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19/10/7 『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』感想 シミュレーテッドリアリティにおける母の成長、及び子の非成長に伴う倫理性

通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?

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全話見ました。エンタメとしては全く面白くなかったんですが、かなり興味深い議論をするアニメだったと思います。
普段なろう系含むラノベアニメそんなに見ないんですけど、ママ子さんが普通に萌えだったので見ました。ニコニコで見ているとママ子さんのお色気シーンで「誰得」とか「親はきつい」というコメントがかなり流れてきますが、僕は毎話楽しみにしていました。この年齢になると高校生全開のマサト君よりもママ子さんの方に親近感があって、「若い母を持つ男子高校生のアニメ」というよりは「男子高校生の息子を持つ若い女性のアニメ」という感じですね。

・母とシミュレーテッドリアリティについて

『お母好き』は基本設定として「母」と「シミュレーテッドリアリティ」の二本柱を持っているという話から始めましょう。

補足203:『お母好き』は公式略称で、「おかすき」と読みます。

この二つって一見すると無関係なんですが、実際には多くの作品で利用されている組合せであり、むしろ極めて古典的なモチーフです。「母」と「シミュレーテッドリアリティ」の組み合わせが描かれる作品として、最も有名なものは間違いなく『マトリックス』です。

マトリックス』において、まず「シミュレーテッドリアリティ」の方はわかりやすいですね。
マトリックス』ではコンピュータの作り出した仮想世界「MATRIX」が描かれ、仮想世界と現実世界を戦場としてレジスタンスとコンピュータの戦いが展開していきます。人類の大半が現実世界であると思っている世界が実は仮想世界、すなわちシミュレーテッドリアリティであることが『マトリックス』の哲学的なテーマの一つになっています。

次に「母」と接続する上でポイントになるのは、シミュレーション世界は望むことを何でも叶えられる、万能性に満ちた空間ということです。
「MATRIX」は作り物の世界ですから、コンピュータの匙加減一つで人間の欲望を何でも叶えることができるのですね。普通に考えてそれは非常に快適な世界であり、作中でも、世界がシミュレーションであることに気付きつつ、「望む人生を送らせてもらう代わりにコンピュータに協力する」という選択を取る人間が描写されます。
主人公のネオはその快適さを拒絶して真実を求めてレジスタンスに加入するのですが、「MATRIX」における戦闘ではまさにその快適さを利用しており、弾丸を止めたり宙に浮いたりしながらほとんど無敵状態で敵をぶちのめしていきます。これはネオがシミュレーション世界が「望むことは何でもできる」世界であることを正しく認識したからに他なりません。その結果、ネオにとっても「MATRIX」は万能に振る舞える空間として現れます。

覚醒したネオにとっての「MATRIX」のように「何でもできる、万能感に満ち溢れている、自由を制限するルールのない、イメージだけの世界」は、精神分析的には母の領域とみなされます。
これは生まれたての赤ん坊をイメージしてもらうとわかりやすいと思います。赤ん坊は生まれてからしばらくは母に抱かれて大半の時間を過ごすわけですが、母の腕の中というのは、お腹が空けば母の乳房がすぐ近くにあり、眠くなったらすぐ眠れて、欲求の全てがただちに満たされる空間なんですね。ここから派生して、理想的な母は何でも受け入れてくれる、子供の望むことを何でもしてくれる万能な存在であるというのは一般に流布しているイメージと言ってよいと思います。
つまり、シミュレーテッドリアリティにおける「現実世界ではなく仮想世界だから何でも実現できる」という技術的な万能性と、母における「乳飲み子を庇護して必要なことを何でもしてくれる」という人間的な万能性はアナロジカルに結合します。比喩的に言って、シミュレーション空間とは母親の子宮なんですね。

補足204:ちなみに英語の"Matrix"とはラテン語「母」を意味する"mater"から派生した単語です。

マトリックス』では母的な存在であるコンピュータが実際に女性の姿で描かれることはありませんでしたが、シミュレーテッドリアリティにおける「母」のイメージを女性キャラクターとして描いた作品としては、『メガゾーン23』を挙げることができます。
メガゾーン23』は『マトリックス』よりも大分早い作品ですが、知名度的には「日本のオタク版のマトリックス」と説明してもまあ許されるでしょう。『マトリックス』との相違点としていかにも日本オタクっぽいのは、仮想空間を制御しているプログラムがイヴという少女アイドルの姿で与えられていることです。シミュレーション世界を生きる人々の運命はイヴの意向によって決定されており、イヴが人類を守るためにプログラムを弄ったり宇宙に飛んで行ったり色々なことをやってくれます。イヴは万能なシミュレーション世界を庇護する、まさしく象徴的な意味での「母」なんですね。

以上のような経緯を踏まえ、『お母好き』もこうした「母」&「シミュレーテッドリアリティ」という系譜の上に位置づけられます。

補足205:『お母好き』の設定的にはオンラインゲームなので「バーチャルリアリティ」の方が近いのですが、あえて「シミュレーテッドリアリティ」という単語を用いたのは、ここまで述べてきたようにシミュレーテッドリアリティ作品の系譜として見るのが妥当だからです。
大雑把な使い分けとして、『SAO』『レディプレイヤーワン』のようなバーチャルリアリティ作品はバーチャル世界が現実世界における技術的な産物であることを強調・活用していく傾向にありますが、シミュレーテッドリアリティ作品はシミュレーション世界と現実世界の区別が付かないことに力点を置きます。『お母好き』ではMMMMMORPG世界がゲームに過ぎないと誰もが認識しているところはバーチャルリアリティ的ですが、その設定が活かされることはあまりなく、全話を通じてMMMMMORPG世界から出ずに現実世界のように寝たり食べたりして暮らしている点でシミュレーテッドリアリティに近いと言えるでしょう。


こうして見ると、『お母好き』の舞台である「MMMMMORPG」において実母たちが最強の存在として設定されるのは極めて正統な流れです。『メガゾーン23』でプログラムを統括する万能者であるイヴが母性の象徴であったように、シミュレーション世界における万能性は母と同一視されるので、ママ子さんは無敵で当然なのですね。
このアニメが異世界転生ではないという違和感もこれで説明できます。このアニメってずっとゲームからログアウトしないのでゲームである必要が特に感じられないし、描かれている世界は明らかに異世界転生的なファンタジー世界の典型だし、「ゲーム内で食事と睡眠を取るのはどう考えてもおかしい」「ログインするところが完全に魔法」「運営の権限がなさすぎる」など無数の設定的な齟齬を生んでいるにも関わらず、あくまでも異世界転生ではなくオンラインゲームなのは、母とシミュレーテッドリアリティの間には歴史的な結びつきがあるからです。

・母性の回復について

母とシミュレーテッドリアリティの関係を踏まえて『お母好き』のストーリーを読み直すと、シミュレーション世界において本来の万能な母を取り戻す作品と言えるでしょう。
毒親」として立ちふさがる母親たちは能力的には万能であるものの人間的に重大な欠陥を抱えており、娘たちに対して正しく母として振る舞えていません。そこで人間的にも完成した母親であるママ子が彼女らを説得し、本来の母親としての自覚を取り戻させるというのが話のフォーマットになっています(フォーマットという割には二回しかやってないですが、やたら進行ペースが遅いのでそもそも起きたイベントの数自体がそんなに多くないんですよね)。ママ子の啓蒙は概ね成功し、毒親たちも一応母として振る舞うに至ります。このアニメは主人公が高校生の男の子であるにも関わらず、基本的に母の成長アニメであるということがポイントになります。

このとき、あえて「実母」を起用しなければならなかった理由が見えてきます。「母であることをやめた母」を用いて「母は母であることができるか」を問うのは実母にしかできません。
オタク界では今母性に溢れた「ママキャラ」がプチブームですが、倫理的・性的な都合により、それが実母であることは極めて稀で、同年代の少女であることが多いです(最近だと仙狐さんとか)。こうした「ママキャラ」に対して母であることの資質を問おうとしても、彼女たちは元々母ではないので、それは「母っぽく振る舞うか否か」という問題でしかなく、彼女たちの個人的な性格の問題に帰着されてしまいます。
その一方、『お母好き』では何よりもまず実際に母であるキャラクターたちは、母っぽかろうが無かろうが強制的に母としての問題を問われざるを得ません。例えばワイズママは戦闘後にもママ子さんのように母っぽい振る舞いはしておらず、ワイズと取っ組み合うことが何となく関係を修繕した描写として挿入されたのみで、これがもし実母でなければ「(母ではなく)単なる友人キャラ」に過ぎません。「友人っぽい母」であることが出来るのはひとえに彼女が実母だからです。ママ子のような典型的な万能母だけではなく様々な母を描く上で、実母を用いることは有効だったと考えられます。

・子供の非成長について

さて、ママ子の啓蒙によって毒親が普通の母に戻って「めでたしめでたし」では終わりません。この作品の真価は「母の成長」と「子供の非成長」がコインの裏表になっているところにあります。

最初から完成された母親を持つ真人が第1話から何度も嘆くように、何でもできる母親は子供の成長機会を奪います。ママ子も「やってあげることのバランス感覚が難しい」などと反省したりするものの、そもそも作品タイトルからして母が無双しないわけにはいかないので、最終話までママ子が活躍をやめることはありません。なんだかんだでラスボスのアマンテもママ子単独で倒してますし、戦闘は常にギャグシーンです。

ここからがポイントなのですが、真人はコメディパートでは「俺の冒険の邪魔をするな」みたいなことをよく言う割に、毒親戦などのシリアスなシーンでは「本当は自立したくない」という本心を覗かせます。

「だからさ……許してくれないか? こんな子供を許してくれ。アイツだって全部本気で言ってたわけじゃないはずだ……頼む! どうか子供を見捨てないでくれ」

これは4話でのワイズママに対する台詞です。
ワイズママは子供のワガママにうんざりして子供を捨てようとしているタイプの毒親なんですが、真人も子供が親を傷付けていることはきちんと自覚しています。その上で、親らしく全てを許してほしいというのが彼の主張です。
この台詞、かなり違和感がありますよね。高校生が主人公のアニメなら、普通にビルドゥングスロマン的に成長するなら、ここで言うべき台詞って「ごめん、もうワガママを言って親を傷付けないように成長するよ」のはずです。しかし真人はそうではなく、ただ許しを請うてすがりつくだけで、成長する気が一切ありません。「子供は変わらないので親が我慢してください」という発言が子供の立場からなんかいい話っぽく出てくる、ここで「このアニメ、思想が強いぞ」と確信しました。
でもよく考えると、この発言って「母の成長」というテーマに照らせば一貫しています。ワイズママが成長して子供がワガママを言っても子供を捨てない母親になれたとして、それと同時にワイズがワガママを言わなくなってしまったら、ワイズママが成長した意味が無くなってしまうんですよ。この意味で、「母の成長」と「子の成長」は両立しません。「母の成長」とセットになるのは「子供の非成長」です。母が万能であるためには、子供は手足をもがれた不完全な存在でいなければならないのです。このシーンで垣間見える真人の異常性は、子供の側からその要請を理解して積極的に不完全であろうとするところにあります。

「どんな時でも母親TUEEE、母親SUGEEEで俺の立場はない。でもな、だからってガキみたいに暴れたって何にも解決しないんだ! 傷が広がるだけなんだよ!」

こっちは8話でのメディに対する台詞です。
メディママってかなり露骨に毒親として描かれていたのでメディが反発して暴れるのも妥当なように思いますし、ワイズママのときみたいにメディママが暴れるならまだしもメディが暴れてしまったらどう収拾を付けるんだろう?って7話のラストではちょっとワクワクしていました(常識的に考えてメディはキレていいので)。
ここでも真人は「反抗は意味をなさない」と主張しており、子供側が変わることに対して非常に禁欲的です。「傷が広がるだけ」っていうのがまた凄いですね。チャレンジとは概ね傷を伴うものであって、それを引き受けて立ち向かうのがいわゆる成長ですが、真人は傷を引き受けられません。コメディパートでは「母親に冒険を邪魔しないでほしい」と散々述べている割に、それはシュークリームのように甘い理想であって、自立が傷を伴うとなると頓挫してしまいます。やはりここにも成長しない子供というモチーフが存在しています。

この二つの発言から明らかなように、真人は本質的にマザコンです。
それは「母の成長」と「子の非成長」が共犯関係にあることを意味します。完璧な母として子供を完全に庇護したいママ子と、自立したいと嘯きながら実際には母に守られて成長したくない、傷付きたくない真人の利害が一致しています。

それでもやはり真人にも自己実現への思いは常にあるわけで、色々情けないことも言っている割には毎話「勇者として活躍したい」みたいなことを言っています。では真人の自己実現への意欲と、ママ子の完璧な母性は折り合わないのだろうかと思いきや、実際は両立しうるという回答を示すのが9話~最終話のアマンテ塔攻略編になっています。

まずそれなりに意外なのって、真人って反抗期のフリをする割にはレジスタンスへの加入には一切興味が無いんですよね。それは反抗がただのポーズだからかもしれませんが、一応「悪者がいる塔を攻略するのは勇者っぽいから」という理由をきちんと述べていることに注目してもいいでしょう。
このとき、真人にとって優先順位が「自己実現>母性への反抗」であると見ることができます。塔を攻略するか(=自己実現する)、レジスタンスに加入するか(=母性に反抗する)を迷わない程度には自己実現の方が上位に来ているわけです。本当に興味があるのは勇者としてかっこよく戦うことであって、結果的に母がその機会を潰してしまっているという現実はあるけれども、それは本質的な問題ではないから最初から母に反抗するという選択には興味がない(活躍を目指し続ける方が建設的だ)という、一応前向きなモチベーションがあり、これが最終局面での選択に繋がってきます。

無駄に話数をかけて色々あったあと、最終話でアマンテから「最強の母って冒険の邪魔じゃない?」という、今まで誤魔化し続けてきた質問を遂に正面から投げつけられます。
表面的には反抗してきたけど本質的にはマザコンである真人には相当なジレンマがあるのではないかと思いきや、回答は割とあっさりしていて、「母親同伴の冒険が俺たちの冒険だ」と述べます。これって完全な妥協ですよね。母がいる限りは母性の支配下で冒険が展開してしまうことはわかっているんだけれども、それは了解した上で自分が楽しめるように頑張りますっていう、自己実現のレベルを下げることで対応しているんですね。
「ハリボテの勇者でいい、レディメイドの冒険でいい」っていう態度が成長を完全に放棄した姿勢なのか、それとも限定的には成長できる姿勢なのかは続編が制作されないとわかりませんが、一応この回答は「自己実現」と「万能の母」を二者択一にするのではなく、辛うじて両取りする合理的なものではあります。自己実現の方にかなり皺寄せが来ているけれども、母を捨てたり冒険を諦めたりするよりはまだ建設的だという、レジスタンスに加入しない選択によって示された意向がここでも貫徹されています。

ただそれでも、これって『マトリックス』的に言えば極めてブルー・ピル寄りの選択です。
最初に確認したように、シミュレーションと母が重ね合わせられていることを鑑みれば、真人の「母を受け入れる」という選択はいわば「MATRIXから脱出しない」と同じです。完全ではないといえ、かなり深刻なレベルで自立や挑戦を放棄しており、一般的な成長物語のフォーマットには全く沿っていない結論と言わざるを得ません。
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このシーンに限ったことでもないんですが、真人がちょっといいこと言った風の台詞を言うたびにニコニコ動画が「?」系のコメントで埋め尽くされるのはかなり面白いですよね。ニコニコの民意も真人の思考が異常寄りであることを肯定しています。

・子供の非成長という倫理性

ただ個人的に言えば、真人のスタンスはある意味では誠実で好ましく、一つの倫理的態度ではないかと感じるところもあります。

一般的には、「超越的な存在に庇護されて、安置で生きていく」というのはなかなか胸を張って言えることではありません。
かなり卑近な例を挙げれば、「快適な実家を出るか否か」みたいな話をイメージして貰えればよいでしょう。実家にいる限りママが家事全般をやってくれて良い暮らしができるのですが、いい年をして自立していない男というのは世間体が良くありません。そこで「実家にいても大変なことは色々あるし毎日頑張ってる(嘘)」とか言って自分を騙すのと、「俺は楽をするために実家にいたいしそのためなら自己実現も妥協する」ときちんと認めるのと、どちらの方が「善い態度」でしょうか。どうせ自立しないのなら、下手に言い繕わない方がまだ倫理的という感じはしないでしょうか。

補足206:人によって見解が分かれるので補足に回すのですが、サブカルチャー的にはいわゆるセカイ系に対する批判的な言説を念頭に置いています。
セカイ系批判派に言わせれば、彼らが批判するセカイ系とは、「自分が楽に生きるために神的な女の子に庇護されるのが本当の目的なのだが、それは大声では言いづらいので、あの手この手で本当の目的を偽装する話」です。例を挙げた方がわかりやすいと思うので、何でもいいですが例えば『天気の子』に対して攻撃的な評論をしてみましょう。
結局のところ、『天気の子』とは、平凡な男の子である主人公が超能力を持つ神的なヒロインを所有するという話です。「超越者のヒロインを所有して楽に生きていきたい」というのが本当の目的なのですが、それは大声では言いづらいので、中盤では色々苦労しているフリをさせてみています。しかし最終的に大きな被害を受けたのは水没した東京であって、主人公自身にはちょっと前科が付いた程度でしかありません。主人公がヒロインの超越性から自立するのであれば、ヒロインは超能力を失って平凡な一般人に戻らなければならないのですが、それは達成されませんでした。
とまあ、こんなところでしょう。「セカイ系って確かにそういうとこあるかも」程度には納得してもらえるかもしれないし、全く納得してもらえないかもしれません。僕は70%くらいは正しいと思います。
『お母好き』を真人の視点からセカイ系のバリエーションとして見た場合、「自分が楽に生きるために神的なお母さんに庇護されるのが本当の目的であり、それを大声で言って、わざわざ苦労するようなフリもしない」というところでしょう。もはや完全な開き直りですが、どうせ目的が同じならこっちの方がまだ誠実であるという見解は成り立つと思います。


実家住みという例で考えているとどっちもカスじゃんという気がしてくるので、抽象的な議論に戻りましょう。
「母的な万能性の庇護下で生きていくことを選択し、それ以降の人生が安全に舗装されたレディメイドであることを受け入れ、その上で自己実現の可能性を探る」という真人の回答は一つの倫理性(規範になりうるもの)であると言ってもよいと思います。態度として優れていると言いうる点は恐らく二つあり、一つは母の庇護下にいるという状況をきちんと認識して受け入れていること、もう一つはその状況下でも可能な限り自己実現の可能性を探っているところです。実際には母の庇護下にいるにも関わらず自立しているような顔をしたり、快適な状況に甘んじて一切の努力すら放棄するという態度よりはまだ善いような気がしないでしょうか。
本来なら「母的な万能性の庇護下から離れて自立する」というのが最も「善い」態度であることは否定しませんが、誰しもが常にその選択を取れるわけではありません。『マトリックス』でレッド・ピルを飲めるのは一握りの人間だけです。しかし、ブルー・ピルを飲んだからといって全てを諦めるのではなく、辛うじて建設的で有り得る倫理性を何とかして立ち上げることは魅力的な態度であるように感じます。

補足207:なお、セカイ系批判派に言わせると、「実際には母の庇護下にいるにも関わらず自立しているような顔をしたり、快適な状況に甘んじて一切の努力すら放棄する」ことはセカイ系によく見られる特徴です。

・まとめ

シミュレーテッドリアリティという母性的領域において、完璧な母であるママ子が毒親たちに母性を啓蒙していくのが基本的な話のフォーマットですが、この際に「母の成長」と裏表で生じるのが「子の非成長」です。
真人は表面的には親からの自立を望んでいるかのような言動をするのですが、本質的には徹底したマザコンであり、最終的には「ハリボテの冒険で我慢する」という妥協的選択によって、「母性の庇護」と「子の自己実現」を辛うじて両立させました。
これはタイトルに象徴されている「実母の万能性」という主題に誠実に向き合った結果導かれる一つの倫理的態度であり、論理的な筋を通したことと、魅力ある回答を示したことについてこのアニメを評価します。