ、その気持ちが全くないと言えば嘘になりますが……)。
僕が誤っていたのは人狼を理詰めのゲームだと勘違いしていたというただ一点であり、コミュニケーションワークとして考えるならば楽しむ道も十分に残されているように思います。実際、高校生が自習時間に打つ麻雀で「三手目に中を捨てたやつは皆で狙い撃ちにするとよい」というローカルなノリが自然発生するのはいかにもあり得そうなことですし、それは明文化されたルールではないからこそ場の盛り上がりに大いに貢献するでしょう。

 

274.こんにちは。いつも楽しくブログ拝見させていただいています。
2021/04/18のブログにて人狼の話をされていたと思うのですが、結論に疑問を持ちました。
もっと根本的な話として「人狼は空気を読むゲーム」的な側面があり、それが出来ていない人間を人狼として排除する傾向があると思います。
自分は浅学の身で仔細を言葉にできないのですが、例えば仮に20人で人狼をしていて、みんながAを吊ろうとしている時、その全員が「誰に投票しても影響がないだろう」と考えてランダムに投票した場合、結果は議論の内容とはまったく関係のない方向に転がっていくことになります。そうなってしまっては議論の意味が無く、ゲームは成立しません。ゲームを成立させるために、「議論の結果そう決まった」ことに逆らってはいけないという暗黙のルールが存在すると言えます。それが空気を読むことだからです。
そこでランダムに投票を行う人間はその暗黙のルールを破る≒ゲームをかき乱す存在として認識されるし、それを行って今メリットがある人間は人狼しかいない、というように結論付けられてもおかしくはないと思います。テスト中に大声を出して妨害する奴、みたいな認識を持たれるのではないでしょうか?
以上です。不躾な内容で申し訳ありません。

ありがとうございます。
こちらも基本的に上で書いたことと同じで、人狼が支配妄想の保持を前提としたコミュニケーションワークであるということを仰っているのだと思います。

ここで仰っている「ランダム投票するやつがいるとゲームが成り立たなくなる」として表現されている「ゲーム」というのも、明文化されたルールによるいわゆるゲームではなく、支配妄想で駆動している妄想ワークの方でしょう。というのは、ルールで決まっている範疇ではランダム投票は禁止されていないため、ルールに禁止されていない行為を行うことでゲームが成り立たなくなるということはルールの定義上有り得ないからです。

なお、僕一人しかランダム投票していない段階から「僕に感化された結果、全員がランダム投票を開始する」という事態を警戒するのはかなりの過剰反応であるように思われますが(実際にそれが起こるまでにはあまり現実的ではないステップをいくつもクリアする必要があるでしょう)、彼らが立脚している妄想が寄る辺ないことを認識しているからこそ滑りやすい坂を滑らないように過剰な滑り止めが散布されることも理解できます。

補足376:一般的に言っても、十分な人数が参加する選挙の本質は投票行為それ自体ではなく選挙運動であるため、「実際に僕の投票が結果を変えないこと」より「その異常性がパフォーマンスとして影響力を持ってしまうこと」を警戒するということは筋が通っているように思われます。これは普通の民主主義国家における普通の選挙を想像してもらえればよいのですが、まさか「自分が投票に行くかどうか」が投票結果を左右すると勘違いしている人はいませんよね。僕が次回の都知事選挙に行こうが行くまいが、都知事になる人は変わらないというのは端的に事実です。というのも、(実際の選挙を最大まで単純化して候補二人への多数決とすると)自分の投票が結果を左右するのは、自分以外の投票が綺麗に半分ずつに割れていて自分のプラス一票によってどちらが多数派か変わるという天文学的な確率のケースだけだからです。だからこそ選挙では「投票に行け!」とか「共産党に投票しろ!」とかアジって自分以外の票を操作することこそが重要なのであって、あなたが黙って投票所に行って黙って一票入れる行為には、少なくとも選挙結果から見れば全く何の意味もありません(なお、この補足は僕が自分の持つ一票を超えて投票率を操作しようとするアジテーションではありません)。

ただ、これに関しては「人狼は支配妄想を共有するゲームである」という理解の発展版として、りっぷるがいみじくも「人狼は馬鹿の動員ゲームである」と指摘したことはかなり説得力があります。
つまり人狼ゲームの参加者には、「妄想を妄想と認識している人」と「妄想を妄想と認識していない人」の二種類がおり、前者が後者を騙して動員することが人狼ゲームの本質であるということです。
この括りにおいては、妄想に乗ることを勧めてきている投稿者も、妄想に絶対に乗らない僕も「妄想を妄想と認識している」という点で前者にカテゴライズされます。一方でそれとは別に、そもそも妄想とルールを区別できていない層がおり、この層は支配妄想から導かれる偽のセオリーと、ルールから導かれる真のセオリーも区別できていません。よって、彼らに対して完成度の高い支配妄想を叩き付けることによって、(実際は無根拠であるというシニカルさを経由せずに)迫真の同意を取って投票を有利に運ぶことが可能になります。

そして、そういう扇動者にとっては僕のように意味もなく支配妄想から外れた行動を取る参加者は非常に厄介な存在となります。というのも、僕の行動は絶対に妄想と整合するように位置付けることができないため、動員対象の人が混乱してしまうからです。そうなると動員に失敗して投票を操作できずに不利になってしまいます(人狼を動員ゲームと見る限り、これはゲーム内の事態です)。
だから僕がランダムに投票すると吊られる理由は「本当に人狼だと思われたから」ではなく、「(人狼かどうかとは特に関係ないのだが)動員時のノイズを排除する必要があるから」です。僕を放置できないことについても、「僕を放置していると感化された人が現れて支配妄想が崩壊するかもしれないから」という過剰防衛説よりは、「僕を放置していると支配妄想の説得力が薄れて動員に差し支えるから」という切実に邪魔説の方が納得できます。

 

275.人狼周りの議論を見て思ったんですが、Lwさんってアニメや漫画で言うところの天才キャラっぽい悩みしてません?

最初は「適当に投票していいわけねえだろ~」って言ってた人も僕としばらく問答した末に説得されてしまって「確かによく考えると別にランダムに投票してもいいのかもしれない……」とか言い始めるみたいなことが何度かあって、「ソクラテスかよ」とツッコミされたのはかなりウケました。

21/4/18 お題箱回:プラチナエンド、葬送のフリーレン、人狼etc

・お題箱80

264.ジャンプ+でプラチナエンドが少し読めたけどもどう評価してますか

最近完結したので読みました。ぼちぼち面白かったです。
途中でいきなりジャンルが変わってビックリしました。前半戦の1~8巻と後半戦の9~14巻で全く別の漫画になりますね。

前半戦では「12人の人間が天使から与えられた能力を用いて神の座を奪い合う」という露骨なバトルロワイヤル設定からスタートしてずっと頭脳派バトルをやっていました。前半戦のラスボスであるメトロポリスマンは激烈な差別主義者であると同時に「妹を蘇生させる」というわかりやすい目的を持っており、彼の暴挙を止めるという目的の下でバトルが展開していきます。
しかし8巻でメトロポリスマンが死亡したことにより「神になりたい人」が一人もいなくなり、バトルロワイヤルの前提が崩壊します。あとは残った参加者6人で「世界と我々はどうあるべきか」を冷静に話し合いつつ多数決で神を決めるという会話劇が7巻くらい延々と続くことになります(長!)。

当初は素朴に究極の目的として措定されていた「神」も後半になると疑問に付されることになり、登場人物たちの思索は「そもそも神とは何か?」にまで及びます。ここで言う「神」とは「作中で神と名指されているキャラクター」という設定上の固有名詞の話ではなく、普通名詞としての神です。よって「神は原理的に存在しうるか」「存在論的に循環しない神の定義は可能か」といった思弁的な議論が展開します。
バトル的な意味でエキサイティングな悪党がラスボスだった前半戦とは打って変わって、後半戦では象牙の塔に住んでいる無神論者の大学教授がラスボスになります(思弁的な意味でエキサイティングな悪党)。これもうエンタメやる気一切ないだろと思いつつ、僕はそういう話が好きなのでまあまあ面白く読んでいました。

この話って明確に『DEATH NOTE』の裏面でもあって、基本設定の類似度合いはセルフパロディの域に達しています。人間に憑くのが死神から天使になって、人を殺せるノートが人を殺せる矢になって、神を目指した月の意志は神争奪として残っている。神になりたいメトロポリスマンの選民思想も明らかに夜神月を引き摺っており、前半戦は月を葬る話として読むのが妥当でしょう。

だというのに、既に書いたようにメトロポリスマン以外はさっぱり神になる気が無く、後半戦ではほとんど神の押し付け合いという様相すら呈してきます。

f:id:saize_lw:20210418095605j:plain

主人公も夜神月とは正反対に「自分は幸せになりたいし皆にも幸せでいてほしい」というナイーブな最大幸福思想があるのですが、その末路は月と同じです。つまり、彼の優しい思想もまた厳しい現実に直面して挫折していく物語でもあります。
というのも「殺人によってのみ幸福になれる人」が登場し、その幸福の実現に間接的に加担したことによって、幸福が両立できないこと、人によって幸福の形は異なるので全員が幸福にはなれないという当たり前の事実を知るからです。最終的には最大幸福を諦め、かつ、「皆に幸せになってほしい」という願いすら自分一人のローカルな幸福の条件でしかないことを認め、独断の境地に達します。

補足374:これは『仮面ライダー龍騎』で城戸真司が歩んだ過程とほぼ一致しています。

とはいえ、それって言ってしまえば開き直りであって、大義が無い分だけ夜神月より更に性質が悪いです。メトロポリスマンを殺したことによって夜神月を葬って民主主義が到来したように見えて、結局のところより悪い形で主人公がその座に返り咲くという極めて悲観的な末路があります。

 

265.功利主義についてですが、短期的な視点で観察した時に起きる一定の失敗(≒大きな犠牲)を長期的な視点で観察した時の小さな犠牲としてみなし許容することを前提とすれば理想に近い運用ができると思うのですが、どうでしょうか?

功利主義の枠内で見れば概ね正しいと思います。
強いて言えば、運用を開始した時点では「短期的な犠牲」も「長期的なリターン」もまだ起こっていないことの期待値に過ぎないので、その精度と説得力をどの程度確保できるのかという問題があるくらいです(実際にはそれが最大のボトルネックであることも少なくありません)。

また、功利主義の枠外から見れば、短期的であるとしても犠牲を引き受ける人々の反発をどう処理するのかという問題もあります。最大多数の最大幸福しか勘定していないプリミティブな功利主義は結果的に莫大な格差を許容するので、その折り合いをどう付けるのかという疑問は功利主義に対する典型的な批判の一つです。

補足375:この格差は典型的には階級格差ですが、時間格差も十分に含まれます。つまり、例えば現在は損をして未来に得をする場合、そんなに長生きできない高齢者や、そもそも未来を重視しない刹那主義者の幸福は明確に奪われるということです。

いずれにせよ、功利主義というのはそれ単独ではかなりアバウトな第一次近似にしかならない指針であって、結局どうすればいいのかについては功利主義とは直接は関係のない信条を混入させた二次的な規則を作らざるを得ず、そう簡単には運用には移せないという印象があります。
功利主義者の間でも父権主義と自由主義で割れたりするくらいですし、最も原始的な行為功利主義から現実的な運用を見越した規則功利主義になった途端に説得力が薄れてくることにも、やはり理念と実践の間に超え難い壁の存在があるように思われます。

 

266.「葬送のフリーレン」読みました?

f:id:saize_lw:20210418112926j:plain

欲しいものリストから送っていただいたので読みました。ありがとうございます。
かなり面白かったです。フリーレンちゃんがダウナー最強系女性主人公で萌えでした。

「勇者パーティーが世界を救ったあとのエピローグ」というユニークな設定(と言いつつ多分探せば他にも結構ありそうな設定)は魅力的ではありつつも、「本当に全てが解決したエピローグだと面白くないので、ドラマを語れる程度には現在進行形のイベントを残しておこう」という作劇上の意志は感じました。

というのも、「葬送」というワードはフリーレンの二つ名である以上に「死んでしまった勇者パーティーを葬送する旅」を示してもいるわけですが、しかし言うほど世界が穏やかになっているわけでもないですよね。なんか普通に魔族の生き残りとバチバチのバトル展開になりますし、旅の行程上ではハンター試験みたいなものに参加する羽目にもなります。フリーレンが新しくパーティーを作っているのも、別に過去に執着しているからではなく、もっと前向きな次世代の育成という側面の方が強いです。少なくとも現状、タイトルで「葬送」と言っているほど後ろ向きな旅でもないということです。

そういう局面で「フリーレンが過去に一度世界を救っている」というエピローグ要素が活かされるのは、「フリーレンの持つ情報量が卓越している」という点です。彼女は一度経験しているために大抵の事情や技を既に把握しており、彼女自身の技量もあって割と余裕をもって事態に対処できます。
そのあたり、何となく異世界転生無双作品の変奏であるような趣きもあります。フリーレンが行く先行く先でもう知識があって「これがあのときのアレかあ」みたいなリアクションするやつ、なんか異世界転生主人公が「これがゲームでよくある〇〇ってやつかあ」みたいなリアクションするやつと若干似てません? 過去という経験も優越性を担保する一つの異世界であるというか。

とはいえ魔王については過去に討伐している以上、少なくとも過去と同じではいられないはずです。
復活しているのか死んでいるのか継いでいるのかはわかりませんが、まあ旅の目的地が魔王城でもあるあたり、そこに辿り着こうとするあたりで何か物語が大きく動くのでしょう。続きを楽しみにしています。

 

267.男子校はまだわかるんですがオタクコミュニティって所有の対象が2次元から3次元になっただけみたいなとこありません?

これは多分僕が「男子校やオタクのコミュニティって女性に対しては斥力が働くので、むしろ女性の所有による連帯を基本とする原義のホモソーシャルとは異なる」と言ったことに対するものですね。たしかにカスのオタクには三次元女性を所有する能力は無いが、代用品として二次元女性を所有しているのであって、その意味では原義のホモソーシャルの亜種に過ぎないのではないかという文脈でしょう。

そうであるとも言えるし、そうでないとも言えます。それは恐らく結論が出ませんが、とりあえずそうである要素とそうでない要素を書いておきます。

三次元女性の代わりに二次元女性を所有していると言える要素としては、なんと言っても女性ユニットを入手するタイプのソーシャルゲームの隆盛があります。ガチャで見られる「所有までにかなりの金銭が必要になる」「所有したことはSNSで共有する」「所有している女性の活躍を逐一報告する」という身振りは原義のホモソーシャルでマッチョ男性が行う動きそのものです。もっと言えば、ソーシャルゲームという新しいメディアがオタクにここまで適合的だった理由として、かつてはグッズやポスターが賄っていた「キャラを所有する」という身振りをデジタル化して原型を抽出できたからだ……という印象は拭い難くあります。

ただその一方で、二次元女性キャラクターはどこまでいっても無機物です。まさか「オタクがガチャで引いたカレンチャンのスクショを喜々としてTwitterに貼っている」という事態を、「オタクが彼女を作って匂わせ会食写真を喜々としてTwitterに貼っている」という事態と全く同一視するのは、いくら何でも喩えが行き過ぎているでしょう。
というのも、原義のホモソーシャル的な所有が権力と暴力という能力を示すのは、相手方の女性が意志を持つ主体であるという前提の下、その主体性の一部を剥奪する権利を持っていることによるはずだからです。あえて古典的な言い方をすればカレンチャンはもともとオタクが引いて喜ぶために描かれた「絵」であって、ゲーム内にいるカレンチャンに対して主体的権利の剥奪を行うことは無限に譲歩してもなお有り得ません。

むろん、「オタクはその豊かな想像力によりカレンチャンの主体性を前提できるのであり、少なくともオタク共同体の中では剥奪は機能している」とか「結果的に実現している営みが大きく乖離するとしても、根本にあるモチベーションは同一である(オナニーを性行為の代替とみなせるのと同じ)」のように食い下がることはいくらでも可能です。
個人的には、この話を進めるにあたっては(疑似)女性の扱いを見るのと同じくらい男性の連帯の方を見るのも有効ではないかとも思っています。それもコミュニティと語り手依存なので何かがスッキリ解決することは無いでしょうが……

 

268.見知らぬおじさんからリプ来た時に好青年っぽくなるの草

いつでも好青年です。

 

269.子供とかお持ちになられないんですか

これ聞く意味あります?

 

270.効率主義者な割にノート手書きなの何でなんですか(PCとかスマホで打った方が早くない?)

それ実はかなりあります。
僕はタイピングがまあまあ早い方なので、ノートよりPCのキーボードの方が数倍早いです。ノートに勝る点があるとすれば物理的なフェチズムを満たしてくれる点と図を書きやすい点くらいで、その二つが決して小さくないので現状はまだノートを使っているという感じです。

 

271.lwさんが理解した人狼の基本について教えて欲しい。

272.人狼論について語ってほしい

人狼で僕が理解したこととこれから理解しないといけないことは本当に無数にあって、その中のほんの一つに過ぎないのですが、この前超えた大きなブレイクスルーとしては「適当に投票をしてはいけない」と理解したことがあります。

例えば、初手からローラーをやっていて全会一致で「Aさんに投票しましょう」ということが決まっていて、Aさんも「俺は市民だけどこの流れなら仕方ないな」とか言って消化試合の投票をするとき、僕はだいたいAさんには投票せずに誰か他の人を指さします(代わりに指す相手を仮にBさんとします)。この行動には誰の役職も全く関係なくて、僕が人狼でも市民でもやりますし、Aさんが人狼でも市民でもやりますし、Bさんが人狼でも市民でもやります。
皆には「お前なんでそういうことするの?」って言われるんですけど、僕にとってはそれは全く頭を使わずに当たり前にやることで、逆になんでそんなに皆が引っかかるのかずっとわかりませんでした。皆は俺が何でそれをやるのかわからないし、俺は皆は何がわからないのかわからない泥沼で、「LWの人狼が終わってる問題」の未解決事項として長らく積まれていました。

僕がBさんを指すのは、僕がAさんに投票してもBさんに投票してもどうせAさんが吊られるに決まっているからです。現実的に考えて、僕の適当投票が全体の結果を左右することは有り得ません(ちなみに残り人数が3人とかで明らかに僕の行動が結果に影響を及ぼす場合は普通に投票します。今はまだ10人以上残っている状態を想定してください)。
「市民だったらそれをする理由が無い」というのは反論としては成立していません。人狼でもそれをする理由がないからです。人狼が「市民も巻き込んで奇跡が起きればワンチャン噛めるかもしれない」という砂粒ほどの可能性に賭けて莫大なリスクを背負って決死の行動をするというのは現実的に考えて有り得ず、僕の行動によって僕が市民か人狼か判明することはありません。実際、僕は市民だろうが人狼だろうがやるのでなおさらです。
また、「勝ちを目指していない行動だから良くない」という反論も謎です。僕の投票によって投票結果が変わらず、かつ、何も判明しないのであれば、それは勝ちにも負けにも関与しません。その類の行動は無数にあり、例えば「ゲーム中に右足を上に組んで座るか左足を上に組んで座るか」がその一つです。「Aさんのローラーが決まっているときにAさんに投票するかBさんに投票するか」は僕にとって足の組み方と同じなので、気分で適当に投票するというだけです。

しかしこの前、三時間以上かけて「自分から見た他者の自分への評価」と「実際の他者の自分への評価」が一致していない可能性があるので良くないということを教えてもらって、なるほどそういうことだったのか!とようやく理解しました。
というのも、例えば僕が幼稚園児で初めて人狼をプレイするとすれば、僕が適当に投票することは明確に僕を人狼とする理由になります。何故なら、まだルールがよくわかっていないので「よくわからないけど今吊りたい人を指すと吊れるゲームなのか」と思ってBさんを指さしている可能性が客観的に見ても十分にあるからです。僕が人狼というゲームを「殺したい人を指さすゲームである」と誤解している想定を加えるならば、たしかに僕がローラー作戦に逆らってBさんを指さすことは僕が人狼であることを支持する有力な根拠になるということです。
つまり、僕は「まさか俺はそんなに馬鹿だと思われていないだろう(俺は賢いので)」と無意識に思って適当に投票するのですが、他の人は僕のことを「こいつ幼稚園児並みに馬鹿な上に人狼じゃね?」と考える可能性はあって、だから適当に投票してはいけないということです。

僕は普段から「自分が他人から見てどういうポジションにいるか」を把握する自己マネジメント能力が完全に欠落しているというのは親しい友人たちからよく指摘されるところであり、その欠陥が人狼というゲームを通じて発露しているというのが真相のように思われます。
僕にとって他者認識のスタート地点は「私はあなたではない」であって、情操教育の根幹を成す「私とあなたは同じ人間である」という発想を何か根本的な部分で本当に理解していないようです。「自分と他人は異なるクラスの存在者である」というのは僕にとっては1+1=2と同じくらい当たり前の話なので、僕は他人と同じ行動を取らないことが当たり前だし、他人が自分をどう見積もっているかも把握できません。人狼という枠組みが決められた二次的なコミュニケーションゲームの中では、僕が普段わからないなりに何となく人まねをして補っている部分(えらい!)が完全に崩壊し、根本的に終わっている欠陥が露出するみたいな感じだと思います。

あと人狼についてはまだまだわからないことがいくらでもあるのでわかったら書きます。ちなみに次に理解したいと思っている問題は「議論中に何か喋ることと何も喋らないことは何が違うのか」です。

21/4/11 2021年2月消費コンテンツ

2021年2月消費コンテンツ

note.com

なんか消費コンテンツの輪が広がってました。2021年1~3月まで更新されていたので読みましたが、言われてみればそうだなと感心する解釈が多くて面白かったです。
2月号で言及している「邪神ちゃんで本当に召喚されているのはゆりねの方で、世界が反転したゼロ魔ではないか」みたいな話とか、3月号の「(一見したときの過酷さとは異なり、実は他の無双系異世界転生と同じように)リゼロもアスペルガーのスバルが元の世界よりは順応しやすい世界に召喚される話なのでは」みたいな話は確かに~と思いました。オススメです。

メディア別リスト

映画(6本)

ハッピーエンド
メランコリア
天使にラブソングを…
2010年
レオン
ハンガーゲーム

アニメ(6話)

ぶらどらぶ前半(1~6話)

書籍(2冊)

はじめてのウィトゲンシュタイン
宗教学の名著30

漫画(48冊)

約束のネバーランド(1~20巻)
フラジャイル(16~19巻)
お別れホスピタル(1~4巻)
薬師のひとりごと(1~4巻)
青のオーケストラ(1~6巻)
聖お兄さん(1~10巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

2010年
ハッピーエンド
約束のネバーランド
フラジャイル

消費して損はなかったコンテンツ

メランコリア
宗教学の名著30
薬師のひとりごと
天使にラブソングを…
はじめてのウィトゲンシュタイン

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

ぶらどらぶ前半
聖お兄さん
青のオーケストラ
お別れホスピタル

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

ハンガーゲーム
レオン

ピックアップ

ハッピーエンド

ハッピーエンド [Blu-ray]

ハッピーエンド [Blu-ray]

  • 発売日: 2018/08/03
  • メディア: Blu-ray
 

ミヒャエル・ハネケの最新作(2018年だが)。見た直後は面白くなかったのに後から思い出すと面白かった気がしてくる、本当に記憶に残る作品はそういうところがある。
タイトルこそ『ハッピーエンド』だが同監督の名作『ファニーゲーム』が一家が殺戮される映画だったのと同様、最初から最後までハッピーな要素は特にない。独特のぼんやりした嫌らしさも健在で、家族の中にそれぞれ隠し事や噛み合わないものがあり原因もよくわからないままそれぞれちょっと噛み合わない。それは決して華やかに解決しないどころか破局を迎えることすらなく、家族間の不協和音が上滑りしていくだけ。

もともと俺はそういう漠然とした不安感を扱う作品がかなり好きだが、特に現代らしくSNSのモチーフが見事に組み合わされている。確かにSNSにも「物語がきっちり終わらない」という悪辣な性質がある。
例えば人生の大問題について何か非常に重要な幕引きをツイートしたとしても、それがツイートである限りはすぐにプリキュア実況やウマ娘のスクショやよくわからんプロモーションに押し流されてしまう。締め切った部屋の一室であれば停留して固着したかもしれない言葉はTwitterでは霧のように拡散するだけだ。ネットに投げ出された物語は常に開放系、文脈の嵐の渦中にあって、終わりの線をきっちり引くことは誰にもできない。

特にラストシーンが非常に良かった。妻を殺した過去を告白した老人が車椅子を海に向かって進めていくが、しかし入水自殺という華やかな終わりは決して成功しない。黙って見送ればいいものを、気付いた家族が止めに入ってしまい、それを捉えているのは孫のスマートフォンだ。自殺すらピシっと決まらないグダグダ感だけがカメラロールに残り、それも結局適当にSNSにアップされて押し流されていくのだろう。

 

メランコリア

メランコリア

メランコリア

  • メディア: Prime Video
 

全体的に冗長だったがぼちぼち面白かった。開幕のシーンがあまりにも良すぎたのが唯一最大の失敗で、ラストシーンですらも開幕を超えていないため、優れたPVと残り膨大な蛇足という趣がある。

鬱病に陥った主人公の元に何故か全てを破壊する惑星メランコリアが衝突して地球が滅ぶ、『ザ・ワールド・イズ・マイン』の鬱病バージョンみたいな感じ。
今まさに地球が滅ぼうというときであっても鬱病の者だけは最初から未来を悲観しているので絶望することもない。健常者が取り乱す一方で鬱病患者は淡々と終わりに向けた準備を進める。とはいえ、鬱病患者は『インデペンデンス・デイ』の主人公ではない。迫る滅びへの解決策を提示できるわけもなく、終わりは回避できない。気休めの結界を作って穏やかに死を迎えるのみ、それがメランコリストの勝利である。

 

2010年

2010年 [Blu-ray]

2010年 [Blu-ray]

  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: Blu-ray
 

映画としてはそんなに面白くないけどかなり良くてガチで泣きながら見た。

前作『2001年宇宙の旅』で暴走したあのHALが遂に救済されたのが本当に良かった。
今作ではHALが前作主人公の位置におり、作中時間では9年越しに前作での暴走の真相が明らかにされる。前作でHALがバグった原因は、出発前に秘密の計画をインプットされたことにあった。誠実でいなければならないはずのクルーに対して秘密を抱えなければならない矛盾にHALの論理回路は耐えられなかったのだ。
今作のミッションでは地球に戻るためにHALを犠牲にせざるを得なくなり、博士はHALに対して計画を秘密にしたまま犠牲にするか、それとも真実を告げた上で犠牲にするかの二者択一を迫られる。悩んだ末に後者を選んだ博士に対し、HALが「真実をありがとう」と告げて死を受け入れるところでマジで泣いてしまった。AIが求める倫理が、自身の存亡よりも正確な真理値という意味での誠実さにあることには説得力がある。
2001年宇宙の旅』から立て続けに見ていたら予定調和感があってあまり感動しなかった気がするが、幸いにも『2001年宇宙の旅』を見たのがかなり前だったのが良かった。実時間を置いたという経験は強い。あまり認めたくはないが、『シンエヴァ』と同じでコンテンツ消費には時機というものがある。

また、本当の前作主人公であるところのスターチャイルド(元艦長)が肉体時間を超越した存在としてちょろっと登場するのも良かった。今作でも結局スターチャイルドの目的は何だったのかはっきり明かされることがなく、モノリスも同じく特に何も解決しない。「人類は漠然と進化を促されているが、進化後の世界は進化前の人類が簡単に理解できるようなものではない」というSF的理解できなさはそのまま温存されている。

もともと『2001年宇宙の旅』が観念的な内容の名作だったので駄作を覚悟していたのだが、想定外に良かった。
とはいえ、今作から導入された安直な米ソ対立のモチーフと安直な平和的解決は大して面白くなかった。前作へのリスペクトは充実していて前作ファンは満足できるがこれ単体で見るとあまり面白くない作品、『ドラッグオンドラグーン2』みたいな感じ。

 

ハンガーゲーム

ハンガーゲーム (吹替版)

ハンガーゲーム (吹替版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

二ヶ月前に見た超B級映画『アーチャー』が勝手に名前を挙げて寄生していたので(→)一応見たが、正直なところこれも『アーチャー』と大して変わらないレベルの駄作だったように思えてならない。

「国中の地域から学生24人が集められ1人しか生き残れないバトルロワイヤルが開かれる」という基本設定は使い古された陳腐なものでありつつも、それに並走する「スポンサー制」というオプションは独特で非常に面白い。
このバトルロワイヤルはアンダーグラウンドの賭け事ではなく、国が主催する見世物イベントとして催されている。よってイベントを大いに盛り上げるため、参加者には本戦開始前にサバイバル訓練を受ける機会や、スポンサーや国民に対して人気をアピールする機会が与えられている。人気になればなるほどスポンサーから支援物資が届いたりして殺し合いが有利になるため、単なる身体的強さだけではなく人気取りが勝敗を左右する。殺し合いに臨む少年少女は自身の人間的魅力をアピールするトークショーやエキシビジョンまでこなすことになり、バトルロワイヤルに参加したバックグラウンドやプライベートな恋人関係などをアピールして戦いをドラマチックに脚色することが戦いを勝ち抜く秘訣である。
この「バトルロワイヤル×スポンサー事業」というモチーフは実に興味深い。この個人の自己マネジメントが全盛を迎えたSNS時代において、一見するとフィジカルで全てが決まりそうな殺し合いですら人気取りが深く介入するという発想には説得力がある。バトルロワイヤルの正統なアップデートとして、高見広春バトル・ロワイアル』もいま続編が書かれたらきっとこんな内容になっていただろうと思わせる秀逸なオプション設定だ。

だが、この優れたモチーフはほぼほぼ不発に終わったと言わざるを得ない。バトルロワイヤル開始前に人気の取り合いに力を入れて描写した割には、本戦ではそれが活かされることはほとんどなかった。
バトル本体は主人公パーティーと徒党を組んだ連中がちょっとした機転を活かして戦うだけの前時代的なものでしかなかった。あれだけスポンサーからの人気を強調していた割には、それが活かされたのは御都合展開のために途中で救援物資が差し入れされたくらいのものだ。人気に鑑みてバトルロワイヤルが面白くなりそうな方向に主催者が介入してくるシーンも良かったが、設定のポテンシャルの高さに比べれば、プリミティブなバトルロワイヤルでも普通にありそうな些末な描写に留まっていたという感は否めない。

こんなに面白そうな設定からこんなにつまらない映画を作れるのか……という勉強にはなった。続編もあるらしいので、そっちも気が向いたら見る。

 

ぶらどらぶ

f:id:saize_lw:20210406210331j:plain

すみません、このアニメ面白いですか?
なんかジジイのオタクが「ノリが懐かしいw」「シリアスじゃない押井守ってこういう感じだよなw」とか言ってるけど「面白い」って言ってみろよ、オイ!……と思って「ぶらどらぶ 面白い」でTwitterで検索すると本当に面白いと言っている人もいるのでわからないものだ。

アニメージュのインタビュー記事がぼちぼち面白かった。

animageplus.jp

押井 でも、出す気はまったくなかったので(キッパリと)。僕にしては珍しく女の子はいっぱい出しているけど、男はケダモノみたいな空手部の男子生徒が4人と、オッサンだけ。これは最初から決めてたから。

――何なんですか、その固い意志は。

押井 だって(美少年に)興味がないんだもの。こっちはいたってノーマルな男性で、実写の時だって可能な限り女性の頭数を増やそうと企むんだから。

この美少女は増やし得という発想は好感度が高い。「実写の時だって~」にはあんま思い当たる節無いけど、ひょっとして『東京無国籍少女』とかのことですかね……?
「血祭先生はさすがに古いかも」みたいなこと言ってるけど他の全員ももれなく十五年くらい古い(ただし主人公だけがかなり今風のやり方で女の子が女の子に萌える行為を自明に内面化していて、一人だけ違う文化圏から紛れ込んでいるようなアナクロな異物感がある)。

押井 改めて考えて思ったのは、要するに人間ならざる者、異文化ということ。人間そっくりなんだけど生態系と価値観が違う者を描くっていうことは、要するに人間の物語になるんです。価値観の相違を巡って血を流す、というのはあらゆるドラマに通底するものだからね。僕好みの非日常な舞台で、しかもとんがったキャラでそれを実現するとしたら、吸血鬼かサイボーグのどちらかですよ。これぞ身体性の両極ですから。で、サイボーグはもうさんざんやったから。

マイの異常性がサイボーグと同根であることは俺が察知した通りで、答え合わせに緊急オタクスマイルが発動した。

『ぶらどらぶ』全体を貫く、結局のところ何がしたいのかわからない、恐らく意図的な一貫性の欠如はヒロインであるマイに集中している。マイは基本的にはお嬢様らしくおっとりしているのかと思いきや、いきなり怒鳴りつけたり罵倒し始めたり性格が全く安定しない。素面の状態でもそんな有様なのに、「血を飲んだ相手の性格が上書きされる」という設定のせいで更にキャラクターは迷走する一方だ。
そういうあまりにも空虚なマイという人格の在り方は、『攻殻機動隊』を筆頭にして散々語られてきた肉体に紐づいた人格の寄る辺なさとパラレルである。サイバーパンクにおいて記憶や思想がゴーストとして着脱可能なパッケージと化した事態は、萌えの文脈から言えば、萌え要素たる言動や行動が生命の素である血液を仲介して次々に切り替わる事態として現れるわけだ。

 

約束のネバーランド

完結したので一巻から再読。ゴールディ・ポンド編くらいまではかなり面白かった。

主人公たちが直面しているのは偏見や差別ではなく、もっとプリミティブで解決し難い圧倒的な生の問題である。政治ではなく生存の問題であるからこそ、農園脱出編ではイサベラやクローネですらも死が迫って来れば翻意することは吝かではないのだが、しかし政治ではなく生存の問題であるが故に、彼女らが寝返ったところで大局を変えることはできない。ゴールディ・ポンド編でもレウウィス大公やソンジュの優れたキャラクター造形が状況の詰みっぷりをよく表わしている。彼らの敵性は決して悪意ではなく、人間への敬意と殺意が両立する。自然的な闘争本能や食物連鎖に由来しているが故に、和解という選択肢があり得ない(最初から敵対していないから!)。

こうした無人格的なシステムを敵とするモチーフは進撃の巨人(初期)や鬼滅の刃とも共通しており、これもまた時代を背負って立つ漫画か……と感心しながら読んでいた。しかし、この問題は明らかに二方向へと軸をズラして解体されていく。一方では政治的な問題への退却へ、もう一方では形而上学的な問題への過剰な発展へ。

第一に、政治的な問題への退却について。ノーマンが暗躍し始めたあたりから、明らかに人間の問題は鬼の問題へとスライドしていく。それは生存の問題から政治の問題へのスライドでもある、というのも、搾取されている側にとっては生きるか死ぬかの問題も、搾取している側にとっては利権を巡るパワーゲームだからだ(例えば奴隷船の劣悪な環境で死んでいく奴隷たちについて、黒人奴隷の目線から見れば生きるか死ぬかだが、奴隷商人の白人目線で見れば在庫管理に過ぎない)。
それ自体は問題を様々な側面から豊かに描くものとして歓迎できるが、政治闘争というモチーフを通して本来は独立しているはずの生存にかかる問題がなし崩し的に修正されたことは歓迎できない。主人公たちの問題系でソンジュかレウウィス大公がラスボスであることと、鬼たちの問題系で女王がラスボスであることは全く別の問題であるはずだ。

第二に、形而上学的な問題への過剰な発展について。序盤からのキーワード「七つの壁」がカントのいう時空の形式だったというオチは結構ウケたが、その哲学的な問答が当初の問題に貢献したとはあまり思えない。約束を結び直す、すなわち世界の根本的な法則を変更するという方向性自体は、(ファンタジックではあるが)自然法則に匹敵する無人格的なシステムを構成し直すという意味では一つの有効なソリューションであるようにも思われる。しかし、その際には当然それが都合の良い逃げではなく説得力を持たせるための仕掛けが必要になるはずで、その理由付けに成功していたとは言い難い。

両方向のいずれにせよ、「邪血の少女・ムジカ」というちゃぶ台返しデウス・エクス・マキナに全てを託してしまったのが敗因だったように思われる。「鬼は人間を食わなければならない」という最も根幹にある設定を無かったことにできるムジカの血は到底容認できないタイプの奇跡である。最初期から伏線が張られていたあたり収拾がつかなくなって後出しされたのではなく一貫した想定の元に提出されていたことはわかるが、それはムジカの存在に説得力を与えるものではない。

ただし唯一かなり優れていた点として、「二つの世界を完全にパージして行き来不能にする」という結論がある。殲滅と和解の中間にある完全相互不干渉という選択。政治力学ではなく無人格的に自然発生している問題の詰みっぷりから言って和解は有り得ず、かといって悪意が介在していないが故に敵として殲滅するのも気が進まない、だったらもう相互不干渉として完全に世界を切断するしかないという結論は、当初の問題設定に対して誠実だ(ムジカの血よりも)。
現実には世界に完全な線を引くことなど出来ずに更なる軋轢を生むに決まっているわけだが、そこは実現不可能であるが故に却って漫画的な想像力による優れたソリューションと言い繕えばよろしい。

 

聖おにいさん(1~10巻)

聖☆おにいさん(1) (モーニングコミックス)
 

遠い昔に読んだ気がするので再読ではある。

最初期には皆が知っているキリストとブッダのネタを知っている前提で擦りまくる話だったが、日本人が共有している宗教ネタの数などたかが知れていて枯渇も早く、三巻くらいから天界・仏界関係者が増え始めると共に宗教ネタから独立したキャラクターのコメディ要素が混ざり始める。
要するに宗教漫画からキャラクター漫画へのシフトが段階的に進んでいくわけだ。例えば比較的マイナーな仏界関係者の宗教ネタについては、(宗教がバックグラウンドにあることをうっすら察しつつも)「宗教ネタ」というよりはそのキャラクター固有の持ちネタとして読む人の方が多いのではなかろうか。

この「当初は歴史上のイエスその人であったはずのキャラクターが次第に独立した漫画キャラクターに漸近してくる現象」、もう少し一般的に言えば「一般的な寓意から出立した漫画が後からオリジナルなキャラクターの漫画になる」という現象は枚挙に暇がない。二次創作としてのパロディ漫画が一次創作としてのキャラクター漫画に転じるという逆向きの相転移、それは元々は何かの寓意であったはずのキャラクターが自律した魅力を獲得してもはや寓意に縛られなくなる事態でもある。

これはTwitter漫画やTwitterオリキャラ(うちの子)にありがちな光景でもあり、例えばらむちが投稿するメイドちゃんにはその変動の痕跡がリアルタイムに見て取れる。

最初(2020年初頭頃?)は主人公的な存在に奉仕するメイドキャラとして生まれ、メイド服を着てメイド的な営み(主人の求めに応じてパンツを見せたりすること)をこなしていた「メイドちゃん」であるが、2020年末頃から「オフの日」という名目でメイド服を着ないことが増えてくる。

このあたりからメイドちゃんは「面倒見の良い幼馴染」くらいのキャラクターに移行し、初見では彼女が何故メイドちゃんなのか理解することは難しい。

更に最近では友達と温泉に行く様子が描写されるようになり、メイド要素は「わりとしっかりものらしい」という振る舞いに痕跡を残すのみとなる。

このツイートはメイドちゃんがメイドで無くなる過程を念頭に置いたものだが、同じことはらむちのメイドちゃんに限らず漫画のキャラクター全般についてかなり一般的に言えるように思われる。ルフィだって最初は「夢見る陽気な少年の寓意」がどこかで「ルフィという個人」になったタイミングがあり、そこが真にキャラクターというものが発生する瞬間ではなかろうか。

聖おにいさんはその格好の題材でもある。当初出立している現実への寓意の立脚点が人類史上で最も有名なナザレのイエスであり、擬人化ですらなく本人という体裁を取っていたはずが、それでも彼が「ひょうきんで優しいジョニーデップ似の男性キャラクター」へと変質する瞬間は意外と早く訪れるものだ。

21/4/2 お題箱回:エヴァンゲリオン延長戦

お題箱79

前回の記事でシンエヴァエヴァンゲリオンにケリがついたので、無限に溜まっていたエヴァ関連の投稿を処理します。 

saize-lw.hatenablog.com

 

253.シン・エヴァンゲリオンの記事お願いします!

書きました!

 

254.エヴァ新劇って今からでも見る必要ありますか?

見る必要あります。
シンエヴァを見るまでは「僕は旧劇信者なのでどっちでもいいです」みたいな感じでしたが、今やもう見ないという選択肢はありません。

 

255.エヴァ劇場版観に行きますか?

見に行きました。
周りには「そんな気になるものでもないけど一応見に行くか」みたいなこと言ってましたが、よく思い返してみればエヴァ見に行く前日に十五年ぶりくらいに髪をバッサリ切って気合入れてました。

 

256.LWさん的に貞本版ってどんな扱い⁉︎

他の映像版よりも登場人物がまともだし世界も優しい、比較的まともなロボットものとしてのエヴァンゲリオンという印象があります。
特にアスカが鳥葬される前にシンジが間に合うのはさすがに椅子から転げ落ちてしまいました。「そこでシンジが間に合ったらもうエヴァンゲリオンじゃなくない?」というコメントが喉から出てきます。

f:id:saize_lw:20210327225859j:plain

テレビシリーズと旧劇がグズグズに破綻して何も解決しなかった一方、新劇と貞本版は一応の決着を付けているという意味では大雑把な方向性は似ているようにも思います。そういう意味では新劇と貞本版を比較したようなテキストっていかにも誰かが書いていそうですが、まだ見た記憶がありません。
そういえば貞本版もなんかラストが新海誠っぽかったですよね。ぽかったっていうか、『君の名は』に同じシーンありましたよね。

 

257.これから初めてエヴァを観ようと思ってるんですけど一番正しいエヴァンゲリオンってどのシリーズですか?

正典は旧劇であるという見解は新劇が終わった今でも変わっていません。エヴァ的なものを終わらせたのが新劇であるとして、(それがどういう意味であるかという解釈は分かれるにせよ)そもそも「エヴァ的なもの」って何だったんですかということは旧劇に書いてあるからです。
また、旧劇は一応テレビ版最終二話のリメイクという位置付けなので、旧劇を見る前にテレビ版を見るのはマストです。

 

258.エヴァ記事わかりみが深かったです。
ところで重箱の隅を何とやらではありますが、冬月の「心半ば」は「志半ば」ではないですかね?

ありがとうございます。御指摘頂いた点修正しました。 

 

259.テレビ版と旧劇も見直してから臨んでほしい、心からのお願いです

シンエヴァ見る前に序破Qは見直しましたが、テレビ版と旧劇は見直しませんでした……魂に刻まれてるから見直すまでもない(建前) 時間がかかるし面倒臭い(本音)

 

260.エヴァ批評って何から読めば良いんですか?

261.最近エヴァのアニメ、旧劇、新劇を履修したのですが、エヴァに関連して読んでおいたほうがいいテキストとかってありますか?
(いわゆる設定の考察とかは今更だと思うので、それ以外の楽しみ方ってありますか?)

262.でもLWさんの考えるエヴァ批評のために読んどくべき本は気になる

何故かこの手のことを無限に聞かれていて、TwitterのDMでも聞かれました。
エヴァ放送当初からゼロ年代にかけてエヴァ批評としか言いようがないものが流行して、今でも一部のオタクジジイがそのボキャブラリーでエヴァを語っていることが多々あるのですが、当時の一過性の批評を井戸の底から掘り出して改めて体系立てるような時代感覚がフリーズした人間も特におらず、いまや当時使われたジャーゴンの残骸やスノッブな雰囲気だけが残存し、新劇完結を期にエヴァをかつての受容文脈も込みで今からきちんと履修したいと思っている殊勝なオタクが、どこから手を付ければいいのかわからず戸惑っている……というような状況があるんでしょうか?
大前提として僕は埃の積もったエヴァ批評とやらを今更抑える必要は特にないと思っているのですが、前回のシンエヴァ感想で葬送という形であれうっすら言及してしまった負い目があるので一応書いておきます。

この手のゼロ年代批評でエヴァが出てくる文脈ってだいたい決まってて、データベース論か、セカイ系論か、精神分析論の三つくらいじゃあないでしょうか。

東浩紀の超必殺技であるデータベース論は『動ポモ』を読んでおけば概ね事足ります。暇ならついでに大塚英志の『物語消費論』も読んでおいてください。
タイトルにも帯にも書いていないですが、この本は半分くらいはエヴァの本で、主にガンダムあたりと比較したエヴァの特徴が延々語られています。とはいえ、論の内容としては、物語としてのエヴァというよりは、メディアミックスのような商業形式や外伝の位置付けといった受容態度に関するものが主です。だからこれを読んだからといって旧劇や新劇のよくわからない点がわかるようになるというようなことは特にないように思います。
また、今読んでも内容が当たり前すぎてピンと来ないという人も何人も見ました。この本での指摘内容は今はもうエヴァ特有の事情では全くなく、むしろこれに該当しないものについて考えた方がまだ有益なような段階です。今だとSNS上でドライブしているVtuberとかソシャゲの二次創作中心のオタクカルチャーは明らかにこの本で指摘されたものの延長線上にあり、そういう現代の常識を今更省みるという意味では正しく古典なのかもしれません。

 

セカイ系としてのエヴァンゲリオン、つまり「少年少女の青い衝動が何故か世界を変革してしまう話」の代表格としてのエヴァンゲリオンについては前島賢セカイ系とは何か』が詳しいです。セカイ系とかいうワード、もう懐古系バズツイートを生成したいときか新海誠を叩きたいとき以外の使い道がないような気がしますが、それでも二つも用途があるのだから噛んで膨らませるフーセンガム程度には有用なのかもしれません。
セカイ系でプラスアルファの論としては、宇野常寛ゼロ年代の想像力』が非常にオススメです。セカイ系を持ち上げるオタクの盛り上がりに「ボケがよ」と冷や水を浴びせる内容であり、オタク内での自己正当化と性暴力の回路がどのように形成されているのかという冷徹な自省は一度は読んでおく価値があります。セカイ系批判は今だと献血やポスターでたびたび起こる騒動にも繋がってくると僕は思っていますが、萌えに対して過度に自省的なのもそれはそれでひと昔前のオタクしぐさという感じもします。

上記のデータベース論とセカイ系論の二つが「当時は語る価値が大いにあった」という一過性の歴史的産物という趣がある一方、たぶんエヴァの中身についてちゃんと語っていて読解として最も有益なのは精神分析論です。文学理論では割と正統な精神分析批評の流れの中にあり、古典的には『ハムレット』を解釈するような営みとそう違わないというのも権威主義者としては高評価です。
物凄く大雑把に言えば精神分析は幼児期の主に両親との関係による人格形成みたいな側面から精神的な問題について語るような営みです。この説明が半分くらいはエヴァの説明であることは錯覚ではなく、標準的な精神分析入門書籍を何か一冊適当に読めば誰でも「これってエヴァじゃん」みたいな感想を持つと思います。
また、精神医学関係者が割と頻繁にこの文脈でエヴァを語っており、ネットをちょっと検索するだけでも論文がポロポロ出てきます。直リンして良いpdfかわからないので名前を挙げるに留めますが、「漫画『新世紀エヴァンゲリオン』からみる思春期のこころ」「新世紀エヴァンゲリオンにみる思春期課題と精神障害」などがGoogleで簡単にヒットし、そこそこ面白く読めます。この手の分析は無理を承知であくまでも分析の練習としてアニメをサンプルにしたような手触りになりがちですが、エヴァの場合は地に足の着いたアニメの解釈として無理なく読めるのが嬉しいところです。
特に体裁が整って優れているものとして、以下に所収の高田明典『アニメーション構造分析方法論序説』という論文がオススメです。この書籍は特に誰にも省みられておらず無数にある謎本のような扱いしかされていないと思いますが、優れた批評的な姿勢と当時の熱気が伝わってきてお気に入りの一冊です(Amazonレビューでは「まぁ言ってしまえばエヴァについての考察本の類です」などと評されていますが……)。

 

263.有料noteとかサブスク購読とかやらないんですか?Amazon欲しいものリスト公開でもなんでもいいですが大抵の有料記事より質が高いのでなんかあってもいいのにと思いました

ありがとうございます。リンクにAmazon欲しいものリストを貼りました。

www.amazon.jp

僕は人に勧められたものを消費する腰が非常に重い方ですが(お題箱にも数十件のコンテンツ消費要望が溜まっている上に更に催促の投稿すら若干溜まりつつあるような状況です)、欲しいものリストから届いたものは可能な限り最速で消費するのでよろしくお願いします。

21/3/17 シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇の感想 もうどうでもゲリオン

シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇

以下、全文ネタバレです。

f:id:saize_lw:20210316203126j:plain

満を持して『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』を見た。
ガチで泣きました。映画としてはそう大したものでもないのに「『シンエヴァ𝄇』を見た日のことは人生の区切りの一つとして忘れないであろう」みたいな心境になってしまうあたり、俺は自分が思っていたよりもエヴァが大好きだったらしい。

語るべきことの終わり

正直なところ、『シンエヴァ𝄇』が「二十年前の青春に決着を付ける」「庵野が出した答えとは何か……」みたいな文脈で消費される風潮はあまり快くは思っていなかった。それは映画そのものを語るというよりは単に映画をダシにした自分語りであり、新海誠を見て自分の恋愛遍歴を滔々と語り始めるのとそう大きな違いはないからだ。
とはいえ、『シンエヴァ𝄇』を見終わった今はそういう感想を書きたくなる気持ちもよくわかる。『シンエヴァ𝄇』はあらゆる意味で説明がひたすら丁寧であり、謎は消えていくばかりで新たに付け加わる謎もわだかまりのように残る謎もない。設定考察も前衛演出もにわか批評も、少なくとも旧劇の頃にあったようなエヴァ的な語りは全て劇中でわかりやすく説明し尽くされてしまった。
わざわざ鑑賞者が改めて語ることがない今、「語ることがないことについて語ること」が世代的な感傷くらいにしか行き着かないのも頷ける。

実際、難解なことで知られてきた設定群は『シンエヴァ𝄇』では普通に見て聞いていれば普通に理解できてしまう。カヲルはゼーレと組んでループしていた、式波アスカは惣流アスカと違って綾波と同じ量産型。考察する余地もない真相が提出されてそれで終わりだ。良く言えばわかりやすいが、悪く言えば広げた風呂敷を畳むための場当たり的な設定追加という印象もある。
特にQでシンクロ率0%だったシンジを再びエヴァに乗せるためにシンクロ率∞%の誤認だったことにするという、サムライ8レベルの安直な後付けには目を疑った。今までだったら恐らくリツコが「シンクロ率なんて所詮は<新出の専門用語1>に過ぎない……シンジくんはエヴァの中の<新出の専門用語2>と和解することができたのかもしれない」とか適当に意味深なことを言って謎を増やしながら解決していたものを。

意味深な設定とセットになって謎を深めていた前衛的な演出すら、旧劇から何一つ進歩していない。シンジとゲンドウが戦っている最中に世界が破壊されて書き割りのセットが現れる演出は押井守が何十年も前から何十回もやっているものだし、最後の最後に絵コンテになるシンジはもはやエヴァっぽい演出をなぞる二次創作だ。タイトルロゴが映し出されるメタ演出も、ドローン撮影の実写風景が空にフェードアウトしていくのも、どれもこれも二十年前の旧劇レベルの前衛さでしかない。旧劇が2chだったことをなぞって安易にTwitter画面を表示しなかったのが意外なくらいだ。
そんな古臭い演出を背景にして「新世紀(ネオンジェネシスエヴァンゲリオン」が遂にタイトル回収されたのには泣き笑いしてしまった。もう四半世紀が終わりそうになっているのにようやく新世紀に辿り着くタイミングの遅さは、まさにそれが表示される演出の時代錯誤感によくマッチしている。

謎を生まない懇切丁寧な説明が、かつて一世を風靡したにわか批評にまで行き届いているのは驚くべきことだ。「ああいう田園の風景がセカイ系が短絡して取り落としてきた中間項なのだ」とか、「シンジは女の子一人に世界を懸けることがなくなったからアヤナミレイ(仮称)が目の前で爆発してももう動じずに戦えるのだ」とか、「シンジに裸を見られても動じなくなったアスカは身体と自己像の問題をクリアしているのだ」とか、わざわざ書き起こすのも虚しい。
アスカは「ガキには恋人じゃなくて母親が必要」などと精神分析的な評価をはっきり述べてしまうし、カヲルもカヲルで「(シンジは)リアリティの中で立ち直っていた」と社会反映論ぽいことをあっさり言ってしまう。メタ発言ギリギリの冷徹な視点は辛うじてエンタメ要素であったはずの恋愛模様にまで及び、アスカはシンジのことを「昔は好きだった」と極めて冷静に俯瞰する。キャラクターたち自身がもう自己分析を完了してしまっているならば、鑑賞者が謎解きとして分析することはもう残っていない。

そういう、設定考察的にも前衛演出的にもにわか批評的にも収まりが良すぎてとにかく葛藤のない映画だから、もし俺が『シンエヴァ𝄇』の上映を受けて初めて新劇場版の序破Qをまとめて見てから映画館に向かうような人間だったら、「言うほどのコンテンツか?」「演出は良かった」くらいで終わって忘れていたのは間違いない。
しかし、エヴァに関してはそういうわけにもいかない。俺の中ではシンジやゲンドウはあれこれ批評する対象としての寓意一般ではなく、彼らには彼らなりの人生があることを認められるような、虚構的ではあるが完全な人物だったらしい。自分の子供が人並みに成長するのを見て「批評的に安直な成長だ」と批判する親がいないのと同じだ。シンジくんが批評的に安直な成長をしたとしても両手を叩いておめでとうと祝福する準備がある。

 

エヴァに関心を失う子供たち

とはいえ、『シンエヴァ𝄇』が「彼らは大人になった」というだけの話だからといって、旧劇と同じ「現実に帰れ」系の話だと一括してしまうのも解像度が低いと言わざるを得ない。
旧劇と『シンエヴァ𝄇』の最大の違いは、『シンエヴァ𝄇』で成長した子供たちは思春期的な葛藤に対してもう素朴に興味を失っていることだ。大人になるというのは人生にかかる問題に答えを出すことではなく、問題の枠組み自体への関心を失い、無根拠で放棄できてしまうことなのだ。
旧劇のシンジは「ミサトとの関係」「父との関係」「ヤマアラシのジレンマ」「エヴァに乗るか乗らないか」といった表現のバリエーションを無数に伴って出現する葛藤から最後まで抜け出せなかった。だから旧劇ではシンジとアスカが世界に二人きりになってもなおお互いに拒絶せざるを得ないのだが、『シンエヴァ𝄇』では意味もなく否定し合うモチベーションがもうない。ヤマアラシのジレンマが氷解したのは輝かしいソリューションが発見されたからではなく、単にもうどうでもよくなったからだ。

思えば、「問題を解決するのではなく問題への関心を失う」という路線を最初に強く示唆していたのはマリだ。マリは旧劇までに他の皆が思い悩んでいた物事に対して本当に関心が無い。
それを象徴するのが「エヴァに乗るかどうかなんて、そんな事で悩む奴もいるんだ」という屈託のなさすぎる感想で、その発言はもう破で出ていた。同様に、マリがシンジに言う「早く逃げちゃえばいいのに」はシンジが言う「逃げちゃダメだ」やミサトが言う「乗りなさい」とは全く別の次元にある。「乗るか乗らないか」について考え抜いた末に逃げるという結論を出すのではなく、そもそも「乗るか乗らないか」自体が割とどうでもいいのでもちろん逃げてもいいのだ。
マリは戦闘中も一貫して冷めていて余裕があり、シンジのように死への恐怖に取りつかれたり、惣流アスカのように訳のわからない回想を始めたりすることもない。それどころか、マリは自発的に人間であることを捨ててビーストモードを披露した初めてのパイロットでもある。『シンエヴァ𝄇』の戦闘に通底する「私TUEEEEEEEE」感というか、あまり苦労することもなく敵を次々に撃破しているように見える異世界転生っぽさも、マリの無関心さに端を発しているように思われる。

マリの「旧シリーズ的な葛藤に対して関心を持たないスタンス」が式波アスカにまで伝播していたことは言うまでもない。式波アスカもマリと同様、裏コードや使徒の力を使うことに躊躇いがない。
アスカがシンジのことを「メンタル弱すぎ!」って叱るのがもう身も蓋も無さすぎて笑ってしまった。人間関係の問題を「メンタルの強度」に帰すほど文学的主題を破壊する行為が他にあるだろうか? メンタルが弱い少年少女大人たちが延々と苦しむ話であるところのエヴァに「メンタルを強くする」という回答が許されるのであれば、それでもう全てが終わってしまう。ここにもやはり、問題を内側から丁寧に解決するのではなく、「そんなことはどうでもよくないか」と外側から丸ごと棄却するマリ的なスタンスがよく現れている。
式波アスカも最後には取って付けたような旧シリーズっぽい回想をして去っていくが、それは式波アスカが既に乗り越えた問題の再確認か、そうでなければ惣流アスカの弔いに過ぎない。どう考えても、第三村でシンジを導いた式波アスカはかつて親子関係と男女関係に苛まれていた惣流アスカではない。失語症に陥ったシンジにやたらヌルヌル動く作画で乱暴にレーションを食わせたとはいえ、それは決して旧シリーズのように男性に固執して引き起こされた病的な暴走ではないのだ。口では罵倒しながらも海辺で打ちひしがれるシンジを遠くでコッソリ見守ることができる式波アスカは、もうとっくに他人と適切な距離を取れるようになっている。

むろん、式波アスカと同じくらい大人なのは、つまりエヴァに乗る責任がどうとか親子関係がどうとかいう話に関心がないのは、第三村の面々も同じだ。シンジに対する人たちがシンジの回復のために「適切な距離を取って落ち着くのを待つ」という実に大人な対応を取るのが『シンエヴァ𝄇』のスタンスをよく表わしている。「問題と正面から取り組む」というのは子供の解決方法で、大人には「問題がどうでもよくなるまで待つ」という選択肢があるのだ。旧劇のようにいちいちあがかなくても、ただぼんやりしていればどうでもよくなることもある。シンジが第三村で学んだのは「関心を失うまで待つ」という解決方法だ。

更に言えば、Qから登場したヴンダー搭乗員たちもエヴァ云々には興味がない。民間たたき上げのクルーの連中は自分の生活がどうなるかというレベルでしか戦いに関心が無く、ミサトが散々悩んできたような他人を戦わせることや責任についての倫理的な葛藤ももちろんない。
特に、冬月による物理侵食タイプの機体がヴンダーに取りついたときにピンク髪のやつが発する「エヴァっぽいやつ」っていう表現が最高だった。今までなら「エヴァっぽいやつ」が出てきたらそれは謎が謎を呼んで設定考察を巻き起こすチャンスだ。ミサトかリツコあたりが「アレは私たちの知らないエヴァシリーズ? それとも新しい使徒? まさか……あれもまたヒトの形だというの?」とかなんか意味深っぽい台詞を吐いて、オタクがうおおお!!とか言って考察をするのが今までの「流れ」だったはずだ。だが、ピンク髪は「エヴァっぽいやつ」をそのまま「エヴァっぽいやつ」と見たままの表現で呼べてしまう。彼女はエヴァに興味がないから。

 

エヴァ固執する大人たち

小学校に入った女の子がお人形遊びから卒業するように、大人になった子供たちは「エヴァ的な問題」への関心をすっかり失ったようだ。だが、既にいい年齢だったにも関わらずそれに囚われていた大人たちには卒業する機会がもうない。
それは今この文章を読んでいるお前かもしれないが、『シンエヴァ𝄇』では冬月やゲンドウやミサトあたりの面々がそれである。彼らは死ぬまでその問題を考え続けるしかないし、死ぬことでしかこの問題を終わらせられない。

トウジやケンスケはちゃんと結婚して子供を作って皆で協力して働いている一方、一生ロボット作って戦ってる冬月とゲンドウを見ているとマジで泣けてくる。組織立って働いてくれる部下を全て失い、それでもずっとロボットを作ったりロボットに乗ったりして喜んでいる彼らはいい年して無職でガンプラにハマってるオッサンみたいなものだ。『シンエヴァ𝄇』で明らかになったのは、一番ヤバい子供なのはぶっち切りでゲンドウと冬月のツートップであり、それに比べればシンジの青さなんて若気の至りでしかなくて勝負にもならないということだ。
一見すると、この二人は冬月が志半ばで死亡したのに対し、ゲンドウが無事問題を解決したという大きな違いがあるように思われるかもしれない。だが、彼らは二人とも最後の最後まで旧エヴァ的な問題に囚われていた点では同じだ。シンジが親との対話をあっさり終えてエヴァ無きネオンジェネシスの創世に着手できるのに対し、ゲンドウは「子供とどう向き合うか」という問題が解決した時点で物語からフェードアウトする。ゲンドウの人生を語るボキャブラリーはそれしかなく、他に語るべきことを持たないからだ。

ミサトは一応子供を生んで人の親になったというアドバンテージがあるとはいえ、それでも冬月やゲンドウと同じ側にカテゴライズされる。というのも、ミサトは子供たちとは違って「問題を遠ざけて忘れる」という選択肢を持たないからだ。ネルフの中で大人になってしまったミサトの人生は、「責任を履行すべきか否か」という旧シリーズ的な問題系の中でしか進まない。それが終わるときは死ぬときだから、責任を果たすと同時に死なざるを得ない。問題に関心を失うことが出来ず、正面から格闘し続けた者の末路である。 

 

もうどうでもゲリオン

誰だって思春期には「自分が生まれた意味とは」「死とは何か」みたいな実証的には何の意味もないが実存的には極めて重要なことを一度は考える。そしていずれそれを考えなくなるのは、その問題が解決したからではない。脱構築批評がよくやるように問題設定に矛盾が見出されるからでもない。そういう問題自体がもうどうでもよくなって、問題の枠組みごと放棄されるというだけだ。
最終的にシンジがエヴァの無い世界を目指したのも同じことだ。「エヴァに乗るべきか乗らないべきか」という問題に解決や崩壊の契機があったわけではない。シンジは第三村で特にこれといった劇的なエピソードもなく時間の経過で回復できた経験から、「単に関心を無くす」という選択肢を学んだのだ。

困難な問題を掘り下げるには子供でいなければならず、大人は「関心がない」というだけであらゆる問いを無効にできてしまう。大人になってわかることなんてほとんどないのに、大人になったらどうでもよくなることはいくらでもある。