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2022/7/16 『進撃の巨人』全巻読んだ感想 至高のトライアスロン的エンタメ

泊まったスパ銭で最終巻まで全部読んだ。

3年前くらいにも28巻まで読んでめっちゃ面白いと思って記事を書いたが、最終巻まで読んでも非常に面白かった。確実に人生に残るコンテンツの一つで、これが残らなかったら逆に何が残るの?というくらい面白い。

saize-lw.hatenablog.com

最後まで読んで改めてエンタメとして凄まじいと思ったのは、物語の段階によって面白さの種類が明らかに全く違うところだ。
時期によって色々な評価軸を渡っているのにも関わらず、全てが最高峰クラスに面白い上にそれぞれの内容が分断されずに滑らかに繋がっている。全体を通して文脈を乗り移るアクロバティックさと話を着実に進めるソリッドさを兼ね揃えていることが、あらゆる要素について複層的な読みを可能にしている。

具体的に言えば、この漫画は初期は「極めてグロテスクで強大な敵に対抗する人類」という割とわかりやすい少年漫画的なモチーフでスタートし、最初に人気を得たのもその文脈だった。巨人の強さ不気味さ、立体機動装置のスタイリッシュさ、絶望的な世界観など、アクション漫画としての設定的ビジュアル的な質の高さが初期の人気を支えており、大して漫画に詳しくない人は今もそんな内容の漫画だと思っていることだろう。
ところが、中期では巨人との闘争は一旦なりを潜めるようになる。代わりに人間が巨人化できることが明かされ、クローズアップされるのは底が見えない世界の謎と人間同士の利害争いだ。それは必ずしもライナーたち島外勢vsエレンたちパラディ島勢という構図だけではなく、壁内でも調査兵団憲兵団の衝突が描かれるようになる。
そして後期マーレ編では全ての謎が一気に種明かしされ、もはや謎の残っていない世界で誰が何をすべきかという人生を懸けた国家間戦争に移行する。マーレ編がスタートした瞬間にほとんど全ての真相を明かしてしまったのが本当に凄いと思う。中期の謎を隠して話を引っ張ることもできたはずだが、謎を全部明かしてしまってもなお新しい戦争の面白さで話をドライブする自信があったのだろうし、それは実際に成功している。

こうしてこの漫画の面白さは段階によって次々に変わっていく。具体的に言えば、初期は「怪物の面白さ」、中期は「謎の面白さ」、後期は「戦争の面白さ」が評価軸になっていた。
各段階でまるで別漫画のように異なるテーマを扱いながらも、登場するキャラクターやガジェット自体は一貫しているのが肝だ。キャラや技術のコアはそれぞれの段階を歩む中でブレることがないが、テーマの変化に応じてまるでトライアスロンのように最低でも三段階の異なる意味付けを与えられる構造になっている。

例えばダイナ・フリッツというキャラクターについて考えてみよう。
「怪物の面白さ」がテーマである初期ではエレンの母を食うことで「極めてグロテスクで強大な敵」としてエレンに原始的な復讐心を植え付ける役割を担った。
「謎の面白さ」がテーマである中期ではエレンと接触して始祖の巨人の力を発動させることで「謎の能力を持つ不可思議な生態の巨人」として世界の謎を更に深める役割を担った。
「戦争の面白さ」がテーマである後期ではエレンと間接的な血縁関係にある元人間だと明かされ「民族間戦争の悲惨な犠牲者」として世界の過酷さとそれに翻弄される人間の脆さを描く役割を担った。
これらの異なる役割はスターシステム的に独立に与えられているわけでは全くなく、それぞれの因果関係が連関するようにはっきり繋がっているため、段階が変わるごとに彼女のキャラクターには新しい意味付けが生じるようになっている。その意外性は漫画を読み進める上で事後的に読者の中に生じていき、物語の深みを後から増していく。最終的には、ストーリー冒頭でエレンの母を食ったイベントはダイナの「必ず探し出す」という遺言に対応していたことが発覚し、当初の読みとは全く異なる皮肉な構図が完成する。

同様に段階の移行に応じて事後的に意味付けが変わっていく要素をもう一つ挙げてみると、例えば「立体機動装置という技術」もそうだ。
初期には巨人に対して唯一有効な武器として「人類の希望の象徴」だったが、対人戦が主となる中期には高い殺害能力を発揮し始め、その用途が全く変わってしまったことによって「人類同士が戦う悲惨な状況」を強調するようになる。そして後期にはまた打って変わって、資材も技術も限られたパラディ島内で巨人という異常な敵と戦うために何とか捻り出された武器であると再定義され、「パラディ島という歪んだ世界」を体現したガジェットになる。こうなると当初の華やかな戦闘でさえ実はエルディア人の悲惨な状況を暗に示していたのだと印象を変えざるを得ない。

ダイナにしても立体機動装置にしても、最初と最後で劇的に意味付けが反転しているのだ。ダイナは初期は恐ろしい最強の敵だったのに対して、後期には哀れな犠牲者となる。立体機動装置は初期は人類の希望の星だったのに対して、後期には壁内人類の貧弱なリソース状況を示す歪みとなる。
この二つは単に例として今パッと思い付いたものを挙げてみただけで、こうした意味付けの変遷を読み込むことは漫画内のほとんど全ての要素に対して可能である。「リヴァイ」でも「サシャ」でも「巨人化能力」でも「調査兵団」でもいい。各段階における評価軸の移行によって重層的な読みが体現される要素は、少なく見積もっても百個はある。暇だったら自分でも「この要素には各段階でどんな意味付けが与えられていたのか、テーマの変遷に応じて最初と最後でどのように変わってしまったのか」と考えてみてほしい。きっと無限に味がするはずだ。

そして、この緻密な複層的パズルをメタに象徴するのが進撃の巨人の未来視能力だ。
未来視能力は時系列と因果を無視して逆流したエレンの意志が未来からグリシャを動かすという凄まじいことを行ってみせる。これは各段階におけるテーマがあまりにも堅牢であるが故に時系列や因果関係を無視した程度では破壊されないという宣言でもある。
普通に考えれば過去のグリシャの行動が未来のエレンによって決まっていたというのはちゃぶ台返しもいいところなのだが、この漫画では圧倒的な説得力を持つ描写だ。グリシャがレイス家を虐殺したのは中期と後期の狭間で、基本的には善人であるグリシャは「国家という大義には殉じられる(後期の戦争には適合している)」割には「目の前の人間を殺せない(中期の利害争いには適合できない)」という微妙な立ち位置に立たされていた。そこで後期の戦争の世界から、他人の殺害を一切辞さないエレンが介入して肩を押したから事態が動くというのはテーマの要請から見て完全に筋が通っている。

最後にエレンが地鳴らしを発動してミカサが止めるという結末にも賛否あるようだが、これも極めて筋の通った美しい展開だ。エレンというキャラクターにおいても「何よりも自由を求める」というコアは常にブレておらず、各段階における状況変化の中で相対的にポジションが変わっていく。
初期には彼の自由志向は敵を倒して人類の解放を求めるいかにも主人公的なキャラクターだったが、世界がもっと複雑だったことが判明する後期には究極の排外主義として発現せざるを得ない。「壁の外で人類が生きてると知ってオレはガッカリした」という台詞は本当に天才だと思った。エレンのキャラクターからすると、島外のワチャワチャした政治や戦争だって彼の自由を制限するという意味で巨人と全く変わらない敵でしかない。だから泣いても謝っても地鳴らしは絶対にやるし、それはエレン自身の意志では絶対に止められない。

補足418:エレンの目的の本質をゼロレクイエムの変奏と読むのは誤りだ。それはオマケで生じた副次効果に過ぎない。エレンのコアは自由を貫徹することで、それはミカサやアルミンのような本当の理解者に殺害してもらう以外の方法では止まらない。

つまりエレンという自由を求めるキャラクターにおいても初期の主人公から後期のラスボスへという意味付けの反転を正当化するテーマの移行が含まれているわけだが、これはユミル(大地の悪魔と契約した方のユミル)というキャラクターとの関係、ひいては進撃の巨人のストーリー全体と完全に重なってくる。
初期の怪物漫画としての段階ではユミルが作り出した「巨人」とエレンが求める「自由」はそれぞれ対立するものとして描かれていた。エレンにとっては自由を求めるためには巨人が邪魔だから一匹残らず駆逐しなければならなかったのだ。ところが、中期にはエレンが巨人化能力を我が物としたことを経由して、人生を戦わせる後期で最終的には「巨人」と「自由」の二つは同根であることが明かされる。ユミルが巨人を作り出す行動原理は他人からは全く理解できない理不尽な愛によるものであったのと同様、エレンが地鳴らしを発動する行動原理も他人からどんなに否定されても絶対に止まらない理不尽な自由精神によるものだ。だからユミルとエレンは説明なしで一発で理解し合うことができるし、ミカサがエレンを殺すと同時にユミルも停止して巨人化能力も消滅する。
「巨人と自由の関係」というこの漫画をドライブしてきた一段メタな最大要素でさえも最終的には意味付けが反転し、同時に消滅することでこの漫画は幕を閉じる。うーん、やはりどこをどう読んでもストーリーテリングが卓抜しすぎている。