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20/5/23 PSYCHO-PASSの感想 理念と実践の思想地図

PSYCHO-PASSの感想

131.アニメ PSYCHO-PASSは見られたことありますか?
あったら感想が聞きたいです。

先月に1期を全話見ましたが、面白かったです。
設定がよく作り込まれていてエンタメとして楽しかったし、背景に一貫している思想をいちいち全部説明してくれる感じも僕は好きです。

補足296:ただ、槙島がオーウェルからフーコーまで言及する割にはハイデガーサルトルを引用しなかったのってなんかズルくないですか? 槙島っていわゆる「自由の刑」を称揚するような割とベタな実存主義者なんですが、それを明示するとキャラクターが浅薄に見えてしまうから、あえて一番クリティカルな思想家の引用を避けたのではないかと邪推してしまいます(一応キルケゴールニーチェは他の人が引用しますが)。

特に好感度が高いのは、主要登場人物たちの思想について一致する点と異なる点がそれぞれきちんと描かれているところです。思想の解像度が高いおかげで、槙島と狡噛が反目する割には似ていると評されるところや、朱がシビュラシステムを憎む割には手を組まざるを得ないところなど、複雑な協調・敵対関係を描くことに成功しています。

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これは視聴直後に僕がノートに走り書きした思想地図ですが、だいたいこんな構図になっていたと思います。上下の軸が理念的な信条の違い、左右の軸が実践的な方針の違いです。さっき言った「一致する点と異なる点がある」というのを上の図で言うと、例えば朱と槙島は理念的には一致しているが実践的には一致していないという感じです。

朱と槙島

元々、朱と槙島のシビュラシステムによる管理社会に対する考え方ってそれほど大きく違わないんですよね。二人とも大雑把にはシビュラシステムアンチ勢力です。
いずれも規範への隷従よりも主体的な選択を尊重しており、人間の生き方はシステムに決められるよりも自分で決める方が望ましいと考えています。例えば、朱はシステムや権威に安易に迎合せず、自分で考えて行動する人間であることが示されます(一話からシビュラシステムを無視して狡噛を撃っていたように)。それは槙島も同じで、彼も人間のポテンシャルはシビュラシステムなんかでトップダウンに評価できるものではないと考えています。そのため、システムから外れた存在である犯罪者に注目して人間本来の自由な生き方を追求します。

だからこの二人は理念的には一致しているんですが、終盤でようやく朱が槙島にキレて、相違点が実践的なレイヤーにあることが示されます。二人の違いを決定づけるのは以下のゆき(の亡霊)と朱のやり取りです。PSYCHO-PASSで一番重要な台詞ってこれだと思います。

ゆき「面白くって楽ちんで辛いことなんて何もなかった。全部誰かに任せっぱなしで何が大切なことなのかなんて考えもしなかった。ねえ茜、それでも私は幸せだったと思う?」

朱「幸せになれたよ。それを探すことはいつだって出来た。生きてさえいれば誰だって!」

補足297:「ゆき」は槙島に喉をかっ切られて殺された人です。ググって初めて名前を知りました。

ゆきの問いかけってなかなか露悪的です。「シビュラシステムに飼い慣らされて自分では考えずに流されるだけの人生だったけどこれで良かったのかな?」という。我々の常識的な価値観から考えても「そういう主体性のない人生ってどうなの?」とちょっと思ってしまうし、槙島にとってはこういう人間こそ最も嘆かわしいカス中のカスです。だから槙島はゆきを殺すことに全く躊躇いがありません。
そして槙島同様、朱もゆきのような人生を幸福ではないと考えています。実際、朱の台詞をよく読むと、「ゆきが幸せだった」とは全く言っていないどころか、むしろ明確に否定しています。というのは、「幸せに『なれた』」「いつだって『出来た』」は「今までは幸せではなかった」「今までやっていなかった」の裏返しだからです。朱はゆきの人生は幸福では無かったと暗に判定しており、その理念はやはり槙島と一致しています。

ただ、朱が槙島と違うのは「現状では幸せではない」というだけの理由でゆきを見限らない点です。朱は続けて「生きてさえいれば誰だって(幸福になれる)」と述べ、現状でカスな人生を切り捨てるより、将来的には幸福な人間(槙島と朱にとっては主体的に決断する人間)になり得ることを評価します。
ここに「イデアリストの槙島」と「リアリストの朱」の間で、実践的な方針に対する見解の相違があります。槙島は本ばかり読んでいる頭でっかちのインテリなので、現実よりも理想を重視し、他人に求めるハードルが高いです。だから現状で見込みのないゆきを一方的に断罪して殺害します。一方、朱は曲がりなりにも現場を知る現役の刑事であり、理想に溺れる槙島よりも現実を重視します。現実問題として、人の考え方が変わるのには過渡時間が必要であることを知っているため、ゆきの潜在的なポテンシャルを柔軟に評価して現状に妥協します。
総じて、槙島が妥協を許さない理想主義者であるのに対して、朱は問いを保留できる現実主義者です。

朱とシビュラシステム

シビュラシステムはそういう朱の実践志向を看破していたからこそ、朱が社会を破壊するような行動を取らないと信頼して協調を試みます。
シビュラシステムと朱の共通点は理想よりも現実を重く見るところです。二人とも「理想を固持するよりも現実を回すことの方が大事だ」と考えているため、理念が合わないという多少の不満には目を瞑ることができます。

最終的に、朱がシビュラシステムを破壊しないのってすごく倫理的でいいですよね。平凡なアニメならたぶん朱がシビュラシステムを盛大に破壊して華々しく終わるんですが、朱はどこまでもリアリストなのでそういう理想が先行した無謀な行動は取りません。

槙島と狡噛

朱とシビュラシステムという現実主義勢力が「重要なのは現状、それを維持する手段は二の次」と考える一方、逆に「重要なのは最終目標を達成する過程、現状は二の次」と考えるのが槙島と狡噛の理想主義勢力です。
実際、槙島は「落としどころ」としてシビュラシステムに取り込まれることを明確に拒絶し、ゲームプレイヤーとして活動し続けることを選びます。狡噛も槙島を拘束するというだけでは納得が行かず、「自分の手で槙島を殺す」という過程に固執します。自分の信条を絶対に曲げずに現実を見ない、妥協を許さないところは狡噛と槙島は同じ実践方針を持っています。

その一方、狡噛をはじめとする執行官たちは朱や槙島と違って主体性をそれほど重視していません。別にシビュラシステムに盲従しているわけではありませんが(不満を述べるシーンは多々ありますが)、槙島や朱と比べると規範性に隷従することに抵抗がありません。特に元刑事である征陸や狡噛は「刑事としての規範」を尊ぶ傾向があり、「刑事の意地」に非常に強くこだわります。形は違えど、治安を維持したい刑事と、社会を管理したいシビュラシステムの間に強固な共犯関係が存在しています。

理想と現実

以上を踏まえて、PSYCHO-PASSは「実践的な方針の違い」という横軸をきちんと設け、(一見すると槙島vs狡噛という理念の対立と見せかけておいて)朱vs槙島では方針の対立をメインに据えたところを僕は評価します。
一般論として、理念なんてとりあえず現実から離れるのが語義的な定義みたいなところがあって、どうしても荒唐無稽な思考実験じみたことを考えがちです。それはそれで新しい指針を示す上で有効な振る舞いではあるんですが、その一方で、相対的に地に足の付いた、既に成立してしまっている強固な現実との折り合いを考える必要があるのもまた事実です。
例えば槙島の理想には沿わずにチャランポランしてるゆきみたいな人間が不自由なく暮らしてたり、刑事たちが熱く理想を掲げるよりディストピアっぽいシビュラシステムの方が上手く治安を維持できてしまっていたり、そもそも人の考え方ってずっと同じじゃなくて割と変わるものだったり、そういう実践との噛み合わなさってどうしても付きまといます。
その手の泥臭い実践性を描くのって理念を掲げる思想書にはどうしても難しい部分で、思想そのものとは関係のない描写や設定も盛り込めるフィクションならではの部分じゃないかとも思います(あまり主語を大きくしたくはないですが……)。そういう部分こそがラスボスと主人公が戦う論点になって、最終的にも朱が実践重視の決断を下す(シビュラシステムを維持する)のは議論が一貫して評価できます。