第六回サイゼミ
2020年5月4日に第六回サイゼミを催した。コロナ禍の影響でレンタルスペースが使えないため場所はZOOM。宇野常寛が出した新刊『遅いインターネット』を皆で読んだ。
本の内容まとめ紹介記事ではなく、本を読んだ前提でディスカスした内容を中心に俺が考えたことを書く。
序章:オリンピック破壊計画
「ポピュリズムの限界」「ポピュリズムの失敗」と言うと、まるで「ポピュリズムの成功」が有り得るかのように読める(もしポピュリズムを選択した時点で失敗しかないのであれば、「ポピュリズムという限界」「ポピュリズムという失敗」なる表現の方がしっくる来る)。小泉や橋本がテレビ・ポピュリズムによって、単に彼らが政局上で有利になる以上に、宇野が言うように一強体制を打開するという意味で成功を収めることは有り得たのだろうか。
恐らく、その意味でのテレビ・ポピュリズムの成功パターンは最終的にはポピュリズムから脱却していくルートしか有り得ないのだろう。最初は大衆の焚き付けとしてスタートしたとしても、大衆層が意識を程よく高めてちょうどよい感じに政治参加した結果、正しく機能する二大政党制が戻ってくる構図は可能性としては考えられなくはない。
1章:民主主義を半分諦めることで、守る
本文中では世界認識の広さと経済的な階級は概ね対応し、Somewhereな人々が下流階級、Anywhereな人々が上流階級と想定されている。
しかし、その対応に留まらない掛け合わせを想定することはできる。例えば、「Somewhereだが上流な人々」としては「排外主義的な上流階級層」「リバタリアン」、「Anywhereだが下流な人々」としては「ヤッピーではないヒッピー」「貧乏なバックパッカー」が挙げられるかもしれない。そう考えると、<Anywhere↔Somewhere>の対立軸と<上流↔下流>の対立軸を独立させ、人物像のイメージを平面的に拡張できる。
本文中で主に対比されているのは、第二象限と第四象限だ。
第三象限の人々は世捨て人やアナキストのイメージであり、政治的な参加回路から距離を置いた結果のAnywhereなのでひとまず議論から除外しても良いかもしれない。
第一象限的な存在として、本文中でもピーター・ティールを代表とするリバタリアンのトランプ支持層について言及されている。彼らはアメリカ国内に引きこもるというよりはサイバースペースやSF的空想に引きこもるという意味ではSomewhereだ(少なくとも、地球単位での視点を持つという意味でのAnywhereではない)。
一見すると対極の立場にある「ラストベルトの自動車工(第四象限)」と「ピーター・ティール(第一象限)」が共にトランプを支持するという構図は注目に値する。リバタリアンまで射程に入れた上で世界認識の広さを示す直線上に乗せた場合、トランプに反対しているのは中庸なリベラルだけで、両極端な勢力は共にトランプ支持だ。
2章:拡張現実の時代
仮想現実がリベラル多文化主義の夢を掲げる
「仮想現実がリベラル多文化主義の夢を掲げる」には非常に同意できる。
本文中ではMCUに代表されるディズニーのリベラル路線がその例として挙げられている。MCUでは様々な人種・バックグラウンドを持つキャラクターたちの協働戦線が華々しく描かれるのであるが、それは派手な音楽や映像によって演出される「建前」に過ぎない。その本質はアジテーション的なやり口にあり、形式だけ見ればトランプのフェイク・ニュースと何ら変わらない。映画館を一歩出た瞬間、排外主義が「本音」として復活してくることだって十分にあり得る。
VRChatやVtuberを中心としたアバター文化にも全く同じ構図がある。
アバター文化では「(現実の肉体とは関係なく)なりたい自分になれる」ことが魅力として掲げられ、一見するとリベラルな理想郷としてVR空間が称揚される。しかしこれは「建前」に過ぎない。実際のところ、わざわざ黒人や身体障碍者のような多様性を選択する人はほとんどいないからだ。結局は皆が美少女(美少年)のアバターを選ぶのが「本音」であり、女性蔑視的なオタク文化・ルッキズムは根絶されるどころか、女性らしいアバターを運用するテクニックという形で強化されさえする。
仮想現実においては、なまじ何でも実現できるだけに潜在的な可能性という次元では「建前」としての多様性が推奨される一方で、それは実際に選択される現実性の次元である「本音」に影響を及ぼすとは限らない。
「実用系アニメ」に見るアニメの拡張現実化
「仮想現実から拡張現実へ」という流れは最近のアニメにも起こっている。
具体的には、『ゆるキャン△』や『ダンベル何キロ持てる?』のように視聴者を実際に現実へのアクティビティへと足を運ばせる効果を持つアニメがその例として挙げられる。『ポケモンGO』においてピカチュウがプレイヤーを裏道へ誘って現実を掘り下げさせるのと同じように、『ゆるキャン△』は視聴者をキャンプに誘って生活を掘り下げさせる効果を持っている。アニメの内容が単に別世界での空想に留まらず、視聴者がいる現実世界の解像度を上げていくのだ。以前、「実用系アニメ」と題してこの手のアニメについての記事を書いたことがある。
ただし、こちらにも『ポケモンGO』と全く同様の問題がある。すなわち、「『ダン持て』を見たところで一部のエリートしか拡張現実を利用するところまで至れない」という問題だ。
宇野の二軸分類によれば、拡張現実には「日常」「自分の物語」という二点が必要になる。よって、『ダン持て』を見て筋トレを始めたとして、「アニメを見た日だけではなく習慣的に筋トレをする(=日常性)」+「アニメが終わってからも数ヶ月筋トレを持続する(=自分の物語)」という二点が満たされて初めて自分の世界を拡張したことになる。この二つが出来るのは流行に流されない一部のエリートだけだ。終わった途端にダンベルを売ってしまうオタクは結局拡張現実にアクセスできないという、エリーティズムの限界が同様にある。
日本の村社会的雰囲気とアメリカの自活精神
<注10>がかなり面白かった。
要するに、日本の村社会的雰囲気とアメリカの自活精神は一見すると対極ではあるが、いずれも「私的なものが公的なものを基礎づける」という点においては類似しており、この二つを分けるのは自立の有無でしかないということだ。
これを踏まえると、自立可能↔自立しない、公ベース↔私ベースという二軸で平面を描くこともできそうだ。
公ベースでの自立の有無については、とりあえずカトリックとプロテスタントが補充案として提出された。いずれも公的な教義が私的な生活を基礎付ける点は共通しているが、カトリックは教会組織が綿密な連帯を提供する一方で、プロテスタントは比較的個人主義の色が強い(例えばデュルケム『自殺論』ではこの対比が重要な役割を演じていた)。
3章:21世紀の共同幻想論
トップダウンのイデオロギーからの脱却方法として割とよく目にするのは「大きな物語」から「小さな物語」への移行だが、「他人の物語」「自分の物語」という対立軸で語っているのは面白い。
Twitterがインターネットを分断する昨今、もはやコミュニティのサイズは大した問題ではないというのは非常に納得がいく。「小さな物語」とはいえ所与のものに盲従しているのではボトムアップの共同幻想に対処することができず(むしろローカルなコミュニティだからこそ脅威なのだ……ISISやオンラインサロン信者のように)、そもそも他人の物語ではなく自分の物語という枠組みで考えるべきだというのはその通りだと思う。
その対処法を明確化した点で宇野の切り口は優れているが、しかし、かなり気になったのは「自分の物語と他人の物語はどのように区別すればいいのか」ということだ。
構築主義ではないが、個人の思想が周囲の思想から完全に独立していることは有り得ない。他人の意見を鵜呑みにして劣化コピーを再生産することと、他人の意見を咀嚼して自分でよく考えることの違いは程度問題でしかない(と俺は思う)。よって、この二つを見分けるのは現実的にはかなり難しい。それは外から見てわからないだけではなく、本人にとっても区別は困難であるように思われる(「愚民」だって、きっとよく考えて発信しているつもりなのだ)。
例えば、ほぼ日から商品を購入する層は、果たして本当にモノを使って自分の距離感を調整できているのだろうか。それが出来ているのは糸井重里だけで、ほぼ日の読者は糸井が作るローカルな共同幻想に飲み込まれているだけではないのか。その幻想は社会全体にかかっているものよりも相対的に小さいので「共同幻想からの自立」に見えているだけという単なるスケールの話に回帰してきてしまうのではないか。「社会のマジョリティが支持しているが共同幻想ではない」と断言できるシチュエーションは存在し得るのだろうか。
関連して、宇野が糸井を擁護するやり方にも問題があると思う。
糸井の批判者にとって本当に重要なのは、糸井自身の歴史的な整合性ではなく、糸井が望むと望まないとに関わらず実際に大衆がアジテーションされてしまっている現実ではないのか。「本当は政治的な戦略なんです」という擁護は糸井にアジテーターと化している現状の甘受を正当化させかねず、それこそまさに大衆の扇動に他ならない。
4章:遅いインターネット
正直に言って、この章だけは非常に不満が残る内容だった。
理由は大きく分けて二つあり、エリーティズムの問題が回避できないことと、当初のイデオロギー的な問題を解決しないことの二点だ。
どちらも「現状では部分的に正しいが今後の展望を考えると重大な疑問が残る」というタイプの不満であり、「走り続けながら考える」という本のスタイルからするとこれから補完していくべきポイントということでいいのかもしれないが。
エリーティズムの問題
まず大前提として、「遅いインターネット」という試み自体は非常に建設的な試みだと思う。それなりに自発的な意識のある層を丁寧に啓蒙していくやり方でしか、アジテーションを回避して日常&自分の物語という次元での政治性は構築できないという思想そのものは筋が通っているし正しい。
ただ、現状での暫定的な成功はコミュニティ規模が小さいことに支えられているところが大きいはずだ。当初からアメリカや日本の政治という規模で問題を立てている以上、「遅いインターネット」の動きはどんな形を取るにせよ最終的には国家・地球規模に拡散しなければならない。その過程で大衆層にまで手を広げる際、「結局は限られた層しかリターンを享受できない」というエリーティズムの問題をどう回避するのかが全く語られていないのが最大の不満である。ナイアンティック批判で提示したエリーティズムの限界を全く解決していないどころか、もっと悪くなっている(真面目なオンラインサロンよりはゲーミフィケーションの方がまだ大衆にリーチするのではないか)。遅いインターネットはまだエリーティズムの問題に直面する規模に至っていないというだけの話であって、論理的には『ポケモンGO』と全く同じ轍を踏もうとしているように思えてならない。
「遅いインターネット」が共同幻想に陥らない可能性を担保する手段として「訓練する」「考え続ける」という回答は挙げられているが(「最終回答を求めようとするとイデオロギーにトラップされるので常に暫定回答の意識を持つ」という姿勢は非常に重要だと思う)、「大衆にどう対処するのか」が今まで散々議論してきたクリティカルなポイントである以上、もう少し具体性のある案を提示してほしかった。
幻想問題が全てではない
もう一つ根本的に疑問なのは、「遅いインターネット」で果たしてトランプの当選を防げたのかということだ。
宇野が「民主主義が機能不全に陥っている」と指摘する理由は、単にイデオロギー的なものに過ぎない。民主主義vsグローバル資本主義という対立において、宇野は明確に後者の肩を持っている。世界は明らかに後者に向けて変化しているという前提の下、それを前者が食い止めてしまうことを問題視していたはずだ。
この機能不全の原因として、宇野は「ラストベルトの自動車工」と「リベラルな起業家」の対立を「世界に素手で触れているという幻想」に帰着し、それを生むボトムアップの共同幻想から脱却する方法を模索してきていた。これを逆向きに遡れば、「遅いインターネット」で共同幻想から脱却すればトランプを生まれないことになるはずだ。
しかし現実的に考えて、ラストベルトの自動車工が「遅いインターネット」に参加したとして、彼らはトランプを支持しなくなるのだろうか?
俺にはそうは思えない。「日常」と「自分の物語」の次元で大統領選挙を考えたとき、労働者階級から抜け出せないという自分の立場に鑑みて、むしろ改めてトランプを支持するのではないだろうか。率直に言って、当初挙げたイデオロギー的な問題意識に対して、幻想から脱却するというソリューションが噛み合っていないという印象を受ける。
この捻れの根本には、宇野が自動車工のアクチュアリティを過小評価していることがある。宇野は対立の原因を幻想レベルに帰着したが、自動車工にも「何度考えてもトランプを支持するべきだ」という、まさに生活に立脚したアクチュアリティのあるプライドが残るように思えてならない。よく考えて幻想を打破したところで、それはそれとしてAnywhereな人々のおこぼれにあずかるという経済的な現実に甘んじる理由は特にない(そのチャチなプライドが幻想だと言うのかもしれないが、そうだとしてもその気持ちの真正さは必ずしもボトムアップの共同幻想から生じるものでもないように思う)。
勘違いしないでほしいが、宇野の議論が片手落ちと言っているわけではない。
幻想という切り口から問題を捉え直すのは非常に有益な議論だったし、その過程で得られた知見も価値あるものだ。しかし「幻想問題」を解決したところでアクチュアリティの次元での問題は依然として残るように思えてならない。この本で提示されたのは部分的な回答に過ぎず、当初の問題に対処するためにはまだまだ問いと答えを洗練する余地が残っている。