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19/8/21 ワールドトリガーの感想(前編) 最近のジャンプ漫画の思想変化

・お題箱52

90.ワールドトリガーの感想が聞きたいです

面白いと思います。
だいたいの男性読者がそうだと思うんですが、強くてクールな那須さんが好きです。
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ワールドトリガーに関しては全く独立した論点が2つあって、

1.ネイバー設定から見る最近のジャンプ漫画の思想変化
2.トリオン体設定から見る傷付かない記号的身体

のそれぞれについて書きます(長くなったので今回は1の話だけ、2は次回書きます)。

ワールドトリガーを読んでいてまず最初に引っかかるのは、主人公のユウマが「敵側」の人間であることです。
一話を読んでいると、最初は「ボーダー(味方・人間・善)vsネイバー(敵・侵略者・悪)」という善悪の戦いなのかなと思ってしまうのですが、すぐにユウマがネイバーであるとわかり、事態は単純な対立でないことが判明します。更に、ボーダーが使っている武器は元々はネイバーが作ったもので、この戦いで「味方」が使用する戦力自体が実は「敵」の産物であるということも早い段階で提示されます。
この、「味方側が最初から敵側の能力を使っている」というモチーフは最近のジャンプ漫画ですごく流行っていますよね。例えば、『鬼滅の刃』では主人公と共闘するヒロインのネズコが「敵」である鬼ですし、『呪術廻戦』では主人公が「敵」の悪霊・スクナの能力を使って戦い、『チェンソーマン』でも主人公は「敵」である悪魔と融合しています。
これらを読んでいてジャンプ漫画を支える想像力が変化していると感じるのは、そもそも味方・敵という区別をすること自体への関心が薄くなっているように見えるところです。

まず最初に注意しておきたいのは、『ワールドトリガー』等に見られる「味方側が最初から敵側の能力を使っている」という設定は、『ドラゴンボール』のベジータに見られるような「敵が味方に寝返る」という古典的展開とは全く真逆の前提があって機能しているということです。
ポイントになるのは、「味方側が最初から敵側の能力を使っている」というときの「最初から」という部分です。上に挙げた『ワールドトリガー』『鬼滅の刃』『呪術廻戦』『チェンソーマン』の4例は全て第1話か、精々第1巻の時点で敵と合流しており、初期設定の段階から敵と味方の境界が曖昧になっていることがわかります。その一方で、ベジータ的な「敵が寝返る」という描写は、最初に大前提として敵と味方がはっきり分かれていて初めて機能するものです(もともとどっちが敵か味方かよくわからない状況で寝返りをやってもあまりドラマチックではありません)。
その意味で、「敵と味方の区別が明確という前提がある(ので、寝返り展開が劇的である)」のが古い想像力だったとすれば、今の想像力は「そもそも敵と味方の区別が明確でないという前提がある(ので、寝返り展開も劇的ではない)」と対比できます。

ワールドトリガー』でそれを象徴するのはヒュースの加入シーンです。
ちょっと前のジャンプ漫画なら「敵の寝返り」っていうのは非常に重要なシーンで、主人公が絶体絶命のピンチに陥ったところに敵だったキャラが駆けつけてきてバーンと大ゴマで「俺もお前たちと戦う!」みたいなことを言っても良いと思うんですが、ヒュースの加入シーンにその手のカタルシスは皆無です。「誰か一人新戦力が欲しい」→「そういえば捕虜のヒュースが暇だよね」→「うまく交換条件を付けたら仲間になってくれないかな……」というように、何話かかけて淡々と政治的な取り込みが進行します。利害ベースで交渉を行ってポジションを確定するのはユウマも全く同じですね。
ボーダーから見て「敵」であるはずのヒュースやユウマにこういう交渉が可能なのは、ボーダーにとって「敵」だからといってただちに倒す対象ではないから、敵とか味方とかいう区別が絶対的な行動基準ではないからです。「大義」のようなグローバルなイデオロギーが衰退した代わりに、「交渉」のようなローカルな利害が前景化したモードとも言えるでしょう。そもそも、これらの描写の前提になっている「倒した敵を捕虜として扱う(=敵を一面的に憎んだり殺したりしない)」とか「ボーダーにもネイバー許容派・穏健派・過激派が存在する(=敵を殲滅する以外のやり方がいくつもある)」ということ自体が、敵・味方という区別の後退を感じさせます。

もう一つ付け加えると、「味方側が敵側の能力を使う」と似たような古典的な設定として、「主人公が制御困難な強力な能力を使う」という設定もありますが、これとも区別して考えるべきです。
古くは『NARUTO』でナルトが九尾の能力を取り込んでいたこと、最近では『僕ヒデ』で主人公がワン・フォー・オールの扱いに苦しむことが後者に該当します。これらも「自分の能力を思い通りに扱えない」という意味では『鬼滅の刃』で主人公がネズコの扱いに、『呪術廻戦』で主人公がスクナの扱いに苦慮するシーンなどと似ていますが、九尾は純粋な力であってイデオロギーではないことに注意してください。比喩的に言うならば、九尾は「核爆弾」ではあるかもしれないけど「敵国」ではないのです。九尾には「道具として使用が可能か否か」という論点しかなく、「イデオロギーが対立するか否か」という論点を持ちません。その意味で、ナルトが九尾の力を持っていることと、ボーダーがネイバーの力を持っていることは異なる想像力の所産と考えるべきです。

さて、ここまでは最近のジャンプ漫画における味方・敵という区別の退潮について書いてきましたが、ジャンプ漫画以外にも目を向ければ、このモチーフ自体が新しいわけでは全くありません。
サブカル領域では『仮面ライダー』がその筆頭でしょう。『仮面ライダー』では「正義」の主人公も「悪」の怪人も共に悪の組織ショッカーが生み出した存在であり、明確に「敵側の能力を持つヒーロー」が扱われています。仮面ライダーシリーズはこの設定をベースにして派生する議論を一貫して扱い続けており、敵・味方という区分を徹底的に破壊する『龍騎』という極北に15年前には既に到達しています。

補足185:いわゆるポストモダン論の中で、「大きな物語が終焉した現代は価値観が多様化して絶対正義も存在しないので、フィクションにおいても正義vs悪というナイーブな対立はナンセンスになっている」ということは『ダークナイト』や仮面ライダーを引きながらよく言われることです。そういう時代的な波がいよいよジャンプ漫画にも本格的に到達したと考えることはできますし、それはかなりの程度正しいと思います。

ただ、味方・敵という区別の退潮がジャンプ漫画の文脈で現れたことは重く見なければなりません。
何故なら、味方・敵の曖昧化は、ジャンプ三原則「友情・努力・勝利」と真っ向から対立するからです。ジャンプ三原則が提示する世界観は「味方と友情を育み、自分の能力を伸ばすため努力し、敵に勝利する」ですが、「友情を育むべき味方も、勝利すべき敵も明確ではなく、努力して伸ばしている能力さえも敵側のものである」が最近のジャンプ漫画のトレンドです。
しかし、この潮流は系譜的に不可避であり、バトルにおける思想の変遷からある程度は自動的に要請されてきたものだと思います。結論から言えば、味方・敵の区別の曖昧化は能力バトルの帰結の一つだと考えています。

ジャンプ漫画でのバトルルールの変遷を簡単に復習しましょう。
以前にも一度触れましたが(→)、ざっくり言って、今のジャンプ漫画は暴力バトルから能力バトルへの移行を終えた段階なのでした。「暴力バトル」とは『ドラゴンボール』に象徴される「戦闘力」という一つの軸の上での精度を争う資本主義的な世界観であるのに対して、「能力バトル」とは『ジョジョ』に象徴される「固有能力」という複数の軸の上での相性を争う多文化主義的な世界観として対比できます。暴力バトルが流行っていたのは『男塾』や『幽遊白書』前期くらいの頃で、現代のジャンプバトル漫画は一人一人に固有の能力がある能力バトルが標準です。

では、暴力バトルと能力バトルの違いについて、敵の必要性という観点からとらえ直してみましょう。
暴力バトルにおいては、強さを測る基準が「暴力」の一つしか存在せず、その値の多寡で勝敗が決まります。よって、物差しとしての敵がいなければ「どのくらい強いのか」を描くことができません。「悟空はピッコロより強い」ということがわかるのは実際に悟空がピッコロを倒したときだけで、悟空とピッコロをそれぞれ別々のページに描いて強さを議論することはできません。だから、悟空には延々と戦ってもらわなければならず、暴力バトルは常に敵を必要とします。
その一方で、能力バトルにおいては、強さを測る基準が複数化しており、論理的な相性で勝敗が決まります。よって、必ずしも敵と戦わなくても「どのくらい強いのか」をかなりの程度確定できます。キング・クリムゾンとザ・ワールドが本編で戦ったことは一度もないけれども、それぞれの能力と相性を考えることで我々はその勝敗を議論できます。この意味で、能力バトルは暴力バトルに比べ、運用に際しての敵の需要が低いシステムであると特徴付けられます。
以上のように、暴力バトルから能力バトルへの移行に伴い、必然的に敵の需要が下がるという経緯があり、ここから派生して敵・味方という区別の退潮が起こる流れがあったのではないかと僕は考えています。

また、敵・味方の区別を求める戦闘志向の退潮に伴って、代わりに「設定」の前景化が起きていると感じます。つまり、今までのジャンプ漫画が「戦い>設定」だったのに対して、現在は「設定>戦い」という逆転が起こっているという印象を受けます。
ちょっと前までは設定の地位が戦いより低かったというのは、BLEACHの死に設定なんかを考えるとわかりやすいと思います。BLEACHの初期には「悪い霊=虚」と「良い霊=整」が存在していて、死神の役割は「虚の討伐」と「整の葬送」の二つでした。しかし、BLEACHがバトル漫画として醸成されていくに伴って、死神が虚などの敵勢力と戦う面だけが強調され、戦いに関係のない整設定は二度と使われませんでした。バトルのために設定が曲げられた例は他にもたくさんありますね。卍解は元々は極めて例外的な偉業だったはずだったのに終盤では逆に卍解できないやつの方が珍しいくらいになっていました。これらの設定改変からわかるのは、本当に重要なのは「敵を倒す」という戦いの部分で、それを下支えをしている設定をそれ自体で尊重する態度はあまりなく、戦いの展開に合わせて柔軟に変えていいものだったということです。
これに比べると『ワールドトリガー』の設定偏重ぶりは偏執的ですらあります。本編で一度も使われない設定がおまけページやカバー裏で無数に語られ、戦いにあまり関与しない設定も非常に充実しています。『呪術廻戦』でも、おまけページで複雑な能力の論理的・数学的な詳細について作者が延々と語っているのが印象的でした。このあたりの戦いと設定の反比例的ウェイト変化は最近の『HUNTER×HUNTER』でも発生しています。『HUNTER×HUNTER』は元々「戦うために戦う」的雰囲気が希薄なバトル漫画でしたが、暗黒大陸編でいよいよ無数の思惑が交差する完全な群像劇に移行するに伴って、元々過剰気味だった設定量が指数関数的に爆増していることは周知の通りです(ちなみに、最近の『HUNTER×HUNTER』は誰がどう戦っているのか僕は全く理解できません)。まあ、このあたりは作者の好みもあるでしょうしあまり一般化して語るのも却って説得力を無くす気がするので、このくらいにしておきましょう。

補足186:あまり関係ないかもしれませんが、『ワールドトリガー』の「ブラックトリガー」設定は注目に値します。
「ブラックトリガー」というのは簡単に言うと「命と引き換えに作る超強力な武器」で、この設定自体はどこかで見たような記憶もあるのですが、「ブラックトリガーは割と誰でもいつでも自決すれば作れる」というのが奇妙な部分です。そのために「あまり敵国を追い詰めてしまうと、敵兵士が自決してブラックトリガーになることを選択してしまい、そのブラックトリガーの力で逆転されてしまうので、必要以上に追い詰めるのはよくない」というよくわからない戦略が発生します。この奇妙な倫理性に言及されたのは作中でも一度だけなのですが、根本的にそういう抑止力が機能しているというのは非常に特殊なバトル観で、何か戦闘そのものへの疑問みたいなものを感じます。


とはいえ、あと一つだけ個人的な印象を語ることを許して頂くとすれば、僕は最近のジャンプ漫画を読んでいると「ガンガンの漫画っぽいな」と感じます。緻密な設定を詰めたハードファンタジーは少年誌ではガンガンのテリトリーですから(典型的なのは『鋼の錬金術師』や『屍姫』)、その意味でジャンプ漫画がガンガン化している印象を受けるということです。

以上、最近のジャンプ漫画は「最初から味方側が敵側の能力を使う」というモチーフの流行に伴って味方・敵を区別する戦闘志向が退潮し、代わりに設定へと偏重するスタイルが台頭しているような気がする……という話でした。


ワールドトリガーの話は次回に続きます。
次回は「傷付かない記号的身体」としてのトリオン体設定に焦点を当てて、『刀使の巫女』、『なのは四期』、手塚治虫あたりと絡めた話をする予定です。