・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』
前回の続き。
前回のプラトン『国家』が人類史の古典だったのに対して、こちらはオタク史上の古典という気持ちで読んだ。
・全体的な印象
典型的な構造主義分析。パノプリ論から始まる構造主義的な消費社会の描像を基本骨格として、「メディア」「肉体と性」「人間関係と気遣い」「暴力」等の各論へと派生していく。
日本語版の訳者あとがきにもあるように、マルクスの価値形態論、フロイトの欲望論、ソシュールの言語体系論を下敷きにしており、これらを踏まえれば理解しやすい。逆にこれらの前提知識が無ければ相当厳しそう。持って回った皮肉や煮え切らない言い回しなども多く読みやすくはないが、二周すればそれなりに意味は取れる。
日本でも有名な古典だけあって、一度はどこかで読んだような話が頻出する。
例えば、ボードリヤール→大塚英志(物語消費論)→東浩紀(動物化するポストモダン)というラインでサブカル評論に多大な影響を及ぼしているほか、ブランディングとは使用価値よりイメージと立ち位置の問題だというような話はCMなどのマーケティングの文脈でよく聞く。
・資本主義批判として
消費社会には階級や貧困を再生産するイデオロギーが密輸入されていることは何度も語られるが、その一方で階級や貧困そのものの発生源を陽に語っている部分はあまり見られない。様々な角度から徹底して現状分析を行っている割に、資本主義の生成(始まり)や打開(終わり)については具体性を欠く。しかし、生成や打開についても下敷きにされているマルクスを参照すれば一定の手がかりを得られる。
まず、資本主義システム及びそれに伴う階級と貧困の「生成」については、素直にマルクスを引き継いでいるのだろう。資本主義が資本の多寡に応じた階級を形成したことで、階級を明らかにする差異表示記号とそれを隠蔽するイデオロギーが需要され、その役割を大量生産商品と消費社会が引き受けるという基本線が読み取れる。
次に、資本主義システムの「打開」については、結語に以下のポエムが刻まれている程度しかない。
ある日突然氾濫と解体の過程が始まり、千九百六十八年と同じように予測はできないが確実なやり方で、黒ミサぬらぬこの白いミサをぶち壊すのを待つことにしよう。
最初はこの記述は何かに対する当てつけなのかとすら思ったが、「逆にマルクス擁護としても読めるのではないか」という意見を聞いて確かにそうだなと思った。
1848年に『共産党宣言』でマルクスが目指したプロレタリアートの団結と勝利は、『消費社会の神話と構造』が書かれた1970年にはどう好意的に見ても当時ほどの説得力を持っていなかっただろう。資本主義打倒が結実しなかったことを素直に認め、その敗因を分析する作業として執拗な消費社会のイデオロギー分析を読むことができる。資本主義はマルクスの予想を遥かに超えて強大だったというわけだ。
・SNSの発展
今の感覚で読んで最も素直に違和感があるのは価値体系の一意性だった。
『消費社会の神話と構造』では広告やテレビが神器として働き、それらが作り出した価値体系が社会全体を覆うことになっているが、昨今のSNS普及に伴うテレビの凋落は改めて語るまでもない。大衆全体に対して有効な価値体系も少なからず残存している一方、コミュニティに依存したローカルな価値体系も複数林立しているように思われる。
このあたりは「SNSは社会を分断したか否か」という話題に繋がってくるが、グローバリゼーションは確かに地理的に離れた人々を一つの価値観の中に押し込んでいく一方で、相対的に特殊性の高い嗜好性を持つ人々を相互に繋げてローカルコミュニティの形成を支援する側面もある。
ただし、価値体系のスケールが変動したからといってパノプリ論の骨子が無効になるわけではないし、むしろ依然として分析に利用できるはずだ。ローカルなコミュニティ内部で構造的な差異の体系が生成されるという構図は有効だし、それを個人的な使用価値が尊ばれる構図と混同してはならない。小規模コミュニティ内のマウントの取り合いと個々人の欲求充足は異なる。この区別はすぐ後に述べるようなオタク的想像力を見るにあたっても意識しておいた方が良さそうだ。
・サブカル的には
「印象」の項にも書いたが、オタク界ではサブカル批評の源流として既に吟味され尽くしている古典のような味わいがある。俺もまた聞きでしか知らないが、「ボードリヤールが予言したような現代的な消費社会の形態が最もよく現れているのはオタクたち及びオタク文化である」というような言説は20年くらい前に出回り切ったという認識でいる。
例えば、オタクは「オタクとしての唯一無二のアイデンティティを無数に存在する大量生産品でしか担保できない」というわかりやすい矛盾を持っている。これはボードリヤールのパノプリ論で説明でき、「商品の価値は背景にある記号体系の中の差異的な立ち位置で決定され、それは階級表示記号でもある」というロジックをそのまま流用すればよい。つまり、「オタクグッズの価値は背景にある流通体系や作品体系の中の、他のグッズと比較した立ち位置で決定され、それはオタクのステータスも表示する」というように。
これを作品世界と結び付けて発展させたものが大塚英志の物語消費論である。ビックリマンシールは単体で価値を持つのではなく、背景にあるシール体系に組み込まれていることによって大きな物語を示唆するのだ。
しかし、物語消費論においてはパノプリ=記号体系が大きな物語=近代的な超越性とアナロジカルに解釈されているところに民俗学の知見を取り込んだ跳躍があるように感じる。ボードリヤールの段階では記号体系は商業的な理由で適宜更新されたり流行したりする程度のもので、超越者としての役割はあまり与えられていなかったはずだ。ボードリヤールの、超越性を無化していくいかにもポストモダン的な論の展開に対して、あえて超越性の読み込みというモダンに帰るような解釈を与えたことが大塚の慧眼だったように思う。そしてそれは東浩紀に継承されデータベースとして再解釈される時点で再び各消費者が勝手に読み込む無機質なデータベースへと変換されている。
オタク的な読み替えが可能な箇所は他にもあり、第三部第四章「自己確証と同意」でボードリヤールは人間関係について以下のように語っている。
……集団が何を生産するかについてよりもその集団内部での人間関係についての方に、大きな関心が払われるようになる。この意味では、集団のなすべき重要な仕事はいわば関係を生産し、それらの関係を次々と消費することだといってもよい。……「雰囲気」の概念は、こうした状況をかなりよく要約している。「雰囲気」とは、人びとの集団によって生産・消費されるさまざまな関係の漠然とした総和、つまり集団の現実の姿そのもののことだ。……「目標」と超越性の価値(目的論的・イデオロギー的価値)が、関係の成立と同時に消滅する「消費される」雰囲気の価値(関係的、内在的で目標を持たない価値)に取ってかわられる社会が消費社会である。
これは百合に傾倒する昨今の日常系アニメそのものだ。
最近流行っている関係ベースの百合は構造主義的なキャラクターの想像力だよねということを二年前に書いた。記号体系が支配的になる消費社会では人間関係もそのうちに回収されて構造主義的な差異の戯れに変質するという事情を踏まえれば、百合が流行る源流にもやはりオタクと消費社会の親和性があるのかもしれない。
・暴力とアノミー
ボードリヤールは暴力に対してもパノプリ論を適用し、消費社会においては暴力はパッケージングを免れておらず、稀に真の暴力が現れたときは社会を揺るがす力を持つというような話をしている。
大澤真幸も「資本主義の果てに全的な否定が欲される地平が来る」という似たような話をしていたことを思い出す。大澤の論では、たしか資本主義は目的=超越性を無限に更新し続けるためにそれが摩耗していき完全にすり減ったあとは逆に全く無目的な行為しか目的にできなくなるというようなロジックだったはずだ。
暴力のパッケージングと聞いてただちに連想するのは、最近新宿南口の歩道橋が自殺の名所と化しつつあることだ。2014年には焼身自殺、2020年には首吊り自殺が試みられ、似たような自殺が二件連続したことで点が線になればそこには文脈が形成される。
あの場所での自殺が特異なのは、物理的に高所かつ透明なガラス張りを通じて行われるために可視性が極めて高いということだ。更に都心であるために常に目撃者も多い。閉鎖された一室で完結する首吊りや、地面に落ちた死体をビニールシートで被えてしまう飛び降りは容易に隠蔽されてしまうためにこうはいかない。
自殺というイベントが言葉を通じて共有されるのではなく、自殺によって生成される死体そのものが展示される稀な空間が南口歩道橋だ。死と自然から最も遠い、静謐な都会の中心に突如空いたブラックホール。
この、まるでショーウィンドウのような歩道橋で実行される自殺ショーに対する反応は割れている。スマホを向けてパシャパシャと写真を撮る健全な消費者がいる一方で、撮影による自殺のSNS消費を食い止めようとする良心的市民も少なくない。その緊張関係こそ、都会の中央に突如出現した死がパノプリの中に組み込まれるか、それ自体として認識されるかという緊張関係だ。
とはいえ、ちゃぶ台を返すようではあるが、資本主義はその果てに狂気(分裂病)や死に行き着くというような論はもう見飽きているという気持ちもある。そこのところ、資本主義の末路としてもっと生産的な(と言うと怒られそうだが)ビジョンを提示できる加速主義の優位性が見えてくるというものだ。