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20/2/9 『パラサイト 半地下の家族』の感想 格差社会に対する第三の選択肢

・パラサイト 半地下の家族

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面白かった。
一番面白かったのは北朝鮮のニュースアナウンサーをパロディするところだ。俺にしては本当に珍しいことに映画館で声を出して笑ってしまった。映画館でその笑いをするのは滅多にない、年に一度もない。

最近は格差社会を題材にした作品も増えてきて、それを一ジャンルとして括り、いくつか類似作品を並べて語ると映画通っぽい雰囲気を出せるようになってきた感じがある。さっき近所のGEOに行ったときも、サブカル臭のするカップルが「パラサイト面白かったけど万引き家族に比べると~」などと話していた。この記事もその手の話だ。

格差社会系の作品を見るときに俺がずっと気にしているのは「作品内で下級階層は成り上がるべきか否か」というジレンマである。最初にそれを意識したのは『ギャングース』の最終話を読んだときだった。

ギャングースのジレンマと成り上がる者たち

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ギャングース』は現代日本を舞台に不良少年たちの戦いを描くクライムアクション漫画で、主人公は窃盗団の少年たちだ。彼らは犯罪行為を基本的な生活基盤としており、作中では主人公格の三人が暴力と抗争に塗れた辛く苦しい人生を生きていく姿が描かれる。
原作者の鈴木大介は貧困問題を扱うルポライターでもあり、単行本巻末には作品の主題を社会問題として提起するテキストが掲載される。特に(Wikipediaから引っ張ってきた)以下の文章が彼の問題意識を簡潔に表明している。

なぜ被害者だった彼らは加害者になったのか。彼らのような『悲しい加害者』を再生産しないために、なにが必要なのか。そんな考えをまとめるのを阻害するように、世の中には様々な差別や誤解、ミスリードを含んだ言説が流れています。

すなわち、『ギャングース』では被害者が加害者に転じるという再生産構造が強く念頭に置かれているのだ。少年窃盗団という犯罪集団を個人の悪徳に帰すのではなく、社会構造の歪みの犠牲者として捉えようという姿勢が常に一貫しており、個人レベルではどうにもならない社会格差が作中に通底するテーマになっている。

実際、主人公格の三人はいずれも幼い頃に虐待を受けた末に少年院に入っており、まともな教育を受けられなかったために犯罪でしか生きていけないことが何度も強調される。
例えば、彼らは小学校を修了していないために漢字の読み書きがほとんど出来ない。まともな衣食住を知らないために服を洗濯せず、豪遊したいときは牛丼屋に行き、定住せずに車中泊やネットカフェを好む。
終盤では裏社会に君臨するラスボスですらも幼少期に虐待されていた犠牲者だったことが明らかになり、「被害者が皆加害者に転じる」というよりはもはや「加害者は皆かつて被害者だった」というほど強力な犯罪の再生産構造が描かれる。

紆余曲折の末、最終話ではほとんどの味方キャラクターがハッピーエンドに辿り着く。
ここでいうハッピーエンドとは社会的な成功のことだ。資格を取得して会社を立ち上げたり、黒孩子が戸籍を取得して留学したり、富豪になってNPOを設立したり。皆が犯罪で違法な金を稼ぐのではなく、社会のルールに則って合法な金を稼げるようになる。彼らは疎外されてきた社会にようやく無事に復帰した、めでたしめでたしというわけだ。
ちなみに、この成功はかなり非現実的な描写であり、率直に言えば漫画としては破綻している。ラスボスが裏社会で強すぎてどうやっても勝てない詰み局面だったはずなのにそれは無かったことになり、外国人二世として差別に苦しみながら犯罪に手を染めていたキャラが『TIME』の表紙を飾ったりする。唐突で過剰なサクセスストーリーはほとんどファンタジーの域と言ってもいいくらいだ。

ただ、漫画としての整合性を捨ててまで成功を描かずにいられなかった気持ちは理解できる。
恐らく、ルポライターの原作者にとって、漫画内に登場するキャラクターたちは彼が取材で幾度となく見てきた不幸な少年少女そのものなのだ。彼らに希望を与えるためには、せめて漫画内でくらいは彼らを成功させてやらなければあまりにも報われない。読者だって、彼らが不幸なまま死んで無縁仏になるラストを期待しているわけではない。

しかし、最後の最後に不良少年たちにファンタジックなハッピーエンドを用意してしまう優しさが、同時に決定的な矛盾までも招来してしまう。
何故なら、作中で徹底的に下流階級として描かれていたキャラクターが成功してしまうことによって、格差という問題設定自体が破壊されてしまうからだ。個人の頑張り次第で成功できてしまうような社会はもはや格差社会ではない。そもそも、個人の成り上がりが不可能になったことで初めて強固な再生産構造と絶対的格差が認識されたのだ。古き良きビルドゥングスロマンにはならないしなれないというところに現代的な格差社会を描くことの真髄があるはずだ。個人の頑張りで『TIME』の表紙を飾ることさえ出来てしまうのであれば、逆に底辺から抜け出せない者たちは単に努力が足りないということになってしまう。

更に言えば、社会的に成功できるということは、社会構造そのものは温存されていることの証明でもある。社会構造が無傷で無ければ、下流から上流に成り上がることはできないのだから。その意味で、そもそも「成り上がり」という目標自体に格差社会への憧憬が密輸入されている。そして、特定の個人が成り上がることは社会を覆う再生産の円環を断ち切ることには繋がらないどころか、むしろ格差社会に対して正当化の契機を与えさえする。「頑張り次第で成功する余地が確保されている以上、再生産は絶対的な構造ではないし、格差は個人レベルの問題に過ぎない」という具合に。

つまり、『ギャングース』が抱えたジレンマは次の通りである。
作中で少年たちを成功させてやらなければ、彼ら個々人が不幸であり続ける運命から救うことができない。しかし、作中で少年たちを成功させてしまうと、格差社会の問題設定そのものが矮小化してしまい、彼ら以外の犠牲者が不幸であり続ける運命から救うことができない。
作中キャラクターの利害と、格差社会の犠牲者一般の利害は一致しないどころか、完全に矛盾する。格差構造に目を向けた途端、作中のキャラクターは犠牲者一般ではなく特異で例外的な存在に変身してしまう。『ギャングース』自体が個人と社会のジレンマにまさにハマってしまったのだ。
補足236:このジレンマは作品が「一回性の創作」と「汎化した寓話」という両側面を持っているところに原因があると言ってもいいかもしれない。一回性の創作としての完成度を上げることが寓話としての完成度を下げる。その二つは両立しない。

こうしたジレンマは『キング・オブ・コメディ』の有名なラストシーンにも繋がるところがある。

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『キング・オブ・コメディ』の主人公(パプキン)もやはり幼少期に虐待を受けた末にどん底の暮らしを送るコメディアンだ。彼もまた一流のコメディアンになるという成り上がりを目指し、なりふり構わずあがき続ける。
中盤でパプキンは有名コメディアンを人質に取るという犯罪的な手段によってコメディ・ショーへ出演する夢を叶え、更に観客から自虐ネタでそこそこのウケを取ることに成功する。この直後にパプキンは逮捕されるのだが、それによって彼は時の人となり、出所後にはコメディアンとして大成している姿が描かれる。
しかし、そのシーンは現実なのかパプキンの妄想なのかわからないというところがこの映画の肝になっている。

ただ、この話を「虐待の被害者が犯罪の加害者になる」という再生産による格差構造の話として読むならば、ラストシーンを妄想と取るか現実と取るかということは大した問題ではない。
「妄想か現実か」の二者択一が持つジレンマは『ギャングース』が抱えたジレンマと全く同型だからだ。ラストシーンの成功が妄想であればパプキンは救われないが、現実だったとしても再生産構造自体が矮小化されパプキン以外の底辺層は依然として救われない。実際、同じく不幸なコメディアン志望者として描かれた女性はラストシーンには全く現れていない。

なお、格差社会系の作品全般に対してTwitterで何度か目にした感想として、「格差社会映画で描かれているような本当の下流階級層には映画を見る文化がないから、この手の作品は中流以上の社会科見学みたいなもんでアクチュアリティなんか最初から無いよ」という冷笑的な態度はそれなりに的を射ていると思う。結局のところ貴族が奴隷を戦わせて一喜一憂しているようなものというか、本当の格差社会にコミットしていく活動家的な精神があるわけではない(俺にもない)。

もし仮に格差社会系の作品が作中で描いているような下流階級の者たちを商業的なターゲットにしているならば、成り上がりを描くことには合理性があり、ここまで述べてきたようなジレンマを回避できる。何故なら、その場合は成り上がりストーリーは階級全体の意識を変えるアジテーションとなり、特殊例に過ぎなかった成功が一般例にまで敷衍される見込みがあるからだ(現実的に可能かどうかはともかく話の筋は通る)。
しかし実際にはそうではない以上、最悪の場合、格差社会系の映画を鑑賞する上流階級が下流階級の成り上がりを消費することで再生産の問題を矮小化して捉え、作品を利用して格差構造を温存するという逆向きの効果さえ見込まれる。

ちなみに、ここまで格差構造の温存について語ってきたが、逆に格差構造を転倒する作品はどうだろうか。一番素直に社会を転倒させるのは暴力革命で、その手の映画はそれなりに数が多い。
例えば『ファイト・クラブ』がそうだ。最初は主人公は社会的に成功している青年として描かれるものの、幼少期から目標の無い人生を送ってきたことが明かされるにつれ、弱者たちのイデオローグとして資本主義社会の崩壊を目指すテロリストに変貌していく。ラストシーンでは金融ビルを爆破し、資本システムを破壊して幕を閉じる。
しかし、これも格差社会に対して現にそれを揺さぶるようなアクチュアリティを持つとは言い難い。正直言って、革命のあり得なさは貧困層の成り上がりと大差がないのだ。『ダークナイトライジング』もそうだったが、娯楽としてはかなり楽しいというだけでそれ以上の何かではない。

・成り上がらない者たち

ギャングース』や『キング・オブ・コメディ』(の成功する妄想)とは逆に、『タクシードライバー』は底辺層の主人公が格差社会下流階級から抜け出さない話だ。

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一見すると主人公は非行少女を救うことでマスコミに注目されてヒーローになるハッピーエンドではあるが、タクシーに乗って街を彷徨うエンディングからは、俺はむしろ彼の中で固まってしまった負け犬精神を見る。あんな事件が起きて一瞬だけヒーローになったところで、彼はタクシードライバーを辞められるような収入を得るわけではない。結局のところ、生活は変わっていないのだ。
むしろ、彼は大言壮語を吐いておきながら一瞬注目された程度のことで小さな自尊心を満たし、下流階級であることに甘んじられてしまうどうしようもなく惨めな人間だ。彼が成り上がらなかったことでとりあえず格差構造の問題設定は矮小化を被らずに済むが、彼自身が小さな餌で満足してしまうのであれば、それはそれで格差構造を温存する理由になるというのがこのジレンマの複雑なところでもある。

万引き家族』ではもっと強く下流階級の現状肯定を打ち出している。

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最底辺である現状に甘んじるどころか、襤褸を着てても心は錦と言わんばかりにそれを積極的に称揚する節さえあった。主人公たちの疑似家族は貧乏で犯罪に手を染めているものの、笑顔が絶えないコミュニティとして肯定的に描かれる。その一方、正義のロールを割り当てられた警官たちは主人公らを否定する独善的な存在として描かれる。
とりわけ子供たちの境遇にそれがよく現れており、「間違った」疑似家庭にいる間は幸せだったのに、「正しい」家庭に戻された途端に不幸になるという、絆至上主義のやや安直なヒューマニズムが鼻に付くところはある。

根本的な価値転倒を見出せるのは、一般的には格差社会を目の当たりにしたキャラクターが成り上がろうとするハングリー精神を持ちがちな一方で、『万引き家族』にはそもそも成り上がりたいと思っている底辺層が見当たらないところだ。
よって、個人として成り上がるのでも、革命によって社会構造を転倒するのでもなく、価値観の方を転倒させることで下流階級に光を当てようとしたという位置付けを与えることはできる。しかし、そこに底辺に甘んじることを拒まない「負け犬精神」を汲み取ってしまうならば、『万引き家族』も『タクシードライバー』と同じ再生産のバリエーションではある。

そんなことより俺が注目したいのは、疑似家族内で息子ロールの祥太が見せる例外的な挙動だ。祥太だけが上流階級の「正しい」ロジックにも下流階級の「誤った」ロジックにも完全に染まることなく、それらの間を行き来して不安定な立場をサバイブしようとしている。
元々、祥太ははっきり自我を持つ程度には自立していながら、まだまだ周囲から倫理観を学ぶこともできる最も微妙な年齢である。彼よりも幼い妹はまだ自分で物事を考えるほど大人では無いし、彼よりも大人の姉はもう周囲から倫理観を学ぶほど幼くない。
実際、祥太は冒頭から万引きの実行犯という悪性を開示する一方で、駄菓子屋の店主との会話を通じて万引きに良心の呵責を持つ善性も併せ持っている。それを最もよく象徴するのは、妹の庇い立てという「正しい」ロジックに基づいて、万引きという「誤った」選択をし、それがきっかけで万引き家族が崩壊する中盤のクライマックスである。祥太こそが『万引き家族』の両義性の要石なのだ。
疑似家族が崩壊したあとも、祥太は他の子供のように本来の家族に復帰していくわけではない。刑務所で元の家族の下に戻る道が示されたにも関わらず、底辺層である疑似父(治)の元に出入りしている。
治は祥太に対して「祥太が捕まったときに夜逃げしようとしたこと」、つまり疑似家族を守る気がなかったことを認める。これは基本的に良い父である治が持つ悪徳の側面であり、万引きと同様に彼が決して人格者でないことを示すエピソードだ。
しかし、祥太はそれに傷付いたりはしない。それどころか応戦するように「本当はわざと捕まった」、つまり一家を離散させるイニシアチブは治ではなく自分の方にあったのだと言ってのける。その直後、バスを必死に追う治を振り切って祥太は合法社会に復帰する。底辺の強かさを携えて。
祥太だけは上流/下流の二分法を乗り越えて、合法と脱法の狭間を歩む術を手に入れたのだ。下流に甘んじるか上流に成り上がるかという二者択一や、その区別を破壊する安っぽい革命でもなく、その境界上を悠々と行き来できる両義的な存在になるという新しい選択肢を俺は祥太の姿に見出す。

・寄生という選択肢

『パラサイト』で提示された「寄生」という選択肢もまた、『万引き家族』における祥太同様、上流/下流の二分を無化してその間を行き来する放浪者の選択だ。
『パラサイト』の家族たちは半地下の家でも割と騒がしく楽しそうに暮らしているが、成り上がりたいというハングリー精神は極めて強く、そのためには一切の手段を選ばない。
しかし、「寄生」は彼らが成り上がることを意味しない。寄生虫はどこまでいっても付属物だ。寄生を極めたところで、彼らが上流家庭そのものに成り代わるわけではないし、高級一軒家が社会的な意味で彼らの物になるわけではない。彼らは上流家庭に使われる身でいるしかないし、その意味では最終目標は社会的な成功にない。
しかし、一度底辺になったら成り上がれないからこその格差社会なのだ。初めから成功の見込みの無い道を目指すくらいなら、それっぽい寄生で最大限の幸福を享受しようという妥協的な切り替えが彼らの慧眼である。底辺で泥臭い内職をするよりは遥かにマシだし、成り上がるより手間もかからない。
彼らは決してサクセスストーリーのエンドロールを目指す道程にいるわけではない。パラサイト状態で一生安定できるのだ。下流でも上流でもなく中間くらいの場所で楽しくやっていくという曖昧な態度は、冒頭から提示しているギャングースのジレンマ、すなわち「成り上がらなければ不幸だが、成り上がれば格差社会ではない」に対するパーフェクトな回答と言ってもいい。

しかし、中盤からそんな寄生生活にも罅が入り始める。
「地下」という、何よりも底辺を象徴する奈落の封印が解かれたからだ。あの地下が放つ強烈な重力によって彼らは底辺に引き戻されてしまう。パラサイトを謳歌する飲み会は地下が解放された瞬間に終了し、彼らは半地下の家さえ破壊され、避難所を逃げまどう生活に送り返される。

そして終盤のパーティーシーンにおいて彼らは遂にパラサイト生活、すなわち上流階級への擬装のツケを払うこととなる。
地下から這い出してきた底辺の象徴が刺殺するのは、本当は底辺層なのに貴族のフリをしてケーキを運んでいたパラサイト一家の娘だ。本来であればこの刺殺は底辺から天井への下克上、地位逆転の一手のはずなのに、主人公一家が上流階級のフリをしていたがために底辺同士の同士討ちへと変質してしまう。

それに呼応するように、パラサイト一家の父親もベテランドライバーであることを辞め、「底辺としての自覚」を取り戻す。体臭に耐え切れず鼻を抑える雇い主をどうしても刺殺せずにはいられない。
この臭いの描写は本当に上手い。『パラサイト』では(恐らくコメディタッチを維持するために)上流階級は底抜けに良い人たちとして描かれているのだが、「臭い」が唯一の例外なのだ。臭いだけはどうしても差別意識と格差を呼び起こす。どんな聖人君子だろうが、人の体臭には耐えられない。
臭いは曖昧に香ることで他者の存在をそれとなく暗示するようで、その実、何よりもはっきりと最至近距離で明示する。目に映るものは接触しないが、鼻に香るものは常に接触している。何せ、現に臭っているのだから、臭いからは距離を取ることができない。そして視覚の場合は相手を遠ざければ遠ざけるほど存在感を薄れさせることができるが、嗅覚の場合は全く逆だ。遠くにいるはずなのに臭うことはむしろ彼への不快感を増幅する。一切の距離を無視して不快感を焚きつける、どうしようもない他者の幻影が臭いなのだ。

また、終盤で新たに登場した格差を象徴するキーアイテムとして、「臭い」以外にも「雨」を挙げることができる。
地面に降った雨はお金とは逆の動きをする。お金は低所から高所に吸い上げられるが、水は高所から低所に下っていく。底辺層にとって、福音の搾取として消極的に格差を示唆するのがお金だとすれば、苦難の到来として積極的に格差を押し付けてくるのが雨だ。

結局、最終的に父親は地下に捉えられる。地下から底辺が一人消えるとそこには新たに底辺が一人補充されるという、再生産の象徴的な構図に「ハマってしまう」。その一方で主人公の立場は揺れ動き、笑い出したかと思いきや、最終的には成り上がりを決意する。結局のところ、主人公もまた格差社会に「ハマってしまった」のだ。成り上がりは実は再生産と大差がないということは既に述べた通りだし、寄生という優れた選択に勝るところは何一つない。
ただ、成功する姿を辛うじて妄想に押しとどめ、「俺たちの戦いはこれからだ」的なエンディングに抑えたところは良いバランス感覚だったと思う。ジレンマを回避するためには、それは精々予感させる程度に済ませておいた方が良い。

以上、『パラサイト』は中盤以降の展開では典型的な格差社会への「ハマり」に逆戻りしたものの、基本テーマとして「寄生」という格差の間を揺蕩う新たな選択肢を提示したことは高く評価できる。

 

補足237:以下の内容は本文の中に書く場所が無かったので補足に回すが、『天気の子』を格差社会系映画の文脈に置くことにはあまり納得できない。そういうモチーフが多用されていることは認めるが、ホダカは別に格差社会の犠牲者ではないし、どちらかというと最初から最後まで成功者である。何故なら、あの映画で駆動しているロジックは資本主義のそれではなく、オタク文化のそれだからだ。つまり、成功者か否かを決定する要因は社会的立ち位置ではなく、美少女を所有したか否かだ。よって、物語前半でヒナを所有した時点でホダカは「勝ち」である。東京が沈んでも余裕で勝っている。終盤でヒナの消滅に対してだけは本気で走って銃を撃ちさえするのは、それこそが勝利条件だからである。一見すると格差社会っぽさのある、金がない感じの描写は、ちょっと苦労するフリをしてみているだけであまり大した問題ではない。どれだけ貧乏だろうが隣に美少女がいればそれでいいし、逃避行はむしろ二人の世界に閉じ籠るための最上のシチュエーションと言ってもいい。もっとも、これはかなり恣意的で問題含みの判定だという自覚はある。新海誠の場合は昔からセカイ系を作り続けているから「どうせこれもオタク文化の文脈だろ」というスレた気持ちになるのだが、そういう積み上げがない作品の場合、オタク文化の産物と見做すか否かはかなり主観的に判定せざるをえない。例えば、(アニメの場合は)絵柄がどのくらい萌え系か、デフォルメ顔のような萌え文法がどのくらい使われたかなどという些細な要因になるだろう。わかりやすく言えば、俺が「こんな可愛い女の子に好かれるなら別に貧乏とか関係なくない!?」と思えるかどうかが映画の評価を決定的に左右することになる。とはいえ、ここは個人ブログなのでその手の客観性の欠如は問題ではないだろう。