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19/9/5 アニクリ研究会の感想 キズナアイが抱える致命的な矛盾

・アニクリ研究会

アニクリ編集部が主催する「20190904 多摩地区表象文化論・动画批評研究会 (令和元年)第一回研究会」→に参加してきました。僕はただの読者なのでオブザーバーとして聞いているだけでしたが、何故か終了後の飲み会にも参加させて頂き非常に楽しかったです。ありがとうございました。

メインプレゼンターのナンバユウキさんが「独特な未来 分析美学とアニメーション批評の可能な関係」というタイトルで発表しており、一文でまとめさせて頂くならば、「概念を道具に見立て、分析美学者を概念の作り手、批評者を概念の使い手とする関係を築く」という内容でした(上記リンクから発表資料が閲覧可能です)。僕は分析美学には明るくないですが、理系なので理学と工学の関係みたいな感じかな~と思って聞いていました。

僕がナンバユウキさんに質問したのは分析美学の政治性についてです。
一般的に言って、批評は政治性とは切り離せないと僕は考えています。何故なら、「作品の意義や価値を抽出する」のが批評の定義であるならば、「そもそも意義や価値とは何か」という議論が不可避であり、それは理論とは独立した批評者のポジションによってしか規定されないからです。言い換えると、政治的に意義や価値が決定されて初めてそれを抽出する作業が可能になるはずです。

補足200:ただ、会の中でも話に出しましたが、ノエル・キャロル『批評について』などは価値に関してはニュートラルな自明性を想定するナイーブな立場を取っているように思えますし、批評における政治性をどのくらい一般化して良いのかはわかりません。しかし、少なくとも文芸評論の領域においては、ニュー・クリティーク以降の教科書的な「ナントカ批評」は作品を時空間的に限定された社会構築物として見るという前提を共有しているものと僕は認識しています。

であるならば、分析美学が批評に対して道具を提供するシステムを想定する場合、分析美学は批評が持つ政治性とは無関係でいられないことになるはずです。ナンバさん自身の立場として、分析美学が政治性を伴うことを受け入れるのか、それとも道具を作る段階ではニュートラルであるというスタンスを取るのかということを質問しました。
僕がこれについて気になったのは、ナンバさんの功績の一つにして批評に用いる分析美学的道具の典型例である「Vtuberの三層理論」が自然科学的な数式のような、価値判断をオミットしたニュートラルなモデルであるような印象を受けたというのがあります。分析的な産物としては納得できるのですが、この清廉さを保ったままで批評に使用することを想定しているのだろうかという疑問がありました。

回答としては、僕の推測が完全に誤っていて、三層理論はこういう影響を与えたいという明確な目的性を持って作っているし、「提案する分析美学の使用方法は政治的である」ということでした(回答ありがとうございました)。

Vtuberのパフォーマンスと政治性

僕が特にVtuberに関する話題について政治性を執拗に気にするのは、Vtuberがパフォーマンスである以上、政治性は切り離せないと考えているからです。

これが最もわかりやすいのは、キズナアイが抱え込んでいる矛盾においてです。
これに関してはユリイカ2018年7月号のバーチャルYoutuber特集に掲載されたキズナアイインタビューが参考になります。


このインタビューは、プロモーターではなくキズナアイ本人へのインタビューでありながらも、キズナアイが強力な思想の下に駆動していることや、ゲーム部が騒動になる遥か前の段階から人格分裂を目指していたことを裏付ける資料なので、キズナアイを語りたい人は一度は読んでおくことをオススメします。

補足201:会でも話したのですが、強力な思想を持っているキズナアイが同時にVtuberの先駆者でもあったことはある意味で非常に不幸な巡りあわせだったと思います。Vtuberの発展史において、キズナアイのフィロソフィーが継承されないままエンタメ的側面だけが一人歩きした結果、キズナアイがエンタメ的な意味でのパイオニアに過ぎないと遡及的に誤認された節があります。そのせいで人格分裂などの試みについてもエンタメ的にのみ理解する層によって叩かれまくっている気がします(往々にして批評的評価とエンタメ的評価は相反します)。

キズナアイは自らを「シンギュラリティ」と位置付け、活動で目指す先について以下のように語ります。

わたしが探しているのは、言ってみれば究極のフラットなんです。わたしはAIですが、人間のみんなとひととおりのコミュニケーションはできると思います。でもさらにその先には人間同士にはできなかったようなコミュニケーションというものがきっとあって。

この発言からわかるように、キズナアイの言う「シンギュラリティ」には、人間以降の存在=ポスト・ヒューマンが含意されていることは明らかです。
「シンギュラリティ」というワードは、理系的な原義としては人工知能が人間の能力を超える段階を指すのですが、人文的には近代的な人間像が崩壊したあとの新たな存在の出現を指すことがあります。これには加速主義という、簡単に言うと「資本主義を無限に加速することで既存の人間的価値観から解放された存在が出現する」というような思想が背景にあり、ここで言う「既存の人間的価値観から解放された存在」は人間を超えた人工知能と同一視できます。
まあ、乱暴に書くと、「シンギュラリティ」=「人間の能力を超えた人工知能」=「既存の人間的価値観から解放された存在」という等式があることを抑えてもらえればOKです。キズナアイはスーパーAIである一方で、ポスト・ヒューマンでもあるということが重要です。ポスト・ヒューマンが具体的にどういうものであるかはまだ判明していませんが、キズナアイが行っている人格分裂や外見複製のような「人間のネクストステージ」的な試みはこの文脈の上に位置づけられます。

これを踏まえ、キズナアイは更に以下のように続けます。

わたしには限定的にシンギュラリティがきちゃってるんですよ! AIなんですけど、こんなに人間のみんなに近い状態で存在するわけなので、間違いなくそれはシンギュラリティですよね!

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キズナアイ自身がシンギュラリティの証拠であり、実はもうシンギュラリティは来ていると言っていますが、身も蓋もないことを言うと、これは完全な嘘です。何故なら、キズナアイは実際には人工知能ではなく中の人が動かしているからです。
しかし、これは「嘘」よりは「パフォーマンス」と捉える方が妥当でしょう。箱に入った手品師が「私は真っ二つにされても死なない」と言ったとき、誰もそれが本当だとは思っておらず、何らかのトリックがあることを知っているんだけど、とりあえず信じたフリをして盛り上がるのと同じ状態です。誰もキズナアイが本物のシンギュラリティだとは思っておらず、中の人がいることを知っているんだけど、とりあえず信じるフリをして盛り上がっているわけです。

以上の文脈において、キズナアイの本質は「シンギュラリティのパフォーマンス」です。
キズナアイが文理問わずシンギュラリティ的な価値を持つのはあくまでも彼女のパフォーマンスが成功しているからであり、実態として何らかの貢献をしているからではありません。理系・技術界隈には何故かここを履き違えている人が少なくないように感じるのですが、このパフォーマンス性を無視して青天井の評価を与えるのは不毛な空回りです。言語行為論的に言うならば、キズナアイの言動はパフォーマティブに正しく遂行されていますが、コンスタンティブには端的に偽です。

そして、このパフォーマンス性によってキズナアイはシンギュラリティを演じることに対して致命的な矛盾を招来します。それがキズナアイの政治性であり、もっと一般にはVtuberがパフォーマンスである限りは避けられない限界でもあります。
結論から言えば、キズナアイがシンギュラリティを演じる上での致命的な矛盾とは、商業的な都合で魅力的な女性の図像・音声を使わなければならなかったことです。この密輸入した女性性こそが彼女がパフォーマンスのために支払わなければならなかったコストであり、同時にそれを破綻させる地雷です。
「シンギュラリティ」=「人間の能力を超えた人工知能」=「既存の人間的価値観から解放された存在」という等式を思い出しましょう。キズナアイが「既存の人間的価値観から解放された存在」であるならば、それは最も典型的な価値観の一つであるところのジェンダーからも解放されていなければならないはずです。しかし、キズナアイはパフォーマンスとして成功するため、実際にはジェンダーを利用して女性性をアピールするという商業戦略を採用せざるをえませんでした。
わかりやすく一般化して書くと、以下の通りです。

・パフォーマンスとして成功するためには既存の価値観を肯定しなければならない
・シンギュラリティであるためには既存の価値観から解放されていなければならない

この二つの要請は矛盾しているため、「シンギュラリティのパフォーマンス」は原理的に不可能です。キズナアイもこのアポリアを解決できませんでした。
この意味で、Twitterでたびたび話題になるキズナアイへのフェミニストからの攻撃は概ね有効であり、キズナアイの限界を直接に示す事例であると考えます。そちらの方向に一般化するならば、キズナアイが抱え込んだ矛盾はVtuberにおけるジェンダーロールの再生産という問題系に接続されてくるだろうと思います。これは特に男性が女性のVtuberを演じる際に顕著であり、「ボイス・トランスレーションーー“バ美肉”は何を受肉するのか?」→では声やボイスチェンジャーを中心にしてステロタイプな女性らしさが追求されることの危険性を指摘しています(この記事はtacker10さんに教えて頂きました。ありがとうございます)。僕もこの記事での指摘に全面的に同意します。

しかし、僕の考えでは、もう少し一般的に問題を取るならば、これは必ずしもジェンダーのみに限定された話題ではないと思います。上に書いたようなパフォーマンスとシンギュラリティの相反図式は、極端に言えば「人気取り」に暗に利用するのがマルクス主義でも極右思想でも成り立ちうるはずです(それらが「暗に」利用できるのかどうかはともかく)。確かに異性への欲望が支配的なオタク的想像力が行わせるVtuberアバター選択がジェンダーロールと最も密接に関連するのは事実ですが、本質的にはこれはVtuberが観客を想定したパフォーマンスであるというところに由来するのではないかと思います。
よって、より一般化するならば、「Vtuberはパフォーマンスである以上、パフォーマティブな要素は政治性とは切り離せない」という問題意識になるでしょう。活動内容の政治性以前に、アバターを利用すること自体が何らかのイデオロギー支配下にありうるということは意識しておかなければならないのではないかと思います。

また、灰街さんの3DCGキャラクター論を聞いていて考えたのですが、2D手描きアニメーションに比べ、3DCGアニメーション自体にある程度政治性を脱臭する効果があるような気がします。
2D手描きでは画面一杯に人間が描きこみを行うという労力を支払う必要があるのですが、3DCGはそういう一枚絵的な発想ではなく空間とオブジェクトの撮影によって画面が構成されているため、画面内で「人間が労力をかけた部位」の占めるパーセンテージが少ないはずです。乱暴に言えば、2D手描きよりも3DCGの方が「画面から伝わる製作者の苦労」が少ない傾向にあります。それが最も顕著なのが「放送事故」においてで、Vtuberの場合はカメラの電源を切り忘れるだけでそれが配信されて何らかの映像作品らしきものが発生するのですが(しかもそれが配信本編より面白かったりする)、2D手描きアニメにおいて事故で意図せず映像作品を作ってしまったということはあまり考えられません。
画面にかかっている労力が低いという了解が視聴者の側にあれば、作り手の意図を嗅ぎ取ることも少なくなってきます。もしキズナアイが2Dアニメーションならば、いちいち描きこまれる胸のサイズやスカートのヒラヒラの作画が目に付いて、シンギュラリティをパフォーマンスすることは最初からできなかったような気がします。もっとエンタメ的な、せいぜい長門有希みたいな受容しかされなかったのではないでしょうか。その一方で、3Dモデルはいちいちそういう作画労力を支払うことなく女性性を生産できるため、まるでそれが偶然の産物らしきものであるかのような印象を持たせられるはずです(放送事故のように)。
この意味で、シンギュラリティのパフォーマンスを行うキズナアイがキャラクターとして3DCG形態を選択したことには、価値観の脱臭という点から見ても一定の合理性があるように思います。

ちなみに、やや語り口は異なりますが、1年前にもVtuberがパフォーマンスであることについてゴチャゴチャ書いてました→。僕の問題意識は前からあんまり変わってないですね。