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19/9/2 魔法少女なのはストライカーズの感想 空転する父子家庭

魔法少女なのはストライカーズ

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エースまでに比べてあまり面白くなかったです。

ストライカーズで最も画期的だったのは「ティーンエイジャー」の導入です。
エースまではメインキャラクターの年齢層は「キッズ」(10歳以下・小学生)と「アダルト」(20歳前後・社会人)に二分されていたのですが、ストライカーズで初めて中間である「ティーンエイジャー」(15歳前後・中高生)が登場しました。ティーンエイジャーの筆頭はストライカーズのW主人公であるスバルとティアナ、同僚であるエリオとキャロも(年齢的にはキッズであるものの)ティーンエイジャーに似た扱いを受けています。

ストライカーズで新たに挿入されたティーンエイジャーという年齢層がエースまでとは決定的に異なる疑似家庭のモードを導入します。
まず、エースまではキッズとアダルトが構成する(疑似)家庭は愛・信頼・奉仕という「母」的な価値観によって駆動していました。優しい父母と兄姉の愛に満たされた高町家、リンディがフェイトを引き取ったハラオウン家、守護騎士からはやてへの奉仕で機能する八神家においては、子供であるなのは・フェイト・はやてがまだ庇護対象のキッズであるため、アダルトたちは「母の愛」によって彼女らに接しています。いずれも家族間の軋轢が存在せず、無償の愛に包まれている母性的空間であるわけですね。こう言ってよければ、エースまでに登場する全ての家庭は理想化された母と子供の関係によって構築される「母子家庭」でした。

これがストライカーズではどう変わったでしょうか。
ストライカーズのキャッチコピーが「魔法少女、育てます。」であるように、ストライカーズでも依然として子供が育っていく空間としての疑似家庭がテーマとして扱われていることは明らかです。しかし、機動六課という疑似家庭の子供は、キッズではなくティーンエイジャーです。
年齢が上がったことにより、子供は完全な庇護対象ではなくなります。キッズに対するように無償の愛を与えるだけではなく、時には厳しく接しながら社会で通用する人間性を身に付けさせることがティーンエイジャーの教育テーマになってきます。エースまでの疑似家庭は愛・信頼・奉仕に満ちた「母子家庭」でしたが、ストライカーズの疑似家庭には法・規範・訓練が支配する「父性的」なモードが導入されていくわけですね。
つまり、ストライカーズでエースまでとは一転して厳しい指導や訓練が描かれるようになった理由は、表面的には舞台が縦社会の治安組織に移行したからですが、本質的には疑似家庭の子供がキッズからティーンエイジャーに交代したからです。実際、エースでもなのはとフェイトは時空管理局職員に近いポジションで活動していましたが、疑似家庭としての時空管理局にストライカーズのような厳しい空気感は無く、「母」であるリンディ提督による穏やかな家庭として描かれていました。

改めて、(疑似)家庭における

・主に子供がキッズであるときの、愛・信頼・奉仕が支配する「母」のモード
・主に子供がティーンエイジャーであるときの、法・規範・訓練が支配する「父」のモード

の二つを対置しましょう。以降、母とか父とか言った場合は血縁的なものではなく、こうした価値観やスタンスの違いを示します。
よって、「母子家庭」と言ったときは「母のモードが支配する家庭」、つまり「愛・信頼・奉仕が満ちており、法・規範・訓練がない家庭」のことを指します。この意味で、高町家は父も母もいますが「母子家庭」です(念のために注意しておきますが、辞書的な意味での母子家庭がそういう性質の家庭であるというような含意は一切持ちません)。

既に述べた通り、機動六課は基本的には父のモードが支配する父子家庭です。つまり、子供である新人フォワード=スバル・ティアナ・キャロ・エリオのティーンエイジャー4人と、親であるなのは・フェイト・守護騎士etcのアダルトたちの関係は厳格な上下関係をベースにして成立しています。

補足198:子供も親もこの上下関係に極めて従順で、そのためにキャラ描写がかなり犠牲になっていたと感じます。機動六課が初めて招集される段階から描写されている割には、彼らの関係は初めから完成してるんですよね。上司がなんか言う→新人フォワードが声を揃えて「はい!」と答える……という流れでストーリーが進行し、基本的に新人フォワードたちは組織の歯車として動くため、彼らが持っているこだわりとか、道徳的な好き嫌いといった個人的な内面があまり見えませんでした(特にキャロとエリオ)。

最も父のモードで教育される子供として描かれたのは、やはり年齢的にティーンエイジャーであるスバルとティアナです。二人して規範を逸脱したことがなのはの逆鱗に触れて処罰を食らったのはストライカーズで最も有名なシーンですし、更にティアナはシグナムからウォン・リーばりの鉄拳制裁も受けています。こうした「規律を守らねば罰される」という価値観は明確に父のモードであり、ストライカーズの縦社会の厳しさを象徴するシーンです。

ただし、機動六課が全体的には父のモードの支配下にある一方、細かいキャラまで個別的に見ていくと必ずしもそうではないところもあります。

例えば、なのはやフェイトは新人フォワードに対して母として接しようとしているシーンも多いです。
最もわかりやすいのはシグナムがティアナを鉄拳制裁した直後になのはがティアナに声をかけようとするシーンで、「話せばわかる」と対話を望むなのはと「耳を貸すな」と止めに入るヴィータが対比されています。この「話せばわかる」は第一期から一貫している高町なのはのフィロソフィーであり、法やルールよりも対話と和解を上に置く「母の論理」です。その意味で、なのはは本質的に母寄りのキャラクターです。それはフェイトも同様であり、彼女たちはキャラクターとしては母寄りなんだけれども、組織内の関係上は父としての役割を担っているというのが正確な表現です。

また、キャロとエリオの二人も、年齢的には幼いキッズである一方、立場的には機動六課という疑似父子家庭の子供役としてのティーンエイジャーでもあり、立ち位置が安定しません。
訓練を受けるときは父のモードで扱われるんですが、それ以外のシーンでは母のモードで扱われることが多いです。この二人ってスバルやティアナと同じように厳しい訓練を受ける割には、彼女たちのように縦社会の制裁を受ける不憫なシーンが一つもありません。それはまだキッズの彼らには親に反抗するような自我が生まれていないからです。
また、キャロとエリオはフェイトにほぼ養子として育てられるという側面も持っており、そちらの疑似家庭は明確に母のモードが支配する母子家庭です。キャロとエリオは二つの家庭に所属していて、機動六課は父子家庭である一方、フェイト家は母子家庭といったところでしょうか。

補足199:第13話ではロッサがティアナに対して「上司と部下ってだけじゃなく、人間として、女の子同士として接してあげてくれないか。はやてだけじゃなく、君の隊長たちとも」と語り、ティアナも「了解しました、現場一同心掛けるよう努めます」と答えるシーンが存在します。
これは機動六課を父的の規範のモードだけではなく母的な友愛のモードも持つ「父母家庭」として再編しようとする試みとして捉えられるのですが、結局このテーマが前景化することはありませんでした。このセリフの直後にだけはティアナがはやてをランチに誘うシーンが挿入されるものの、それ以外では機動六課の上司と部下が「女の子同士として」接しているシーンは特に見当たりません。


さて、「なのはの母性的キャラクター」「キャロとエリオを取り巻く母性」の二つを機動六課内部で見出される母性の例として挙げたものの、とはいえ、基本的には機動六課が父のモードの支配下にあることは疑いありません。「キッズに対しては母性」「ティーンエイジャーに対しては父性」で接するというのがストライカーズを席巻している原則であり、これが最も強く表れたのはヴィヴィオを中心とする疑似家庭においてです。

第二クールから登場したヴィヴィオは年齢的にも立ち位置的にも完全にキッズであり、なのは・フェイト・ヴィヴィオの疑似家庭を構成します。
言うまでもなく、この家庭において、なのはとフェイトの両方が母です。エースまでの(疑似)家庭も大概母子家庭でしたが、このヴィヴィオ家においては夫婦関係を暗示されている両親が明確に「ママ」と名指される形で最も露骨にそれが描かれています(ただし、過保護なフェイトに対してなのははヴィヴィオの自立を促す節があり、この二人を比べると僅かになのはの方が父寄りのようです)。ヴィヴィオには両親がいるが母しかいないというある種の異様さによって、「父的な機動六課」「母的なヴィヴィオ家」という二つの疑似家庭が対照されているわけですね。

「キッズに対しては母性」「ティーンエイジャーに対しては父性」という原則は、キッズからティーンエイジャーを経てアダルトに成長したなのはとフェイトにも適用されています。彼女たちがティーンエイジャー期には(機動六課の訓練がヌルく感じる程度には)体育会系な環境でしごかれたことは言及されており、組織の中で父の洗礼を受けてきていることが伺えます。
メタ的に言えばそれは作品の世界観が母のモードから父のモードに変更される過程でもあって、なのはの過去を語るときの身振りにそれが表れてきます。というのは、第9話の回想で「なのはは一期や二期の頃に無茶しすぎたからその反動で倒れてとても辛い思いをした」と語られるんですけど、これってかなり違和感のある話ではないでしょうか。一期や二期ってざっくり「愛と友情は無敵、それさえあれば何でもできる」みたいな正統派魔法少女な世界観で、なのはが強い理由って「溢れる愛と勇気=魔法少女の才能があったから」として説明できたような気がするんですよね。それがストライカーズでは「なのはは本当は普通の女の子なのに膨大な努力と健康を引き換えに力を得た」みたいな話になってて、「なのはってそういうキャラだったっけ?」「魔法少女をやるのってそんなに過酷な話だったっけ?」という違和感を覚えます(設定レベルの話ではなく、描写の説得力として)。
これは作中のルールが母のモードから父のモードに変更されたことを示していると考えるとすっきりします。
一期や二期では母の論理=愛・信頼・奉仕が強力な価値観として君臨していて、強さの描写や問題解決もそれをベースにして行われていました。しかし、ストライカーズからは父の論理=法・規範・訓練が優勢になったことにより、強さの理由も父の論理で描く必要が生まれてきます。父の論理からすると強さは愛から生まれるものではなく、努力や訓練で身に付けたものでなければならないので、なのはの過去に関する見解もそれに合わせて変わる必要があったということでしょう。

このことからもわかるように、母の論理と父の論理は基本的に相反します。これは問題解決において最も顕著であり、「母の裁き」と「父の裁き」は正反対の様相を呈することになります。これを一期から追って確認していきましょう。
まず、一期と二期で支配的だった母のモードは、作中の人間関係だけではなく、最終的な問題を解決する手段をも定義していました。具体的には、作中で解決すべき最大の問題とは、一期ではフェイトとの和解、二期では守護騎士との和解(&はやての救済)だったわけですが、これらは全て母の論理で行われていました。それを象徴するのが高町なのはの戦闘フィロソフィー「話せばわかる」であり、常に相手に対する愛を持ち、対話によって相手を理解してあげることで争いは自然消滅する(戦うのはあくまでも会話をするため)というのが一つのパターンになっていました。
「話せばわかる」という母の論理は、「法を守れ」という父の論理とは真っ向から対立するものです。「話せばわかる」というのは、法や規範によって問答無用で相手を倒すのではなく、むしろ法を逸脱していることは一旦脇に置いて無視して、それよりも対話を重視するという意味だからです。実際、母の論理が支配的な一期や二期では、フェイトやはやての罪をどれだけ軽くしてもらうか、法による罰=父の裁きをいかにして回避したかがエピローグで描かれました。これは父の論理が復活するストライカーズでは逆にウィークポイントとなり、レジアス中将がはやてを攻撃するネタに転じます。
また、こうした母の論理による問題解決は作中の疑似家庭の描き方とリンクしており、母の論理によって解決された事件は最終的に理想化された母子家庭を構築します。すなわち、一期ではフェイトはハラオウン家に参入することによって、二期でははやては守護騎士との家庭を永続可能なものにすることによって事態は収拾されました。一期と二期は一貫して母のモードが作中の「疑似家庭」と「問題解決」を支配していたわけですね。

では、これがストライカーズではどうなるでしょうか。
既に述べたように、機動六課を中心とするストライカーズは父のモードを強く押し出して描かれていたのでした。では、機動六課における問題解決も父の論理で行われたのかというと、必ずしもそうはなっていません。
結論から言えば、父と母のモードが混在しており、総合して母のモードがかなり優位です。最終決戦における主な戦いを問題解決のモードと共に列挙しましょう。

・なのはvsヴィヴィオ:母
・フェイトvsスカリエッティ:父
・シグナムvsゼスト:母
ヴィータvs駆動炉:父
・スバルvsギンガ:母
・ティアナvs戦闘機人3体:父
・エリオ&キャロvsルーテシア:母

こんなところでしょう。要するに機動六課サイドが相手を理解しようと努めたか(母の裁き)、それとも法の番人として裁いたか(父の裁き)という違いを書き出したもので、細かいバトル内容は省略しますが、あまり異論は無いと思います。

こうして見ると、全体として母のモードに寄っているという印象を受けます。それは上の列挙で母の裁きの方が多いというだけの意味ではなく、やや主観的ではありますが、物語的な描き方としても母のモードの方が優位だったということを含みます。
なのはvsヴィヴィオが恐らくストライカーズ最大の見せ場として設定されており、それが四期にも繋がっていく一方で、和解する気が無いスカリエッティとフェイトの戦いは予定調和的というかイマイチ盛り上がりに欠け、重要度の低い印象を受けます。母の裁きの方が重厚に描かれるというのは、シグナムが望外の大活躍をして敵との融合まで成し遂げた一方、法の番人としてミッドチルダを防衛するヴィータの活躍が無機物の破壊に留まったことにも言えます。この二人はストライカーズでは新人フォワードに非常に厳しく当たる父の役割を果たしていただけに、エースにおける母のモードを復活させたシグナムだけが勝ち馬に乗ったように見えます。
父子家庭の管理下にあった新人フォワードたちのバトルも、結局は母の論理が優勢でした。スバルが抱える最終的な論点は父的な厳しい訓練の延長線上にあるのではなく母のモードで姉を取り戻すことにあったわけですし、エリオとキャロが「話せばわかる」という完全に母的な和解のモードにあったことは父子家庭としての機動六課よりもフェイトとの母子関係の方が優位だったということでしょう。特に肉親関係のバックグラウンドを持たないティアナだけが父のモードで戦闘機人3体を撃破していますが、この戦闘機人たちは何体もいるうちの一部であり、他の戦いでの敵に比べて「薄い」敵キャラと言わざるを得ません(ナンバーズの個々の境遇は掘り下げられなかったので、彼女らの顔と名前が一致する人はあまりいないと思います)。母のモードに参入できなかったティアナが結構どうでもいい戦闘を担当させられる形で割を食わされたという印象は否めません。
結局のところ、なのはシリーズが描きたいのは母のモードによる和解だったのではないかと思います。父の裁きを一つの美学として描くことは可能だと思うのですが、それをやる気はあまり感じられなかったということです。

まとめると、ストライカーズで初めてシリーズに「ティーンエイジャー」と「父のモード」を導入し、「父子家庭」的な疑似家庭としての機動六課を描いた割には、結局のところ最終決戦では二期までと同じ「母のモード」が優勢になってしまい、新たな試みがあまり活かされなかったと感じます。