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21/5/9 第10回サイゼミ 現代アートの哲学/ 格ゲー入門/ TRPG入門

第10回サイゼミ

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2021年5月4日に麻布十番で第10回サイゼミを催した(過去のサイゼミは「カテゴリ:サイゼミ」を参照→)。

補足378:第9回が抜けているのには事情がある。第9回は2月あたりに秋葉原Vtuber批評(『Vtuber存在論と指示論』)をやったのだが、それは俺がDMで誘われたVtuber批評同人誌に寄稿する予定の内容だったので、他媒体に載ることを考慮して個別の記事は書かなかった。結局その文章は四万字くらい書かれたのだが、同人誌の主催者と連絡が取れなくなりお蔵入りとなった。

今回はなんか色々なゲームの体験会みたいのしたいねという話になって、前座としてLWが最近読んだ『現代アートの哲学』の面白かったところだけ軽く喋ったあと、格ゲーとTRPGについて有識者が解説しつつプレイする進行だった。

サイゼミ現代アート

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

現代アートの哲学 (哲学教科書シリーズ)

  • 作者:西村 清和
  • 発売日: 1995/10/01
  • メディア: 単行本
 

芸術界隈では学部生が読むような教科書的なやつらしく、欲しいものリストから送って頂いた。読み物として平易で面白いし一般教養も身に付きオタクコンテンツとの相性も良いという隙の無い一冊。

啓蒙のジレンマ

ここは書評解説ブログではないので内容については各自で読んでもらうとして(以下は読んだ前提の感想であって要約ではない)、ネットの普及によってSNSや人権思想で本格化した啓蒙のジレンマは芸術領域ではもっと以前から起こっていたのだなと思った。

「普遍的な人間精神の称揚」という意味でのいわゆる啓蒙は「誰しもが素晴らしい」として強固な自尊心を擁立する表面を持つ一方、「誰でも素晴らしい」として特権的な価値を認めずに解体していく裏面をも併せ持つ。当初はポジティブな表面によって楽観的な自画自賛が流通するが、しばらくするとネガティブな裏面の存在が気付かれて衝突が生じてくるという流れが様々な領域で起こっている。
例えばSNS普及当初のTwitterには「誰しもが価値ある意見を発信できる」という今思えば頭のイカれた期待が込められていた。これが啓蒙の表面で、個々の人間の価値を過度に高く見積もって参加者を無根拠な自尊心の渦に巻き込んでいく。しかしこの夢は大衆の暴走と共に崩壊し、いまや「誰でも無価値な野次を発信するにすぎない」という諦観がTwitterの言論空間(笑)を覆っている。
人権思想においても、フランス人権宣言の段階では「誰しもが自由と平等を持つ」という普遍性を基盤とする崇高な理想が掲げられていた。しかしネットの普及と前後して、実際の人間の多様性は当初想定されていたよりも極めて多彩であり、時には相互排他的であることが判明していく。「誰でも自由と平等」を本当に実現する上で乗り越えなければならない課題があまりにも多いという認識は現代ではむしろ常識に属している。

このような流れが芸術においてもあったらしい。近代美的モダンの時代においては普遍的人間精神の純粋な美的表現が可能であると信じられていたが、時代が下るにつれて崇高な普遍性は「芸術は誰でもできる」という俗物たちの舐めた態度に変質する。すなわち、芸術の普及による大衆化である。悪趣味、卑俗、キッチュ、生活空間への侵入、成金趣味、情緒過多……啓蒙が広がれば広がるほど、(少なくとも当初の意図からすると)実現されるもののクオリティはどんどん下がっていくというジレンマがある。

ちなみに、俺が次にこの啓蒙のジレンマに直面するだろうと思っているのはアバター文化及びXR界隈である。VRChatの魅力をプレゼンするとき、「誰しもが現実の制約を離れて理想的な容姿や声を手に出来るのは素晴らしいことだ」という実は極めて差別的な売り文句を口走らずにいられる者は多くない。なるほど確かに、冴えないオタクが美少女に、中年のおっさん同士が恋人になれるのは素晴らしいことだ。黄色人種でも黒人でも白人になれるということは。
そろそろ歴史に学べ! SNSが、人権思想が、芸術運動が、当初掲げていた「誰しもが素晴らしい」という理念が本当に誰にでもリーチしてしまったとき、辿り着いた終局がここでも再演される。それは恐らく民主化されたアバターの使用によって、バーチャル空間で特定の性別ないし人種ないし容姿ないし体型ないしエクリチュールが、要するにある種のステレオタイプが握った覇権に対する異議申し立てとして提出されるだろう。いずれそれが起きたとき、このブログを思い出してGoz-Mezに投稿してほしい。

やや意地の悪い憶測ではあるが、この転倒は捻れたエリーティズムの問題であろうと思う。というのも、最初に啓蒙の表面だけが発露している段階で「誰しもが素晴らしい」と述べることによって意図されているのは、実は本当に誰しもが素晴らしいということではなく「我々の素晴らしさには普遍的裏付けがある」ということに過ぎないのだ。根本にはエリーティズムが隠れており、本当に誰でも素晴らしくなってしまうと、差異によって担保されていた価値は音を立てて崩壊する。啓蒙は達成されない理想としては機能するが、現実に達成が近付くと少なくとも当初の形では維持されない。

しかしとはいえ、一応誤解のないように申し上げておくが、俺は「最初から普遍的な人間精神など擁立しなければよかったのだ」とか、「啓蒙は大衆にリーチすべきではない」と考えているわけではない。時には啓蒙の末路が悲惨であるとしても、啓蒙が行われなかった世界よりは行われた世界の方が「善い」という確信がある。それは恐らく趣味の領域なので大した理由は無いが、そちらの方が「フェアである」という漠然とした認識、そして俺自身が戦争状態を特に厭わないこと、闘争は回避すべき対象ではなくむしろどこにでも薄く広がっている基本状態であるという世界観に依っているように思われる。

寄生の美学

美的モダンの段階では芸術作品は作者の高尚な精神と結び付いてそれ自体価値あるものと見做されたが、大衆化によって生活の中で消費される段階に至るとそうした素朴な価値や様式は揺らぎ始める。『現代アートの哲学』においては近代の「自存性の美学」に代わって現代の新たな美学として挙げられている「寄生の美学」が興味深い。

寄生の美学が最もわかりやすいのは広告の美的戦略である。というのも、現代消費社会で流通する大量生産商品における「それ自体誇るような機能がもはや特にないのでどうにかして消費者にアピールする価値を表現しなければならない」という事情が、現代芸術作品が置かれた「作品自体が自明に価値を持てるわけではないので自ら何とかして価値を確保しなければならない」という状況と酷似しているからだ。
この状況において、広告が取る手口は消費者の持つ人生経験や既存の価値観に寄生することだ。例えば、辛く厳しい状況に置かれたケインコスギがファイト一発と言いながらリポビタンDを飲むことで一念発起して問題を解決するCMがある。そこで示されているのは実際に商品が持つ具体的機能に関する説明ではなく、消費者の「人生には辛く苦しいことがある」という経験及び「困難が解決するのは良いことだ」という出来合いの価値観でしかない。

近年オタク界隈で「エモ」とか「感傷マゾ」とか言われるものの一部はこの寄生の美学の最新形態のようにも思われる。作品それ自体の持つ情報量は大して多くなく、それが消費者に喚起する人生経験の方に力点があるからだ(とはいえ、俺はその手のカルチャーには疎く、文化的関心もあまりないので的を外しているかもしれない)。
仮にこれら他の何かに便乗して成り立っているように思われるコンテンツが寄生の美学に依っているとすれば、批判のメソッドも寄生の美学に対するそれを流用できる。例えば、可能な批判の一つとしては、寄生の美学によるコンテンツは経験として貧しいことがある。というのも、それ自体が新しい価値を提供するわけではなく消費者の中にある既存の要素を使い回しているだけなので、消費者の美的経験を拡充しないのだ。他にも、寄生の美学によるコンテンツは価値を詐称しているという批判も可能だろう。それは既にある経験を喚起しているに過ぎないので、実際に提供する価値よりも作品が持っている価値は小さいことになる。

とはいえ、こうした批判は未だ近代のドクサに囚われたアナクロなものではないかという声はサイゼミ内でもかなり上がった。作品の「本当の価値」とか「本当の美的経験」というものをナイーブに想定している時点でもう終わった近代から寄生の美学を評しているに過ぎないのであって、本当にパラダイムを転換したあとのポストモダンの美学として寄生の美学を認めるならば相互参照の中で価値概念それ自体が上滑りしている事態をまずは率直に承認すべきである。その上で可能なポジティブな評価の例としては、例えば東浩紀が『動ポモ2』で「ゲーム的リアリズム」を擁立したのも、ロラン・バルトが「読者の誕生」と言って意図していたのも、作品が独立した価値を持てない世界において代わりに何らかのネットワーク的なものの中で価値のようなものを創出しようとする営みだったはずだ。

こうして積極的に寄生の美学を承認していく立場からすると、そもそも寄生対象であるところのソリッドな「人生経験」だの「既成の価値観」だのが存在するかということも怪しくなってくる(それもまた「本当の〇〇」系の近代の遺物に過ぎないのでは?)。実際、感傷マゾ界隈(?)において「実際にあった経験」よりは「実際には無かった経験」をこそ想起の基準に置いていることは、そうした寄生先が不要であることを示す証左で有りうる。
ただ、個人的なことを言えば、俺は少なくとも個人が消費する限りにおいては人生経験とやらに寄生先としての特権的な地位を認めてもよいと思っている。そうした個人的な経験に立脚する言説は客観性を持たないために批評として機能せず発信する意味もないというだけの話だ。つまり、他人に向けて語る価値の有無と、各個人の中での価値の有無は厳密には別の話である。そして、実際の人生において経験の価値を語るのであれば後者の方が重要である局面は決して少なくないはずだ。

 

サイゼミ格ゲー部

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何気にラスベガスの大会でそこそこ勝ち抜いたこともあるらしい格ゲーマーひふみが格ゲーの基礎を解説し、その後アケコン二台と巨大モニターによって体験会という最強の布陣(画像はパッドだが、このあとヨグルティがアケコンを追加で持ってきた)。

格ゲーの遊び方

まず最初に大抵の格ゲーで通用する普遍的な格ゲーの遊び方を教えてもらった。
プレイヤーが使える基本行動として投げ・打撃・ガード・ジャンプ・対空・波動拳あたりの間に明確な勝ち負け関係が設定されており、それを把握するのがスタート地点となる。その上でリスクリターンを認識しながら仕掛けたり、相手の挙動を見てからカウンターしたりして攻撃を通していくのが基本的な立ち回りである。

補足379:ちなみに俺は中下段への反応速度とコンボ精度が格ゲーだと思っていたのだが、その二つは最初は知らなくていいくらいどうでもいい部分らしい(たぶんGGの動画ばかり見ていたエアプ勢なので華やかな起き攻めとコンボに認識が偏っていた)。

この話だけだと格ゲーとは技相性でジャンケンをするだけのゲームのように聞こえるが、「状況ごとにいちいち出す手を決定しているわけではない」というのが誤解を打ち破るポイントだ。
というのも、格ゲーはタイムスパンが短いため、行動選択にかけられる時間が0.1秒もないことが珍しくない。相手が飛んだのを見てから「ジャンプに有利なのは対空行動! このキャラの対空は立K! よってK入力!」などとやっていては到底間に合わないのだ。よって、状況の変化に無意識で反応してボタンを叩けるシステム、先ほどの例で言えば「(相手が飛んだことを認識)→K」まで省略した回路を頭の中に作っておかなければならない。この回路を無意識で発動させるためには試合前に身体に叩き込んでおく必要があり、試合中に考えていては間に合わない。試合開始までにどれだけ完成度の高いルーチンを作っておけるかが一つの勝負になる。
つまり、試合中に使用できる道具は「無意識に使える行動を体系化したルーチンのシステム」であって、「一つ一つの状況に対応する個々の応手」ではないというのが最大のポイントだ。確かに相手の癖に応じて応手を変えることはできるが、それは反応の一つ一つを意識的に変えているのではない。試合前に前もって作ったいくつかのルーチンの総体を適宜切り替えているのだ。

ここでただちに出てくる疑問は、「それは結局『個別行動のジャンケン』が『システムのジャンケン』に変わっただけで、全体としてジャンケンであることは変わっていないのではないか?」というものだ。しかし、戦いの単位が個別行動からシステムに変わるとそう簡単にはいかなくなってくる理由が主に二つある。
まず一つには、シンプルに複雑さの問題がある。システムは個別行動よりも遥かに高度である。事前に完成度の高いシステムを身体に染み込ませて手札として自由に扱えるようにしておくにはそれ自体非常に手間がかかるし、環境の変化に応じて適宜アップグレードする必要もある。まして「今勝てるシステム」を試合中に自在に創造できるわけではない。極端な話、相手が用いるシステムに勝てる新システムが頭の中には思い描けていたとしても、それはその場で実行できるわけではない。しつこいようだが、システムとは元より思考していては間に合わないことを無意識でこなせるようにした訓練の賜物であり、試合中に思考しながら生成できるものではないのである。
また、システムの切り替えに伴うオーバーヘッドの問題もある。例えば俺は異なるシステムAとシステムBを使えるように訓練しており、今はシステムAで戦っているがシステムBに切り替えれば勝てることがわかっているとしよう。しかし、システムは「じゃあ次のフレームからシステムBで行こう」と自由自在に切り替えられるものでもないのだ。というのも、システムとは無意識レベルで発動するように身体に刷り込んで初めて意味を持つものだからだ。そうそう簡単にチェンジできるわけではなく、かなり熟練したプレイヤーですらラウンド間の小休止で間に合うかどうかという速度に留まる。

逆に言えば、豊富なシステムの引き出しを持ち、かつ、相手のシステムを見てから短時間でシステムを切り替えられるプレイヤーが最強である(ひふみによればウメハラがこれらしい)。ただ、それにはまずシステムを開発して定着させるという身体レベルの訓練と、それらを自在に切り替えるというメタレベルの訓練が必要になる。この状態は当初想定された「単なるジャンケン」を遥かに離れ、システム構築→身体訓練→システム運用という高度なスキルを求めることは明らかだろう。

カードゲームへの適用

サイゼミはもともとカードゲームのコミュニティからスタートしているため、カードゲームへの適用もかなり話題に上がった。つまり、格ゲーマーが様々な事態に無意識で対処できるルーチンを持つのと同様に、カードゲーマーも上級者は個々の応手はいちいち考えずに打てるようにルーチン化していることが多いということについてだ。
ただ、個人的にはこの二つは別の原因から来た別の事態であるように思われる。というのも、格ゲーの場合はタイムスパンが短いため無意識に行わなければならないという時間的な問題から判断のチャンク化が要請される一方で、カードゲームの場合は有限のリソースで一貫したプレイをしなければならないというリソース管理の問題から判断のチャンク化が要請されるからだ。

例えばカードゲームにおける無意識化されたルーチンの典型例として、コントロールミラーのマッチアップにおいて各カードの使用先が試合開始前からほとんど決まっていることがある。低速なデッキ同士では試合の再現性が非常に高いため、「このカードはあのカードの返しに打つ」とか「このカードは絶対に打たない」というようなルーチンが最初から決まっていて、それを間違えた時点でそのプレイヤーの敗北が決定する。そのようにカードの使用先が限定されているのは、いちいち手元のカードから勝ち筋やゲームプランを考え直していては思考にかかる負荷が高すぎるため、勝ち筋とゲームプランに照らして逆算した情報を試合前から持っておくからだ。
その背後には、カードゲームはデッキや手札にあるカードが限られているために勝ち筋の一貫性がなければ勝利に辿り着けないというリソース管理の問題がある。仮にお互いの手札に常にカードプールの全カードがあって何でも仕掛けられる状態であればセオリーの形成はほとんど意味を持たなくなり、相手の動きに応じたアドリブだけが勝負を分けることになるだろう。

一方で、実は格ゲーは手札に全カードがある状態に近い。(ゲージ等のリソース管理を一旦無視すれば)ニュートラル状態から使おうと思えばどの選択肢も使うことができ、立ち回りの上では特に制約が無い。カードゲームとは異なり、勝ちという目的に照らす限りでは判断に一貫性が求められる理由は特にない。体力さえ削れれば何をしてもいいし、波動拳は何度でも打てる。
ただし、格ゲーにおいては人間の認知的な限界がある。理論上は何でもできるとはいっても実際に状況に対して有効な速度でできる判断がそう多くない。それこそが事前に無意識レベルで取れる行動ルーチンを身体に擦り込んでおく理由だったはずだ。これはカードゲームには存在しない観点であり、「ゲームのタイムスパンが早い」というただその一点によって格ゲーは判断のパッケージングを要求する。

奇しくも、カードゲームと格ゲーで「構える」というワードが共通して使われることがこの違いを分かりやすく提示する。
格ゲーにおいて、波動拳に対して竜巻旋風脚を「構えておく」のは、有効なカウンターを食らわせるためには無意識のレスポンス速度で竜巻旋風脚を放つ必要があるからだ。一方、カードゲームで変異種に対して対抗呪文を「構えておく」のはデッキ内に一度着地した変異種を除去する手段がなく打ち消さねば敗北が確定するからで、限られたリソースから逆算したプレイの実行が根底にある。

格ゲー体験会

講義のあと、初心者たちで適当に戦ったり総当たりリーグを催したりした。なお、皆初心者なのでシステム構築までは全く到達しておらず、使えるスキルは行動ごとの相性の認識とそれを前提とした立ち回りというレベルに留まっている。

俺は昔少し一人でカチャカチャ遊んだくらいで対人経験が一切ないのだが、正直なところ他の人の格ゲーやったことなさがヤバすぎて相対的に一番強いくらいだった。
皆は波動コマンドも安定しておらず昇竜を狙って出せないレベルなので、俺は昇竜を出せるというアドバンテージだけでどうにかなる局面が多すぎた。攻撃の最中に相手がぶっ放した昇竜をきっちり防ぐというガード技術を持つ人がほぼいないため、攻められたら適当に昇竜を擦っておいてどこかの隙間フレームで暴れてどうにかなるというかなりセコいことをしていた。

今回解説を受けて基本がわかったことで、各キャラの特徴や各技の意図されている使い方が解釈できるようになったのが大きい。
例えばミカの両足キックは身体全体が浮くために下段を回避しながらカウンターを決めることができ、これは本来であれば下段をガードしてから一応有利フレームで反撃するところをカウンターヒットにまで昇華させる機能がある。
また、リュウとケンの竜巻旋風脚は見た目は似ているが用途が異なっており、リュウの竜巻は波動拳を消しながら進めるためジャンプでも届かない安全圏から放たれた波動拳咎められ、波動拳に対して無意識で打つ回答で有りうる。その一方、ケンの竜巻は波動拳を消せないが(少なくとも今回の参加者のレベルでは)後隙が少なく軌道が見辛いために突進技のように使うのが良さそうだった。

この段階で遊ぶのがやたら楽しいのは戦略に異様なまでの多様性があることだが、はっきり言ってそれは全体の練度が低いことに由来しているのは言うまでもない。具体的に言えば、一つにはそもそもそれぞれに可能な行動に制約がある(コマンドや昇竜を打てなかったりする)のでありあわせの武器でオリジナル戦略を作るしかないこと、もう一つにはキャラごとの行動の長所短所が把握されていないために攻略されるまでは「攻略されていない」というだけで有効な戦略になることだ。
俺は結構カジュアル勢なのでこれって多分全員のレベルが上がっていくと戦略はいくつかの最適解に収束していってバリエーションが減っていくのが寂しいねみたいなことを思ったが、ひふみによれば幸いにもその段階はかなり先らしい。

 

サイゼミTRPG

最後にクトゥルフ神話TRPGをプレイした。キャラメイキングはスマホでしてあとは口頭で進めるやつだったので写真が残っていない。
GM以外は初体験ということもあり、正直なところセッション自体は大した盛り上がりもなく事件は解決せず真相もよくわからんまま終わってしまった。派生なので当たり前だがマーダーミステリーにかなり似ており、そちらに比べると自由度が高い分だけ参加者の練度の低さがダイレクトに反映された形ではある。現実世界でも適当に物を判断する適当な性格の人間が多かったためにセッション中の選択も適当だったが、ドラマチックなセッションを作るためにはもう少しちゃんと生きた方が良さそうだ。

また、俺は一応趣味で小説を書いているので(リンク集も参照→)、オタク第一世代あたりがよく言う「小説を書きたいならTRPGをやれ」という言説がどれだけ説得力があるのか確かめたいという下心もあった。
正直なところ、俺にとっては小説を書くのにそこまで有効ではない印象だった。TRPGをガチ推ししている大塚英志が「各ジャンルの基本を抑えよう」と言っていたのと同じで「特に書きたいことが決まっていないが何かは書きたい」という人には極めて有益だろうが、俺はそのタイプではない(この話は前にも書いた→)。
とはいえポテンシャルは全然あるというか、何にせよ自由度が高すぎるので熟練すれば色々創作の役に立ちそうな気配はある。例えば完全なキャラクタードリブンでオマケ程度にストーリーを生成するタイプの創作者とか、二次創作でキャラクター設定が共有されている状態とか、とにかく流行っているキャラクター属性から商業的にウケそうな最大公約数的な話を作りたいとか、いずれにしても俺にはあまり縁のない話ではある。