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20/8/28 仮面ライダー555の感想 二階の排外主義者たち

仮面ライダー555

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平成仮面ライダーを全部見るプロジェクトもクウガ→アギト→龍騎→555の4作目に来た(これいつ終わるんだ?)。

龍騎では敵味方入り乱れての無秩序な乱戦が描かれたが、555ではオルフェノクと人間という軸が加わることである程度は派閥的に整理される。通底するのは乾陣営vs木場一派vsスマートブレインという三つ巴の構図だが、かといって各キャラが自分の陣営に固執するのではなく、ライダーやオルフェノクへの自在な変身を通じて常に揺れ動くので見ていて退屈しない。ドラマとしては間違いなく今まで一番面白かった。

まず555に一気にのめり込んだのは、第1話で一番最初に出てくる木場勇治が仮面ライダーではなくオルフェノクというところ。木場の「記憶喪失で人を疑うことを知らない」という設定をアギトの津上翔一に被せているのは明らかだ。俺は制作の目論見通りに「へーこの木場ってやつが今回の一号ライダーか」と思いながら見ていたので、怪人になって人を殺し始めて普通にビックリした。
序盤において木場と並んでショッキングなのは、菊池啓太郎が変身できないことだ。木場が「記憶喪失の良いやつ」として津上を受けていたように、啓太郎からは「底抜けの善人で人助けが大好きなやつ」である五代雄介を思い出さざるを得ない。この二人が変身できないというのは明確なクウガ・アギトへのアンチであり、「良いだけのやつは立ち行かない」という龍騎的な世界観を引き継いでいる。

補足317:龍騎の主人公である城戸真司は木場や啓太郎寄りの「良い人」だったが、最終的には自分自身を(バトルロワイヤルを外部から止める調停者ではなく)単なるバトルロワイヤルのプレイヤーの一人とせざるをえなかった。彼は死に際に述べた台詞で「闘いを止める」という自分の願いが浅倉や秋山と同レベルの個人的な願望に過ぎないことを認めている。

「やっぱりミラーワールドなんか閉じたい、闘いを止めたいって。きっとすげぇ辛い思いしたりさせたりすると思うけどそれでも止めたい。それが正しいかどうかじゃなくて、俺のライダーの一人として叶えたい願いがそれなんだ」

「正しいことをする」「誰にも辛い思いをさせない」という「良い人」のライダーはここで城戸と共に死んだ。木場と啓太郎が変身できないのはそのためだ。

木場と啓太郎という「良い人」たちの代わりに変身するのは、人格に難のある乾巧と草加雅人だ。
乾のパーソナリティで特に重要なのは「人を傷付けるのが怖い」という恐怖感を持っていることで、これは城戸の認識を一歩前に進めている。城戸は最終的に自分の願いが誰かに辛い思いをさせることを認めた。それはすなわち他者を傷付けることへの気付きであり、ここから浅倉にならないためには加害を正しく恐怖する必要がある。
第17話で乾は「戦うことが罪なら俺が背負ってやる」と一度は開き直るが、第34話では彼が昔からオルフェノクだったという作中最大の秘密が明かされることで加害のジレンマが再来する。「オルフェノクとしての加害性にどう対処するのか」が中盤以降の大きなテーマとなり、乾と木場が同じ悩みを抱える仲間として接近していく。乾と木場との対話の中では「人間らしくあること」「人間とオルフェノクの共存」の二つがソリューションとして提出された。

しかし、この二つのテーゼはよくよく考えると矛盾していて奇妙な感じだ。本当に人間とオルフェノクが共存できるのであれば、 別に人間でなくてもよくないだろうか。共存を掲げる割には、人間であることにこだわるのは何故なのか。実際、乾は口ではオルフェノクとの共存を語りながらも、行動としてはオルフェノクを倒すことを一向にやめない。

補足318:フィクションでの種族的な対立を人種問題に還元することには強い抵抗があるし、こういう喩えを用いることには慎重にならなければならないが、「白人と黒人の共存」を謳いながら「白人らしくあること」を求めると言えばその胡散臭さがわかりやすいだろうか。

また、ある意味では作中で最も「人間らしい」キャラクターは、人間の利益だけを考えてオルフェノクを憎む草加や南でありうる。しかし彼らはオルフェノクと共存出来ないというまさにその理由故にあっさりと死んでいった。彼らの死は「人間らしくあること」と「人間とオルフェノクの共存」が両立不可能であることを示しているのではないか?

この矛盾の原因は、「人間らしくあること」「人間とオルフェノクの共存」という二つのテーゼの中で思想と種族の区別が密輸入されていることにある。正確に言えば、乾と木場が言っているのは「(思想としては)人間らしくあること」「(種族としては)人間とオルフェノクの共存」という水準の異なる主張に過ぎない。思想と種族の区別を導入することにより、登場キャラクターは4種類に分けられる。

①「人間らしい思想の人間種族:乾(前半)や啓太郎」
②「人間らしい思想のオルフェノク種族:乾(後半)や木場」
③「オルフェノクらしい思想の人間種族:草加や南」
④「オルフェノクらしい思想のオルフェノク種族:スマートブレイン勢」

乾と木場の主張をまとめると、「思想が人間らしくあるならば、種族が人間とオルフェノクでも共存は許容できる」ということだ。つまり、①②は思想が人間らしいので人間とオルフェノクという違いがあっても共存できるが、③④は思想がオルフェノクらしいので共存できず排除しなければならない。
以下、555を前期と後期の二つに分けてこの分類をもっと丁寧に見ていこう。先に大まかな流れを示しておくと、放送前半では種族的な対立、つまり①③vs②④という構図が描かれたのに対して、物語が進むにつれて思想的な対立、つまり①②vs③④という構図にスライドしていく。

まず、前期555の対立は以下の通り。

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基本的には横軸にあたる種族間での対立が描かれた。ざっくり言えばシンプルに悪いオルフェノクが人間を襲い、人間はライダーとしてオルフェノクを退治するというヒーローものらしい構図がある。
まず人間種族陣営については、この段階では乾はオルフェノクであることを明かしていない。第17話での「戦うことが罪なら俺が背負ってやる」は人間としてオルフェノクを排除する罪をあえて甘受するという宣言であり、人間とオルフェノクの間にある種族的な溝を強めるものだ(少なくとも、この段階で「悪い人間」を排除することは含意されていない)。オルフェノク種族陣営についても、木場一派とスマートブレインはまだ決裂しておらず、交渉の余地アリとしてスマートガールを通じて一定の交流が行われている。木場や長田もちょくちょく人を殺したりするし、海堂も殺しはせずとも学校で暴れたりする。
しかしそんな中でも木場は「俺は人間だ」と繰り返し自分に言い聞かせており、スマートブレインと比べると何となく良いやつっぽいことが伺える。この段階で木場が言う「俺は人間だ」というのは「無闇に人を殺したりしない」という程度の消極的な意味であるが、ざっくり善人っぽいか悪人っぽいかという区別が木場一派とスマートブレインの間にある。

しかし、ドラマの複雑化に伴って後半では以下のような構図に収斂していく。

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やはり決定的なのは第34話で乾巧がウルフオルフェノクに変身したことだ。これによって、乾は種族的には人間であると同時にオルフェノクでもある両義的な存在、①②の繋がりを象徴するような存在として再定義されていく。人間種族vsオルフェノク種族という種族的な溝が実は最初から存在していなかったものとして遡及的に破棄されるのだ。これと呼応するように啓太郎は長田をオルフェノクであることを知ってなお受け入れ、やはり種族的な対立が無化されていく過程が描かれる。乾と木場は④スマートブレインに加入したり抜けたりという動揺がありつつも、最終的にはやはり二人が協調する形で①②の結束が描かれる。彼らが人間であるという主張には「人間を傷付けない」という消極的な意味付けに加えて「種族の壁を超えて協調する」という積極的な意味付けが付与され、協調路線の陣営が形成されていく。
その一方、度重なる暗躍によって「排外主義者」としての本性を現していくのが③草加雅人だ。草加オルフェノク種族を徹底的に憎んでおり、手段を選ばずに嘘と策略を駆使して乾と木場の間に種族的な分断を作り出そうとする。スマートブレインが人間を滅ぼそうとしているように、オルフェノクを滅ぼそうとする草加もまた木場と乾の間を引き裂く怪人として再定義されていくのだ。特に行動の水準では草加オルフェノクに大差がないことは、やはり第17話で乾の決意の裏面としてアルマジロオルフェノクとの戦いを通じて描かれる(「あの人はもう人間じゃない」)。草加があっさり死亡した理由も「限界を超えてオルフェノクと戦い続けたから」、つまり排外主義者であることを絶対にやめようとしなかったからだ。

さて、③草加と④スマートブレインは他種族に対して苛烈な攻撃を加えるという意味では同列の排外主義者であるものとして図式を整理した。では、協調路線を取る①②勢力はもっと穏当な交渉に赴くのかというと、別にそういうわけでもないのである。草加を殺したのはまさに木場だし、乾は最終話に至るまでスマートブレイン幹部の打倒をやめようとしない。つまり、木場と乾が種族を超えて協調するのは①②の枠内においてだけで、③④に対してはむしろ積極的に排撃していく。
つまり何が行われているのかと言えば、「協調路線を取るものとは協調する」「排外主義者は排外する」というほとんどトートロジーのような派閥争いなのである。乾と木場が協調するのは同じ勢力に属する者に対してだけだ。確かに草加は「オルフェノクオルフェノクというだけで許さない」という単純な排外主義だったが、乾もまた「排外主義者を排外主義者というだけで許さない」という意味では二階の排外主義者に過ぎない。ここに来て、①②勢力と③④勢力のカテゴリーは大して変わらないことがわかってくる。自分と異なる思想を持つものを許容するような、清濁併せ呑む本来の多文化主義的な寛容さは乾にも木場にもない。

こうした歪みは劇場版『パラダイス・ロスト』で更にはっきりと描かれた。冒頭から人間コミュニティと木場一派の共存が試みられる割には、クライマックスの闘技場シーンでは人間代表とオルフェノク社会の壮絶な闘争が描かれる。乾が全てのオルフェノクに対して敵対的な目線を向けながら闘技場を出ていくところで映画は終わる。
木場と乾は個人的に協調するものの、その協力関係はオルフェノク種族と人間種族の戦争状態には無関係であるどころか、戦争に際しては明確に人間種族側に加担するのだ。局所的な思想間の対立としては和解できるが、大局的な種族間の対立としてはむしろ敵対的な態度を取るという555のスタンスがはっきりと表れている。

補足319:テレビ放送版は全50話もあるので途中で錯綜することもあるが、劇場版は短くて一気に作られるだけにテーマが直截に描かれるらしいということがわかってきた。

結局のところ、555における倫理性とは「仲良くできそうなら仲良くするが、仲良くできそうになければ敵対する」という原始的な内輪の連携に過ぎない。表面的には共存を掲げている割にはその実態は相手によって態度を変えているだけという、二枚舌な欺瞞的態度として捉えることもできよう。
とはいえ、『龍騎』までを踏まえるならばあまりにも常識的な回答が提出されたことの意味はそれなりに重い。異なる信条を持つプレイヤー全てを守ることなどできはしないということは城戸の挫折によって既に示されているからだ。だからといって開き直って無秩序なバトルロワイヤルに戻るわけにもいかない、ならば、まずは協調できそうな相手を見つけて可能な範囲で地道に派閥を組んでいくという回答は建設的なもので有り得る。それがいかに幼稚な利害関係であろうとも、正義は少しずつ再建していくしかない。