LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/10/16 2020年8月消費コンテンツ

2020年8月消費コンテンツ

8月は第七回サイゼミ(→)に向けた資本論入門書籍を読むのに時間を吸われた感じがある。
あまりアニメを見ていないのはとりあえず見ようと思っていた作品をだいたい見てしまったからだが、これを書いている10月時点ではぼちぼち見たいアニメが生まれてきた。「映画を見たい時期」とか「本を読みたい時期」みたいなものは割と周期的に集中して来る(「バランスよく色々やりたい時期」はあまり来ない)。

また、7月に「久々にゲームしよう」と思い立ちプレイした『シドマイヤーズ シヴィライゼーション VI』が全く合わなかったため、代わりに『ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団』のプレイを始めた。そんなに面白くない割にはボリュームが想定外に大きく、9月の時間もだいぶ削った上に10月分にまで食い込んでいる。

メディア別リスト

映画(13本)

傷物語(全3部)
ウォッチメン(ドラマ全9話)
シンドラーのリスト

書籍(11冊)

罪と罰(上・中・下)
バカの壁
アトムの命題
これならわかるよ経済思想史
世界一簡単なマルクス経済学の本
武器としての資本論
マルクスの『資本論
マルクスと共に資本主義の終わりを考える
いま生きる「資本論

漫画(21冊)

夏目アラタの結婚(1・2巻)
SPY FAMILY(1~4巻)
サムライ8(全5巻)
テセウスの船(全10巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

サムライ8
これならわかるよ経済思想史
マルクスと共に資本主義の終わりを考える
世界一簡単なマルクス経済学の本
傷物語
武器としての資本論

消費して損はなかったコンテンツ

テセウスの船
アトムの命題
いま生きる「資本論

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

ウォッチメン(ドラマ)
シンドラーのリスト
罪と罰(上・中・下)
マルクスの『資本論
夏目アラタの結婚
バカの壁

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

SPY FAMILY

ピックアップ

資本論関連書籍

これならわかるよ経済思想史
マルクスと共に資本主義の終わりを考える
世界一簡単なマルクス経済学の本
武器としての資本論
いま生きる「資本論
マルクスの『資本論

saize-lw.hatenablog.com

第七回サイゼミ用、詳細は上の記事を参照。
更なるトピックとしてはベーシックインカムを武器にしたポスト労働社会構想について掘り下げるのが一番面白そうだ。ルサンチマン的な階級闘争はあまりにも時代遅れだが、アンチ労働運動は今でも十分な支持者を得られそうではある。次に興味が向いたらベーシックインカムの理論的基盤についての本を読んでもいい。

どうでもいいが、ちょうどサイゼミの直後に『武器としての資本論』著者の白井聡が暴言で炎上しており、それ自体はともかく京都精華大学の声明が結構良かった(→)。
大学のスタンスとしては教員の多様性を認めているため、白井氏が安倍晋三ガチアンチであること自体は不問に付すことを明記している。しかしその思想の自由が有効であるのは他人の自由を侵害しない限りであるため、量的な問題ではなく質的な問題として今回の発言は看過できないということだ。この姿勢には一貫性があり、わざわざ「個人の主義主張、思想、信条の表現や発言に寛容でありますが」と前置きするあたり好感が持てる。

傷物語アトムの命題

saize-lw.hatenablog.com

アトムの命題』はこの記事を書くために再読した。
物語シリーズ全般については化物語だけは放送当時にリアルタイムで見ていた。当時「会話シーンが面白いアニメあるんだ~」と感動した記憶があるが、その代わりに話はそんなに面白くなかったため(あと刺さる萌えキャラが特にいなかったため)、二期以降は見なかった。正直なところ今も同じような気持ちではある。

サムライ8

saize-lw.hatenablog.com

上に書いたこと以上に思うことが何もない。

ウォッチメン(ドラマ)

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saize-lw.hatenablog.com

上の記事に書いたようにウォッチメンは映画が面白かったので非常に期待してドラマ版を見たのだが……本当に面白くなかった! 原因は明らかで、ポリコレ的要求によって黒人迫害の歴史を語る教育ビデオと化したことだ。

まず念のために言っておくが、俺は「ポリコレが映画をつまらなくする」という短絡的な言説には今のところ与するつもりはない。黒人が活躍すること自体は全く構わないし、実際、登場人物がほぼ全員黒人の『ブラックパンサー』は面白かった。
政治的な正当性と映画としての面白さは両立可能なはずで、前者を立てたが後者を立てないのはただ単に制作の怠慢である……と思うのだが、『ウォッチメン』や『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』の暗澹たる現状を見るに、最近は少し自信が無くなってきている。やはりそれらはトレードオフなのだろうか?

補足341:百合コンテンツがただ百合であるというだけで満足してしまい、それ以外の面白さの追求を放棄した結果、百合を取ったら何も残らない駄作が粗製乱造されてきたことにも似ている。

ドラマ版ウォッチメンでも黒人の歴史を知ることや黒人を擁護することが目的となった結果、話がシンプルに浅薄でつまらないものになっている。黒人女性の主人公が自分の家系図アイデンティティを再確認するだけのエピソードが必要だったとは思えないし、「KKKが黒人に催眠術をかけて暴動を起こさせていた」という真相には「バカか?」と声が出てしまった。

この作品が独立して面白くないだけならまだ良いのだが、なまじ続編であるだけに映画版の面白さも全て破壊されてしまっている。
Dr.マンハッタンは前作では「究極の力を持つが故に人間が理解できない」というアンチヒーローだったのに、ドラマ版では黒人女性に惚れた末に記憶喪失になるわ普通に負けて捕まるわで散々だ(Dr.マンハッタンは究極の力を持つが故に人間が理解できない……ただし黒人女性を除く!)。最終的にDr.マンハッタンの神にも等しい力は悪の秘密結社が欲しがる超能力にまで貶められてしまった。
オジマンディアスも前作では誰にも理解されないジョークを世界中に仕掛けて秘密裡に完遂する孤高のペテン師だったはずが、今ではその成果を誰かに認めてほしい承認欲求の塊と化した。ローリーはローリーで自己満足に陶酔する救いようのない女性だったはずが、有能で頭のキレる老女となっている……いや、それは成長したということで別にいいのか?
黄色いマスクと銀色のマスクに象徴されるコメディアンとロールシャッハの対立も、保存されているのは見た目くらいのものだ。すなわち「終わってしまった世界の中で自らも堕落したパロディとなるか無駄と知りながら狂人として徹底抗戦するか」という対立は人種的な対立へと挿げ替えられた挙句、「その対立を引き起こしていた真の黒幕がいた」とゴミ箱に放り込むように処分される。そういう「真の原因」がいないという絶望的な状況設定こそが映画『ウォッチメン』を傑作たらしめた最大のガジェットだったのではないのか。

ただ明確に良かったことも二点あるので挙げておく。

一つは黒人ヒーロー「フーデッド・ジャスティス」がマスクを被る際に外に露出する目の周りだけを白く塗ることで白人であるかのように偽るエピソードだ。ヒーローのマスクとは個性を象徴すると同時に隠蔽することを告発する、マスクの脱構築だ。
キャプテン・アメリカが典型的であるように、マスクとは装着者の強力な個性を示して彼の自己実現を強くサポートするものでありうる。しかし他方で、フーデッド・ジャスティスのようにマスクとは装着者のアイデンティティを欺いて別人へと変わり果てさせるものでもある。彼が活躍すればするほど彼自身は布の下へと隠されていくのだ。
個性的であることと個性を消すことが同一平面に有り得る、リベラルと反リベラルが鍔迫り合いをしている現場がヒーローマスクだという指摘は記憶に値する。

もう一つは、各話タイトルがどれもめちゃめちゃかっこいいことだ。「今は夏 氷が尽きそうだ」「コマンチ族の乗馬術による軍功」「彼女は宇宙ゴミに殺された」「私の物語が不満なら自分で書け」「落雷へのささやかな恐怖」「この尋常ならざる存在」「ほとんど宗教的な畏怖」「1軒の酒場に入る神」「彼らが飛ぶのをご覧よ」、いつかどこかで使いたい。

罪と罰(上・中・下)

罪と罰(上)(新潮文庫)

罪と罰(上)(新潮文庫)

 

悪徳の栄え』が好きだと言うと勧められることが多いので読んだが、あまり面白くはなかった。人を殺した程度でウジウジしないでほしい、ジュリエットを見習え。
「私は踏み越える権利があるのか否か」という問題意識は、当時宗教的な規範が揺らいで(ちょうど今のリベラルな規範と同じように?)自由主義と衝突していたりする時代ではアクチュアルなものだったかもしれないが、今ではどこまでもフィクションでしかない。
いみじくも永井均が言うように、「重罰である可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければやむをえない」。 それで終わりだ。

テセウスの船(全10巻)

テセウスの船(1) (モーニングコミックス)
 

表面的な内容は別に全然面白くない。主人公が誤認逮捕されている父親を救うためにタイムワープを繰り返して真相に辿り着くというサスペンスSFであり、ぽっと出のサイコパスが犯人という雑な解決を見る。

ただ、タイトルが『テセウスの船』なのが気合が入っている。
このサスペンスの力点は内容それ自体ではなく、主人公がタイムワープするたびに世界が少しずつ改変されていくという点にある。最後には主人公が事件を解決したとき、彼が救いたかった人々と世界は本当に元のそれらと一致しているのか。
主人公も犯人もタイムワープした末に死亡するが、解決した世界に生まれた主人公と犯人が死なずに生きていく。エピローグで改変された世界を歩き回る彼らは一体誰なのか? これこそタイムワープの末に生じたテセウスの船だ。事件を解決してしまったが故に世界は決定的に変動し、それは同じ名前で名指されているはずの主人公たちのアイデンティティを揺るがす。
何か感嘆に値するような回答が明示されたわけではないが、冒頭と結び、あとタイトルだけで真のテーマを示し、表面的なサスペンスストーリーの下に隠すという作りはなかなか面白かった。

補足342:加えて、俺は「貫世界的な存在者に対応者は存在するのか」という問題意識を受け取った(貫世界的とは「パラレルワールドを移動できる」くらいの意味、対応者とは「パラレルワールドにいる同一人物」くらいの意味)。貫世界的でない存在者、つまり単一の世界から出られない存在者であれば問題はあまり生じない。どのパラレルワールドにも彼に相当する同一人物、つまり対応者が存在するのは自然なことのように思われる。しかし、貫世界的な存在者、つまりパラレルワールドを渡り歩く存在者の場合はどうだろうか。『テセウスの船』では差し当たって貫世界的ではない対応者が提示されたわけだが、それは元の存在者とは「パラレルワールドを渡り歩けない」という点で経験も性質も決定的に異なるため対応者とは言うには違和感がある。様相実在論では貫世界的な存在者は存在しないので問題にはならないが、フィクションではその限りではない。