LWのサイゼリヤ

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19/9/17 進撃の巨人を無料キャンペーンで読んだ感想

進撃の巨人の感想

20190909_o0101
無料キャンペーンを利用して28巻まで読みました。面白かったです。


感想はネタバレを含むので追記に回します。
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結局のところ、物語開始当初からエレンたちがずっと戦っていた相手は「安全保障」と「偽史統治」だったと総括してよいと思います。
一般的に国家が負う「他国からどう身を守るか」と「自国をどう統治するか」という二つの問題に対して、それぞれ「抑止力」と「偽史」を回答としましょう。つまり、「他国から攻撃されないために強大な軍事力を保持する」「自国を統治するために国民に信じ込ませる歴史を創作する」という二つの国家的な方策を想定します。マーレ国でもこれら2つのシステムが機能しており、巨人の力を自国の主要な戦力=抑止力にすると共に、エルディアを悪魔とする歴史を流布することで階級社会を安定化させています。

そして、エレンたちの敵もこの2つに集約されます。
ユミルが「敵は世界だ」と述べ(かけ)ていたように、エレンたちが巨人と戦う理由の真相は「マーレ国を代表に世界がパラディ島を攻撃しているから」ですが、そもそも何故攻撃されなければならないのかと言えば、

・安全保障:「パラディ島が保有している『地ならし』が脅威だから」
偽史統治:「エルディアを悪魔とする歴史物語が機能しているから」

です。パラディ島から巨人を駆逐したあともこの構造は特に変わっていないため、今度は他国との戦争編が始まるのも必然です。巨人の生態系云々というファンタジー設定ではなく、国家の維持システムこそが闘争の本質だったわけですね。

そしてここからが本題なのですが、これらの「安全保障」「偽史統治」という論点はマーレ編で突然現れたわけではありません。それはクーデター編から既に主題になっていました。

まずは最初から振り返りましょう。
もともと、物語開始初期に最大の争点となっていたのは「安全保障」でも「偽史統治」でもなく、もっと原始的な「生存可能性」でした。人類は巨人に生存を脅かされていて、調査兵団は基本何の成果も得られません。それなら何もしない方がいいんじゃないか、壁の中で安寧に暮らしていればいいじゃないかという生存に対するコスト的な合理性がエレンの自由への欲求を抑圧していました。この段階ではコミュニティ同士の抗争は表面化しておらず、もっと本能的な個体の生存可能性を問うモードが優位です。
しかし、エレンが持つ巨人の力の安定運用に成功して、とりあえずの安全が確保されたことにより、「生存可能性」という論点は退潮し始めます。対外的にはエレンの力でトロスト区を奪還したことと、圧倒的な強キャラであるリヴァイが活躍し始めたことで、巨人を倒せるとか倒せないという問題がコミュニティ内でも相対的に縮小していったわけですね。ここからクーデター編までの間に104期生の多くが巨人だと発覚するという衝撃の展開が続きますが、それは巨人全般との戦いがひとまず落ち着いたために、「生存」よりも高級な「裏切り」について云々する余裕が生まれたことが前提になっています。

その後、クーデター編では戦う相手が巨人ではなく中央憲兵となり、巨人との戦闘は一時的にオミットされます。「巨人という脅威を排してどう生存するか」という原始的な問題がひとまず解決した結果、「巨人という脅威を扱ってどう活動するか」という、より政治的な問題が前景化してきます。
マーレ編を読んでから振り返れば、クーデター編で問われていたのもやはり「安全保障」と「偽史統治」の問題だったことは明らかです。具体的には、

・安全保障:エレンという最大戦力がもたらすパワーバランスの不均衡
偽史統治:レイス家が告発する、フリッツ家王政の非正統性

の2つがクーデター編を牽引していました。マーレ編では主に「マーレ国とパラディ島を中心とする世界全体」というスケールでこの問題が描かれていたのに対して、クーデター編では「パラディ島内部」という縮小したスケールで同様のことが行われていました。
なお、物語設定的にはクーデター編における安全保障の争点は「エレンが持つ始祖の巨人の力」、偽史統治の争点は「ヒストリアが持つ王家の血筋」ですが、これらはマーレ編においては結合して「地ならしの発動の根拠(安全保障)」を構成します。

さて、クーデター編においては、「安全保障」は「倫理」によって、「偽史統治」は「真実」によって解決されました。
まず、安全保障について。確かに調査兵団は圧倒的な戦力を保持しているけれど、だからといって旧王権のように食い扶持を奪い合う庶民を弾圧するのではなく、協調関係を築けば他の壁内人類と共存できることが示されました。これは調査兵団が中央憲兵とは異なり、商会と良好な関係を築いたことに象徴されています。「暴力を濫用しない」という正しい倫理性があれば、戦力の不均衡は問題にならないのですね。
次に、偽史統治について。クーデター編においては明確に正しい歴史を辿れることと、最終的には誰もがそれを信じられることが示されました。何故なら、レイス家の末裔であるヒストリアが持つ血統の力がそれを担保してくれるからです。これによって、「ヒストリアが正しい王家の血脈である」というのが唯一無二の真実であり、フリッツ家は端的に「嘘」だから論外ということになります。壁の外の謎については先延ばしにされたものの、少なくともパラディ島の統治にかかる歴史問題は真相の究明による収拾が可能だったわけです。

しかし、マーレ編ではこうした解決方法は不可能なものとして最初から棄却されます。
つまり、「安全保障」に対する「倫理」と、「偽史統治」に対する「真実」というナイーブなアプローチは、パラディ島内というローカルコミュニティでは有効だったかもしれないけど、世界全体というグローバルコミュニティでは無効になるということが、マーレ編開幕当初から強調されています。

まず「安全保障」について。マーレ編における「倫理」の不可能性を象徴するキーワードは「飢え」です。
元々、クーデター編で倫理が機能していない背景として提示されていたのは「飢え」でした。パラディ島では人口に対して十分な食糧が担保されていないため、中央権力と周辺庶民の間で食い扶持の奪い合いとなり、暴力による弾圧が起こってくるという事情がありました。調査兵団が倫理を働かせて商会に頼んだのも「とりあえず庶民たちを食わせること」であり、飢えから解放されれば人間的な倫理は復活することが期待されていました。
その一方で、マーレ編は「私は人類が優雅に暮らす壁の外から来た」というモノローグから始まりました。マーレ国を含む外の世界は少なくともパラディ島に比べればかなり裕福であり、とりあえず生きていくのに苦労しない程度の衣食住のリソースがあることが最初から提示されているのですね。よって、もしクーデター編における「飢えから解放されれば倫理は復活する」という想定が正しいのであれば、差し迫った生命の危機が無い世界においては倫理は正しく機能し、安全保障の問題は自動的に解決されているはずです。しかし、実際には依然として世界中がパラディ島の「地ならし」を脅威だと考えており、自国の安全のためにパラディ島への侵攻を肯定します。飢えていないのに倫理が働いていないのです。世界に倫理はなく、クーデター編で取った解決方法は不可能になります。

次に「偽史統治」について。真実の解明が事態を変えないことはマーレ編に入った段階から提示されています。
クーデター編では「実は歴史は王家が100年前に改竄したものである」と発覚するまでに相当な労力と時間を要したように、真実にはそれ相応の重みがありました。しかしマーレ編では「エルディアがマーレを虐げた」とか「エルディアがマーレを救った」とかいう話は最初から白日の下に投げ出されており、絶対の真実としての重みを持ちません。いずれもそれぞれの陣営のバイアスを通して見たプロパガンダ的創作物に過ぎないことが明示されているため、真相がいずれであるかは大した問題ではないのです。今更どちらかが「真実」だと判明したところで、それは偽史によって上書き消去されるだけなので闘争が終わることはありません。

また、ややトリッキーではありますが、「真実を探る」という段階が終了したことを示す根拠として「大地の悪魔」というワードの不毛さに注目することもできます。
地下室で開示された真実の歴史において、スタート地点にあるのは「大地の悪魔との契約」でした。それによって巨人が生まれ、巨人を巡る闘争史がスタートしました。では、今まで「そもそも巨人とは?」「巨人化の条件は?」ということを散々追い求めてきたのだから、今回も「そもそも大地の悪魔とは?」「契約の条件は?」という追求を行ってもよいように思います。
しかし、実際には「大地の悪魔」には誰も興味を示していません。調査兵団もエルディアもマールも世界も、「大地の悪魔」に関する調査を試みる派閥は存在しません。ここに決定的なスタンスの転換があります。「ファンタジー設定についての真相を究明する」という態度自体が、調査兵団がイェーガー家の地下室に辿り着いた時点で打ち切られているのです。それは恐らく、仮に大地の悪魔について掘り下げて一つの原因に辿り着いても、今度は更にその原因について遡る羽目になってキリがないからです。つまり、誰も「大地の悪魔」に興味を持たない不自然さは「これ以上は不毛だから、『大地の悪魔』よりも先はファンタジー設定の真実を遡りませんよ」というメタ・メッセージであると理解できます。

補足202:ファンタジー設定を延々と遡ることの不毛さ、「ファンタジー設定の無限後退問題」は進撃の巨人に限ったものでもなく、様々な作品で見られるものです。
現実では自然科学という「設定」の探求は素粒子物理学に行き着く一方(それを更に遡れば神学的なものに行き着くという立場もあります)、作者の創作物に過ぎないファンタジー設定はやろうと思えばどこまででも遡れてしまいます。そのため、「最終的な真相が何なのか」は「真相究明をどこで打ち切ることにするか」と等価です。単なる真偽の問題が、どこで調査を終えるかという手続きの問題に帰着されてしまうのですね。
これをどう処理するかは作者の腕の見せ所で、例えば無限後退を逆手に取って少年漫画的インフレに結び付けた漫画として『トリコ』を挙げることができますし、この問題を正面から扱った作品として僕は『今際の国のアリス』を高く評価します。また、『Dr.Stone』がこの問題をどう処理するのかを今すごく楽しみにしています。


結局、マーレ編では、「安全保障」と「偽史統治」の問題を、クーデター編のように「倫理」と「真実」で解決することは不可能です。
思えば、「倫理」と「真実」はマーレ編までずっと希求されてきたものでした。エレンたちが苦しむのは正しい人間性(倫理)とか世界の秘密(真実)を手に入れていないからであり、それに辿り着けば戦いは終わるのだという希望がありました。しかし、実際に手にしたそれらは機能しないガラクタであり、戦争は終わらないどころか激化するばかりです。念願の海に辿り着いたエレンがもはや自由を全く感じられないように、ライナーと再会したエレンが憎しみを捨てても戦いをやめないように、倫理とか真実は実は闘争の本質ではなかったことが明らかになりました。
倫理も真実もない世界で辛うじて残るのは、そういう根拠らしきもののないイデオロギー同士の抗争だけです。戦いがもはや国家という枠組みですらなく、急激に派閥争いや内輪揉めの様相を呈してきたのも納得のいく話です。国家を結び付ける倫理と真実すら疑惑の対象になっているので、戦局を動かせるのは個々人の信条の強さと動員性能だけです。

以上を踏まえると、恐らくこれからこの漫画の評価を決定する論点になるのは「イデオロギー闘争に変質してしまった安全保障と偽史統治の問題を、倫理や真実を使わずにどう捌くのか?」です。
マーレ編で倫理と真実を一度棄却してしまった以上、それを復活させる形では事態を収拾できません。具体的に言えば、「ある特定のイデオロギーが勝利して闘争が終わる」(=倫理の復活)とか、「まだ明かされていなかった世界の秘密によって闘争が終わる」(=真実の復活)という展開はクーデター編の焼き直しによる論点の放棄に過ぎません。
これからは単行本を買いながら続きを楽しみにしたいと思います。



あと残りは個人的な邪推とかをちょっと書いて終わります。
wikipediaを見ると「25巻あたりでオチが付いて完結する予定だった」みたいなことが書いてあって、本来は地下室に辿り着いたところで終わる予定だったのが人気出すぎて引き延ばされたような気がします。地下室で終わる場合は「俺たちの戦いは何だったんだEND」みたいな感じで、今まで真実を追い求めてきたけど真実は問題じゃなかったんだ、やっぱり世界は残酷なんだということでなんか綺麗にまとまると思うんですけど、いまやその収拾を付ける機会を逸してしまったことが、この漫画にとって吉と出るか凶と出るかはわかりません。
あと、読む前は「どうせループものか並行世界ものってオチだろうな」と思っていたので、そうでなかったのは結構意外でした。1話から「記憶にはない記憶」みたいな描写が折に触れて行われていますが、そんなん今時どうせ「前の周回の記憶」か「パラレルワールドでの記憶」だろうな~って思いません? しかし、それがシンプルな「記憶改竄(と継承)」という一周回って新しいようなオチであり、しかもそれを個人的な陰謀に帰することを拒絶するのは面白いです。願わくば、ファンタジックで華やかな解決方法ではなく、このまま泥臭い取っ組み合いを続けてほしいと思っています。