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19/8/23 ワールドトリガーの感想(後編) 記号的身体の後遺症と損傷水準

ワールドトリガーの感想(続き)

前回→の続きです。
ワールドトリガーに関しては全く独立した論点が2つあって、

1.ネイバー設定から見る最近のジャンプ漫画の思想変化
2.トリオン体設定から見る傷付かない記号的身体

1は前回書いたので、今回は2について書きます。

ワールドトリガー』を読んでいて目に付くのが「トリオン体」の設定です。
トリオン体とは生身の代わりに使用される戦闘用の身体で、「身体的苦痛を伴わない」「生身の肉体へのダメージを肩代わりする」という特徴を持ち、作中の戦闘は基本的に全てこのトリオン体で行われます。
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ここで頭を吹っ飛ばされているのがトリオン体です。これがリアル肉体なら駕籠真太郎『フラクション』を彷彿とさせるゴア表現なんですが、実際は苦痛を伴わないトリオン体なので作中の生死的にも漫画の倫理的にもセーフということになります。

他作品の類似設定としては、『刀使ノ巫女』で登場した「写シ」があります。
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「写シ」は術者の全身にバリア・オーラ的なものを張る能力で、「写シを張っている間はダメージがエネルギー体に肩代わりされ、生身の肉体は傷つかない」という設定があります。よって、ここで真っ二つにされている女の子もやはり傷付かずに済みます。『刀使ノ巫女』でも極一部の例外を除けば戦闘では「写シ」を使うことが一般常識となっており、それの存在を前提にして戦闘が進んでいきます。

さて、身も蓋もないことを言えば、こうした損傷や苦痛から解放された身体の設定はバトル描写の都合で要請されてきたものです。すなわち、「不可逆的な器官の欠損」=「後遺症」=「広い意味での死」を避けるための方策として理解できます。
現実的に考えれば、バトル漫画のように刀や銃で戦えばそれなりの傷を負うのが当然であり、その中にはもはや元には戻せないものもあるでしょう。最も重大なのは「包括的な生命機能の不可逆停止」であるところの「死」ですが、そこまでは酷くなくても、「部分的な生命機能の不可逆停止」であるところの「後遺症」がそれに続きます。
問題になるのは、そうやって死んだり後遺症を負ったりしたキャラクターは、それ以降ずっとそれを背負ってしまうことです。読者としても戦うたびに毎回腕の本数が減ったり失明したりするキャラクターたちを見るのはちょっとしのびないですし、バトル描写的にもいちいち身体機能が削られていくと使える技が減ってしまったりと色々描きづらいところがあるでしょう。もちろん、戦って後遺症を負うことが重要なプロットもたくさんあるにせよ、あらゆる作品のあらゆる戦闘でその手の後遺症が望まれるわけではありません。よって、キャラクターには後遺症を背負わないように戦ってもらいたいという一定の需要があり、それを避けるための工夫が色々と考えられます。

一番シンプルなのは、そもそも深刻な身体的ダメージを負わないように描写するというものでしょう。バッサリ切られているはずなのに絵としては皮膚一枚が傷付いているようにしか見えないとか、擦過傷のように身体の一部が汚れたような表現しかされないということはよくあります。
『ワンピース』のゾロvsMr.1におけるこの描写は非常に象徴的です。
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Mr.1(右)がゾロ(左)を攻撃しているシーンです。「ズパ」という擬音からわかるようにゾロがガッツリ切られているのですが、何故かゾロの背後にある柱の方がバラバラになるという奇妙な表現が行われています。
物理的に考えれば、斬撃はゾロの肉体を完全に通過しなければ後ろの柱を切れないので、後ろの柱が切れているということはゾロはバラバラ死体になっているはずです。が、ゾロは精々ドバドバ血を流すだけで五体満足のまま無事です。言うまでもなく、これはゾロの肉体は死なないという大前提があるからです。「物理的には明らかに死んでいる描写でも必ずしもキャラが死ぬとは限らない」ということを逆手にとって、無機物を使ってダメージを表現しているわけですね。

補足187:「滅裂斬は左右から切りかかるX型の斬撃だからうまくゾロを避けて後ろの柱だけを切った」という説もあるようですが、この状況で一流の殺し屋であるMr.1がゾロをピンポイントで避ける攻撃を繰り出すとも思えないので、「漫画的ダメージ表現説」の方が妥当なように思います。まあ、今の論点は「このコマが図像としてどういう印象を与えるか」なので、設定的な整合性はあまり重要ではないのですが。

ただ、この方式だとどうしても暴力描写の迫力が抑えられてしまうという難点もあります。後遺症が残るのは困るけど、やはり切るからにはキッチリ切断してほしいという需要もあるわけですね。
そこで登場する次のパターンとしては、「後遺症が発生するくらいのダメージを負うが何らかの能力で再生できる」というものもあります。『ジョジョ』のクレイジー・ダイヤモンドや『テラフォーマーズ』の変態による部位再生がそれに該当します。身体を切断されたり溶かされたりしても超常能力で治癒できるので、バイオレンス描写と後遺症の回避を両立できます。
少し面白いのは、この手の再生描写には必ずしも設定的な整合性を必要としないということです。つまり、「特に再生能力が使えるわけでもないのに次のコマでは深刻な傷が治っている」ということも稀にあります。『ジョジョ』でも、パーティーに治癒能力持ちがいる四部や五部以外の部では特に理由もなく確実に致命傷っぽい傷が勝手に治っていることがよく指摘されます。

補足188:もちろん、ここまで述べてきたような回避策を採用せず、後遺症を後遺症としてきっちり描く作品も無数にあります。それを主題化している漫画としては、例えば『無限の住人』が挙げられます。主人公は自身の能力でほぼ無限に再生できる=後遺症を負わないキャラクターなのですが、そうした能力を持たないライバルの尸良が腕を切断して後遺症を負う経緯が対比され、以降主人公の能力=後遺症を負わない身体を巡る争奪戦が繰り広げられることになります。

以上、後遺症を避ける方策として「無傷タイプ」「再生タイプ」の二つについて確認してきましたが、これらと比較すると、『ワールドトリガー』のトリオン体は二つを折衷したような立ち位置にいることがわかります。
そもそも生身の肉体とは切り離されているのでどれだけ損傷しても生身の肉体にはダメージがいかないというところは「無傷タイプ」と同じ、どれだけ傷付いてもリカバリーが効くのでむしろ積極的に切断描写などを行えるというところは「再生タイプ」と同じです。言い換えると、「身体が傷つかないのでバイオレンス描写を描きにくい」という「無傷タイプ」の弱点と、「いちいち個別に再生能力設定を必要とする(能力なしで再生してもいいのだが、整合性は破綻する)」という「再生タイプ」の弱点を補ったものとして理解できます。

さて、「後遺症を避ける方策」という観点で、トリオン体的な手法にも改めて適当な名前を与えるならば「義体タイプ」あたりが妥当でしょうか。生身ではない、傷付いても構わない義体を用意して戦うので、バイオレンスしながらも後遺症が残らないということです。
「生身ではない義体を用意して戦う」という設定は『アバター』や『攻殻機動隊』でも見られるものです。「義体」として見ると、バイオ・テクノロジーやSF的な文脈における、拡張身体論や仮想現実論とも接続が良いですね。日本的ロボットアニメによくある、「操縦型ロボット」あたりも広い意味では義体の一種と言えるでしょうか(ガンダム機体は、アムロに直接機銃を持たせるのではなくロボット身体を通して間接的に戦わせる機構として解釈できます)。

ただ、『ワールドトリガー』『刀使ノ巫女』を『アバター』『攻殻機動隊』と差別化するポイントは、「生身の肉体」と「戦闘用義体」の同一性を担保する鍵が「記号体系の同一性」に置かれている点です。
というのは、「義体タイプ」の描写にあたっては「生身の肉体」と「戦闘用義体」が別々のものであるため、「この二つは同じ人物を表しているんですよ」という説明描写が必要になります。それは『アバター』ではバイオ・テクノロジーをベースにした遠隔操作設定でした。『アバター』では「主人公の実体(生身)」と「主人公のアバター義体)」は異なる見た目をしているのですが、前者が後者にダイブするという生体・情報技術的な描写があるために我々は「これらは両方同じ人物を表すのだな」と理解できるわけですね。『攻殻機動隊』では情報技術をベースにした主体概念=ゴーストがそれに該当します。
しかし、『刀使ノ巫女』『ワールドトリガー』においてはただ単に「キャラクターが同じように描かれており、読者から見て区別できないこと」がその役割を担っています。具体的に言うと、『ワールドトリガー』において「オサムのトリオン体(義体)」と「オサムの実体(生身)」は漫画のイラスト上では全く同じように描かれているため、我々は「これらは両方オサムだな」と理解できるというだけの話です。「トリオン体も実体も全く同じようにあるキャラクターの図像として描かれること」を指して、「トリオン体と実体における記号体系の同一性」と呼びました。
以上のような違いを踏まえると、同じ「義体タイプ」の中でも、『アバター』『攻殻機動隊』は生体・情報技術設定を用いるSF的文脈が優位である一方、『ワールドトリガー』『刀使ノ巫女』は記号論的なメタ文脈で捉える方が妥当であろうと思います。もっと正確に言うと、「義体タイプ」の中で差別化を行って建設的な議論をするためには、記号論的な文脈に乗せるのが近道だろうと思います。

そこで漫画表現における記号的身体の議論として大塚英志アトムの命題』を参照すると、漫画における身体には以下の3つの水準が存在します。

1.傷付かない記号的身体(ディズニーキャラクターのような、喜劇調で平面的な肉体)
2.傷付くリアリズム的身体(劇画のような、リアル調で写実的な肉体)
3.傷付く記号的身体

補足189:大塚英志に言わせれば、こうした水準の提示は漫画表現論と同じくらい歴史・政治論でもあります。「3.傷付く記号的身体」を手塚治虫が戦時中の体験から発見したという経緯によって、それ以降の戦後漫画では記号的身体の成長・死・性等を巡る議論が主題化し、その意味で現在に至るまで日本の漫画史は未だに戦争の影響を受け続けているというのが本当に彼が言いたかったことです。が、今回はそれはあまり関係がありません。

補足190:ここで言う「記号的」とは、「実際の事物からは独立した描写の体系によって描かれる」というほどの意味です。一方、「リアリズム的」というのは可能な限り写実的なデッサンからスタートして描かれていることを指します。
今回の議論では、「記号的身体は損傷に関する水準が違う場合でも記号体系を共有できる」、つまり『1.傷付かない記号的身体」と『3.傷付く記号的身体』は同一の記号体系を使用できる」ということが本質的なポイントです。これは「記号的身体は実際の事物から独立した体系によって構成されており、損傷に関しても現実的な傷付き方からは遊離した恣意的な描写が許容されるため、損傷の有無に応じてわざわざ異なる体系を用意する必要がない」という論理によるものです。


このように整理した場合、『ワールドトリガー』のトリオン体は「1.傷付かない記号的身体」に、実体は「3.傷付く記号的身体」に対応していると言えるでしょう。
ワールドトリガー』のバトルに見られる、四肢を切断されても平然としている身体性は、元々はスラップスティック・コメディに用いられていたような、怪我をしても「たんこぶ」で済ませられる深刻な苦痛のない身体性を流用したものであると言えます。トリオン体において出血しない・苦痛のない身体はその記号性によって成立している、すなわち、写実的で精緻な画風ではないことによって成立しているわけですね。
その一方で、トリオン体になっていないときの実体が逆に「傷付く」身体であることも明確です。ユウマが死にゆく肉体を覆い隠すために常にトリオン体でいることや、アフトクラトル襲撃戦で犠牲者が出ていることからも、『ワールドトリガー』世界でも生身の身体は普通に死ぬということは暗に描写されています。トリオン体によってわざわざ死なない肉体を用意しなければならないということが、逆説的に「トリオン体でなければ死ぬ」ということを強調しているとも言えます。

そして、この「トリオン体」と「実体」は同じ記号体系を共有しているため、一見すると区別できないというのがポイントになります。
具体的に例を挙げると、ジャンプコミックスの表紙に普通に描いてあるオサムのイラストは、読者から見てトリオン体か実体か判断できません。それは二つの身体の在り方が完全に同一の画風=記号の組み合わせによって描かれているからです。裏を返すと、『ワールドトリガー』における身体は、損傷に関する水準(どんな出来事によってどのくらい傷付くのか?)を確定させるためには、実際に傷付けてみるしかないような身体であるとも言えます。実際、作中でユウマがトリオン体であることは、車に轢かれたり彼自身が告白するまで判明しませんでした。
「損傷水準は実際に傷付けるまでわからない」ということは、漫画一般に対する読者の立場から見てみると、ある程度当たり前のことでもあります。というのは、新連載に新しくキャラが登場したとして、彼が傷付かない身体なのか、傷付く身体なのかは実際にバトルシーンに突入して損傷を負ってみなければわからないということです。
注意すべきは、これは実写ドラマや現実世界では起こらない現象だという点です。何故なら、リアルな肉体はそのリアリズム故に傷付くことが当然として想定されるからです。つまり、自分の身体をナイフで刺せば赤い血が出ることは誰もが知っていますが、その一方で、ジャムおじさんの身体をナイフで刺して果たして血が出るのか否かは明確ではありません(子供向けアニメだから、ちょっと汚れる感じの描写で誤魔化される可能性も高いですよね)。この意味で、「損傷水準の不確定性」は記号的身体に特有の現象と言えます。

以上の議論を踏まえると、『ワールドトリガー』におけるトリオン体設定は、「記号的身体が持つ損傷水準の本質的な不確定性」を指摘した設定として批評的価値を見出すことができます。
本当はこの批評的価値が有効活用されている作中の事例を見つけたかったのですが、2日くらい考えて特に何も思いつかなかったので、今回はこれで終わります。

補足191:関連がある事例として思い付いたのは、『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』におけるカイロ・レンvsルーク・スカイウォーカーの悪名高い決着シーンです。
このシーンでは戦っていたルークが実は生身ではなく、フォースで作り出した幻影だったことが大オチになります。つまり、戦っている段階ではレンも観客もルークの肉体が「傷付く肉体」だと思っていたのですが、実際には「傷付かない肉体」だったわけです。
今回のブログ記事の文脈からすると、記号的身体であれば損傷可能性が一見して判別できないのでこうしたオチが有効に働く可能性があるのですが、『スターウォーズ』は傷付くリアリズム的身体が支配する実写の世界なので、この身体性の反転が理不尽なものとしか思えずに「超展開」としてバッシングを受けたという解釈ができますね。