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20/1/5 ドラえもん のび太と鉄人兵団の感想 発展するロボットたち

・お題箱58

110.1986年の映画、ドラえもん のび太と鉄人兵団をお時間あるときに見てください

アマプラでドラえもん映画シリーズの無料キャンペーンをやってたので見ました→

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シンギュラリティみたいな話の割にはかなり素朴なヒューマニズム称揚で終わっていて、全体的なお話はあまり面白くなかったです。

しかし、とにかく色々なタイプのロボットが登場する上に、その発展段階が様々であるところが上手くできています。
この映画内で提示されるロボットの比較や顛末を通じて他の話題に派生しやすく、引用価値が高いです。アニメにおけるロボットの扱われ方や操縦行為などについて語りやすくなるため、エヴァ初号機の話をしているときにいきなり「それって鉄人兵団のザンダクロスだよね」みたいなことを言うとゴチャゴチャうるさいクソオタク感を一気に増せることでしょう。

この映画に出てくるロボットの発展段階はだいたい三段階あって、操縦型→中間型→自律型という順に高度になっていきます。最初に出てくる最も原始的なロボットはミクロス(ドラえもんの改造前)とザンダクロス(まだジュドが乗っていない状態)です。どちらも完全な操縦型で、主体的な意志らしきものを全く持ちません。
この二体を比べると機械的には明らかにザンダクロスの方が高度なロボットですが、実際に操縦する観点から見ると、実はザンダクロスの方が簡単で素朴なロボットとして扱いやすいはずです。
ザンダクロスはサイコントローラという脳波センサーで操作されており、使用者の意志と動きが完全にリンクします。例えばザンダクロスにジャンプさせたい場合、操縦者はその場でジャンプしようとすればそれで済みます。よって、操縦ロボというよりはアイアンマンのようなパワードスーツに近い存在とも言えます。
一方、ミクロスの方はラジコン式なので、入力と動作の間に乖離があります。ミクロスにジャンプさせたいときは、ジャンプボタンがどれなのかを理解した上でそれを押すという動作が要求されます。脳波で動かす場合よりも難易度が高く、使用者の意のままには動かないケースも多いことでしょう。
以上のように、この二体の比較からは「インターフェイス技術が向上することで透明化する拡張身体」というモチーフが読み取れます。ミクロスの段階では直感的でない操作が要求された一方、ザンダクロスでは念じるだけで自在にロボットを操れるわけです。

この対比はアニメの操縦行為全般で割とよく現れてくるもので、例えばガルパンの戦車操縦なんかがそうですね。ガルパンの戦車操縦の描き方は、カメラの位置が戦車内部と外部のどちらにあるかによって二つの操縦モードが切り替わるようになっており、それがミクロスとザンダクロスの違いに対応しています。

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カメラが戦車内にあるとき、つまり武部や冷泉を映しているときは、彼女らが中で一生懸命働くことで戦車は操作されます。このとき、戦車は「レバーを引けば右に曲がる」というような機構的なレベルで操縦されています。戦車の動作と冷泉の作業は必ずしもリンクしておらず、鉄人兵団で言うとミクロスと同じ原理で操縦が行われています。

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一方で、カメラが戦車外にあるとき、つまりハッチから顔を出している西住を映しているときは、西住の意志にリンクするように戦車は操作されます。実際には西住は操縦手に指示を出しているのですが、その指示内容はいちいち全て描写されるわけではないため、まるで西住の意のままに動き回っているように見えます。特にクライマックスではこうした描き方が前面に出てくる傾向があり、愛里寿ウォーのみほ&まほvs愛里寿戦などで顕著です。このとき、戦車は「西住が右に曲がりたいから右に曲がる」というような意志的なレベルで操縦されています。戦車の動作と西住の意志はリンクしており、鉄人兵団で言うとザンダクロスと同じ原理で操縦が行われているわけです。
カメラが戦車の内外を同時に映すことは物理的にできないため(画面を割らない限り)、この二種類の操作モードは不連続に切り替わります。もちろん現実的に考えれば西住の指示があそこまで遅延なく伝わるはずはないのですが、そこを割り切ってモードを切り替えて描写することにより、「皆で協力して戦車をガチャガチャ動かす機械的な面白さ」と「リーダーが戦車を意のままに操る拡張身体的な面白さ」を両立して描くことを成功させています。実際には戦車は機構的に動くものですから、冷泉のミクロス的機構操作モードがリアル寄り、西住のザンダクロス的意志操作モードがフィクション寄りとも言えるでしょう。

補足232:ただ、最終章シリーズでは明らかに意志操作モードの方が優位になり、機構操作モードの登場機会が減ってきています。実際、武部とか冷泉ってもうほとんど画面に映らないですよね。戦車を皆で協力して動かすロードムービー的な段階がアニメ放送版でもう大体終わってしまったというのもありますし、いちいち戦車内部の作業員まで書いているとキャラクター数が増えすぎてしまうため、特に大洗高校以外の人たちについてはハッチから顔を出す人以外を描くのは難しいのでしょう。

脱線が長くなりました。鉄人兵団の話に戻ると、次の発展段階で出てくるのは、ジュド(本来のザンダクロスの人工知能、ボーリング球みたいなやつ)とミクロス(ドラえもん改造済)です。どちらもリルルや鉄人兵士に比べると不完全な存在で、操縦型と自律型の間にある中間的なものとしてこういうタイプのロボットをきちんと描いているのが偉いです。
ジュドは人工知能としては完成しているんですが身体を持っておらず、何も成すことのできない存在として描かれます(ドラえもんに縛られて吊るされてるだけ)。すなわち、仮にコンピュータが完成していても、最終的にアクチュエータに繋がなければロボットは何もできないんですね。「ロボットが実際に存在感を持つためには身体が必要だ」というのはよくよく考えれば当たり前ではありますが、アニメではどちらかというと人口知能の方に力点が置かれて身体の方は軽視されがちなところがあります。エヴァのMAGIとかアップルシードのガイアとかダロスみたいな「超天才コンピュータが人類の未来を決定する」みたいなモチーフって一時期すごく流行りましたけど、あれだって誰かが話を聞いて実行して初めて意味を持つものです。数理的な論理回路だけを考えるんじゃなくて、最終的に物理系とのリンクをどう取るのかということに言及できる描写があるのはロボット工学的に結構いいですね。

補足234:ザンダクロスの「単なる拡張身体かと思ったら意志を持っていた」というのも割とありがちなモチーフで、引用できる機会は多そうです。エヴァでシンジ君の当初の目標は初号機を自在に操ることだったのに、途中から初号機は単なる機械ではなく母の魂が組み込まれていることが判明して、暴走したり勝手に動き始めて意味不明になっていくやつがそうですね。ザンダクロスは最終的にドラえもんが脳内を書き換えるという暴挙により完全制御下に置かれたわけですが、果たして初号機は?

ミクロスの方は、ザンダクロスとは逆に、自由に動かせる身体は手に入れているのですが人工知能が貧弱なためにうまく動作しないロボットです。劇中に出てくる人工知能のうち、人間より遥かに低い知能しか持っていないのはミクロスだけです。のび太にとんちクイズを出されて爆発するのはかなり漫画的表現というか、「そうはならんやろ」現象ではありますが、知能の不備が身体にまでフィードバックされる構図はザンダクロスが身体の不備により知能を活かせない構図と対比できます。

最終段階として、最も高度な自律型のロボットがリルルや鉄人兵士たちです。
とはいえ、この辺はロボット独自の完成形というよりは人間の価値観に隷属する劣位の存在として描かれているだけなのであまり言うことがありません。ここからは完全な一般論なのですが、現実と違ってロボットを自明に内面を持つ存在として描けることはアニメの特徴の一つです(人間キャラクターもそういう約束で運用されているから)。それ故、動作不良のロボットを描いた場合、それがどうしても精神的に未熟な人間の表象になってしまうことを個人的にはわりと問題に感じています。ロボットの成長を描こうとすると何故か奴隷少女ものじみてくるというか、劣位の人間に対して絶対的な優位性を誇示する自慰行為っぽさがどうしても出てきてしまうように思います。
まあ、それはそれとして、リルルがめっちゃオタク受けしそうなクール系戦闘美少女でビックリしました。なんか朝目新聞(死語)あたりでよく描かれてたドラえもんパロディ漫画のキャラですよね。

最後に、地味に気になるのは、映画内でドラえもんが猫型ロボットであることに対する言及が全くないことです。ここまでロボットの発展段階を追ってきましたが、ドラえもんだけが明らかに最初から最終到達地点にいます。
そもそも冒頭でスネ夫にラジコンを自慢されたのび太が「凄いロボット出してえ~」ってドラえもんに泣きつきますけど、目の前に最強ロボットいますからね。終盤でも、ロボットの人間性について云々している横で、既に完全に人間に到達しているロボットであるところのドラえもんがいつものマヌケ面で立っているのはもはやシュールギャグの域です。
また、この映画ってドラえもんがロボットを改造することが多く(ザンダクロス改造、ミクロス改造、ザンダクロス再改造の三回)、自分もロボットでありながら同じロボットであるザンダクロスの脳内書き換えを平然とやるのがわりと恐怖です。なんか皆ザンダクロスを味方にできて良かったみたいな雰囲気になってますけど、それって普通にかなり残酷な類の洗脳なわけで、リルルの内面に踏み込む割にはザンダクロスの人権は誰も気にしていないという異様さがあります(ザンダクロスにやったこと、ドラえもんにも出来るか?)。
つまり、全体的に違和感があるのは、諸々のロボットに対しての扱いが独立に設定されていて、恐らく意図的に一貫性が放棄されていることです。最も人間に近いドラえもんはロボットであることすら誰も言及しないレベル、かなり人間に近いリルルはロボットと人間の違いについて苦悩するレベル、人間から遠いザンダクロスは人間扱いしなくても咎められないレベルというように。
まあ、これは子供向け映画なのでその手のコンシステンシーは別に求めても求められてもいないのですが、そういうことをゴチャゴチャ気にするようになるのが大人になるということなんでしょう。