LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

19/8/25 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲の感想 ノスタルジーを乗り越える家族主義の相対化

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲

91lK6tfan3L__RI_SX300_
今更見ましたが面白かったです。

一番良かったのは、バスを運転するかすかべ防衛隊がオトナ帝国とカーチェイスをするシーンです。特にしんのすけが両親をあっさり切り捨てているところで感動しました。
元々しんのすけは両親が洗脳されたことには結構ショックを受けていて、自宅やデパート攻城戦のシーンでは能天気なキャラクターに似合わない痛々しい動揺ぶりを見せていました。しかし、バスカーチェイスのシーンになると、追っ手の中に両親が混ざっていることにはもはや全く動じなくなっており、他の追っ手に対するのと同じように両親をあっさりバスから振り落とします。ひろしを見ても「お?」としか反応せず、無言でハンドルを切って地面に叩き落とそうとするシーンが何度見ても面白いです。
両親が変わり果ててしまったことを嘆くモードがいつまでも続くんじゃなくて、三度目くらいにはもうドライに切り捨てるモードに180度変わっているわけです。しんのすけはいつまでも両親に依存しているのではなく、明らかに戦いを経て自立していっているんですね。

この「しんのすけの自立」というテーマはそれ以降のシーンでも折に触れて描写されています。
例えば、しんのすけがひろしを万博の記憶から連れ戻すシーン。ここでもしんのすけが涙を流して泣きつくようなことは全くなく、意外なほどに落ち着いて淡々と説得しています。特にしんのすけがひろしに「迎えに来たよ」と言うのが印象的です。普段の幼稚園では親が子供を迎えに来るんだけど、今は完全に立場が逆転しているから子供の方が大人を迎えに来るっていう、子供の側にイニシアチブが無ければ出てこない発言です。しんのすけがひろしを連れ戻すのは、しんのすけが父親がいないと生きていけない園児だからではなくて、しんのすけ自身が父親を連れ戻すべきだと自分で判断したからなんですね。
しんのすけが一生懸命階段を駆け上がる長尺のシーンも同様です。鼻血というややバイオレンスな描写を用いて描かれるクライマックスのアクションシーンが、敵と戦うシーンではなく、しんのすけが一人で走るだけという自立性にスポットを当てたシーンになっています。もちろんあの階段に辿り着いたのは家族で協力した成果ではあるんだけども、だからといってしんのすけが家族単位でしか動けないわけではなくて、それと同じくらいたった一人でも動くことができるというのがあの執拗な長尺の意味です。
もう一つだけ挙げさせてもらうと、しんのすけがケンに21世紀に進みたい理由を聞かれたときに「家族と一緒にいたいから」と言うのと同じくらい「綺麗なお姉さんと付き合いたいから」って言うのも凄く良いですね。家族皆で協力して頂上に辿り着いた割には、家族に固執していません。しんのすけの未来への意欲はあくまでも彼自身のもので、家族に束縛されずに判断する部分も多いわけです。

こうした「しんのすけの自立」というテーマは「家族主義の称揚」の裏返しとして理解できます。
というのは、この映画って一見すると「一度は引き裂かれた家族が再び団結する」という家族愛を描いた映画なので、親子がズブズブの信頼関係にあるような家族コミュニティを自明に善いものとして称揚する「家族万歳」映画になってしまう危険が高いんですね。しかし、家族が連帯するシーンと同じくらい、しんのすけが自立するシーンも描くことによって、安直な「家族万歳」に陥るのを回避しています。よくよく注意してみてみると、しんのすけにスポットを当てたシーン以外でも、単なる家族映画にならないように慎重に作られている部分はたくさんあります。
例えば、ひろしが自分の靴の臭いを嗅いだときの伝説的な回想シーンも実はそうです。あのシーンって、最初から最後まで一貫してひろし目線でしか描かれないというのがポイントです。ひろしが今までどういう人生を歩んできて何が大変で何が嬉しかったかっていうことを延々と描く、極めて主観的な回想になっているんですね。これが「家族万歳」映画なら「家族の幸せな団欒シーンを延々と流す」という回想シーンになりそうなものですが、そうはなっていません。家族単位ではなく、あくまでもひろし単位で家族を見ることによって、個人単位の反省からは逸脱しないようになっています。家族が重要である理由は「家族とは幸福なものだから」という教条的自明視ではなく、「ひろしは家族がいると幸福だから」という個人にまで縮小した価値判断によって与えられているわけです。

補足192:こうした「家族の連帯と個人の自立は矛盾しない」という家族の描き方は、ディズニー映画でよくあるものです。例えば、『ファインディング・ニモ』は「引き裂かれた家族が再会する」という『オトナ帝国』と似たようなプロットの作品ですが、こちらでも子供と父親がそれぞれ独立にきちんと成長することが(ひょっとしたら家族愛よりも)重要なテーマになっています。もっとも、ディズニーは家族であろうがなかろうが「個人の自立」に高い価値を置くリベラルなスタンスを一貫させているので、家族愛を(サブ)テーマにした映画の場合はたまたまそういう形で描かれると言った方が実情に近い気はしますが。

さて、誤解を避けるために言っておくと、別に僕はリベラルな立場からこの映画を評価しているわけではありません。
というのは、ここまで書いてきた内容を「家族主義はダメ、個人主義はOK」と読まれてしまうとラディカルなリベラルの読書感想文として受け取られかねないのですが、ある程度は客観的に見てもこの映画が名作であるためには家族主義に陥らない必要があったということです。

この映画で盲目的な家族万歳が好ましくない理由は色々あるんですが、やはり最大の理由は「家族主義」の称揚は「昭和ノスタルジー」への固執と大して変わらないからです。
そもそも、一般的に言って、「昭和ノスタルジー」と「家族主義」って基本的には対立関係ではなく共存関係にあるはずなんですよね。保守派の典型が夫婦別姓に反対するように、伝統的な家族構造を称揚する価値観が昭和ノスタルジーでは優位です。イエスタディ・ワンスモアが唱えるような「昔は良かった」系の言説で「昔は人と人の繋がりがあった」みたいなことを言ったとき、まず念頭に置かれているものは大抵は綿密な親族関係であり、実際、昭和ノスタルジー作品の金字塔である『三丁目の夕日』ではそれが前面に出てきます。

そういう意味で、昭和ノスタルジーのイデオローグであるイエスタディ・ワンスモアのボスが結婚すらしていない男女のアベックというのは実は極めて不可解な設定です。
正しく昭和ノスタルジーな世界観の下では、いい年をして結婚していない、子供のいない男女ってむしろ肩身が狭いはずなんですよね。イエスタディ・ワンスモアが例えば大家族組織であるならば昭和的価値観への回帰として納得できるんですが、実際には官僚的な体制の中で家族ですらない男女一組がトップに立っているという、極めて現代的な人間関係で運営される組織として描かれています。

補足193:ケンとチャコの関係については、みさえに「ご夫婦?」と聞かれたケンが「いや……」と言葉を濁すのが全てで、それ以上は全く語られません。僕と一緒に見ていたゆあさ君が「彼らには何か正統的な家族になれない事情があるんじゃないの、例えば不妊とかサ……」と言っていて、それは後述する家族主義の相対化という解釈に照らして凄く面白い見解だと思います。

では、何故イエスタディ・ワンスモアは「家族主義抜きの昭和ノスタルジー」という奇妙なイデオロギーを作らなければいけなかったのかというと、最も単純には野原家とイエスタディ・ワンスモアを対比させるためのマッチポンプではあると思います。身も蓋もないことを言えば、「20世紀博を通じた世代間の断絶を描きたい」というプロット上の要請と、「映画館に来る家族層をキャッチするために野原家の家族愛を描きたい」という商業上の都合があったことは否定できません。

しかし、僕はこの設定の活かし方に対してもうちょっと建設的な評価を与えてもいいと思っています。
というのは、野原家が戦っている様子をテレビで流すという一種の家族主義アジテーションによってイエスタディ・ワンスモアが一様に家族主義を「啓蒙」されていくのかといえば、そういうわけではありません。明確に語られるのは「21世紀を生きたい」という未来への期待だけで、大衆に向けた段階では家族主義は急速に後退します。ポジティブな言い方をするならば、家族主義以外にもノスタルジーを打破する契機は複数存在していることを暗示するという方向に「家族主義抜きの昭和ノスタルジー」が有効活用されたと言っていいと思います。

また、一歩引いた場所から見たときに立場が不安定なのはイエスタディ・ワンスモアだけではなく、野原家も同じです。
というのは、野原家の基本設定である「夫婦と子供二人と犬一匹のマイホーム」って、平成の典型的な家族像ですよね。三世代同居の『サザエさん』が昭和の典型だとすれば、核家族の野原家が平成の典型だという言説をどこかで見たことがあるんじゃないかと思います。
よって、野原家がそのままの形で家族として理想化されることは、それはただちに「平成ノスタルジー」に繋がりかねない危うさを秘めています。令和の今から見るとそれは特に顕著です。Twitterで「クレヨンしんちゃんの時代は典型的な家族像として想定されていた野原家は、もう今の若者の稼ぎでは構築できない」という言説が定期的にバズりますが、それは裏を返せば「今の若者から見て現実的に想定できない程度には、野原家は既に古い時代の家族像である」ということです。令和から見れば『オトナ帝国』こそが「平成ノスタルジー」のイデオローグにして令和のイエスタディ・ワンスモアなのではないか、『オトナ帝国』は公開当時が平成だから昭和批判として機能するだけでちょっと時代をズラせば何の価値も持たない映画なんじゃないかという批判が可能になってきます。

こうした批判を迎撃して『オトナ帝国』を評価するためにカギになってくるのが、冒頭から書いてきた「しんのすけの自立」というサブテーマです。
一度家族が分裂したあと、子供がそれをノスタルジックに追い求めるのではなく、一度は両親を切り捨てるような自立したモードを獲得した上で、自分の意志であえてもう一度家族であることを自覚的に選択するというプロセスが家族をノスタルジーから切断します。つまり、しんのすけは家族に固執したのではなく、家族を選択したのです。こうして再構築された家族は選択しないこともできた家族であり、複数の選択肢の中の一つにすぎませんから、むしろ逆に家族主義を相対化して解体する契機として、「平成ノスタルジーの再生産」という批判に反撃できるようになります。

意図されたものかわかりませんが、こうした「典型的な家族像以外にも複数の選択肢があることを自覚し、その上であえて自覚的に典型的な家族を選択する」という構造は「またずれ荘」編で行われたものと全く同じです。時期が完全にリンクしているのが面白くて、またずれ荘編が始まるコミックス29巻が発売されたのが2001年4月、『オトナ帝国』が公開されたのも同月の2001年4月です。
またずれ荘編では野原家のマイホームが爆発事故で吹き飛び、しんのすけたちは奇妙な住人がたくさん住むアパートのまたずれ荘へと引っ越すことになります。つまり、平成的な家族主義の象徴としてのマイホームが完全に破壊され、もっと色々な価値観で生きている人たちとの多文化交流が行われることで、生き方のモデルが単一ではないことを確認していくことになります。リアル時間で1年半後くらいに野原家は再建されるんですが、その新しい野原家は以前のマイホームそのものではなく、またずれ荘で見てきた様々な生き方を踏まえて、家長であるひろしが改めて選択したものです。

これはオトナ帝国における経緯と完全に一致します。
改めて書くと、一度両親がイエスタディ・ワンスモアに洗脳されて家族が解体されたあとに、しんのすけが両親に依存せずに自立したモードを確立することで、自分の意志であえて家族であることを選択するという流れのことを指しています。こちらの場合でも、最初の野原家は平成的な家族主義の自明な肯定だったかもしれないけれども、他の生き方も可能であると確認することでそれが相対化され、自覚的に選び取られた新たな野原家が再編されてきます。この新しい野原家は、潜在的には他の形が有り得たことを認識している点で最初の野原家とは決定的に異なり、「平成ノスタルジー」の産物ではありません。
この意味で、実は物語を通じて野原家はノスタルジー概念そのものを乗り越えており、『オトナ帝国』は大文字の年号に束縛されない未来への希望を描くことに成功していると言えます。

補足194:ややアナクロな論点なので補足に回すのですが、盲目的な家族万歳が好ましくない他の理由としては、単純にあまり説得力がないからというのもあります。生き方が多様化した(ついでにポリコレが蔓延した)今の世界から見て、野原家のような家族像が理想だと言われても素直に頷けない人も多いでしょう。『オトナ帝国』公開当時の2001年は今に比べて同姓婚とか夫婦別姓みたいな議論がほとんど行われていなかったとはいえ、そういう議論が既に身近になった我々から見ると、野原家のような家族類型は一つのイデオロギーでしかないわけです。
こうした観点から見ても、オトナ帝国は野原家的な家族の在り方を唯一の回答として持ち上げるのではなく、むしろそれを慎重に避けて複数の選択肢の中の一つとして相対化したという意味で、令和からの鑑賞にも堪えうる名作と評価できます。