・第2回小規模サイゼリヤ(仮) 議事録
最近小規模な読書会兼鑑賞会みたいなことをやっていて、2019年9月30日に第2回会合を行いました。
結構活発なディスカッションが行われているので、今回から議事録を保存・公開していくことにしました。いずれ会をオープンにしていく際に雰囲気がわかる資料があった方がよいだろうという思惑もあります。
今回は宇野常寛特集で、『ゼロ年代の想像力』『リトル・ピープルの時代』『母性のディストピア』について読み合わせながらディスカッションを行い、関連作品として『リンダリンダリンダ』の鑑賞会を行いました。
以下、当該書籍を読んでいない人にも理解できるように議論をまとめたかったのですが、それはあまりにも労力がかかるのと、本の内容を引き写しすることになってしまうので泣く泣く断念しました。当該書籍を既読の人にはわかるというラインを目指しています。
・『ゼロ年代の想像力』2008
10年前に出た古い本なので、主に現在から見た再検討を行いました。
現在での有効性や変化、新たな事例などに注目しています。
・第1章「問題設定」
まず大前提として、宇野常寛と東浩紀が論を立てるスタンスの違いに注意が必要。宇野は東を真っ向から否定しているわけではない。
東は学術的なポストモダン論のサンプル適用先として美少女ゲームを中心としたオタクカルチャーに注目しただけで、宇野がやってみせたように、ドラマや映画を含むサブカルチャー全体を分析しようというモチベーションは無かったはずだ。問題があるとすれば、元々限られた射程しかないはずの『動ポモ』をサブカルチャー全体の批評として教条化した東フォロワーにある。
東の目的ではカルチャー分析としては局所的な視野に留まっても問題がない一方、カルチャー分析そのものを目的とする宇野は大局的な視野を要求するという違いがある。
・第2章「データベースの生む排除型社会」
Vtuberやアイドルものの動向を見ていると、キャラクターはコミュニティ間を超越する存在ではなく、むしろコミュニティに依存してそれを再強化するという宇野の見解は正しいと言いそうになる。しかし、初音ミク、初期のキズナアイ、ライザやフォーミダブル(一瞬バズるキャラ)のように記号的・超越的に消費される寄りのキャラクターもたくさんいる。今も昔も内在的・超越的という属性のスペクトル上にキャラクターが点在しているだけで、通時的な変遷として語るよりは、共時的な差異として見た方がよいと思う。
恐らく、宇野は完全にフィクションのキャラクターよりも、かなりの程度リアルなキャラクターや生身の人間としてのキャラクターを念頭に置いているのではないか(例えば斎藤環がよく述べる教室空間でのキャラクターなど)。宇野はフィクション/リアルの記述上での区別にはあまり自覚的でないように思われるが、それならばキャラクターのコミュニティ依存性にも納得できる。
・第3章「『引きこもり/心理主義』の九〇年代」
「外部をどう確保するか」という問題意識の射程は、ポストモダンを語る上で未だに広がり続けている。
例えば、暗黒啓蒙や新反動主義がイグジット先の外部を求めてコズミックホラーやサイバーパンクを一つの理想郷としていたことが挙げられる。ポストモダンの相対主義的な世界観がリベラルな配慮を要求して、それに嫌気の差したリバタリアンが外部へのイグジットを求めるという構図は、バトルロワイヤル的に読み替えても妥当な流れだろう。
『進撃の巨人』でも外部の空間を探求する冒険は途中で打ち止めになり、外部無き政治抗争に収束していった。また、今期アニメの『ソウナンですか?』『Dr.Stone』『ダンベル何キロ持てる?』あたりが、総じて現実的に役に立つ知識を提供するアニメとして成立しているところに、外部を求めないリアリストな態度を見る。以前は自立して外部に目を向けてチャレンジしていくモードが成長を示していたのに対して、今期アニメでは確実に実証できる自然科学的な知識を得ることを成長として尊ぶモードが優位であるように感じる。
・第4章「『九五年の思想』をめぐって」
大きな物語が終焉した以降の世界でどうやって存在理由を確保するかという問題について、『少女革命ウテナ』におけるソリューションを更に発展させたアニメとして、『プリンセス・プリンシパル』が挙げられる。
プリンセスとアンジェの関係は、中盤まではウテナとアンシーが構築した強者二人の相互承認モデルに似ているが、第11話でプリンセスがそれを明確に拒絶した。プリンセスからアンジェへの反発は、『ウテナ』でマチズモの乗り越えとして提示された同性愛的疑似家族という処方箋が、結局のところやはりマチズモに陥ってしまうということを告発している。12話では二者関係に引きこもるのではなく友達としてのコミュニティに還元することを代替案として提示しており、ラストシーンでは2人のために用意したはずのカサブランカの家で5人揃って過ごしている様子が描写されている。
・第5章「戦わなければ、生き残れない」
「ゼロ年代の想像力」出版当時にはサヴァイヴ系の典型として挙げられている『カイジ』は、現在は24億編で全く異なる展開を見せている。当初はギャンブルは胴元が提供する絶対のルールによって運営されており、ギャンブルでの勝利は金銭的安定や幸福を担保したのだが、和也編からルールが属人的で曖昧になり始め、24億編ではギャンブルで得た金は誰も保証してくれず自衛するしかなくなっている。ギャンブルというルールの枠組みの中での勝利で思考停止せず、むしろそれを相対化して実存的に自分の人生を見つめ直す態度が生まれている。
こうした、「モチーフの相対化と実存的議論への移行」は、ポスト・バトルロワイヤルとして、現在の主な流れの一つのように思われる。『進撃の巨人』はファンタジー設定と生存可能性から始まり、政治化したのちに反出生主義を巡る実存的な議論に移行しつつある。この流れは特に長く続いたシリーズで顕著で、『スター・ウォーズ』『トイ・ストーリー』『遊戯王』『シャーマンキング』『めだかボックス』などがこうした流れを持つ作品として挙げられる。
なお、ギャンブル漫画『嘘喰い』ではギャンブルと暴力の二本柱で生存競争が展開しており、「ギャンブルで勝ち取った現金を暴力で奪われる」ということを常に想定しなければならない世界が描かれている。『嘘喰い』がギャンブルという枠組みを相対化したギャンブル漫画として既に存在している以上、これからの『カイジ』が『嘘喰い』を超えられるかどうかに期待がかかる。
・第7章「宮藤官九郎はなぜ『地名』にこだわるのか」
死を導入することで「終わらない日常」を「終わる日常」に変換したことが宮藤ドラマの真髄として語られているが、ポストモダン状況や資本主義において「死」を絶対の終焉として描くことの困難について意図的に忘れていないだろうか。
これに関しては、宇野の分析が、作品の表面的な内容ではなく、受容者を含めた場における死の意味の変化に注目していると考えることで理解しやすくなる。つまり、宇野の恣意的に見える区別が、オタク層とポピュラー層の受容態度の違いに立脚しているとするのが妥当なように思われる。
具体的な受容における差異としては、例えば、「終わる」「終わらない」という描き方の違いはメディアの問題でもありうるかもしれない。最も極端なのは「連載漫画」と「映画」で、前者は掲載時点でいつ終わるのかを想定していないので「終わらない」と親和性が高いが、後者は制作が始まった段階でラストシーンまで考えられているため、「終わる」との親和性が高い(ただし、続編への伏線を張って終わる場合はその限りではない)。
また、「三人称の死は失効したが一人称の死は依然として可能である」というロジックも考えられる。つまり、道端に転がっている死体を発見するような形では死を感じることはできないが、自らの余命が半年であるというような形では死を感じることができるということ。
・第8章「ふたつの『野ブタ。』のあいだで」
動員ゲームが終了する契機として、「動員ゲームの支配者がその虚しさに気付く」というパターンが挙げられているが、それは現実的には起こらないのではないか。例えばアルファツイッタラーとして可視化されている動員ゲームの支配者を見る限り、自発的に虚しさを感じてそれを辞めるような人はかなり例外的だと思う。動員ゲームを支配するのは楽しい。
・第9章「解体者としてのよしながふみ」
『蒼太の包丁』が開かれた中間共同体的コミュニティを描いた漫画として挙げられる。料理屋を舞台とした人情漫画で主人公が修行する店を舞台に話が展開するが、人間関係の発展と人の出入りが激しく、引き抜き・助っ人・退職・恋愛などによってコアメンバーも次々に入れ替わっていく。固定メンバーがほぼおらず、流動性が高いコミュニティの在り方。
日常系のように、キャラクターコンテンツ化しがちな(オタク向けの)作品ではこの手法を取ることは難しいかもしれない。新キャラクターが入ってくるならまだしも、旧キャラクターが出ていくことはそのキャラクターのファン層にとってはダメージになってしまう。また、毎回異なるゲスト俳優を招集するドラマ的な手法は、訪問者が異なるだけでコアメンバーは推移しないので、中間共同体的かというと少し怪しい。
・第10章「肥大する母性のディストピア」
『母性のディストピア』にも繋がり、「オタクとフェミニズム」を語る上でも非常に重要な論点。
問題意識を「萌えにメタはない」と言い換えてもいいかもしれない。つまり、萌えからは距離を取ることができないので、萌えキャラを使った皮肉や相対化は機能しないということ(例えば、プラチナ・ザ・トリニティは「『あえて』ベタベタな魔法少女」というメタ文脈を背負うキャラクターだが、彼女が美少女である限り、『ベタに』萌えることが常に可能である)。結局萌えてしまうから自己反省できないというところに昭和ノスタルジーとの違いがある。
宇野も言っているように、「本当に痛い」をやるためには関係が自然消滅するのでは全然ダメだし、関係が嫌悪に移行するのでもまだダメで、関係そのものを完全に終了するという宣言が必要(=母性のディストピアから弾き出す)。アスカの「気持ち悪い」がそれだが、『アズールレーン』の失望ボイスも数少ないサンプルだと思う。
もはや嫌いですらなくこれ以上は個人的な関係を持ちませんというドライな切り捨て、この厳しさは日本的な萌えキャラへの想像力からはなかなか出てこない(主語デカ!)。
ただ、仮にセカイ系擁護論者が行う自己批判が欺瞞であることを告発できたとしても、彼らが「本当に痛い」自己批判をやるインセンティブが特になく、説得としてはナイーブすぎるということには留意した方がいいと思う。これはフェミニズムが実践段階で抱える問題と同じ。仮にフェミニズムが理論的には男性優位な社会構造の指摘に完全に成功したとしても、男性側にそれを受け入れるインセンティブが特にないため、セオリーとは別レイヤーのストラテジーが必要になる。
・第11章「『成熟』をめぐって」
「家族から疑似家族へ」とは言うが、結局のところ家族概念を引き継いでいるなら大した違いはないのではないか(血縁関係の有無を問題にする必要はあるのか)。モダンな意味での家父長制が終了したとしても、精神分析的な意味での象徴的な父は依然として機能するのではないか。明示的に言葉であれこれ言うような父以外でも、フロイト信者ならもっと色々なものに父を読み込んでくるだろうし、オイディプスシンパからすれば程度問題でしかないのでは。父という概念にどれほどの強度を込めるかという差異に過ぎない気もする。そういう意味で、2019年の現代日本で父がどれほど機能しているかはもう一度問い直されてもいいかもしれない。最近の作品では、『彼方のアストラ』においては親に捨てられたことが親を投獄することへ躊躇も葛藤もなく直結しており、父に対する極めてドライな態度が伺える。
新教養主義については、思想的勢力として実在するわけではなく、子どもの世界をフィクションにおいて描くための副次的方法に過ぎないのではないか。実践的に考えて、新教養主義的な作品が受容されることと、実際に新教養主義的な環境を提供することの間には大きな隔たりがある。結局のところ『よつばと!』が啓蒙効果を持てたとは言い難く、長期連載化にも伴って日常系のバリエーションとしての立ち位置に留まったのではないか。
現実的に、新教養主義の実践に際しては、教育プログラムに組み込むより、学校外の課外活動において生徒が自主的につかみ取るという形で実現されてきているように感じる。オタク的には、治安の悪いカードショップやゲームセンターをその典型例として挙げることができる。ただ、現在はe-sportsの普及に伴ってゲームシーンのクリーン化と道徳的啓蒙が進んでおり、そうした教育効果は失われつつある。つい最近、『シャドウバース』が「スポーツマンシップ宣言」を行ったことはその象徴的な事例だろう。ゲームシーンが教室化することで、殺伐とした環境における正義について自ら試行錯誤する機会を奪う可能性が高い。
・第12章「仮面ライダーにとって『変身』とは何か」
これは完全に仮面ライダーの話なのであまり本質的ではないのだが、宇野の『クウガ』評にはあまり同意しない。クウガは敵からは人格を剥ぎ取って「天災」として描いているところが優れており、天災に対して勧善懲悪は成立しない。『クウガ』は「悪のいない世界での正義らしきもの」という話だと認識しており、『クウガ』の段階から平成仮面ライダーのモダンな勧善懲悪図式の解体意識は表れていたと考える。
・第13章「昭和ノスタルジアとレイプ・ファンタジー」
『ALWAYS』には(欺瞞的)自己批判が組み込まれていることを自明視する宇野の見解は、一般視聴者に対して不当に高いリテラシーを期待しているように思われる。「あえて」何かにコミットするというメタ自認ができるのは一定以上の思考力がある人間だけで、大多数の人間は素朴にフルコミットするかフルデタッチするかという選択肢しか持たないのではないか。
ただし、「ニコニコ動画のコメント欄」の異様なメタ自認能力の高さは注目に値する。あの空間で素朴なベタ消費をしている視聴者はおよそ一人もおらず、ほぼ全員が内容を皮肉ったりメタ文脈に回収したりする。それを踏まえれば、メタ自認にはメディア依存性があるはずで、例えば、映画館ではなくニコニコ動画で『ALWAYS』を流した場合、『ALWAYS』の(欺瞞的)自己批判性に気付く視聴者が増えるように思われる。
・第14章「『青春』はどこに存在するか」
(『リンダリンダリンダ』視聴後の感想)
『リンダリンダリンダ』は、人種的アイデンティティ・恋愛・夢・上の世代からの干渉etcを積極的に棄却することで、日常に内在するコミュニケーションを抉り出すことに成功している。究極、最後のライブシーンは無い方が作品的には一貫したようにすら思われる。
ただ、『リンダリンダリンダ』を『らきすた』と比べて高く評価する宇野の見解には疑問が残る。最も不当なのは、『らきすた』を語る際はユーザーの消費傾向に注目するのに対して、『リンダリンダリンダ』を語る際は作中の内容に注目しており、論のレイヤーが異なっているというアンフェアさだ。オタクコンテンツにおいて「萌え」が所有欲と無関係でないことは否定しないが、『リンダリンダリンダ』における女優4人の起用が所有欲と結び付かないというのは恣意的な切り分けに過ぎないのではないか。「オタク憎し」で結論が先行している印象を受ける。
また、『らきすた』は「オタクスラングを多用することでオタクコミュニティという閉じた世界に閉じこもることを推奨する」という主張ならば納得できるのだが、その手の指摘は行われていない。『らきすた』を消費する際のコミュニティ形成論は『らきすた』の主題に特有の性質に依存しているところも大きく、例えば『けいおん』と『リンダリンダリンダ』を同様に比較することはできないように感じる。
・第15章「脱『キャラクター』論」
ソシャゲキャラではもはや静的なプロフィールしか存在しないというレベルの徹底したキャラクター化が行われており、「このキャラとこのキャラは兄妹です」というような血縁関係設定の異常な多用がそれを象徴している(ex:グランブルーファンタジー)。
ケータイ小説は勢力を失ったが、最近の男性向け百合作品でキャラ萌えから関係性萌えへの移行が見られることは脱キャラクター的な流れの再浮上として評価できるかもしれない。ただ、これに関しては、結局のところ関係は固定された静的ステータスからあまり変動しないのでキャラクターの肉付け程度の効果しか持たないのではないか、実際のところキャラクターに萌えているだけなんじゃないかという疑念は残る。
また、宇野のゼロ年代分析を踏まえたテン年代分析として、バトルロワイヤルの派生形としての使役系コンテンツの流行が挙げられる。アイドルやVtuberにおいてキャラクターにバトルロワイヤルを代行させ、消費者はそのパトロンや応援者という彼女らを使役する立場に立つというもの。代表例に『少女歌劇』があり、疑似的にキャラクターを動員するユーザーの倫理を問う形で、動員者の倫理を追求しているという解釈が可能。
・『母性のディストピア』2017
・宇野の政治的立場について
戦後日本における右派と左派を欺瞞として総括する宇野の立場に従えば、「右派vs左派」に代えて「穏健派vs過激派」というような対立軸を立てても良いように思われる。穏健派は左右どちらもきちんと敗戦を受け入れずに母性のディストピアの上で茶番劇を繰り返す一方で、過激派は母性のディストピアを自覚して本当の痛みにアクセスしようとしている。だが、結局のところ「過激派」の目的が達成されることはなく、最終的には穏健派の袋小路に戻ってきてしまうところに問題の根深さがあると言えそうだ。
・「風立ちぬ」について
史実の追求ではなくエンタメとして戦争を振り返る際、戦時中の価値観を現在の価値観でリライトするという戦争美化は、「風立ちぬ」に限ったことでもなく、戦争映画全般で行われているのではないか。「敵国を殲滅したい」という本当の目的意識では視聴者からの共感を得られないので、自由とか道徳とか家族愛で粉飾リパッケージした物語を提供する手法は、興収成績の良い『パール・ハーバー』や『永遠のゼロ』にも見られる。
・「ビューティフル・ドリーマー」について
実際のところ、押井守が批評的に失敗した理由が「うる星を続けなければならない」という商業的な事情にあったことを指摘するのは面白い。あの話は『うる星』でやらなければ高橋留美子への批判としては機能しないのに、『うる星』でやるならば商業的な事情で頓挫せざるを得ないので、原理的に失敗するしかなかったということになる。裏返せば、もしオリジナル作品で「ビューティフル・ドリーマー」的な内容をやったとすれば、商業的な事情による妨害は起こらないが、高橋留美子への批判としては機能しない。
・宇野の批評的立場について
宇野が本当に言いたいのは「母性のディストピアシステム一般について」なのか、「戦後日本という特定の時空間で実現している母性のディストピアについて」なのか、どちらだろうか。
この目的意識の違いは批評スタンスの違いに直結する。もしシステム一般について語るのであれば、誰も知らないマイナー作品の誰も気付いていない論点を抽出してソリューションとして持ち上げるような批評の仕方が可能である。だが、もし戦後日本空間への批評として語るのであれば、日本国民の認識を規定しているような有名作品の、誰もが(無意識には)気付いている論点の指摘しかできない。
『ゼロ年代の想像力』では前者だったのが、『母性のディストピア』では後者に寄っているように感じる。『ゼロ年代の想像力』ではあまり注目されていないドラマに光を当てて批評的達成を指摘する身振りがイキイキとしていたが、『母性のディストピア』では誰もが知っている作品への幻滅を語るのが息苦しいという印象が否めない。戦後日本を語るという目的性は、批評家としての宇野にとって足枷になっているようにも感じる。