第18回サイゼミ
2025年12月14日(日)に大門で第18回サイゼミを催した。
www.youtube.com今回は今をときめくボカロPのフロクロさんに来て頂き、前座の俺が佐藤雅彦の話をしてから、メインはフロクロさんに色々喋ってもらったり見せてもらったりする回だった。

最初は3人でスタートしたサイゼミだがもう20人くらいの規模感にも慣れてきた気がする。
補足627:と言いつつ、会場の形がベストではなかった。レンタルスペース予約サイトに記載してある収容人数には基本ミチミチに詰めたときの数値が申告されているので、参加予定人数の概ね2倍くらいのキャパで取らないと余裕がないがちだが、しかしそうなるともう50人弱が入るような会場を取る必要があって、その広さで安い会場は縦長になりがちなため後ろの人がモニター画面を見にくい。もう社会人がほとんどだし場所代は1人2000円くらいの予算でいい説もある(今回は1人700円とかで安すぎた)。
ここまでのあらすじ
俺がフロクロさんと最初に出会ったのは5年前くらいに遡る(かなり曖昧な記憶なので±1年くらいズレているかもしれない)。
おどりばさん(kqck名義note→■)という、ネットで面白そうな人を見つけてはnoteで語ったりオフで引き合わせたりしてくれるかなりありがたいインターネット怪異みたいな存在がこの世にいて、そこでたまたまLWとフロクロさんが同時に捕捉され、新宿のレンタルスペースで開かれたオフ会にて初めて顔を合わせたのだった。
これはかなり好きな話なのでこのブログでも何度か擦っているが、そこでフロクロさんにどんだけフリックしても右のスクロールバーが動かない異常すぎる量の韻メモを見せてもらって(なんかやべ~やつおる!)と脳裏に強く刻まれた。
会った当時は『ことばのおばけ』が出るか出ないかくらいの時期だった気がするが、フロクロPはそれからも精力的に作品を投稿してネットでどんどんビッグになっていった。気付けば最近では篠澤広に楽曲を提供したりしているのを「なんだか日々凄いことになってるンゴねえ」などと『ビビビビ』を聞きながら横目で見ていたところ、今年の夏頃に俺が佐藤雅彦展に行ったあたりからまた物語が動き始める(俺視点)。
saize-lw.hatenablog.comこの記事にも書いたが、佐藤雅彦展で(フロクロさんみたいな作品ばかりだな)と思いながら展示を見ていたら普通にクリエイティブ方面で強い影響を受けたフォロワーとのことで、『ユリイカ』の佐藤雅彦号にもフロクロさんが寄稿していた。
佐藤雅彦は自分のやり方をかなり言語化する方というか、言語化と制作が結びついているタイプなので、似た創作スタイルのフロクロさんにも色々語ってもらって同異を知りたいンゴねえという気持ちが夏以降ムクムクと育っていた。
そこでまたタイミングよくおどりばさんのありがたいオフ会が今年10月にも発生(その前々月くらいにもオフ会があったがLWがコロナで死んでいた)。新宿の思い出横丁で飲んだ勢いで「サイゼミやりましょう」と誘ってオッケーだったので流れないようにそのまま路上でサイゼミdiscordに「フロクロさんが来ます!」と書き込み、無事に今月開催されたのだった。
佐藤雅彦について(LW)
とりあえず前座のLWが佐藤雅彦展図録『作り方を作る』を片手に佐藤雅彦について喋った。
メインのフロクロさんを理解するにあたっての補助線を引くことを目的としている。speakerdeck.com
佐藤雅彦って誰?
俺の世代にとって最も有名な佐藤雅彦作品はやはり「ピタゴラスイッチ」だと思うが、「だんご三兄弟」「IQ(ゲーム)」「ばざーるでござーる」あたりの誰もが一度は聞いたことのある平成の諸々を全て同じ人が作っていることは、俺は横浜美術館で初めて知った。
しかもそれら平成の手触りがするコンテンツだけではなく、近年では情報教育の流れに乗った教育番組「テキシコー」にも携わっているなど、40年近くに渡ってマス向けの広告や企画を無数に生み出し続けている怪物的ヒットメーカーでもある。
ちなみに俺が一番好きな作品はコイケヤのジャガッツ。今見ても令和にも通用するセンスを放っており、これが1988年制作というのは俄には信じがたい。
www.youtube.com補足628:これはオフィシャルなアップロードではないが、佐藤雅彦自身が図録『作り方を作る』の中で「大きな声では言えませんが、佐藤雅彦のCMは、Youtubeで見ることができます(p76)」と書いているので良しとする。ちなみに当時の他の無名CMと並べて見ると佐藤雅彦の先進性を強く実感できるので暇な人は手元で調べてみてほしい。
個人的には人となりもかなり面白いと思っているので珍しく経歴の話をしたりもした。
クリエイターとしては珍しいことに自己実現を良しとしない信条を持っており、個の発露ではなく一般的に有効なルールの探求に努めたり(と言いつつそれも結局は再現性のないユニークスキルであることには後で触れる)、CM制作を文化でも芸術でもなくクライアントが数値目標を達成する道具として捉えたりしている。そういう妙にシステマチックな振る舞いには東大を出て(適当に)電通に入るというキャリアが深く関与しているようにも感じる。
より一般的な「作り方を作る」
佐藤雅彦が「作り方を作る」と述べるスタイルの体系的な理解についてはさっき挙げた書籍に全部書いてあるのでそちらを各自で読んでほしいが、個人的に最も関心があり、かつ、フロクロさんに聞きたかったのは「もっと一般的な帰納・演繹という構造の中で佐藤雅彦(およびフロクロさん)のスタイルはどう位置付けられるのか」という点だ。
補足629:厳密に言えば、ここでの「演繹」という言葉の使い方は論理学的にはあまり正しくない。というのも演繹とは事例を判断するものであって、別に事例を制作するものではないからだ。とはいえ軽く留保しておけば拡大解釈してもらえる範囲だと思うので、今は「所与のルールを適用する」くらいのラフな意味で読んでほしい。
前提として、佐藤雅彦が行っている「作り方を作る」というやり方は、もっと広い視野で見れば無数の領域で行われている帰納・演繹のパターンの一つでしかない。
すなわち「事例を蒐集してから本質を抽出し、それを用いてまた新たな事例を作っていく」という流れ自体は最も典型的な創出スタイルの一つだ(そうやって作られた事例がまた別の人に蒐集されることでこの営みがチェインしていく)。
例えば(特に工学寄りの)自然科学では実験事実を蒐集して見出した一般法則を新たな応用に繋げていくし、エンタメでも多くの作品から共通構造を見出して次の作品制作に活かしていくし、AIも大量のデジタルデータに共通する数値的なパターンを機械学習したモデルで未知への推定を行う。そもそも学問がこういう構造を取っていることを踏まえれば、佐藤雅彦がCM制作から教育という表面的には無関係そうな分野の間を移動したことも理解しやすい。
このように抽出された一般則としてのシステムに目を向けると、本来はメタレベルに背景化しているはずのそれをベタな制作物にまで陽に組み込んでしまうのが佐藤正彦やフロクロさんの特徴の一つだと思う。
佐藤雅彦の作品ではガロに掲載された『KIT』が最もわかりやすく、フロクロさんの作品では『ただ選択があった』が典型的だ。
www.youtube.com
音楽を一本のストリームというよりは分岐を含んだマップから生成されるものとして捉え、しかもその生成をビジュアルを用いて陽に提示している。単一の顕現というよりは複数の再現を扱い、一段上流にあるはずのシステムに対する視座をベタに出してしまうというメタレベルの混乱ないし付与が特徴的だ。
補足630:音は原則として一次元でしか進行できないが、生成分岐を含むシステムはその定義上で二以上の次元を必要とするため、音の生成分岐を陽に表現するには二次元以上を提示できるメディアを併用しなければならない。その際に最も手頃なのが時間軸を共有した視覚表現であり、それこそが必ず音楽とMVがセットになるボカロ文化圏からフロクロさんの作品が提供されることの機能的な正当性とも言える。
さて、こうしてクリエイティブ以外も含めた広い領域からパノラマで見れば、俺は真に注目すべきは佐藤雅彦の「作り方を作る」という思想自体ではないと思う。その営み自体は一般的な運動に過ぎず、様々な領域で陽に陰に行われているからだ。
そうではなくむしろ、「極めて一般的なことをやっていながら他の制作と差別化されるキーはどこにあるのか」という方向で疑問を持つ方が正しいように思われる。
佐藤雅彦に固有のメタスタイル
言ってしまえばよくある明示的な本質の抽出であるところの「作り方を作る」という営みを、佐藤雅彦が現実的にどのような手順で遂行しているのか。本人の記述を読み解くと、だいたい以下のような順序になっていることがわかる。
まずはスタートとして「①事例蒐集癖」がある。佐藤雅彦は気に入った音や個別アイテムなどを大量に集めておく癖を持っており(ピタゴラスイッチ初期に使用したパーツも全て私物だったらしい)、それが続くイメージの源泉として機能しているのは間違いない。
しかしその次のステップには「②天啓」が来るのが異質だ。書籍内で「誰かに提示されたような」「クラクラッとしてしまいました」と述べているように、真に有用なアイデアは自らが考え抜いた結果というよりは不連続的な天啓として降り注ぐらしい。しかもその天啓は「作り方」の少し先であり、本質そのものというよりは一定の本質を含んだ事例のようなものを幻視する。
続いて「③天啓の分析」という工程が来る。すなわち天啓という理想事例がまず降りてきてそれの何が面白いのかを分析することで本質に到達するという順序逆転が起こっている。
ちなみに俺はこのあたりの手つきに東大成分を勝手に感じている。クオリティの高い東大卒は得てしてまだ誰も体系的に語っていなかったふわふわしたものに対して独断で新しく軸や理論をブチ抜くのが上手い。
そして④では個性を出さずに本質的なルールに従って振る舞う。ここでは自己実現よりもクライアントワークに徹しようとする側面が強く活きている。
ここまで見てきて気付くのが、佐藤雅彦は自らの方法論を全く民主化していないことだ。
というのも「作り方を作る」というタイトルだけ見ると「私の作り方を皆さんに共有するので使ってください」という手法の公開による民主化みたいなニュアンスを勝手に感じないこともないが、そういった恩恵は一切ない。実際に流れを紐解いてみると、核心にある①趣味と②天啓が個人依存であるために再現できないからだ。可能なのはせいぜい佐藤雅彦の「作り方」を模倣したデッドコピーだけで、「作り方の作り方」を真に真似ることはできない。
メタメタスタイルの開拓余地
しかしそれは必ずしも悲報ではないと思う。先に述べた通り本質を抽出して運用する営み自体は様々な領域にあって、元よりそのやり方は千差万別だからだ。
例えばこの観点から見るとAI(機械学習)は主に数値間の関係を対象として本質の抽出を自動化したシステムであるわけだが、具体的には以下のような流れになっている。

まず事例蒐集として関心あるデータを集め、賢い人達が考えた適切なアルゴリズムで学習し、作成したモデルが正しそうかどうかをテスト評価しながら、最終的に推論によって運用して次の事例を作っていく。それぞれのステップに対して議論トピックが色々あり、全てを懸命に洗練していくことが現代のAI躍進に繋がっている。
AI技術の詳細はいま重要ではなく、要するに言いたいのは「作り方の作り方」は領域依存だし、むしろそこにこそ個性や探求の余地が宿るということだ。
個別の事例をベタレベルでの「作られたもの」とするなら、その集合から抽出された「作り方」はもう一段上のメタレベルということになるが、その「作り方」自体をどう作っていくのかという論点はメタメタレベルの「作り方の作り方」に該当する。
そのレイヤーにおいて佐藤雅彦は天啓を使うし、AIは数理的な手法の洗練を扱うという違いがあるだけだ。そもそも事例から得る本質は一意ではないし、人によって異なる抽出方法と本質があることは一つの希望でもある(メタレベルでは宿らない個性がメタメタレベルでは宿るとも言える)。
こうして佐藤雅彦のやり方をあくまでもあるスタイルにおける一事例と見做し、似た視座を持つフロクロさんはどのようなやり方をしているのかに興味がある、という〆で前半戦を終えてバトンタッチした。
フロクロPについて(フロクロさん)
フロクロさんが俺の話を聞きながらアンサーっぽいdocを作ってくれていたので諸々かなり整理できた。
キュレーションとしての創作
本題に入る前の前提として、フロクロさんも創作に「一般則の実践」というニュアンスを強く持っているのは解釈一致だった。
フロクロさんは「人間の普遍感覚を取り出せたら個人の属性の隔たりを超えられてよいんじゃないか」と人類補完計画みたいなことを述べると共に、「良かった作品のここが好きだったみたいな部分を集めて作ってるのでキュレーションに近い」とも語っており、創作者のオリジナリティの発露というよりは消費者のキュレーションの延長として制作を捉えている。
ただし佐藤雅彦はクライアントワークにおいてコンスタントに結果を出すためという効率観点から汎用的かつ有効な手法を探求したのに対し、フロクロさんはもっと趣味寄りで自身ないし世界の快のために制作を行っているという原動力の違いはかなりありそうでもあった。
何にせよ「キュレーションに基づいた一般的なルールの実践」がフロクロさんの創作に対する自己認識だったとして、そうはいっても外野から見るとフロクロさんは普遍というよりはむしろかなり特異な作家性を持っているというギャップは間違いなくある。
そもそもキュレーションという行為は(自己制作ではないにも関わらず)実践者の個がかなり強く反映されることが一般には知られている。キュレーターという職業の存在はその裏付けの一つだし、データサイエンス周りにおいても一定の基準で蒐集されたデータセットには著作権が認められるのが通例だ。ゼロからの制作に比べ、キュレーションの方が膨大な作品数を扱えるからむしろ表現の幅が広くなると考えることもできる。
そういう突っ込みを含めて「言うてフロクロさん自身の作家性ってめちゃめちゃありますよね(そしてその根源は何?)」というのが前半戦から引き継がれた関心だったように思われる。俺はそれを三点ほど見つけることが出来たので(他にもあるかもしれないが)、それぞれについて書いていく。
ポイント①:蒐集趣味の質と量
フロクロさんが5年前くらいの時点でヤバい量の韻メモをスマホに持っていた話は冒頭に書いたが、その完全版みたいな個人用のScrapboxも見せてもらってそれがヤバすぎた(以下のテキストで言及されているScrapboxと思われる)。
scrapbox.io
もうひとつの主力メモ帳はご存知「Scrapbox」です。
こことは別に個人的に使っているScrapboxのプロジェクトがあり、そこは2022年8月時点では3342のページが立っています。
記録している内容は「全て」です。考えたこと、読んだ本、日報、良いコード進行、試した手法の記録、好きなイラストレーター、シナリオの手法、良いキャラデザ、映画の構図、面白いツイート、など、とにかく「これ記録したほうがいいな」と思ったものを全て記録しています。
(中略)
Scrapboxはとにかく雑多に、たくさんページを立て、それらを相互にリンクすることで巨大なリゾームを作ることに価値があります。
この巨大なリゾームがあまりにも巨大すぎた。皆さんが「膨大」と聞いて「このくらいかな?」とイメージする量を単に一要素としてそれを更に膨大に集める作業を3回繰り返したくらいの量はある。
フロクロさんの韻メモがエグい話は前からしていたのでそれをモニターに映してもらって本当にスクロールしてもしても一生終わらないから皆でウケてたら、「このページに集めてるのは母音Aだけなので他の母音はまた別のページにあります」とかフリーザみたいなことを言い始めて騒然としたのが今回のサビだった。
更に韻だけではなく本当に「全て」が記録されており、しかも各カテゴリの質と量が個別にけっこう常軌を逸している。
例えば上の引用では「映画の構図」とかサラッと書いてあるが、これも単に「映画の構図」と聞いたとき常人が普通にイメージする蒐集内容ではない。実際のところ、巨大なリゾームには映画100本以上の全カットの全構図が記録されており、更にその構図における空白や分割の位置などの手法に応じて数十種類以上に分類してあるのだ(もっとあったかもしれない)。
「面白いツイート」もその調子で、「コワ~なツイート(詐欺事件の詳細とか)」「動物が何かを模しているツイート」「(主に女性の)オタクがドキッとしたときリプライに貼る画像」とか異常な粒度で無数の分類が行われている。その場でライブ分類を見られたのも熱かった。
帰納元となる蒐集において対象カテゴリ及び個別要素の膨大さとしての量、そしてそれぞれをきっちり細分化して分類している質の二点において、かなり特異な蒐集活動を行っているというスタート地点がまずある。最初に会ったとき一番面白いと思った要素を大量に摂取できて個人的には大満足だった。
ちなみに集まった面々は皆フロクロさんに興味津々なので、最初は「作家性はどこにあると思いますか」とか「あれのこれはどういう意図ですか」とかフロクロさん自身のことを質問責めにしていたのだが、(アンチ属人化派閥なので?)自分のことを説明するのがそんなに得意ではないフロクロさんが明らかに疲弊してきたので一旦休憩を取った。
フロクロさんがグッタリしているし続きはどうしようかな~と思っていたら休憩中の雑談として大量に蒐集したツイートとか映像構図の紹介が始まり、そこでフロクロさんの目の輝きが一変して俄然イキイキし始める。それで休憩後はフロクロさん自身のことを聞くのはやめて皆で蒐集アイテムを見る時間にしてかなり楽しく過ごせたのだった(量と質が異常すぎて何を見ても面白いしコンテンツが無限にあるので無限に時間を費やせる)。
フロクロさんは本当に自分自身のことを語るというよりは好きなものを蒐集するのが原動力なんだなあと実感する一幕であった。
ポイント②:言語学的なスキーム
ファンの方は御存知のように、フロクロさんは作品の意図やコンセプトについて言語学用語を用いて説明していることが少なくない(パラディグムとサンタグム、パロールとエクリチュールなど)。
それは単に制作物において言葉遊びをよく用いるからというだけの話ではなく、もっと一般に蒐集や分類に要する概念構造の基盤として言語学的なスキームを借りているように思われた。
そもそも、粒度はともかく何らかの概念構造が手元になければ蒐集及び分類を行うのは難しいという前提がまずある。適切な蒐集及び分類には常に何らかのスキームを必要とすると言ってもよい。
というのも、指針が全く何も存在しない状態で蒐集を進めるのは不可能だからだ。この世に何らかの要素は明らかに無限個存在する以上、無目的で本当に遍く全てを全回収することは現実的に誰にも出来ない。全てを集めるというのは何も集めないことと大差ない、なぜなら蒐集とは捨象の余集合であるが故にその二つは論理的には等価だからだ。
なお、逆に用いる指針を完全に所与として事前に把握できているのであれば実際に蒐集を行う意義はほとんどなくなるのが面白いところでもある(バランスが大事)。どうせ完全に理解しているものを集めても再確認以上の意味はない。喩えるならばそれは既に何年か前に終了した玩具シリーズのリストを片手に中古市場でのコンプリートを目指すようなもので、所有欲くらいは満たされるかもしれないが新たな発見は特にないだろう。
何にせよ、特に分類を伴う蒐集癖には何らかの先立つスキームが存在しているはずであり、そこで言語学的なそれが持ち出されることには納得できる。
実際にフロクロさんが口頭で説明していたものを一つ挙げると、チョムスキーが行っていたような内省判断があった(参考→■)。これは頭の中で対象の文章を反芻することで生じる違和感を捕まえてその解釈を明らかにしようとする方法だが、重要なのはそのやり方が言語分析に留まらない射程を持っていることだ。例えば妙に気持ちいい音楽の調子だったり、やけに引っかかるツイートだったり、何となくスムーズに見られない映画のショットだったり、様々な蒐集において自らに分類指針を与える強力な助けとなるだろう。
「蒐集に伴う分類カテゴリは最初から強く決定されているのか、それとも蒐集が進むにつれてもっと適切な分類カテゴリに修正されたりカテゴリ自体が増えたりするのか」とフロクロさんに聞いたところ、これはかなり後者とのことだった。
そのようにサンプルと意義付けを柔軟に行き来するやり方は質的研究のやり方にもかなり近い(→■)。つまり蒐集といっても(ITシステムとしての)データベースの更新のようにひたすらサンプルを量的に増やしていくのではなく、蒐集指針やサンプルの解釈を再検討することも視野に入れて概念的な軸を同時に形成している。
それは仮説検証というよりは仮説形成に相当する作業でもあって、いわゆるアブダクションとして個々人の着眼点や飛躍に帰せる部分でもある(質的研究においてはまさしくその属人的な恣意性を一つの論点として衰退系バトルSNSで些末な論争が巻き起こされたのだった)。
ポイント③:オタクとしての自負と趣味
フロクロさんが最初に「ただのオタクです 制作はそんなに向いてないと思う」と自己紹介を始めたときは(尖ったクリエイターに特有の変な謙遜みたいなやつか?)と内心思ったが、話を聞いていくうちにそれには深いニュアンスが色々込められていることがわかってきた。
ここまで書いてきたように制作をクリエイター側の自己実現というよりはオタク側の消費の延長上に位置付けていることがその一つでもあるが、オタク趣味としてのディテールの選択も外せないポイントだと思う。つまり言ってしまえば「本質的には別になんでもいいはずの部分」というのが創作には必ずあって、その充填には文化的な意味でのオタクとしての自負や好みが一定のトーンを与えているはずだからだ。
ここまでは基本的には「作り方を作る」だけでシステマチックに事例(作品)が生成されるかのような物言いをしてきたが、実際のところはそこに収まらない余剰が必ずある。作り方は事例の指針に過ぎず、事例の全てを語るわけではない。
例えば佐藤雅彦のCMにおいては失敗やすれ違いのようなシニカルさなエピソードが仕込まれていることが多いが、その具体的な内容については全てがトップダウンで決まるものではないだろう。フロクロさんのMVでも誰の目にも明らかなものを一つ挙げれば「キャラは女の子しか出さない」という選択は明らかにある(作品のコンセプト上では登場キャラが男性でも特に困らないはずだ)。本質的なルールとは無関係ながらも現実的には作品を充填するために必要な要素には純粋な意味での個人としての趣味が出ると言ってよいと思う。
フロクロさん曰く、『フレーミー』や『10本アニメ』のような、なんかこう2Dチックなワイヤーフレーム的なものから抜け出せない佐藤雅彦フォロワーは多いらしい(曰く「重力圏に囚われる」)。
確かにそれは個別具体の細部を捨象して本質を切り出して見せやすいという意味ではシステムへの視座を持った制作と親和性が高いのだが、かといってそれでしかシステムを表現できないわけではないだろう。もっとリッチな余剰を与えても依然としてシステムを語ることは可能なはずだし、そこにボカロ文化圏ないしもっとシンプルにオタク趣味から来た趣味を与えることでフロクロさんは差別化に成功しているという言い方もできる。
今にして思えばベタなオタクコンテンツの話はエヴァとか映画の話をちょっとしたくらいだったような気がしてきたが、それは次回会ったときのために取っておくことにしたい。
