LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/7/24 2020年6月消費コンテンツ

6月消費コンテンツ

6月の消費コンテンツは映画と書籍に寄っていて、代わりにアニメ・特撮は全く見なかった。理由は特になく、6月はそういう気分だったというだけだ。

メディア別リスト

映画(27本)

X-MEN: ファースト・ジェネレーション
X-MEN: フューチャー&パスト
X-MEN: アポカリプス
ウルヴァリン: X-MEN ZERO
ウルヴァリン: SAMURAI
ローガン
デッドプール
デッドプール2
仮面ライダーアギトスペシャル 新たなる変身
劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4
リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い
アヴァロン
キル・ビル
キル・ビル2
スターリンの葬送狂騒曲
聖なる鹿殺し
ルパン三世 カリオストロの城
キック・アス
キック・アス/ジャスティス・フォーエバー
フォレスト・ガンプ
人狼
動物農場
呪怨
リング
エルム街の悪夢
ローマの休日
ウォッチメン

書籍(5冊)

現代思想2019年6月号 特集=加速主義
これがニーチェ
ディヴィッド・ルイスの哲学
動物からの倫理学入門
カント『純粋理性批判』入門

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

【映画】ウォッチメン

消費して良かったコンテンツ

【映画】劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4
【書籍】これがニーチェ
【書籍】ディヴィッド・ルイスの哲学
【書籍】カント『純粋理性批判』入門
【書籍】動物からの倫理学入門

消費して損はなかったコンテンツ

【映画】聖なる鹿殺し
【書籍】現代思想2019年6月号 特集=加速主義
【映画】X-MEN: フューチャー&パスト
【映画】X-MEN: アポカリプス
【映画】デッドプール2
【映画】ローガン
【映画】X-MEN: ファースト・ジェネレーション

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

【映画】アヴァロン
【映画】フォレスト・ガンプ
【映画】デッドプール
【映画】動物農場
【映画】ルパン三世 カリオストロの城
【映画】キック・アス
【映画】キック・アス/ジャスティス・フォーエバー
【映画】ウルヴァリン: X-MEN ZERO
【映画】ウルヴァリン: SAMURAI
【映画】人狼
【映画】ローマの休日

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

【映画】キル・ビル
【映画】キル・ビル2
【映画】呪怨
【映画】リング
【映画】エルム街の悪夢
【映画】リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い
【映画】仮面ライダーアギトスペシャル 新たなる変身
【映画】スターリンの葬送狂騒曲

ピックアップ

【映画】ウォッチメン

saize-lw.hatenablog.com

かなり面白かった。MCU見る前にウォッチメン見た方がいいぜ。

 

【映画】劇場版 仮面ライダーアギト PROJECT G4

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特別面白くはないが、アギトで一番重要な作品はこれで間違いない。クウガ龍騎の間を思想的に橋渡しする役割を担っており、仮面ライダーが五代から浅倉に変質するまでの経緯を補完している。

クライマックスで氷川がG4に対して「もういいだろ……もういいだろ!」と絶叫するシーンがこの映画の全てである。
G4が持つ、「戦えば戦うほど傷付いていく、それでも皆のために戦う」という自己犠牲のモチーフが仮面ライダークウガを継いでいるのは明らかだ。五代雄介も皆のために笑顔で戦っていながら実は自分の精神を激しく消耗しており、仮面の下ではいつも泣いていたことが明かされる第48話がクウガで最も重要な回だ(あの泣き顔のためだけに47話分を見たと言っても過言ではない)。そのスタンスを共有するG4が明確に否定されたことで、五代的なヒーローはアギトにおいて挫折した。

ここに来て、アギトにおいて津上翔一が示した「無限の自己肯定」にクウガの対となる立ち位置を与えられるようになる。というのは、津上翔一は記憶喪失でありながら「窓から見た空が綺麗」というだけでそれを気にしないことができる人間だ。現状と自分を無限に肯定する津上翔一=アギトは、自己犠牲と他者へのコミットに支えられた五代雄介=クウガ=G4のオルタナティブであることがPROJECT G4で提示される。

氷川がG4を葬送することによって五代雄介は否定され、津上翔一が立ち上がる。しかし、そのために払った代償は大きかった。
一見すると何の問題もない「無限に自己肯定できるヒーロー」が、自己犠牲の精神を葬ることで生まれた過程を忘れてはならない。そのリスクが顕在化した瞬間、津上は浅倉へと変質する。すなわち、「自分のためだけに戦うヒーロー」の誕生だ。龍騎における浅倉はアギトにおいて既に懐胎していた。
以上、自己犠牲を踏み台にして生まれた自己肯定が暴走して傍若無人の殺人犯に至るという、五代→津上→浅倉のライン取りを示すことでアギトにシリーズ上での立ち位置を与える重要な作品である。

 

【書籍】動物からの倫理学入門・【書籍】これがニーチェ

saize-lw.hatenablog.com

5月あたりから倫理学関連の本を齧っていたが、ひとまずの結論が付いたのでこれで終わる。

 

【書籍】ディヴィッド・ルイスの哲学

デイヴィッド・ルイスの哲学 ―なぜ世界は複数存在するのか―

デイヴィッド・ルイスの哲学 ―なぜ世界は複数存在するのか―

  • 作者:野上志学
  • 発売日: 2020/01/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

そんなにディープな本ではないが、とりあえず誰にでも勧めやすい可能世界論の入門書としてなかなか良かった。
今まで日本語で簡単に読める入門書としては三浦俊彦の『可能世界の哲学』を勧めてきたが、そちらは可能世界論のメリットについて「様相に関する質的で曖昧な議論を、世界に関する量的で明瞭な議論に変換できる」という点に主眼を置いていた。一方、こちらは「可能世界による反事実命題の分析が因果・フィクション・知識などの幅広い応用に利用できる」という点に力を入れて説明している。
いずれも理論を導入する直感的なメリットをはっきり提示しているところがわかりやすく、どちらを読んでもよいと思う(合理的な分析哲学者のサガとして、もともとデイヴィッド・ルイス自身も提唱する理論の用途や有用性を入念に説明する傾向がある)。

更にこの本が優れている点としては、循環論法を避けた明確な定義を明解に与えていることがある。というのは、可能世界論の誤解されやすい弱点の一つとして、「可能性があるから可能世界があるのか、可能世界があるから可能性があるのか?(もしその二つが一致するとしたら様相実在論は空虚な循環に過ぎないのでは?)」という説得力の無さが挙げられる。一応、ルイスは可能性についての曖昧な妄想とは独立に可能世界に関する定量的な議論を与えるような理論をいくつも考えており、例えば世界組み換え原理はその一つだ。そうした理路をしっかり説明することで、妙な神秘化を被らないように配慮されているところが好感度が高い。

補足309:もっとも、ソール・A・クリプキなどは「可能世界は発見するものではなく約定するものだ」と正反対の見解を言いきっており、可能世界界隈(?)のコンセンサスというわけでもないのは注意しておいた方がよいと思う。

 

【書籍】カント『純粋理性批判』入門

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)

  • 作者:黒崎 政男
  • 発売日: 2000/09/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

しっかりした教授が書いた古典の解説書にしては珍しく、非常にわかりやすく地に足の付いた文体で『純粋理性批判』の超越論周りのロジックを解説してくれるありがたい一冊。たぶん事前知識無しでも問題なく読めて、(そんなに選択肢を知っているわけではないが)カントの入門書を聞かれたらこれを挙げると思うようなポジション。

 

【映画】X-MEN: ファースト・ジェネレーション・【映画】X-MEN: フューチャー&パスト・【映画】X-MEN: アポカリプス

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X-MENは『ファースト・ジェネレーション』まで同じような内容を繰り返し続けており、「プロフェッサーXとマグニートーの断絶」や「社会での人間とミュータントの対立構造」は見飽きたしそろそろ飽きてきたな……と思ったところで『フューチャー&パスト』がブッ込まれてビックリした。
『フューチャー&パスト』では『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』をスキップしていきなり『アベンジャーズ/エンドゲーム』の冒頭が始まる。謎の崩壊した世界には今やミュータントしかおらず、そこで展開するのはミュータントを狩る殺戮マシーンとの戦いだ。人間が消滅したことで利害主体同士の政治的な闘争は雲散霧消し、シンプルに生存を巡る動物レベルの闘争が代わりに現れてくる。
タイムワープとか色々あった末、人類とミュータントの関係がバチバチの対立関係からお行儀の良いリベラル的寛容を基調にした協調関係に書き換わり、ここでシリーズの路線そのものが転換する。そこまで相容れない断絶を代わり映えもなく延々と描いてきたというのに、何故か一気に多文化主義の夢が花開く(これはMCUと同じ末路だ)。

この和解ではミスティークが最大のキーになっている。『フューチャー&パスト』に限ったことでもなく、X-MENシリーズで最も重要なキャラクターは恐らくミスティークだ(「実はこの人はミスティークでした」オチの多用で脚本作りを相当楽にしていることもその功績に含めてもいい)。
ミスティークは「本来の醜い外見」=「迫害されるミュータントとしての姿」と、「変身能力による擬装」=「社会に溶け込める人間としての姿」を自由に使い分けられる。それ故に逆説的に彼女はミュータントである本来の自分の姿にこだわってミュータントとしての自己実現を望んでおり、そんな彼女はマグニートー側に付かざるを得ない経緯は『ファースト・ジェネレーション』のラストで描かれた。ミスティークこそ、人類とミュータントの対立をその身体の両義性で表す、利害闘争というテーマの象徴だったのだ。ミスティークが『フューチャー&パスト』では遂に人類を救う行動を選択したことで、闘争路線から協調路線へというX-MENシリーズ最大の転換が発生する。

その後の『アポカリプス』で起きた決定的な変化として、マグニートーが遂にX-MENの味方として世界を防衛したことが挙げられる。今までマグニートーはずっと「一時的には協力するが、肝心なところで裏切るヴィラン」だった。それが完全に逆転し、『アポカリプス』では「一時的には裏切るが、肝心なところで協力するヒーロー」となった。これが『フューチャー&パスト』で発生した協調路線への転換に起因することは言うまでもない。『アポカリプス』で最も重要なキャラは明らかにマグニートー(の変化)であり、それに比べれば本来のラスボスとして措定されたエジプト神(?)か何かは添え物のようなものだ(彼はタイムワープ前のマグニートーに近い思想を持っており、『アポカリプス』は旧マグニートーvs新マグニートーの戦いだったとも言える)。
また、マグニートーの変心のための理由付けとして、『フューチャー&パスト』で書き換わった世界では「本来マグニートーは家族愛に溢れた人間だった」という設定が後付けされる。愛する家族を殺されてヴィランと化したものの、息子であるシルバークィックの説得によって家族愛を復活させられるらしい。『フューチャー&パスト』以前では世界レベルで大義を持つスーパーヴィランだったのが、『フューチャー&パスト』以降では家族レベルの利害にまでに縮退していることが伺える。政治的な闘争がリベラルの理想郷に書き換わり、各々が大義ではなく個人的な領域で活動するようになるという経緯はMCUでの顛末とほぼ一致する(以前詳しく書いた)。

saize-lw.hatenablog.com

ただ、MCUにも同じことが言えるのだが、こうした変化は物語内部からの流れとして正当化されるべき理由は特に発見できない。身も蓋もないことを言えば、「時流的にこうするのがウケる」という商業的意図だけが透けて見えている。ミスティークにせよマグニートーにせよ、トップダウンの要請で協調路線の行動を取り始めただけで、元々バチバチに闘争していた彼らがキャラクターとして協調すべきだったとは全く思われない。そのあたりがMARVELの限界のような感じはある(DCEUはまだもう少し違う回答を提出できそうな気配がある)。

ところで、X-MENシリーズは能力バトルとしての完成度がかなり高く、特殊能力の描写はヒーロー映画でも随一だった。能力の使用シーンがめちゃめちゃカッコよく、非常に作画の良いアニメを見ているような感覚がある(それって褒め言葉?)。特に素晴らしいのがテレポーター能力者全般とクイックシルバークロックアップで、シリーズを追うごとに能力描写が洗練されていくのをかなり楽しみにしていた。

 

【映画】デッドプール2・【映画】ローガン

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日本ではデッドプール知名度ばかりが独り歩きしている感じがあるが、本来はX-MENシリーズの外伝作品なのでX-MENを全部見てから見るのが望ましい(ということを言うためだけに俺はX-MENシリーズを全部見たわけだ)。

実際、X-MENを追っていないとわからないのは、『デッドプール2』と『ローガン』が対になっていることだ。『デッドプール2』の冒頭でデッドプール自身が軽く言及しているが、この二作品は時期も話もほぼ同じである。元々、『ローガン』の主人公であるウルヴァリンは高速再生能力、『デッドプール2』の主人公であるデッドプールは不死身能力というよく似た能力を持つ上に、二人とも人体実験で戦闘能力を得た過去がある。

補足310:X-MENを見ていない人はウルヴァリンの能力はあの3本爪だと思っているかもしれないが、あれは後天的に仕込まれた武器である。あの爪を出すたびに皮膚を切り裂く怪我をしているのだが、高速再生能力で治しているだけだ。あの爪を出すたびに結構痛い思いをしているらしいというのを初めて知って俺はかなりウケた。

デッドプール2』『ローガン』ではそれぞれミュータントの子供が登場し、再生系の能力を失ったことで死に直面した主人公たちが子供に何を伝えて何を遺すかというほとんど同じテーマが扱われる。二人とも軍人上がりなので人を何人も殺してきており、闘争で彩られた人生に対するケリの付け方が問われているのも同じだ。本当に話が同じなのだ。ウルヴァリンデッドプールの回答も一見すると似通ってはいる。二人とも子供の自由を尊重し、なるべく子供自身が幸福に生きる道を選んでほしいという基本線は一致する。
しかし、ウルヴァリンが「やつらの思い通りになるな」的なことを言って(言ったっけ? 言ったような気がする)闘争の継続と自由の奪取を伝えて死亡した一方で、デッドプールはとりあえず子供の殺人を止めて生き残る。意外にもデッドプールの方がパターナリズムに寄っており、子供のうちは大人に任せておきなよという社会性のある回答を示しているのだ。
とはいえ、デッドプールが好ましいのはそれは決して道徳的な理由によるものではないし、絶対のルールというわけでもないことである。気に食わないやつは殺すし、結局は子供の前で相手を二回も殺害している。殺さないことで責任を回避するという選択肢はあるべきだが、それはそれとして自らの責任において殺すという選択もあり、デッドプール自身がそれを自ら示している。現実にどんな選択肢を取るかとは別の問題として、取り得る選択肢は多い方がいいに決まっている。

 

【映画】アヴァロン・【映画】人狼

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どっちもあまり面白くない方の押井守だった。
天使のたまご』のように最低限の台詞しか喋らないタイプの作品と、逆に『御先祖様万々歳』のように何でも饒舌に演説しまくるタイプの作品があるが、俺は圧倒的に後者の方が好きだ。

『アヴァロン』の方は「オンラインゲーム世界でのデスゲーム」というSAOの原型とも目される(誰に?)キャッチーで先進的な内容ではある。押井守らしい誠実さを感じるのは、オンラインゲーム内で明らかに現実ステージ(Class: Real)を作っておきながら「実はこっちの方が現実でした」オチを安直にやらないことだ。「ここが現実か否か」は本質的に決定不能問題なので、「真相」としての結論を出したところで大した意味が無い。知り得ないことは語り得ない。だからこそ、Class: Realですらアヴァロンへの扉が開くのだろう。
人狼』の方はケルベロス・サーガで延々とやっているような「軍事と戦争の形骸化」みたいな話の焼き直しで、またそれかいとかなり辟易しながら見ていた。

『アヴァロン』や『人狼』(ケルベロス・サーガ)も全く面白くないわけではないのだが、そこで扱われたモチーフをエンタメ的にも批評的にももっと高度に完成させたバージョンの作品が他に存在しているので、微妙なバージョンをわざわざ見る意義が薄いというのが正直なところだ。こういう「完成度は低いがテーマは直球なバージョン」みたいな作品は『東京無国籍少女』のように今でも割とちょくちょく出てきて、決して全く面白くないわけではないが、見ていてキツくないと言えば嘘になる。
「テーマは入り組んでいるが完成度が高いバージョン」に当たる作品を具体的に挙げておけば、「現実と空想の狭間」を昇華しきったのが『トーキング・ヘッド』だし、「軍事と戦争の形骸化」を昇華しきったのが『パトレイバー2』であることは間違いない。そもそもこれらのモチーフは分離したものでもなく、複数の作品に通底して繋がったり離れたりするアメーバのようなモチーフの一部として押井守作品に潜んでいる。少し音を外した変奏としては、「家族制度という物語の形骸化」という形に落とし込めば『御先祖様万々歳』になるわけだ。

 

【映画】キック・アス・【映画】キック・アス/ジャスティス・フォーエバー

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深いようで別に全然深くない邪道ヒーロー映画。

「ヒーローに憧れる一般人がヒーローになろうとして頑張る話」というのは割とありふれているような気もするが、ナードでヒーローオタクの主人公が甘い理想と厳しい現実の狭間で揺れ動くプロットはそれなりによく作られて入る。
ギャングに挑んだら普通に刺されてガチめの病院送りになったり、軍人上がりの本業ヒーローに遭遇して萎縮してしまったり。特に主人公もヒロインもヴィランも軒並み「父を失った子供」であり、人生に指針を与える父権的なものが消えたあと、それぞれに理想を求めたり現実の厳しさに直面したりするという基本設定には舌を四分の一くらいは巻いてもいい。
とはいえ、『1』でも『2』でも最終的には「色々うまくいかないこともあるけどヒーロー活動ってやっぱりいいよね」的なところに着地してしまうのがあまりにも浅い。浅すぎる。理想と現実の間で葛藤があったならそれを止揚してほしいし、どちらかに落ち着く話で終わっても得るものがない。似た内容の『スーパー!』に比べると、何段階か格は落ちる。

ここまで書いた内容とは全く関係のないフェチズムとして、『キック・アス』では十歳かそこらの子役の女児が物凄い身体のキレで動き回って人を殺しまくるアクションシーンが見られるのは非常にポイントが高い。実は上に挙げた『ローガン』にも似たようなシーンがあり、「人を殺しまくる女児」が見たい人は『キック・アス』か『ローガン』を見る価値がある。

 

【映画】フォレスト・ガンプ

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「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで分からない」という台詞があまりにも有名だが、それは『フォレスト・ガンプ』の本質を捉え損なっているように感じる。俺的には、もっと重要な台詞は「本当は皆それぞれ運命を持ってるのか、それとも皆風に吹かれて漂っているだけなのか、でも僕は両方だと思う……多分両方が同時に起きるんだと思う」の方だ(長い上に釈然としないので流行らないのはわかる)。
冗長な方の台詞で語られているのは、人生のイベントには偶然的なものと必然的なものがあるということだ。「偶然」と「必然」は哲学用語で言うところの様相だが、それぞれ「起きる確率が非常に低いこと」「起きる確率が非常に高いこと」と思ってもらえればいい。これらは数学的には同時に起こることは有り得ないが、人生においては同時に起きうるのだという指摘が上の台詞に込められている。例えばガンプと上官の再会は偶然的なものだと思えば「数奇なめぐり合わせ」だが、必然的なものだと思えば「運命の結びつき」である。こうした感情は同時に発生しうるし、その時々に応じて都合の良い解釈をしておけばよいのだ(様相は実証できないのだから)。

このようにガンプは偶然性と必然性を同時に肯定しているのだが、「人生はチョコレートの箱、開けてみるまで分からない」の方は偶然的な側面についてしか語っていないことに不満が残る(もし必然的なら開けなくてもわかる)。同じ不満は日本語版でのみ付加された「一期一会」などというナンセンスなサブタイトルにも向けられる。「一期一会」では偶然性しか表現されないし、作品内でも同じ人と何度も再会しているため別に一期一会感はそんなにない。むしろ一期一会では終わらない、上司や恋人との再会こそがガンプの人生を劇的にしていると思うのだが……