第七回サイゼミ
2020年8月29日に新宿で第七回サイゼミを催した。題材は話題書枠として白井聡『武器としての資本論』、古典枠としてソール・A・クリプキ『名指しと必然性』。
(↑『武器としての資本論』について。過剰生産の受け皿として労働者を消費者化したフォーディズムと、独裁貧困国家を消費者化する中東革命は同じロジックだよねみたいなことを話しているところ)
(↑『名指しと必然性』について。固定指示子の論理を心身問題に応用し、心身二元論を擁護する背理法について検討しているところ)
事前準備
俺は経済学をほとんど知らなかったので、サイゼミに向けて適当な書籍を7冊読んだ。いつもならもうちょっと権威のありそうな本を選ぶのだが、資本論はアカデミズムと同じくらいカルチャーでもあるような印象があるので、面白そうなものを乱読する方向で進めた。
1-1.坪井賢一『これならわかるよ!経済思想史』
ダイヤモンド社らしい経済思想史の概説。
まず最初に経済学全体でのマルクス経済学の立ち位置を定位しておこうと読んだが、その目的は十分に果たされた。これ一冊で経済史と思想史の対応と流れが完全に理解できる。具体的には、経済史としては(新)古典派・マルクス経済学・ケインズ経済学について、思想史としては右派自由主義・中道リベラリズム・左派社会民主主義について、それぞれがどのように結びついて変遷してきたのかわかる。
別にこの本である必要はないかもしれないが、この本に書いてあるようなことをきちんと整理する段階は欲しい。各論に入る前の枠組みを大掴みにできるので、今回読んだ中で一番役に立ったかもしれない。
1-2.木暮太一『世界一かんたんなマルクス経済学の本』
生協購買部に平積みにされてそうなマルクス経済学の入門書。
バカみたいな見た目に反して意外と解説が行き届いていてわかりやすかった。結局のところ資本主義の存亡において最もクリティカルな利潤率低下法則までを簡単に理解できるほか、その対応策として信用制度と擬制資本が発生するまでのロジックまで丁寧に追ってくれるのがありがたい。この本がベストかどうかはわからないが、入門書としては十分すぎる。
1-3.フランシスウィーン『マルクスの『資本論』』
主に資本論出版前後の歴史的な経緯についてまとめた本。
ざっくり分けて、出版前のゴタゴタ・資本論の内容・出版後の反響という感じの三段構成になっている。真ん中の理論的内容にはあまり独自性がなく、前後のエピソード集として読むのが面白い。エンゲルスがマルクスのママ的立ち位置だったこととか、資本論が出版直後にはあんま売れずレーニンに良いように利用されたこととかがわかる。豊富な資本論の引用元を探ることを通じて、経済学でもアジテーションでもない文学としての価値に注目しているのも面白い。
1-4.白井聡『武器としての「資本論」』
現代日本の日常を覆う新自由主義の覇権に引き寄せて資本論を論じた本。
平易で文章が上手いので読みやすいが、理論的に深堀りするというよりは広く浅い内容を卑近な例と共に紹介する入門書。システム全体の力学よりも労働者に直接訴えかけられる例を優先している。ややアジテーションが先行している節があり、それは別に資本主義の問題ではないのでは……?と思うところもあるが、日常的な不満を実例に挙げることで読みやすさを確保してくれるのは入門書としてはありがたい。
1-5.的場昭弘『マルクスとともに資本主義の終わりを考える』
歴史的な人権主義の横行と新自由主義の覇権を結び付けて論じた本。
アラブの春に代表される人権を盾にした正義の政治介入と、過剰生産の受け皿を作るために市場を開拓したい資本主義の利害が共犯関係にあることを告発する。この共謀を遡ればフランス人権宣言での自由と私的所有へとたどり着き、そこから現代新自由主義の横行に至るまでの自由イデオロギーの功罪を問う。独裁政治がグローバル資本主義への防波堤になっていたという認識は『武器としての資本論』第11講で論じられている江戸時代の生産抑制やロシア封建主義へのノスタルジーにも通じるものがあり、その論点を現代中東情勢に敷衍していると言えようか。
かなり面白く、今回読んだ中で一番のオススメはこれ。
1-6.佐藤優『いま生きる「資本論」』
一般向けの講義録を本にしたもので、全体が話し言葉で書かれているタイプの本。著者の話が圧倒的に面白いので読み物としても楽しめる。
内容は概ね三種類に分けられ、①資本論の常識的解釈・②資本論で解釈が割れる事項・③脱線した雑談。この本が有益なのは③が面白いことと②を格調ばらずに地に足の付いた言葉で語っていることで、特に日本のマルクス界隈における思想の流れが掴めるのが有益。その反面、よく勉強している聴講者へのレスポンスが頻繁に混ざるせいで話のレベル感が乱高下しがちで、この本から読み始めるのはお勧めできない。他の本をある程度読んでから読むと面白い。
1-7.咲木英和『誰もが読める「資本論」』
現代日本状況に絡めて資本論を要約した本。
学術的に(そして恐らく文化的にも政治的にも)バックグラウンドを持たない著者が謎の出版社から出しているよくわからない本。要約自体には誠実さを感じるものの、特に説明がわかりやすいわけでもなく、独特の文体からは素人の独自研究ノート臭が漂う。著者自身の主張があまり無いだけに、これを読むインセンティブが特に存在しない微妙な立ち位置。
武器としての「資本論」
いつも通り、読んだ前提で話した内容について書く(要約はしないので各自で読んでほしい)。
第2講:万物の商品化について
資本論冒頭の「商品の分析」から話を始めるのは典型的な導入だが、そのあと「商品には使用価値と価値があり~」というお決まりの定義に進まずにひとまず様々な商品化の実例を出していくところに著者の心配りを感じる。
商品の増殖、特に生殖の商品化について語るあたりはマルクスというよりはボードリヤールだが、日常と結び付けて読者の食いつきを確保する上ではそちらの方が明らかにわかりやすい。ただ、その代償として商品の定義はかなり先延ばしになってしまい、しばらくは日常言語としての「商品」という認識で読み進めることになる。
第3講:後腐れのない無縁の原理について
ここも「無縁」というお気持ちに引き寄せた交換イメージを導入するのがかなり上手い。最終的にはこういう等価交換にまつわるある種の突き放しが新自由主義的な自己責任論に繋がっていく。
ただ、「商品交換=お金による交換の原理は『無縁』です」という記述のように、商品交換が本質的に無縁であると言い切ってしまうのは、ややコンフュージングなように思う。何故なら、第2講で商品経済そのものは資本主義以前からも存在していたとしているからだ。広義の商品経済には資本主義以前の、例えば文化人類学的な意味での女性をやり取りする交易も含まれるはずで、その段階においては共同体間の交易は無縁というよりはむしろ結びつきを確保するためのものであったはずだ。無縁というイメージは資本主義以降に支配的であるに過ぎないように思う。
もっと厳密に「資本制における商品交換=お金による交換の原理は『無縁』です」と書いてほしかったような気もするが、単なる言葉の使い方の問題なのでわかりやすさを優先したのかもしれない。
第4講・第5講:新自由主義が変えた感性について
「寅さんが理解できないのは読解力が無いだけでは?」という野次も出たが、俺は読みの精緻さと作品に感じるアクチュアリティは全く別の問題だと思う。寅さんの内容を完全に理解してもなおその階級意識には全くリアリティを持てないという人はかなり多いように思われるし、そのリアリティの無さこそが問題のはずだ。寅さんの無理解にせよマイルドヤンキーのマネタイズにせよ、新自由主義が色々な領域で「劣位の層があえてそのことに誇りを持つ」という文化を破壊していくというロジックは面白い。
労働者-資本家という対立を離れるが、ネット言論も明らかにそういう方向に進んできており、古き2ちゃんねらの「キモオタですが何か」的な開き直り態度は今では社会的弱者だとか反知性主義だとかに括られてまともに相手にされないことだろう。もっとも、それが新自由主義の間接的な影響というよりは、ただ単にオタクが多数派を占めるようになったことでカウンターカルチャーを構成できなくなったという方が実情に近いようには思うが、いずれにせよこの「逆説的なアイデンティティの持ち方」というロジックはオタクの変質にも相通じるところがあり、個人的には思うところ大だった。
第6講:資本の増殖について
教科書的には、資本の増殖については利潤率低落法則を持ち出して一定の利潤を確保するためには拡大が避けられないと議論するのが典型的な気がするが、ここでは単に資本は増殖する性質を持つとしか考えられていない(この本全体として、利潤率低落法則が説明されている箇所は無いようだ)。つまり、「資本家が強欲ではなかったとしてもなお、資本制は拡大しなければ維持できない」という説明はなされていない。
説明の局面において、資本が増殖する理由を「利潤率低落法則への対処」に求めるか、「金はいくらあっても困らないという資本家の欲望」に求めるかは非常にクリティカルな区別のように思う。前者ならば無人格的なシステムの構造問題として提起されるし、後者ならば人格的な階級闘争を引き起こす(ただ、この違いは最後の方で構造主義vs階級闘争という形でチョロっと触れられる)。
労働力の再生産にかかる「必要」の弾力性に注目するという戦略については、直感的には資本主義を温存するような印象を受けた。文字通りに「自分の生活に必要な賃金を確保する」という話であれば、社内で上司に「月給がもう1万円上がらなければ生活できない」と直談判して給料を上げるような局所的な営みでとりあえず解決としてしまえるからだ。ただし、それと引き換えに、労働者が満足したことで会社の賃金制それ自体は温存される。本質的に搾取されていること自体は変化しない。
ここに限ったことでもないが、著者は新自由主義を告発したあとの目標として、「資本制の中で賢く立ち回ること」と「階級闘争によって資本制自体を転覆させること」のどちらを目指しているのかはイマイチ判然としない。基本的には前者の論調で書かれているが、階級闘争の講では後者が見え隠れする。いずれにせよ、この書の主目的は新自由主義の告発であり、その後目指す地点については(あえて?)明言を避けているように思われる。
第8講:何故イノベーションは人々を幸せにしないのかについて
「何故イノベーションは人々を幸せにしないのか」について、特別剰余価値の性質から説明を試みるのには最初は少し違和感があった。というのは、俺が想定していた回答は労働力商品の価値からの説明、つまり「労賃とは本質的に分配の問題ではなく生産の問題だからだ。つまり、いくら資本家が稼いだかとは全く無関係に、稼ぎが生じる前の段階で労働力の再生産に必要なコストとして決定され、イノベーションは前者に関与するが後者に関与しない」だったからだ。
ただ、第8講を読んで思うことには、労働力商品の価値という観点からの説明は現代においてはあまり説得力がない。今では会社の業績が上がったら賞与の金額が上がるという形で労働者への分配が行われる方がむしろ典型的だ。資本論当時の最悪な工場労働に比べるとあまりにも人間的になった賃金に対して、「賃金とは分配ではなく生産の問題だ」などと言ったところで却って説得力を下げるに過ぎないだろう。
第9話:フォーディズムについて
大雑把に言って、フォーディズムの前後では労働者の扱いはダンピング→消費者化→ダンピングというプロセスで推移している。非常に乱暴に言えば、労働者に不幸になってほしい時期と幸福になってほしい時期が交互に来ているわけだ。冒頭でも紹介したので詳述はしないが、的場昭弘『マルクスとともに資本主義の終わりを考える』はまさにこのプロセスのお尻に更に消費者化を付け加える段階として読むことができる。
となると、労働者の扱いについては波のように無限運動するという非歴史的な展望が何となくチラつくが、この上がり下がりがもう一巡するのかは何とも言いようがない。恐らく下がるフェイズは来るが、次に上がるフェイズは来るのだろうか?
第10講以降:階級闘争の再開について
第10講以降はざっくり歴史的な経緯がメインになって階級闘争について語られる。
最終的な主張として階級闘争は食から始めようというのは、ぼちぼち共感できる。少なくとも社会主義も含めて「俺の考えた最強の共同体論」に今更行き着くようなものよりは説得力があって良い。打倒ブルジョワのルサンチマンで結束するのはちょっと時代遅れどころではないので、もっとリアリティのある問題を提起したいところ。
ただ、これは比較的瑣末な指摘なのだが、日本においてインスタント食の貧相さに憤りを感じることのできる労働者層はどれだけいるのだろうかということが気になった。実際のところ、日本のインスタント食品はかなりうまいからだ。食品メーカーの皆さんが資本主義の論理に従って頑張った結果、冷凍食品の餃子よりも旨い餃子を作るのは本当に至難の業となっている。主観的には美味しくても既に舌が破壊されて文化としての味覚が終了しているのだという説得は有り得るが、いみじくも著者自身が言うように"Don't think, feel"の領域であるだけに、皮肉にも資本主義の産物である日本の冷食がうますぎるという事実は如何ともしがたい。
もっとも、これは別に食についてのみ感性を磨けという話ではなく、感性的な領域において各人が譲れないものを見つけよということなのだろう。
ちなみに俺の場合には、観光資源の均質化がそれに相当する。いまどき、国内はどこに行っても同じ風景になってしまった。辛うじて差異があるとすればそれは発展度合いの量的な違いだけであり、発展の方向性という質的な変化はほぼほぼ消え失せた。ぼちぼち読書をしながら遠出するのが好きな身としてはつまらなく感じるところではあり、ここを起点にして感性的な憤りを育てるという戦略は有効かもしれない。
INVENTING THE FUTURE:ポスト労働社会について
さて、『武器としての「資本論」』では結局のところ感性領域の見つめ直しが階級闘争の火種として提示された。しかしそれよりももっと有力なアジテーションとして、「働きたくない」という不労への切実な欲求を火種にした方が見込みがあるのではないかという話をした。
非常に一般的に言って、「何故ここまで技術が発展したのに労働時間は減らないどころか増える一方なのか」という疑問には普遍的な訴求力とアクチュアリティがある。マルクス経済学の答えが「そもそも技術の発展と労働者の待遇は逆行するものだから」であることは周知の事実だが、ではどうすれば労働時間を減らせるのか。資本家を排除して労働者によるアソシアシオンで正しく利潤を分配することを目指したのはプルードンの社会主義だが、別にそれで労働が無くなるわけではない。
ウィリアムズ+スルニチェク『Inventing the Future: Postcapitalism and a World Without Work』(まだ邦訳が無いので、とりあえず川村覚文『ポスト労働社会の想像と四つの要求』を経由して読んだ)では、「完全就労社会」に代わる「完全失業社会」が提示される。ここで行われる「四つの要求」とは以下の通りで、いずれも当たり前すぎるほど卑近なものとして挙げられており、直感的に理解できるはずだ(なお、UBIは給付金と引き換えに全ての福祉政策を市場原理に叩き込むネオリベ的な施策とする右派の見方もあるが、「左派としてはUBIは福祉国家の非市場的な活性化を大前提としてなされる」)。
1. 完全なる自動化
2. 労働時間の削減
3. 普遍的な基本所得(UBI)
4. 労働倫理の弱体化
とりわけ「『広く浸透した労働への憎悪が既に存在して』いることに注目し、その憎悪を吸収しながら労働への拒絶という一つの大きな欲望を構築することで、ネオリベラルな動員に対抗する必要がある」というアジりはなかなかに熱い。シンプルに働きたくないやつ・労働を憎悪しているやつがどれだけ多いかは語るまでもなく、少なくとも階級闘争をやり直すよりは社会運動としての可能性がありそうだ。
「仕事を完全自動化して労働時間を減らしてベーシックインカムを受け取って働かないことに胸を張る社会を作ろう!」という路線でアンチ資本主義セクトを再興するのは面白そうだな、などと言っていると本当にサイゼミが要警戒団体になりそうなのでこのあたりでやめておくか。
ソール・A・クリプキ『名指しと必然性』
資本論とは一切関係ないのだが、あまり左翼みたいなことばかりやっているとウンザリするので、清涼剤として論理パズルを捻じ込んだ。俺はサイゼミの中では形而上学や英米系の分析哲学に興味がある方だが、別に本気でコミットして何かを主張したいわけではなく、せいぜい頭の体操くらいで良いと思っている不真面目な方だ。
教科書的な話としては、『名指しと必然性』の功績は記述説への対抗として反事実言説に立脚した因果説を確立したことがある。
まず記述説とは、「バラク・オバマ」とは「第44代アメリカ大統領で黒人で民主党でリベラル派である」のように、指示を記述群として捉える立場を指す。これは一見すると極めて常識的な見解で「バラク・オバマ」の捉え方が他に有り得るのだろうかとも思われるが、クリプキは「もし『バラク・オバマ』が大統領でなかったら学者になっていただろう」という反事実命題が有効であることに注目する。ここで「学者になっていただろう」と言われるバラク・オバマからは「大統領」というステータスが欠落しているが、それでも「バラク・オバマ」は依然としてバラク・オバマその人を指しているのだ。つまり我々は実はバラク・オバマが大統領でなくてもバラク・オバマを指示できるという事実があり、それが記述説への反証となる。
よって、バラク・オバマが大統領だったり学者だったり農家だったりするような各可能世界によってバラク・オバマの記述はまちまちだが、それでも「バラク・オバマ」という指示は同じ対象は指すことが帰結する。可能世界によって変動するのは精々指示対象にまつわる性質程度で、指示自体はブレないのである。よって、以下の命題1が得られる。
命題1:名前は全ての可能世界で同じ対象を指す。
このように、全ての可能世界で同じ対象を指す指示子を固定指示子と呼ぶ。「バラク・オバマ」のような名前は固定指示子の一つだが、クリプキは固定指示子をかなり広く解釈しており、普通名詞である「熱」のような科学現象や「金」のような科学物質も含まれる。
ここでただちに問題になるのは、では記述に依らない指示は如何にして可能になるのかということだ。直感的に明らかな記述説を棄却してしまった以上、それに代わる指示の理論が求められる。クリプキは命名儀式とその連鎖で構成される因果説でそれに応える。
まず命名儀式とは、バラク・オバマその人を指して「これがバラク・オバマです」と述べるような主に直示によって行われる命名を指す。この後、親が「この子がバラク・オバマと名付けられた子です」と周囲に紹介したり、バラク・オバマ自身が「私がバラク・オバマと名付けられた子です」と自己紹介することで指示が受け渡されていくことで指示が可能になる。
補足320:記述説と因果説の最大の違いは指示にまつわる時間性の有無にあるように思われる。記述説が依拠する確定記述はどの段階でも正しい記述を列挙するという無時間的な営みだが、因果説では命名儀式が行われる段階とその後の連鎖的な受け渡しの段階が明確に時間的前後関係にあり、指示が本質的に手続きに依存した時間的な形成物となる。そして指示が混乱しない以上、この手続きの歴史は一回性のものでなければならない。クリプキは「可能世界は発見するものではなく約定するものである」と述べ、(ディヴィッド・ルイスとは異なり)現実世界の特権性を認めるが、このことにも歴史の一回性が関与しているように思われる。また、クリプキが強調する「必然的だがアポステリオリ」「偶然的だがアプリオリ」という独特の性質も時間的な解釈で了解できる。命名儀式のような時間的に早い段階で行われた営みがアプリオリ性を決定し、その後の科学的な検証のような時間的に遅い段階で行われた営みが必然性を付与するという、固定指示子に対するタイムラインのイメージを俺は持っている。
さて、命題1から以下が導ける。
命題2:同一の対象を指す固定指示子は必然的に同一の対象を指す
「ヘスペラスがフォスフォラスならば必然的にヘスペラスがフォスフォラスである」という呪文でよく知られたテーゼだが、サイゼミでは「夜桜たまが楠栞桜ならば必然的に夜桜たまは楠栞桜である」というもっとオタクらしく好ましい例文が提出されたのでこれで通そうと思う。
補足321:オタク的知見のない方は「一人の女性が持つ二つのあだ名」くらいに思ってくれればよい。ある女性が2019年10月までは「夜桜たま」と呼ばれていたのだが、2019年12月からは「楠栞桜」と呼ばれるようになったのである。いずれも同じ女性を指しているという意味で現実に「夜桜たま」と「楠栞桜」の指示対象は一致しているので、夜桜たまさんと楠栞桜さんが別人として存在していた世界は可能性としても有り得ないというのが命題2の主張である。
補足322:以下はオタク的知見のある方向けの補足だが、厄介なのは「夜桜たま」や「楠栞桜」が名前であり固定指示子であることは恐らく明らかな一方で、それが何を指しているのかには議論の余地があることだ。具体的に言えば、それぞれキャラクター寄りに解釈をすれば「現実に夜桜たまは楠栞桜ではない」が、演者寄りに解釈すれば「現実に夜桜たまは楠栞桜である」。まあそれは意味論的な問題であって、今回の統語論的な話題とは関与しないので一旦脇に置いておく。「クリプキの因果説から見て『Vtuberの演者変更』や『演者のガワ変更』は名前の指示としては如何なる事態であるのか」という分析は多分そんなに難しくないが、その手のVtuberへのコミットに対する熱量は既に失われてしまった。
命題2は命題1から直ちに導ける。「夜桜たま」の指示対象をX、「楠栞桜」の指示対象をYとする。現実でX=Yであるとき、命題1から固定指示子は全ての可能世界で同じ対象を指すので、あらゆる可能世界でX=Yである。よって必然的にX=Y、すなわち「夜桜たま」の指示対象と「楠栞桜」の指示対象は必然的に一致する。
また、命題2の対偶を取ることで、以下の命題3が自明である。
命題3:固定指示子の指示対象の一致が偶然的ならば、現実でもそれらは一致しない
この成果を心身問題に応用しよう。まず、「X氏の身体」と「X氏の心」は固定指示子、すなわちあらゆる可能世界で同一の対象を指すものである。これは「もし自分の身体が身長180cmだったら……」「もしX氏の心がもう少し邪悪だったら……」という反事実的言明が可能なことから、バラク・オバマの場合と同様に了解できよう。
そして、「X氏の身体」と「X氏の心」の一致はせいぜい偶然的である。つまり、我々は「X氏の身体」と「X氏の心」が分離している有様を想像できるということだ。これはわりとリーズナブルな想像であるように思われる。「もしX氏の心はそのままで身体だけがY氏だったら……」と考えることに特段の問題はない。ならば命題3より、現実でも「X氏の身体」と「X氏の心」は一致しない。すなわち、心身二元論が正しいことになる。
この論証について、サイゼミでは「循環論法では?」という疑問の声が上がった。つまり、さっき何気なく「我々が「X氏の身体」と「X氏の心」が分離している有様を想像できる」などと言っている時点で我々は心身二元論者なのであり、心身一元論者ならば最初からその前提を認めないだろうということだ。それは否定しない。
ただ、命題3を用いた論証の真価はそこではないのだ。命題3が優れるのは、「確かに心と身体が一致しない世界はあり得るけど、少なくとも現実には一致しているだろ?」というタイプの心身一元論者を殺せることにある。命題3によれば、心と身体が一致しない世界があり得た時点で、現実でも不一致であることがただちに帰結してしまうからだ。心身一元論者には想像における不一致にも責任を取る義務が生じる。
すなわち、命題3の本質は「事態が偶然的かどうか=可能世界において有り得るか=想像可能か否かという想像の検証によって、現実での事態を導出できる」という点にある。これは素朴に正しいと思える定理1から仮定無しで導ける割にはかなり強い主張であるように思われる。妄想大好きのオタクが現実的な言明にアクセスするための根拠として、色々と応用が利くかもしれない。
補足323:「現実に夜桜たまが楠栞桜であるならば必然的に夜桜たまが楠栞桜である」が正しいことは命題2で示した通りだが、この裏命題についてはどうだろうか。すなわち、以下の命題4である(ちなみに逆命題=「必然的に夜桜たまが楠栞桜であるならば現実に夜桜たまが楠栞桜である」は自明に真である)。
命題4:現実に夜桜たまが楠栞桜でないならば、必然的に夜桜たまは楠栞桜でない
命題4が真である状況は「現実に夜桜たまが楠栞桜でなく、全ての可能世界において夜桜たまが楠栞桜でない」だが、命題2は一致についてしか語っていないのでこの検証は難しい。よって、命題4が偽であるような以下の状況1を考えよう。
状況1:現実に夜桜たまが楠栞桜でないにも関わらず、ある可能世界においては夜桜たまが楠栞桜である
状況1が有り得るなら命題4は偽、状況1が有り得ないならば命題4は真である。状況1は命題3と比較すると理解しやすい。命題3によれば現実だけが特権的に「夜桜たまが楠栞桜である」ことはできない(現実に指示が一致するならば全可能世界で一致する)のだったが、状況1はある可能世界だけが特権的に「夜桜たまが楠栞桜である」ような状況である(ある可能世界で指示が一致するのに全可能世界では一致しない)。つまり、厳密には同値変形ではないものの、これは「現実世界における一致は全可能世界に波及する一方で、ある可能世界における一致が全可能世界に波及するか」という問題に帰着してよさそうだ。
だが恐らく、クリプキはこれに関しては語らないだろう。補足320でも述べたように、クリプキは明確に現実世界の特権性を認めている。全ての可能世界は現実世界の想像力が約定するものであり、そもそも可能世界からスタートすることを想定していないのだ。よって状況1は想定から外れており、命題4はせいぜい消極的に偽である程度に留まるように思われる。つまり、「現実に夜桜たまが楠栞桜でないならば、夜桜たまが楠栞桜でないことは必然的とも偶然的とも言い切れない」。