LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/8/8 『傷物語』の感想&『傷物達を抱きしめて』Review. LW→あにもに

あにもにさんについて一言お願いします

169.あにもにさんについて一言お願いします。

「お願いします」と普通に言われてもあにもにさんとは面識すら無いんですが、実はリアルで接触があったような無かったようなエピソードが一個だけあります。

去年の9月頃にナンバユウキ氏が東京に来るとかで開催されたアニクリ会合に僕が参加して飲み会にまでついていったことがありました(→)。居酒屋では隣の席に相互フォローだけど初対面のびおれんさんが座っていて、会話の定石通りに共通点を糸口にしようと思って「そういえば僕たちあにもにさんフォローしてますよね」みたいな話しかけ方をしました。そしたらその瞬間に一個離れた席からアニメーション研究家のDさんが「今あにもにさんの話しました!?」って言いながら飛んできて、そのまま「あにもにさんが~あにもにシティが~」とか楽しそうに色々お話ししてくれました。そんな感じであにもにトークが飲み会のアイスブレークになったことがあり、その節はありがとうございました。

あにもにさんを御存知ない方は、ちょうど最近もにラジが始まったのでそちらをご覧になると良いと思います。

moni-mode.hatenablog.com

僕とはかなりオタク・タイプが違っていて、この記事の内容も普通に一つも知らなかったのでへえ~そうなんやと思いながら読みました。僕や僕が普段よく話すオタクたちが興味があるのって基本的に「お話の内容として何が語られたのか」というWhatであって、「お話がどうやって表現されたのか」というHowに注目するオタクがほぼほぼいないです。メディア固有の表現とか技術にはあまり関心が無いために演出や作監どころか声優すら大して把握しておらず、ギリギリ話題にならなくもないのは監督と脚本程度です。むしろ固有性を捨象して一般性に還元したがる節すらあり、もにラジは固有名詞がたくさん出てくるのが正しいアニメオタクって感じで凄いなと思いました。

『傷物達を抱きしめて』Review. LW→あにもに

さて、これもちょうど1年前くらいにあにもにさんの『傷物語』評である『傷物達を抱きしめて』(以下、『傷抱き』)が無料オンライン配布されました。これについてはかなり思うところがあって、ちょうどいい機会なので『傷抱き』について書こうと思います。
以下、『傷抱き』を読んだ前提で話を進めます。今でも普通に無料ダウンロードできたので、オタクの方も非オタクの方も必ず読むように!

0.はじめに

2019年に『傷抱き』を読んだとき僕は『傷物語』を見ていなかったのですが、一読して率直に意外だったのはレビュアーも含めて誰も大塚英志手塚治虫論に言及していなかったことです。

補足311:『傷物語』を見ていない時点から語り始めるのも、やはり「表現技法より話の内容に注目している」という関心の持ち方に起因するものです。見ないとわからないところが大きい表現とは異なり、話の内容は口頭で聞いても書面で読んでもある程度伝わるので、僕の周りでは「一秒も見ていないアニメを語る」という暴挙が割と普通に行われます。

『傷抱き』では日本の戦後民主主義における欺瞞とキャラクターの身体性やショットにおけるアンビバレンツがパラレルに捉えられますが、それは僕にとっては大塚英志が提起したいわゆる「アトムの命題」をただちに想起させるものです。詳細は後述しますが形式的なことだけ先に言うと、「アトムの命題」はサブカルチャー史を歴史的な文脈に置く作業の中で戦後民主主義の動向と戦後漫画の主題を重ね合わせることで浮かび上がる問題意識であり、アニメの表現技法の中に民主主義の動揺を中心とした政治的な問題意識を汲み取る『傷抱き』との相性は極めて良いはずです。
ひょっとしたら「アトムの命題」はアニクリ界隈でも誰でも知っているあまりにも自明な前提すぎて逆に言及されなかったのかもしれませんが、しかし少なくとも僕の中ではあにもに『傷抱き』と大塚英志アトムの命題』はどういう関係に位置付けられるんだろうかということが1年くらいぼんやり胸に残っていて、お題箱が来たしちょうどいい機会なのでちゃんと書いとこうと思った次第です。

1.歪んだ成熟で良ければ欠損の回復

さて、まず『傷物語』を鑑賞した多くの観客が手塚治虫どろろ』や大塚英志魍魎戦記MADARA』を想起したことは間違いありません。

補足312:これは『傷抱き』で多用されるレトリックを真似てみただけで、実際に想起したのは多くて1%くらいでしょう。

その理由は単純で、『傷物語』の「キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードヴァンパイアハンターに奪われた四肢を取り戻す」というプロットが、『どろろ』の「百鬼丸が魔物に奪われた四十八の身体部位を取り戻す」、及び『MADARA』の「摩陀羅が魔物に捧げられた八つの身体部位を取り戻す」というプロットと非常によく似ているからです。
ちなみに『MADARA』は『どろろ』のパクリであることを原作者の大塚英志自身が『物語の体操』で公言しており、少なくとも時系列的にはまず『どろろ』があって『MADARA』と『傷物語』がそのフォロワーと見做すのが適切でしょう。

では、これらの作品に共通する「奪われた身体を取り戻す」というモチーフは何を示しているのでしょうか。大塚に言わせればそれは「記号的な成熟」に他なりません。つまり、「記号的身体であるが故に正しく成熟できない漫画のキャラクターがそれでも何とかして成長することは如何にして可能か」という問題意識に接続しています。

まず、現実の少年少女というのは毎日少しずつ連続的に成長するものです。毎日の変化は目には見えないとしても、無限の精度を持つ身長計があれば1日あたり0.005cmくらいずつ身長が伸びているはずで、それが1年ほど積み重なることでようやく目に見える成長が現れてきます。積分されて可視化される成長は、微分された不可視の微成長が下支えしています。
しかし、漫画キャラクターはそういう連続した微分的変化を描くことが出来ません。何故なら、漫画で用いられる記号という表現技法は、連続性を捨象して内容を恣意的に分節した上でパッケージングしたものだからです。「このキャラはこういう図像だ」と一度決めたらそれはもうそこでそういう記号としてフィックスされてしまうのであり、一コマごとに僅かに大きさが変わるようなリアリティを描くことはとても出来ません。
この意味で漫画には連続的な身体の成熟が描けないことを認めた上で、それでもどうにかして成熟らしきものを描きたいと思ったとき、「不連続な成熟を描く」という手法がソリューションとして浮上します。例えば、「右腕が少しずつ太くなっていく」というリアルでアナログな成長は描けないとしても、「欠損した右腕を取り戻す」という記号的でデジタルな成長を描くことはできます。このようにして、「身体部位を取り戻す」というモチーフは「記号的な身体の歪んだ成長」として再定義されます。

このように捉え直された成熟のモチーフは『傷物語』においては美少女文化とも接合し、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードは四肢を取り戻すたびに不連続に成長していきます。
キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが「四肢を取り戻す」という目的を掲げる割には、実際に達磨状態になっているのは阿良々木暦との初遭遇時だけで、ロリ状態になってからは何故か普通に手足のある状態のキャラクターとして図像化されている違和感を見過ごしてはなりません。図像的には手足があるのに四肢を取り戻さなければならないという不自然な設定は、彼女の成長がリアルで肉体的な次元ではなく象徴化された記号の次元にあることを示しています。

f:id:saize_lw:20200808200318p:plain

実際、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードは少しずつ年齢を重ねるのではなく、段階ごとに一気に階段を駆け上がるような形で萌えキャラとしてのバージョンを次々に変えていきます。段階ごとの成長シーンをエロティックに描くシークエンスを付けても良さそうなものを、それは何故か徹底して描かれない(阿良々木暦と忍野は部屋から閉め出される)のは成長の不連続性というモチーフに対して自覚的だからではないかとすら思います。

補足313:よくある「魔法少女の身体が大人形態になる変身バンク」のイメージです、と書こうとしたのですが、そういえば最近の魔法少女は衣装だけ換装するのが標準で身体が大人になるやつは久しく見ていない気がします。

さて、関連作品と異なる『傷物語』の独自性があるとすれば、それはキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの身体を取り戻すのが彼女自身ではなく眷属の阿良々木暦であるということです。本来であれば精神的に頑張って身体を取り戻したキャラクターが肉体的にも「成長」するところにプロットの調和があるはずで、成長するキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと頑張る阿良々木暦が別人であるというのはやや不自然な状況に思えなくもありません。

しかし最終局面で羽川翼によって明かされるのは、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが欠損の回復という歪んだ成熟を完成させることこそが、阿良々木暦を人間に戻す条件であったということです。この二つの営みは「記号的な身体の歪んだ成長」という論点において全く同じ位置を占めることに注意しなければなりません。何故なら、阿良々木暦が「吸血鬼から人間に戻ること」は「不死で成長しない身体を打ち捨て、死に向かって成長できる身体を手に入れること」とイコールだからです。

すなわち、『傷物語』において、吸血鬼とは「記号的であるが故に成熟できない身体」の象徴であり、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード阿良々木暦は「それでも何とかして成長しなければならない」という強迫観念を共有しています。それはキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードにおいては不連続で異常な変態として、阿良々木暦においては何とかして人間に戻りたいというモチベーション設定として現れてきます。

2.記号的な身体が失った成熟と性と死

吸血鬼の記号的な身体が失うのは成熟だけではありません。記号的な身体は連続性を捨象したが故にリアリティある「生々しさ」が失われ、その結果「性」や「死」ですらも喪失を免れません。
直感的には、最も記号的な身体の持主であるところのミッキーマウスを想像してもらえれば良いでしょう。ミッキーマウスはハンマーで叩かれても死なないし、ミニーマウスとセックスしません。行動の全てが記号によって構成されているミッキーマウスにとって対応する記号が存在しない行為は端的に不可能です。ミッキーマウスには死と射精の記号がコーディングされていないため、死なないし射精しません。

ミッキーマウスと同じ記号的な身体を持ってしまった阿良々木暦にも「性を持てない」「死ねない(傷付かない)」という現象が生じていることが『傷物語』を通じて一貫して描かれます。

性について中心的に描かれるのは羽川翼というセックスシンボルを用いてですが、特に最も印象的なのはキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと戦う前に羽川の胸を揉む揉まないで異様な長尺で揉めるシークエンスです。

補足314:胸は「揉む」なのに、なんで喧嘩は「揉む」じゃなくて「揉める」なんでしょうか?

もともと阿良々木暦羽川翼の身体に対して異常なまでの距離を取る童貞ボーイですが、胸を揉むシーンに来てエロ親父的な台詞を吐きながら体に接近するという半ばギャグめいた積極性を突然見せるようになります。これは一見すると阿良々木暦も性欲の主体として振る舞えることが示されたかのように見えますが、僕の考えでは全く逆で、むしろ彼自身は性の主体では有り得ないことを強力に肯定します。
何故なら、このシーンで示されているのは、阿良々木暦は性的なやり取りをエロ漫画的なフォーマット、一定の作法、「女性の性を貪る男性」という記号として再定義しなければそれを語ることさえできない徹底的なインポテンツだということだからです。すなわち阿良々木暦は記号化されていない限りは性を消費できません。阿良々木暦が羽川に触れる際にはリアルな生々しさはオミットされ、上滑りする記号としてのみ辛うじて性に接近できるという構図は、成長において見られた歪みの在り方と全く同じです(リアルな成長はオミットされ、欠損の回復という上滑りする記号としてのみ辛うじて成長できる)。

死と傷についても同様で、記号化された阿良々木暦の身体性は死なず・傷付かず・物理無敵です。特に欠損した傍から再生してしまうので戦闘シーンがギャグシーンにしかならないというゴア表現とコメディの関係が決定的に重要なので、これは独立させて次節に回しましょう。

3.ゴアとコメディの板挟み

ゴア表現について考える前に、まずは『傷物語』全体の表現から受ける印象について復習しておきましょう。『傷物語』における極端な演出の数々は『傷抱き』でも以下のように言及されています。

劇中で描かれるスプラッターやエロティシズムは全て極端に演出されており、ともすれば冗長の謗りを免れないほど執拗に描写を重ね続ける。この過剰性は『化物語』の頃からすでにその傾向が認められたが、本作のそれは量的にも質的にも肥大している。

この後、『傷抱き』は例としてショット内に混在する作画文法の混乱を挙げてコンポジティングの不合理性へと論を進めていくのですが、僕が感じた過剰性は『傷抱き』のそれとは微妙にズレており、やはりもっと直接に記号に関するものです。つまり僕が引っかかるのは、過剰な記号性=内容の空虚なイメージの付与がたびたび行われることについてです。

例えば、赤塚不二夫青木雄二らしき非常に古臭い漫画的な画風が時折挿入されることがその一つです。

f:id:saize_lw:20200808200203p:plain

そういう記号の使い方は、疾走シーンでキャラクターのフチ取り線を大きく崩すような描き方とは一線を画しています。というのは、疾走シーンでは「正確な描写より躍動感を優先したから」という理由付けが可能ですが、ギャグシーンで赤塚不二夫風の画風で阿良々木暦を描くことには「そういうギャグだから」としか言えず、描写上の合理性が伴わないからです。
こうした古典的な漫画イラストの挿入については、僕は手塚治虫にかかる批評的な文脈を意識しているからと言ってしまってよいのではないかとまで思っています。これはあにもにが国旗の多用や右翼っぽい建築物を通じてナショナリズム的な読みを正当化するのと全く同じ意味で、手塚治虫的な文脈の存在を肯定する作品に内在する理由にできるのではないかという意味です。単に漫画それ自体が漫画の神様であるところの手塚治虫と結び付くというのもありますが、手塚治虫赤塚不二夫とか石ノ森章太郎みたいな同期の漫画家の画風を真似るギャグをよくやります。

また、作中で見られる過剰な記号性としては、漫画的なイラストの使用以外にも「ふざけた効果音」というものもあります。
それは阿良々木暦と羽川の交流を中心としたコメディシーンで多用される一方、阿良々木暦の身体が欠損するゴアシーンでも散見されます。例えば、阿良々木暦が初めて身体を欠損したのはドラマツルギー戦ですが、腕が吹っ飛ぶときに「ぴゅーん」というふざけた効果音が鳴ります。割とシリアスなはずのキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード戦ですら、上半身と下半身が分かれて足だけが走っていくときに「ぴょこぴょこ」というNHK教育アニメのような音がします。

f:id:saize_lw:20200808200233p:plain

さて、この節で述べてきたことのうち、ポイントになるのはこうした「過剰な記号」が用いられるシーンには主に二種類があるということです。一つは純粋にギャグとしての笑いを狙うコメディシーン、もう一つは身体の欠損シーンです。

まずコメディシーンでふざけた記号が使われるのは自然に理解できます。手塚治虫的な文脈で言えば、彼が用いる記号体系のルーツは彼が戦前に輸入したディズニーの文法にあるわけですが、ディズニーがそれを用いて描くのは徹底して喜劇です。何もかも大袈裟に反応する、リアリズムを廃した記号性がコメディとの相性が良いことは直感的にも明らかです。

しかし、身体の欠損シーンに過剰な記号が用いられることには説明を要するでしょう。限りなくシリアスであるはずの人体損傷が、何故コメディと同じ水準の演出に彩られているのか?
ポイントは、身体欠損時にふざけたSEが付随するのは主に阿良々木暦キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの二人だけだということです。実際、羽川がエピソードに殺されかけるときや、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードギロチンカッターを食べるときは「おふざけ」は無しです。リアルな損傷音と共に内臓がこぼれたり、死体としての顔が描かれたりします。

阿良々木暦キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードだけが欠損をコメディ化されるのは、やはり彼と彼女が吸血鬼、すなわち記号的な身体を持つ存在だからです。吸血鬼の不死の身体はコメディの産物であり、損傷や欠損という真剣な悲劇に耐えられる真面目な身体ではないのです。キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの眷属になったことで、阿良々木暦の身体はミッキーマウスと同じ水準になってしまいました。欠損を描く際にギャグの文法を流用することにより、阿良々木暦の身体が欠損をギャグとしてしか消費できないコメディ世界の住人のものに変質したことが示されます。

こうして、阿良々木暦の身体の上では欠損という本質的にグロテスクなゴア表現と、不死という本質的にメルヘンな記号表現が鍔迫り合いをしている様子が見て取れます。この両義性もやはり記号的な身体が抱え込む緊張関係の現れで、次節では戦後民主主義の緊張関係として再び姿を現すことになります。

4.アトム=阿良々木暦=戦後日本

さて、ここまでは記号的な身体の描かれ方について論じてきましたが、これを戦後民主主義と接続するにあたっては、(いくら論理構造が似通っているにせよ)フィクション内部の表象に過ぎないものに固有名詞の歴史を読み込むことを正当化しうるそれなりの合理性を要します。『傷抱き』では『傷物語』作中のナショナリズム的表象にその根拠を見出していましたが、大塚英志手塚治虫自身の戦争体験にそれを求めます。

ここまでダラダラ書いてきた「記号的な身体が抱え込むジレンマ」=「アトムの命題」は、大塚によれば手塚治虫が戦時中に発見して戦後に発展させたものです。元々、手塚が戦前に輸入して模倣したのはディズニーのスタイルであり、彼が描く漫画キャラクターの身体性はミッキーマウスの傷付かない身体がベースになっていました。
ところが、第二次世界大戦という圧倒的なリアリティを持つ戦争イベントが手塚治虫の人生にも介入してきたことにより、彼は今まで書いてきた記号的な身体に死と傷を持ち込まざるを得なくなってしまいました。今まさにアメリカからの空爆を受けている国の漫画家は、それを記号=コメディとして描くことができません。この経験によって「記号的な身体は如何にして死や性や成熟が可能か」というジレンマが形成され、それが明に暗に『どろろ』や『鉄腕アトム』の中にも顔を出してきたという経緯に光を当てることで、日本の戦争体験と漫画的表象が結合します。

さて、「記号的な身体がどうすれば成長できるか」という目下の問題に対して、戦後民主主義を一つの回答として冷戦下で描かれた作品が『アトム大使』です。
アトム大使』においては、アトムはタイトル通りに大使という役回りを演じます。当時の時代背景としては日本がアメリカからの独立を巡って現実でも大使が飛び回っていたわけですから、「大使」というアトムのキャラクター設定には日米間を結ぶ大使というイメージが自明に読み込まれます。ここに来て、アトムが持っていた「記号的であるが故に未成熟な身体」は、マッカーサーに十二歳の子供と揶揄された戦後日本の未成熟さと同一視されることになります。
アトム大使』において、アトムは最終的に大使としての平和交渉を成功させることによって相手国から「大人の顔」を受け取り、やはり『どろろ』同様に記号的で歪んだ成長を果たすことになります。アトムが戦後日本を象徴していたとすれば、平和交渉によってアトムが成長を手にすることは、戦後日本が(GHQ占領政策としての)日本国憲法第九条をあえて遵守することによって一流の国家として成熟を果たすという保守的(?)なイデオロギーに対応します。こうして、記号的な身体で歪んだ成長を行うための手段として戦後民主主義の導入が提示されることになります。

補足315:大塚英志は『アトム大使』の結末をアメリカとの単独講和という現実へのアンチテーゼと考えているようです。つまり、『アトム大使』は「日本が自分の力だけで平和主義を全うして国際社会に認められる」という幾分楽観的なシナリオに対応するという読みです。しかし僕はそれにはあまり賛同できず、どちらかというと『アトム大使』の結末はアメリカとの単独講和という現実に対応するような印象を受けます。何故なら、『アトム大使』における本当の敵は和平交渉を結んだ「宇宙人」ではなく、地球人と宇宙人の食糧問題を暴力的な手段で解決しようとする天馬博士率いる過激派「赤シャツ隊」だからです。地球人も宇宙人も真に対処すべき相手は赤シャツ隊であり、本質的に地球人と宇宙人が殺し合うインセンティブがあるわけではありません。この構図を当時の冷戦に照らせば真の敵=東側諸国に対応するのが赤シャツ隊であり、西側諸国の中で和平交渉を結ぶ日本とアメリカが地球人と宇宙人です。共通の敵に対処するために共犯関係的な講和を結んだという意味で、アトムと宇宙人の交渉は日本とアメリカの結託に近いという印象を受けます。この場合、果たされなかった夢に対応するのは暴力的な徹底抗戦、すなわち平和主義の完全放棄と再軍備です。

さて、前節までに書いてきたのは、手塚治虫論の文脈においてロボットであるが故に成長できないアトムと、吸血鬼であるが故に成長できない阿良々木暦をそれぞれ同じ「記号的な身体」の持主としてアナロジカルに解釈できるということでした。それさえ認めてしまえば、残りは『傷抱き』と同じ話なので繰り返す必要もないでしょう。
「アトム=阿良々木暦=戦後日本=未成熟な身体の持ち主」が成長するのに必要な条件は、「大使としての平和交渉=キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードとの妥協的融合=戦後民主主義の受容=民主主義的な手段による成長」です。彼らの身体にはゴア表現とコメディの間に垣間見えた鍔迫り合いがまたしても出現し、ゴア表現=徹底した強硬政策とコメディ=形式的な平和主義の間の不協和音が三重に鳴り響いています。

もう二点だけ補足してこの節を終わりましょう。

まず、『傷物語』では最終盤にキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが人間を食うことが発覚したことで一気に阿良々木暦の敵に転じますが、実はこの流れは『アトム大使』と全く同じです。『アトム大使』における敵とは地球と鏡写しでクローンのように同じ人類が存在する宇宙人であり、移住してきた宇宙人が地球の食べ物を気に入り始めてしまい、食糧リソースの食い合いになったことで戦争が発生します。『アトム大使』で地球人と宇宙人が鏡写しであることは『傷物語』では阿良々木暦キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードがいずれも記号的な身体の持主であることに、地球人と宇宙人が食糧リソースを食い合うことがキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの捕食を示すことは言うまでもありません。「身体的には全く同じでありながら、政治的には全く対立する関係」であることが肝になっています。

次に、『傷物語』では「大使」に対応する交渉人は、一見すると阿良々木暦ではなく忍野メメであるようにも見えます。まず忍野メメが徹底して交渉人であるのは、彼は争いそのものには絶対に介入しないし出来ないということです。単に彼自身が「自分はバランスを取るだけ」と自称するだけではなく、何気に描写される彼の異常な強さもそれを補強します。忍野メメは初登場シーンでヴァンパイアハンター三人よりも強いことが既に明示され、ラスボスであるはずのキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードから一人で心臓を抜くことすらできます。彼が出てきたら戦いは終わってしまうが故、彼は戦いを監視する超越者として交渉を行う役割を担います。
では、実際の交渉にあたって忍野メメは何をしたのかというと、彼自身は何もしていません。常に阿良々木暦キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードの依頼を受けてそれを実行するだけです。例えば阿良々木暦がエピソードを殺しかけたときに忍野メメが止めに入るのも、元はと言えば阿良々木暦キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが依頼した交渉の条件によるものです。この意味で、忍野メメは独立したキャラクターというよりは、記号的な身体の持主たちの交渉人としての側面を抽出する役割を担っていると読むのが妥当でしょう。
既に述べたように、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード阿良々木暦の『どろろ』的なバチバチに戦う側面を抽出していたとすれば、忍野メメ阿良々木暦の『アトム大使』的な平和交渉を行う側面を抽出しています。キャラクター設計としては阿良々木暦の身体が持つ両義性を両者に譲り渡した上で、最終的にそれらが戻ってくるという予定調和な構図が読み取れます。

5.アトム大使を抱きしめて

さて、『傷抱き』について語ると言いながら、実際には『アトムの命題』を援用して独立に『傷物語』を語る作業をしてきたわけですが、そろそろ最終目標である『傷抱き』と『アトムの命題』の関係の定位という作業を行わなければなりません。その前準備としてそれぞれの論の類似点に注目して話を一旦整理しましょう。

まず、基本的に『傷抱き』も『アトムの命題』も最終的な読みは一致します。つまり、いずれも阿良々木暦の両義的な身体性には戦後民主主義の欺瞞と緊張関係が現れているという結論を出します。
ただし、あにもにがナショナリズムの表象と不合理なコンポジティングに注目した一方で、大塚英志(を援用したLW)は古典漫画的な表象と記号的な身体に注目したという過程の差異があります。どっちも東京から北海道に行くけど、飛行機に乗るかフェリーに乗るかみたいな感じですね(別に上手くない比喩)。いずれにせよ単なる別解の提示で終わってしまっては面白くないので、過程が違うなら過程に注目して比較する作業をやっておいた方が有意義でしょう。

論の差異としてまず僕が思うのは『傷抱き』と『アトムの命題』では歪みを見出す水準が微妙に違うということです。『傷抱き』ではコンポジティングにおける不協和、『アトムの命題』では記号的な身体の描写という、どちらも表象的な部分に歪みを見出しているように見えて、前者が表象同士の緊張に注目しているのに対して、後者は表象と内容の間の緊張に注目しているという違いがあります。『傷抱き』ではパッと見てすぐに感じるショットの歪みを取り上げるのに対して、『アトムの命題』で扱う歪みは「よくよく考えるとこの描写は何かおかしいぞ」というやや深い位置にあると言えばわかりやすいでしょうか(逆にわかりにくいかもしれない)。『傷抱き』が表現が滑らかに結合していないという水平的な次元、『アトムの命題』が表現が内容をきちんと(?)示していないという垂直的な次元と言ってもよいかもしれません。

となると、次に気になるのはこの水準の違いはそれぞれ対立関係にあるのか協調関係にあるのかということです。一方を強調することはもう一方を増進させるのか、それとも減衰させるのか?
この答えは明らかで、これらは協調関係にあると言ってよいでしょう。滑らかでないコンポジティングは表象と内容の間のギャップを増幅しますし、内容に適合しない表象は表象内での不合理性を示唆します。これらの論は相補的に用いることができる、ウィンウィンの関係にあります。

更に関連して、これらが協調すべき理由として、『アトムの命題』から『傷抱き』への貢献について挙げて終わりましょう。結論から言えば『アトムの命題』は『傷抱き』の弱点をフォローしてくれる効果が見込めます。
率直に言って僕が『傷抱き』の明確な弱点だと感じる点は、物語シリーズ及びシャフト作品以外への拡張に対して説得力を確保できる見込みがやや薄いことです。不合理なコンポジティングからスタートする議論自体はアニメの一般的な制作技法にルーツがあるためアニメ作品全般に適用しうる射程を持っているのに対して、それを民主主義的な政治性へと接続する部分は別種の正当性を要求するように思います。『傷物語』では阿良々木暦を通じて展開してきた民主主義に関する議論のプロットやナショナリズム的モチーフによって技法と政治性の癒合を実現できる一方で、一般的にはこうした内在的合理性が見いだせる作品の方が少数派でしょう。コンポジティングに注目した地点からスタートするとしても、『傷物語』と同じ水準でナショナリズムの問題系と接続することに説得力を持たせられる作品はそう多くはないだろうというのが僕の率直な見込みです。
そして、『傷抱き』のこの弱点をまさにフォローできるのが大塚英志の大上段の論理展開です。既に述べたように大塚は手塚治虫の個人的な戦争体験を論拠にして表象と政治性を結び付けており、それは手塚治虫が持つ無限の影響力によって拡散されて戦後漫画の主題の一つになったとまで言い切ります。大塚はサブカルチャーを現実の歴史的な文脈に置くこと自体を肯定しているため、政治性と表象の結びつきがむしろスタート地点です。これは漫画に限ったことでもなく「ジャパニメーションやおたく文化」にまで拡張できると考えられているため、『傷物語』をそこに含んではいけない理由は無いでしょう。大塚に従ってサブカルチャーの文脈の中でルーツを手塚治虫にまで遡れば、『傷抱き』の射程は望ましい正当性を確保できるように思います。

以上、少し長くなってしまいましたが、今お題箱の投稿内容を改めて確認したら「一言お願いします」としか書いていなかったことに今気付きました。よって、次の一言以外は全て蛇足ということになります。

傷物語』と『傷抱き』面白かったです。