LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/6/13 2020年5月消費コンテンツ

2020年5月消費コンテンツ

 月ごとの消費コンテンツをまとめるやつの5月版。飽きるまでやります。

前回はコチラ↓

saize-lw.hatenablog.com

メディア別リスト

映画(19本)

アキハバラ電脳組 2010年の夏休み
ペンギン・ハイウェイ
・劇場版 機動戦艦ナデシコ
聲の形
未来のミライ
・バケモノの子
・君の膵臓を食べたい
・若おかみは小学生
ドニー・ダーコ2
・アラーニェの虫籠
X-MEN
・名探偵ピカチュウ
X-MEN2
X-MENファイナルディシジョン
・トラジディ・ガールズ
イヴの時間
・デッド・ガール(Some Kind of Hate)
GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊
イノセンス

アニメ(102話)

今期放送中のものは除く。

アキハバラ電脳組(全26話)
とある魔術の禁書目録1期(全24話)
・ID INVADED(全13話)
Angel Beats(全13話)
機動戦艦ナデシコ(全26話)

書籍(4冊)

・遅いインターネット
・死生学のすすめ
・プレップ倫理学
・メタ倫理学入門

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

【映画】GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊
【映画】イノセンス

消費して良かったコンテンツ

【映画】アキハバラ電脳組 2010年の夏休み
【アニメ】機動戦艦ナデシコ
【書籍】メタ倫理学入門
【書籍】遅いインターネット
【映画】ドニー・ダーコ2
【映画】X-MEN
【映画】X-MEN2
【映画】X-MENファイナルディシジョン

消費して損はなかったコンテンツ

【アニメ】アキハバラ電脳組
【書籍】プレップ倫理学
【映画】聲の形
【映画】未来のミライ
【映画】トラジディ・ガールズ

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

【映画】劇場版 機動戦艦ナデシコ
【アニメ】ID INVADED
【アニメ】とある魔術の禁書目録1期
【映画】君の膵臓を食べたい
【アニメ】Angel Beats
【書籍】死生学のすすめ
【映画】イヴの時間
【映画】デッド・ガール(Some Kind of Hate)
【映画】バケモノの子
【映画】名探偵ピカチュウ
【映画】アラーニェの虫籠

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

【映画】若おかみは小学生
【映画】ペンギン・ハイウェイ

ピックアップ

【映画】GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊/【映画】イノセンス

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再視聴したが、さすがに傑作。

人間と人工物の狭間にある生命概念について扱っており、押井守が気持ちいいのは「情報生命体が生物と言える根拠はない」「生命の定義自体が曖昧だから」とはっきり述べてしまえること。こと哲学的な話題となると、大したことのない話を神秘化してさも大層なことであるかのように語ってしまう人が多い。不可知論や定義問題の前で解決する気もなく足踏みしたところでリターンは無い。

GHOST IN THE SHELL』では草薙素子が人間から人工物へ、人形遣いが人工物から人間へと向かう。中間地点で二人は融合して境界例としての情報生命体が誕生するという、純粋なシンメトリーの構図が描かれる。
続く『イノセンス』では人形が意志を持つかのように動くことで事件がスタートする。これは一見すると『GIS』で人形遣いが人工物から人間へ向かったことの焼き直しに過ぎない。しかし、最後には「実は人形に人間のゴーストを移植していただけだった」ということが明かされる。『GIS』では人間と人工物の融合が果たされた一方、『イノセンス』では最初からそんなことは起きていなかったのだ。「捕らえられた少女たちが逃げるために人形を暴れさせていた」という真相を受けてのバトーの台詞が素晴らしい。

バトー「犠牲者が出ることは考えなかったのか? 人間のことじゃねえ、魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか」
少女「だって、私は人形になりたくなかったんだもの!」

GIS』とは異なり、『イノセンス』では人間と人形は決定的にわかりあえない。草薙素子を知るバトーは人形に肩入れしてしまう一方、少女は人形になることをはっきりと拒む。人間の腕に抱かれ物言わぬ人形をバトーが見つめる不穏なカットで『イノセンス』は終わる。

総じて、『GIS』と『イノセンス』では全く真逆の事態が起きている。『GIS』では草薙素子という存在が人形遣いと融合したのに、『イノセンス』ではバトーという認識が人間と人形の間で引き裂かれる。『GIS』では草薙素子を中心に存在論的な相生が描かれたのに対して、『イノセンス』ではバトーを中心に認識論的な相克が描かれたと言えよう。
二作まとめて完璧すぎる映画。

【映画】アキハバラ電脳組 2010年の夏休み/【アニメ】アキハバラ電脳組

saize-lw.hatenablog.com

最初はかなり面白くて途中でつまらなくなったけど終盤と劇場で盛り返したみたいな感じ。見るなら映画だけじゃなくてアニメ版から全部見た方がいい。

【書籍】遅いインターネット

saize-lw.hatenablog.com

saize-lw.hatenablog.com

結局2回も関連記事を書いてしまった。かなりナウい内容なので、読んで損をしないのは間違いない。

【アニメ】機動戦艦ナデシコ/【映画】劇場版 機動戦艦ナデシコ

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かなり面白い。
戦争をどこまでも泥臭く地に足の付いたものとして描こうとする試みが本当に良かった。主人公がコックとの二足草鞋でパイロットをしている点、所属する組織が軍事組織ではなく民間企業である点、アバンでルリルリが前回の内容を「ちょっとありきたりかな」などと俯瞰して見せる点など、設定や構成もよく練られている。
とりわけ「美化された戦争」を象徴するのはゲキガンガーであり、その挫折を象徴するのがダイゴウジガイのあっけない死。主要登場人物の死を軽く早く描くことで死から感動を剥ぎ取るという手口には感動した。

作中最大のキーだった木星蜥蜴の正体判明以降の盛り上がりが凄まじく、第16話でアキトが露悪的な戦争という現実を引き受ける「『僕たちの戦争』が始まる」、第17話で戦争に耐え切れず発狂して現実を書き換えるムネタケの「それは『遅すぎた再会』」、第18話でそれでも現実を見ようとするルリルリの「水の音は『私』の音」と、キャラと論点を完璧にコントロールした神回ラッシュが続く。

しかし、「これは人生に残る神アニメ確定や……」という俺の期待は最終回と劇場版で裏切られた。内容の良し悪し云々ではなく、ただ単に物語が欠落している。時系列的には最終回から劇場版の間の部分が一番描くべき部分だったはずだ。マクロに見て結局戦争はどう収拾されたのか、ミクロに見てアキトはゲキガンガーにどう決着を付けたのかが一切描かれていない。最も期待していた部分が完全な空白、小説で言えばほとんど絶筆状態に近い。
何故こんなことになってしまったのか。本当に惜しい。最高のポテンシャルが意味不明な破綻をして訳のわからないコンテンツになってしまった。

あとルリルリが劇場版で成長してて悲しかった……

【映画】ドニー・ダーコ2

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ドニー・ダーコは1も2もぼちぼち面白いのだが、説明不足すぎて内容が絶望的にわかりにくい。

eiga-kaisetu-hyouron.seesaa.net

このブログが良くて、ここに全部書いてあるので俺が書くことが何もない。ちなみに俺はこのブログを読んで初めて「ドニー・ダーコっていい映画だったんだな」と思った。

【映画】X-MEN/【映画】X-MEN2/【映画】X-MENファイナルディシジョン

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X-MENシリーズのスピンオフであるところの『デッドプール』を見るためにX-MENシリーズを一から見始めたがかなり面白い。

ヒーロー映画としてのX-MENシリーズが優れるのは、特殊能力を持つミュータントが決して一人二人の特異点ではなく社会全体に偏在していることだ。それによってヒーローたちは特殊能力をアイデンティティにすることができなくなり、ミュータントvs人間という差別を含む社会の中で上手く立ち位置を確保することが求められる。MCUが『エイジ・オブ・ウルトロン』以降に扱ったテーマを別の角度から深化させている。

特に『X-MEN2』でマグニートーが虐殺対象を反転させるシーンは本当に鮮やかだった。『X-MEN2』ではミュータントの殲滅を目論むストライカーが当面のヴィランであり、彼はプロフェッサーXの能力を利用して地球上のミュータントを皆殺しにすることを目論む。X-MENへのマグニートーの協力によってそれは阻止されるのだが、マグニートーはストライカーが使った能力をそのままそっくり反転させて今度は人間の皆殺しを試みるのだ。
つまり、人間の肩を持ってもミュータントの肩を持っても行き着くのは虐殺である。それを防ぐためには「人間とミュータントのどちらに味方するか」や「悪の人間(or悪のミュータント)を倒せるか」という単純な二項対立ではなく、どちらにも配慮した上で適切なバランスを取ることが求められる。全てはバランスの問題なのだ。それ故、X-MENシリーズでは味方が敵に寝返ったり、敵が味方になることも非常に多い。最大のヴィランであるマグニートーですらX-MENと協力していることがよくある。

また、作中で最も「正義の味方」寄りのヒーローであるプロフェッサーXですらも正義を調整する難しさからは逃れられていない。プロフェッサーXは徹底して人間とミュータントの平和的共生を目指す「良い人」なのだが、その目的を果たすためには危険な力を持つミュータントの記憶を操作することも厭わず、それが軋轢を生むことが多々ある。プロフェッサーXが精神操作能力を持つことは、正義の行いですら少し間違えれば独善的な押し付けに反転しかねないことを示している。

【映画】聲の形

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面白かった。
「聴覚障碍者のヒロインをいじめた主人公が罪を償う話」くらいのことは前から知っていて、正直かなりしょうもない話ではないかと思っていたが、全然しょうもなくない話で楽しめた。

この映画のポイントは主人公とヒロイン(西宮)がもう既に大人であることだ。
高校生編が始まった時点で西宮は小学校時代にいじめられたことを根に持ってはいないし、結絃がネットで復讐すればきちんと怒りもする。主人公も強すぎる罪の意識を感じていて、手話を覚えたり誠実に謝罪したりする。
許すことも謝ることも、少なくとも表面的にもう既に終わってしまっている程度には二人は大人だ。そしてそれ故に主人公は自己嫌悪から逃れる契機を逸する。「雨降って地固まる」とはよく言ったもので、いっそいがみ合っていれば和解して仲直りができたものを、そうでなければ一体どのタイミングで贖罪は終わるのだろう?

最終的に主人公が自己嫌悪を抜け出せたのは自分の命を賭けたからに他ならない。偽善を超えた真意の証明は(疑似的な)死による償いでしか有り得ないのだ。それは決して気持ちの強さについて言っているのではなく、ちゃんと論理的な理由がある。人は死んだ瞬間に利害主体であることができなくなるので、自殺することは「利害を求めて行為しているわけではない」という証明になる。主人公が冒頭から自殺を試みていたのは慧眼だ。

更にこの映画には「可愛い女の子を救済装置として扱ってきたこと」への問題意識も読み込める。
新海誠を挙げるまでもなく「可愛い女の子を救い、彼女に許されることで全ての問題が解決する」という作品は枚挙に暇がない。可愛い女の子を救うことを目的にしているように見えて、その実主人公のトラウマを解決するための手段として用いているという、カント主義的な意味で不道徳なオタク作品はいくらでもある。
聲の形』でも、西宮は「可愛すぎる」という致命的な問題を抱えている。恐らく意図的に、西宮は主人公の自己嫌悪を解消する救済装置として都合の良いキャラクターを付与されている。だからこそ主人公は却って「果たして許されていいのだろうか」と煩悶することになるのだ。
そんな西宮の問題点を剔抉するのは植野さんだ。植野さんは主人公のみならず西宮を攻撃し続ける唯一のキャラクターであり、西宮が都合の良い人間であることを決して許さない。「西宮が人間として振る舞おうとしないことに全ての原因がある」と執拗に責め立てる植野さんこそ、この映画で最も重要なキャラクターである。

とはいえ、その試みは実ったとは言い難い。もちろん形式的には、西宮が自殺未遂を行うことで主人公と鏡写しのように「自己嫌悪と偽善」という問題を抱えていたことが明らかになり、喧嘩両成敗のような形で二人の関係も収束を見る。しかし、主人公の加害行為と西宮の自殺行為はどう好意的に見てもシンメトリーではない(主人公には西宮を助けないという選択肢もあった)。結局のところ、西宮に不当な重荷が背負わされたままであるという違和感は拭えなかった。

【映画】未来のミライ

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面白くはないが、家族主義者である細田守の保守的な世界観が最もダイレクトに出ていて見る価値が高い。これが間違いなく彼の代表作だ(俺は細田守が好きではないが、好きではないことを確かめるために長編作品をちゃんと全て見ている)。

家族の血脈を過去・現在・未来に渡って保持する木が家の中央に聳え立っており、主人公の「くんちゃん」はそれにアクセスすることで初めて人間として成長できるという、個人のアイデンティティよりも家族のアイデンティティの方が先行していることを示す象徴的な構図が染みる。大木=家族の家系図は不確定なはずの未来までも永遠に保証し続ける、守り神の如き超越的な存在だ。
特に、駅での迷子案内シーンはよく思い付くものだなと思った。突然訳の分からない世界に放り込まれた迷子のくんちゃんが自分の立ち位置を知るためには、家族の情報を知っていることが必要になる。確かに「迷子案内」とは自分のアイデンティティを捜索者としての父母に仮託する営みであり、「家族の存在が個人の存在を担保する」という家系図崇拝の縮小版であろう。

【アニメ】ID INVADED

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ぼちぼち面白かった。
「犯罪絡みの精神世界にダイブする」という発想は『ザ・セル』『インセプション』『マイノリティ・リポート』などアメリカ映画によくあるものだが、その変奏として「探偵と謎解き」というガジェットを導入したところに『ID』の面白さがある。
ラスボスのジョン・ウォーカーの造形はやや陳腐で無意識という題材にもあまりそぐわないような印象もあるが、ビジュアルや複雑な設定の独特さも込みでエンタメとして面白い。

【アニメ】とある魔術の禁書目録1期

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何もかもが懐かしく、ゼロ年代ライトノベルの総決算的なアニメだったんだなと思った。

なんかこういう設定モリモリのライトノベルが最後に輝いた作品って多分このあたりなんだろう。確かに「この手のライトノベル」で超常的な能力の根拠になっていたモチーフってざっくりSF・超能力・技術系の「科学サイド」か、伝承・呪文・言霊系の「魔術サイド」しかないような気もするし、その二つをまとめてしまったところに総決算感がある。

話がめちゃめちゃキモくて「当時のラノベ、こんなにキモかったっけ?」ってビックリしてしまった。どのエピソードも「可愛い女の子がいじめられる→いじめてるやつをぶっ倒す」みたいな話だ。父親との関係を扱うエンジェル・フォールの一件は例外として、登場人物だけを入れ替えた同じ話が無限に続く。クローンとか共同幻想とか一見すると「何か深そうなモチーフ」を扱っているように見えて、その実「自信の持てない女の子」を無限供給するためのネタを仕込んでいるに過ぎない。
特に上条当麻が本当にキモく、普段は敬語を使ったり腰が低かったりと弱者のフリをしている癖に、ヒロインを助ける肝心なシーンでは浅薄なヒューマニティを振りかざして説教を行う父権的な存在に変貌する。この作品がセカイ系と言われているところはあまり見ないが、この手の気持ち悪さは明らかにセカイ系から引き継いで煮詰めたものだろう。当時こういうものがカッコイイとされていた風潮は今の異世界転生から見ると明らかに時代遅れで、「たった一人の女の子を守るヒーロー」的なラノベ主人公像って本当に一過性のブームだったんだなと思った。

【アニメ】Angel Beats

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「オタクが考えるDQNの青春」という感じだが、退屈せずに見られる程度には面白かった。
明確に称揚される、「悲惨な人生を美化することも風化させることもなくただただ受容する」というそれなりにラディカルな思想がどういう文脈で出てきたのかは興味深い。俺はKeyコンテンツにあまり触れてこなかったので特に言えることは無いが、KeyオタクがAngelBeatsで提示されたソリューションについて何か通史的な分析をどっかでしていそうだ。

【映画】君の膵臓を食べたい

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この『君の膵臓を食べたい』という映画、話がめちゃめちゃ気持ち悪くてビックリしてしまった。
「冷笑的なラノベ主人公を明るいヒロインが全肯定する」というオタクの憧れを周到なロジックを何重にも用意して完遂している。気持ち悪さのレベルが頭二つ三つ抜けていて、一つの特異点ですらある。そんじょそこらのライトノベルのキモさでは全く歯が立たない。タイトルを『オタクの妄想の完成形』に変えてほしい。

他人への関心がないと嘯くやれやれ系のネクラ主人公に対して何故かネアカ女がグイグイ押してくるというのは村上春樹っぽいが、この映画では主人公のそんな冷笑的な態度こそが「他の人とは違って本当の私を見てくれる」という理由でヒロインから肯定されるのが一味違う。「やれやれ系主人公」が持つ無責任さは全く問題とならず、むしろヒロインが好意を向ける理由になるところに一つコミュニケーションの転回がある。それに加えて主人公以外が行うコミュニケーション、すなわち他人に関心を持ってきちんと接する態度をうわべだけの気遣いとして否定することも忘れない。

この転回はヒロインの死によって果てしなく強化される。この映画の真骨頂は、死んだヒロインが遺書の中から発する「私たちの関係は恋とか友情とかそんなありふれたものじゃないよね」というあまりにも完成度の高すぎるセリフに集約されている。
ヒロインを死なせることでもう誰にも触れられない不可侵領域に安置し、精神的ダッチワイフとして所有する手口自体は珍しいものではない。しかし、『君膵』ではあらかじめヒロインが主人公の「社会から距離を置いた態度」を肯定することで、コミュニティからの離脱までも肯定しているため、世俗から離れた地点で主人公とヒロインが特別な関係を結ぶことが可能になる。恋とか友情じゃなかったら何なんだ?と聞きたくなるが、「世俗から離れた特別な場所で行われる」=「一般的なコミュニティで行われる営みではない」=「一般に流通しているワードでは表せない」という否定にこそ関係の本質があるため、恐らく答えが返ってくることはない。

村上春樹的な無責任な態度を肯定し、それによってセカイ系的な特権性を確保するという、「捻くれたオタク男の憧れ」を極めたキメラがここにある。そんな回路を周到に構築し、表面的にはヒロインと死別して成長するありふれた恋物語としてパッケージングする手腕は凄まじい。

【映画】イヴの時間

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申し訳ないが、俺が一番嫌いなタイプのロボット・アンドロイド映画だった。

アンドロイドの内面が存在することを自明に想定してしまってよいのであれば、それはもう「アンドロイドとどう接するか」という話ではない。せいぜい「社会制度としての奴隷とどう接するか」「精神障碍者とどう接するか」という話であり、そうした社会的・精神的な人間の欠陥をアンドロイドという技術的な問題に偽装しているようにしか思えない。

とりわけアニメでそれをやることに対して俺が拒否反応を強く持つのは、「無機物に内面を読み込む」という営みは(決してアンドロイドではなく)アニメが行うものだからだ。我々は単なる絵のパラパラ動画に過ぎないはずのアニメキャラクターに内面を読み込むことが当たり前にできる。それこそが"animate"=<生命を与えること>であり、アンドロイドキャラクターに内面を設えられるのは全てアニメーションの功績だ。
皮肉にも、『イヴの時間』作中でも人間として描かれている主人公に対して我々が自明に内面を読み込めてしまうことがそれを証明する。ただの絵に過ぎないはずの主人公に内面を汲み取れてしまうならば、ただの絵に過ぎないはずのアンドロイドに内面を汲み取れて当たり前だし、むしろそれが出来ない方がおかしいのだ。アンドロイドの内面というテーマは最初から成立していないどころかアニメの力能を窃盗しているに過ぎない。

【映画】名探偵ピカチュウ

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地上波放送されたらしいのでBDをレンタルして見た。俺は映画の地上波放送を信用しておらず、「ノーカットと銘打ってあっても実は1Fくらいカットしているのでは?」と疑っているので映画をテレビ放送で見ることはまずない。見たければ自分で借りてくる。

話自体は面白くなかったが、トピックとしてはそこそこ面白かった。

舞台になるライムシティが「バトルもボールもトレーナーもない街」とされているのがポケモンコンテンツとしてはそれなりに斬新だ。ポケモンはどうしても元々のゲームジャンルの都合で人間とポケモンの主従関係を捨てきれないが、そろそろ人間との関係ではなくポケモン自身の在り方にも注目して良いのではないか。野生に生息する獣としてポケモンを描いた『ポケモンスナップ』は今でも根強い人気があるし、『ポケモンGO』でも捕獲よりは生息の方に力点があるだろう。
ただし、ライムシティでも結局のところ「パートナー」という形で事実上の主従関係は存在しているし、ポケモンバトルも行われており、この方針転換がそこまで活かされていたとは思えない。

話のプロットについても、もう少し深く掘り下げてほしかったという消化不良感がある。「進化によって人類とポケモンが同一化する」というのは普通に面白い話だと思うし、『ミュウツーの逆襲』においてもミュウツーがクローンを通じて人間やポケモンアイデンティティとは何かと問うた視点にも繋がるものがある。
しかし、この映画ではただ「悪役が悪っぽく暴れてるから止めなくちゃ」という程度の話にしかならなかった。恐らく何か継承してきた問題意識があったわけではなく、「ピカチュウがおっさんだったら面白いよね」→「ピカチュウの中におっさんの魂を入れられる能力があることにしましょ~」みたいな感じでトップダウンで適当に決められた設定なのだろう。