LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

21/1/10 2020年11月消費コンテンツ

2020年11月消費コンテンツ

11月は言語哲学大全の攻略が主だった。

今更ながら、毎月書いているこの消費コンテンツ記事でアニメやゲームや学術書をまとめて記載していることについて、「勉強や息抜きのような異種のアクティビティをとりあえずごった煮にして記載している」と解釈されることは俺の実感に沿ってはいない。
俺にとってはどれも同種の娯楽なのでアクティビティとしてはっきり分かれているわけではなく、消費しているときの気の持ちようもほぼ違わない。

メディア別リスト

映画(7本)

Re:ゼロから始める異世界生活 Memory Snow
Re:ゼロから始める異世界生活 氷結の絆
魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st
魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's
魔法少女リリカルなのは Reflection
魔法少女リリカルなのは Detonation
ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

書籍(5冊)

実践GAN 敵対的生成ネットワークによる深層学習
物語の構造分析
言語哲学大全Ⅰ
言語哲学大全Ⅱ
言語哲学大全Ⅲ

アニメ(12話)

魔法少女リリカルなのは Vivid(全12話)

漫画(10巻)

ハッピーピープル(全10巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

ハッピーピープル(1~2巻)

消費して良かったコンテンツ

言語哲学大全Ⅲ
言語哲学大全Ⅰ
言語哲学大全Ⅱ
実践GAN 敵対的生成ネットワークによる深層学習
ハッピーピープル(3~10巻)

消費して損はなかったコンテンツ

物語の構造分析
魔法少女リリカルなのは Reflection
魔法少女リリカルなのは Detonation
魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's
魔法少女リリカルなのは Vivid

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st
ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

Re:ゼロから始める異世界生活 Memory Snow
Re:ゼロから始める異世界生活 氷結の絆

ピックアップ

ハッピーピープル

遠い昔、2chに入り浸っていた頃に評判を見かけてずっと読もうと思っていた短編集。
買うほどではないし漫画喫茶で読めばいいやと思っていたのだが、最近は漫画喫茶の閉店ラッシュが凄まじい。以前よく使っていたネットカフェコミック横断検索→でサジェストされる漫画喫茶が悉く死滅しており、やむを得ずAmazonで全巻購入する羽目になった。電子サービス普及とコロナ蔓延のダブルパンチにより、レンタル屋や漫画喫茶の寿命が一気に短くなりつつある。

1・2巻は期待通り素晴らしい内容だった。人間の言行不一致をここまで綺麗に描いている漫画を他に知らない。特に『ムズムズ』『仲よしこよし』『ごめんネ』『ハッピーハイスクールベースボール』あたりは人生に残る名作。
人間は最初から引き裂かれていて意思決定は常に破綻している。安定した人間関係も人間主体も何一つなく、親愛には殺意が、善行には偽善が、秩序には衝動が付きまとわずにはいられない。やってはいけないとわかっていることをやってしまう、行為に悪気があるのかないのか自分にも他人にもわからない、親しければ親しいほど殺したくなる、思うことと喋ることがどうしても一致しない。それは何か特別なトラウマを持つ例外者に限った話ではなく、皆そうなのだ。
そういうままさらなさをありきたりな「人間の闇」としてのみ描くのではなく、ポジティブにもネガティブにも発現する様子を執拗に描いているのが特に良かった。言行不一致は必ずしも悪いことばかりではない。『ごめんネ』のラストシーンでは殺したいほど憎まなければならないはずの相手の肩を叩いて喜んだりもしてしまう。

ただ、3巻あたりからはネタが尽きたのかシンプルにしょうもない出涸らし話が増え始める。特に当時流行っていた押しかけヒロインコメディの露悪的なパロディである「恋ちゃんシリーズ」の出来は、その文脈を除いてしまえば絶望的だ。
もっとも、この漫画は元々そんなに高級なものではない。底の浅いスプラッターホラーやキャッチーな時事ネタもごっちゃにして描くピンキリタイプの短編集ではある。基本的にはB級漫画で、稀にキラリと光る作品があるという方が実情には近い。

一番がっかりしたのが、当初は釋英勝の人並外れた慧眼で描かれていた人間の二面性が素朴にありふれた意味での「結局人間が一番怖い」的な話に落ち着いていってしまったことだ。初期にあったように愛憎の両面にかかるような葛藤がほとんど無くなり、ひたすら胸糞悪い話が続くようになってくる。それはそれでぼちぼち面白いが、よくある話だ。

 

言語哲学大全

言語哲学大全1 論理と言語

言語哲学大全1 論理と言語

  • 作者:飯田 隆
  • 発売日: 1987/10/20
  • メディア: 単行本
 
言語哲学大全2 意味と様相(上)

言語哲学大全2 意味と様相(上)

  • 作者:飯田 隆
  • 発売日: 1989/10/30
  • メディア: 単行本
 
言語哲学大全 3 意味と様相 (下)

言語哲学大全 3 意味と様相 (下)

  • 作者:飯田 隆
  • 発売日: 1995/12/01
  • メディア: 単行本
 

元はと言えば、藤川直也『名前に何の意味があるのか 固有名の哲学』のブックガイドで固有名と直接指示に関連してⅢ巻がオススメされていた書籍。
Ⅲ巻だけ読むのも気持ち悪いので全部読むことにしたのだが、Ⅰ巻から読んだのは正解だった。Ⅲ巻だけ読めるようには書かれていないように思われるので、率直に言って藤川氏の勧め方には若干の問題があるような気がしないでもない。

大全を名乗るだけあって、どこかで一度は名前を聞いたことがあるような言語哲学系の哲学者の話がザーッと攫える教科書的な本だった。
飯田隆自身は「哲学史を追おうというモチベーションはない」みたいなことをどこかで言っていたような気がするのだが、各巻ごとに時系列で論点が切り分けられた上でそれぞれの関係を明らかにしながら解説が進んでいく。関係を明示してくれると各論ではなく運動として理解しやすいのが嬉しいところだ。

それぞれの巻で扱われている内容をアバウトにまとめると、以下のような感じ。

・Ⅰ巻(論理と言語):量化論理をベースにしたラッセルとフレーゲによる記述理論
・Ⅱ巻(意味と様相(上)):ウィトゲンシュタインの誤読による論理実証主義の勃興からクワインによる解体まで
・Ⅲ巻(意味と様相(下)):クリプキとルイスによる事象様相の解釈に伴う純粋指示表現と分析的形而上学

最終Ⅳ巻では主にデイヴィドソン自然言語の意味論を扱っているらしいのだが、いつか暇なときに読めばいいかなと思って止まっている。とりわけフレーゲを筆頭に自然言語を軽視する風潮に対しては日常言語学派等からの批判の声がデカいということは幾度となく触れられてはいるのだが、俺も自然言語にはそこまで関心がない(理系だから?)。
俺の関心が最も高かったのはⅢ巻にあたる様相論理についてであり、Ⅰ・Ⅱ巻にあるそれまでの経緯は踏み台として理解したかったというモチベーションであると言わざるを得ない。A級はかつて分析哲学を学んだときにウィトゲンシュタインあたりから大陸系のネチャネチャした哲学に興味が移っていったみたいなことを言っていたような気がするが、俺は意図的に誤読した論理実証主義の方が魅力的に感じるくらいだ。
ただ、クワインが規約主義の必然性観に対して行った批判にしろ、そのクワインが立てたホーリズムに対する批判にしろ、結局のところ形而上学的なコミットを避けようとする論理はいずれ論証不能な地点に辿り着かざるを得ないという、全く当たり前のことを言っているように思われるのだが、俺の読み方が浅いのだろうか?

本丸のⅢ巻で扱われている様相論理については、様相命題論理と様相量化論理をはっきり分けた上で様相(特に必然性)を巡る文脈の中では後者の事象様相こそがクリティカルであることを指摘していたのはかなり勉強になった。文中にも書かれていた通り、確かに今まで読んできた入門書は概ね様相命題論理止まりで、様相量化論理について掘り下げたものはあまりなかった。
ざっくり言って、様相を事物ごとに付随するものであると考える場合、事物それ自体が今あるような状態で無かったこと、今ある状態でなくてもその事物を特定できることが含意されるため、現にあるような状態の記述を超えてその事物を示すような概念すなわち直接指示が必要になるのだ……と、俺は理解した。

 

物語の構造分析

saize-lw.hatenablog.com

ポップ批評でわりと適当に使われがちな「作者の死」というワードとロラン・バルトの立場(特にプロップらとの相違点)について、まあまあ理解できたのは有益だった。

 

実践GAN 敵対的生成ネットワークによる深層学習

サイゼミ機械学習回周りで読んだ。

saize-lw.hatenablog.com

前に俺が適当に調べた感じでは、今のところ生成タスクをこなすニューラルネットやGANについて専門に扱っている日本語書籍はどちらも翻訳だがこれとオライリーの『生成 Deep Learning』くらいしかないようだ(他にもあったらすまん)。俺は『生成 Deep Learning』よりは『実践GAN』の方がわかりやすいように思ったが、たぶん誤差の範囲だろう。

生成 Deep Learning ―絵を描き、物語や音楽を作り、ゲームをプレイする

生成 Deep Learning ―絵を描き、物語や音楽を作り、ゲームをプレイする

  • 作者:David Foster
  • 発売日: 2020/10/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

情報技術業界は基本的に論文ドリブンであり、アンテナが高い研究者と技術者は元論文を直接読みに行けばいいだけなので、わざわざ日本語に翻訳してまで技術書として出版されるフェーズは俺のようなそれほどモチベーションが高くない門外漢にまで行き渡る段階という印象がある。

標準的なGANの理解はニューラルネットさえわかっていれば全く難しくない。CNNのようにニューラルネットの層自体に手を加えるというよりは、ニューラルネットをモジュールとして組み合わせる思想だからだ。
よって、GANの解説では基本的な構成よりは実践向けの説明に比重があることが多い。具体的には、実際にはGANのチューニングが困難であることを対策するための実装上のテクニックやブレイクスルーについてだ。
が、俺はエンジニアではないし自分でコードを書いて試すこともないのでそこは割と何でもいい。ニューラルネットは理念と実践がはっきり分かれた分野であり、とりわけ後者はヒューリスティックな知見で稼働しがちだが、それを気にするのは技術者だけでいい。

また、GANと必ず並行して出てくる話題で、書籍を読んでも最後までイマイチわからなかったのが変分オートエンコーダ(VAE)とCycleGANの二つだった。この辺はネットで調べて半分くらいわかってきたような気がするが、あまり自信がない。
VAEについては、「潜在空間を確率分布で表現する」ということが何を意味しているかがよくわからなかった(確率分布のパラメタを取るだけであれば、結局それは潜在空間をパラメタの次元数で構成しているのと同じことでは?)。ただ調べてコードとかを読んだ感じでは、潜在空間から具体的な値を出力する段階で「サンプリングが挟まる」というのが肝っぽかった。学習時に誤差関数を導出する過程でもサンプリングを行って乱数要素を噛ませるということか?
CycleGANについてもだいたいわかったような気がする。CycleGANの解説では「領域(domain)」という概念が大した説明もなく出てきてビックリしていたのだが、要するにある一つの生成系が生成しそうなものの集合を領域と呼んでいるくらいの認識で良いのだろうか。例えば「ピカソのデータで学習した生成系が生成しそうなもの」が領域P、ダヴィンチのバージョンが領域Dだったとして、PからDへの写像を取るというだけの話か。というかサイクル一貫性損失を最初に考えた人が賢すぎて震える。

 

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

TSUTAYA歌舞伎町が遂に閉店するということで、記念に何か借りておこうと思って適当に借りたやつ。このTSUTAYAには大学時代からたびたびお世話になっており、一時期はプレミアム会員の借り放題にも入っていた。とはいえ、TSUTAYAサイドの不手際で勝手に解約されてから再契約するのが面倒で放置していたのは閉店の遠因かもしれない。

日本オタク界隈では斎藤環が紹介したことで妙に知名度のあるヘンリー・ダーガーではあるが、このドキュメンタリーでも何となく知っていることをインタビューとかで延々語られるだけで終わってしまった。
ダーガーを語るという営みが割と不毛な感触がするのは、まあ単純に肝心の『非現実の王国で』が極々一部しか翻訳どころか編纂もされていないからだろう。見てもいないアニメの作者について語るオタクみたいな歯切れの悪さをどうしても感じてしまうのだが、それはダーガーとその作品のことをも映画館で1500円を払って鑑賞するようなごく普通の商業作品だと思おうとする資本主義的消費態度の方に問題があるのかもしれない。

今でも「ダーガーみたいに死後評価されたい」と言っているオタクはワナビ界隈には一定数いるようであり、あまりの浅ましさにびっくりするが、その戯言の自己矛盾ぶりは若干頭に残らないこともない。
本当の奇跡はダーガーの存在というよりはダーガーが発見されたことであり、発見されなかったダーガーがどれだけいるのかはまさしく観測不可能であるが故に予想も付かない。当時のように紙媒体であれば物理的な痕跡が残ったものを、一秒で掃いて捨てられる情報メディアで創作することが標準となった現代においてはその奇跡の発生確率は塵ほどもない。自分だけのSSDにテラバイト単位のオリジナル小説と挿絵を描き溜めている現代のダーガーが何人いるのか、一人もいないのか。

どうでもいいが、「女性にペニスが描かれているのはダーガーが童貞すぎて女性にはペニスが付いていないことを知らなかったのではないか」とかいうクッソ適当な罵倒を事あるごとに受けているのがかわいそうだと思った。そんなことあるか?

 

魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st/2nd

なのはシリーズはStrikerSまで見ていたが、そろそろアニメ作品くらいは全部見てしまおうと思って見た。
1stと2ndは既にテレビ放送版を見ていたものと同じ内容なので改めて思うところは特にないが(関心が無さすぎてテレビ放送版の切り貼りなのか新規リメイクなのかもよくわかっていない)、俺はA's信者なので、なのははA'sだけのコンテンツというかA'sのために生まれてA'sの残響を追っているコンテンツという印象はある。

 

魔法少女リリカルなのは Reflection/魔法少女リリカルなのは Detonation

ぼちぼち面白かった。StrikerSの流れを放棄してA'sの系譜に戻っているのが嬉しい。アミタお姉ちゃんが好きです。

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ただ、良くも悪くもA'sそのものであって、先鋭化はしているが発展は特にしていないという感じ。
もともと無印からA'sにかけては愛と寛容の母性的なモードが物語を駆動していたのに対して、StrikerSでは規範や賞罰という父性的なモードが登場したのだが、結局後者は全然上手く扱えなかったし何だったんですかみたいな話は以前にも書いた。

saize-lw.hatenablog.com

高町なのはのフィロソフィー「話せばわかる」はどんな悪事も交渉と事情次第では不問に帰すことを含意しているのだが、なのはシリーズは美少女コンテンツであるためにその対象は美少女に限られていることは言うまでもない。とはいえ、高町なのはダブルスタンダードの容姿差別主義者になることを回避するため、「美少女無罪」は登場人物の思想というよりはプロットや設定に押し付けられている。
つまり美少女は絶対に悪役にしないし、ならない。容姿が良い限りはやむを得ない事情と黒幕が用意されている。実際、黒幕はキリエ→イリス(&ディアーチェたち)→フィルまで遡っていき、フィルからはもう遡らないのは案の定どころではない。美少女はどれだけ敵対していようと更なる黒幕に罪を押し付けてなし崩し的に味方になっていくが、最終的に敵として登場するおっさんについてはそれ以上省みられることもなく、単に廃棄処分されていく。フィルは美少女ではなくおっさんであるが故に悪である……というよりは、悪であるが故に美少女ではなくおっさんなのだろう。

元はと言えば、無印ではプレシアまで辿り着いた瞬間に救済は停止したし、A'sでも騒動の元凶は闇の書を改悪した誰かに押し付けられた。A'sは何となく美少女であるところのリインフォースと和解してめでたしめでたしみたいな雰囲気になっているが、設定上は更なる黒幕がいたはずだ。そういう真の悪であるところの(恐らくは)おっさんにまでは和解を踏み込まない偽善的な構成がどこまでも貫徹されている。

ただ、最後の最後でなのはが「自分のことを好きではない(他人を愛せても自分を愛せない病的な気質がある)」みたいなことを突然言い始めてビックリした。愛の輪の中心に位置するなのはが自分を台風の目として除外していたこと、なのはは自分のことを調整弁としてしか見ていないこと、なのは自身は偽善に対して自覚的で自分までも信じ込んで巻き込むことが出来なかったという話ならかなり面白いと思う。
このなのはの歪んだ自己認識はいずれどこかで掘り下げてほしいものだが、なんだかなのはシリーズ自体がそろそろ歴史的な遺物として埋却されていきそうな現状からして望みはあまり濃くない。

 

魔法少女リリカルなのは Vivid

見た目的にA'sの系譜かと思っていたら、意外にもA'sとStrikerSを折衷したような正しい後継作品だった。

次元規模で世界の危機を巡る戦いが展開していた過去シリーズとは対照的に、Vividの話はとにかくスケールが小さい。戦いは数メートル四方のリング内に収まっており、闘争はスポーツルールの中に囲い込まれた世界でしか発生しない。
一見すると、なのはたち先人の尽力によってA's系が夢見た愛に満ちた世界が訪れたようだが、その背景にはスポーツのルールとマナーという強力な規範が完成していることは見逃せない。最初から法に囲い込まれていてそこから逸脱しない限りにおいてあらゆる対話と交渉が可能になるような世界、父の中に囲い込まれた母というディストピアワールドがあるだけだ。リングに囲われた殴り合いは秩序に監視された模擬戦に過ぎない。
かつて高町なのはが語っていた「話せばわかる」が法の無い暴力が吹き荒れる世界の中で何とかして愛を立て直そうとする試みだったとすれば、ヴィヴィオがリングの中で語るそれは規範で補強された安全圏から発せられる手温いメッセージに過ぎない。これに感化されたメインヒロインであるアインハルトは路上のバーリトゥードからリング上のスポーツへ、すなわち法なきアナーキーな世界を脱して出来合いの法が支配するスポーツの世界を謳歌するように変化していった。
こうした法の発動というモチーフはStrikerSからの流入だろう。StrikerSでは組織の規律として正面から扱おうとした結果全く魅力のないものになってしまったが、Vividでは内面化されたスポーツルールという形態を取ることでその上に愛と交渉というA's的なモチーフを打ち立てることに成功し、その意味でVividは正しくA'sとStrikerSの後継である。

ただ、明らかに2クール予定で準備されていた内容が途中で打ち切られていたので、本来であれば2クール目ではA'sのように世界の危機を巡る戦いがスタートして、スポーツという枠組みの外での剥き出しの愛による闘争が描かれる予定だったのかもしれない。
それは打ち切りになってしまった今はもうわからない、というのは嘘でメディアミックス作品なのでコミックスを読めばわかるのだが、そこまでコミットするやる気がないのでいずれ覚えていたら目を通したい。

実際、スポーツの枠組みを出ようという気配は何度か伏線としてチラついている。
例えば1話でなのはがヴィヴィオに「大人化の力は試合でしか使っちゃいけないよ」みたいな釘をわざわざ刺していたやつは普通に考えてあとで破るフラグだろう(約束を破るときに回想で出てくるシーン)。また、コロナが試合の途中で自分自身を身体操作の対象にする奥義を完成させかけたこともあり、そこで試合を度外視した人生規模の戦いが発生しそうな気配があった。
というか、明らかに2クール目で扱うために用意されていたストーリーラインはアインハルトが抱えている先祖の記憶だろう。アインハルトが遺伝によって受け継いでいる先祖の闘争はルールを度外視した世界の話だ。スポーツのルールに従うようになったアインハルトが記憶との折り合いをどう付けるのかという話が、2クール目には想定されていたとみた。

 

Re:ゼロから始める異世界生活 Memory Snow/氷結の絆

別に見なくていいタイプのFDだった。
リゼロはつくづくスバルの死に戻りという主題だけで回っており、それ以外は全然面白くないということを再確認してしまった。例えばキャラ萌えだとか、エミリアの被差別というようなサブストーリーをそれほど評価しているわけではない。
我々と美的規範が異なる世界で虐げられている奴隷美少女に優しくするみたいなよくあるやつ、性欲を発露するだけで感謝されるのが気持ちいいというのはよくわかるが、そういう自慰行為はDLsiteとかfanzaでやろう。