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20/11/10 がっこうぐらしの感想 日常は二度終わる

がっこうぐらしの感想

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アニメ版は2015年の放送当時に全話見たが、5年越しで最近完結した漫画版も一気に読んだ。
先にアニメ版を見ていた頃に思ったことを書けば、当時からこの作品がまどマギみたいな文脈でカジュアルに消費されていたことには漠然とした不満があった。確かに「日常かと見せかけてシリアス」は一つの陳腐なジャンルとして流行していたし、『がっこうぐらし』がプロモーション戦略としてその流れに便乗していたのは認めざるを得ない。
しかし、その手の「種明かし」は『がっこうぐらし』では第一話で済ませる基本設定に過ぎないこともまた事実だ。「日常と見せかけてシリアス」それ自体ではなく、その先にある事態が描かれている。世界にはゾンビが溢れかえっていたことが明らかになってもゆきの精神は壊れたままで妄想を続けるし、学園生活部の面々も仮初の日常を求めてごっこ遊びを続けてしまう。一度日常が破壊されて圧倒的な現実が現れたあと、むしろだからこそそれ故に現実逃避の妄想が日常系として展開する。この捻じ曲がった鍔迫り合いが『がっこうぐらし』の基本線だ。

補足352:「日常」とか「日常系」とかいうワードには不毛な定義論争が付随することがあるが、以下「特筆するような事件があまり起きない安寧な世界観」くらいの意味で使う。言われなければわからないような特殊な含意をするつもりは全くないので、適宜常識的に読み替えてもよい。

そして『がっこうぐらし』で展開する緊張関係は「ゾンビたちの過酷な現実」vs「現実への反動としての安寧な日常系」という分かりやすい二項対立だけではない。後者の内部でも分裂が起きている。
分裂の一つの極は、精神を患っているゆきが幻視する個人的な認識としての日常系である。耐え難い現実に対するゆきのアプローチは、自分を取り巻く環境そのものを否定してゾンビなど最初から存在していないと思い込むことだ。ゆきが無理矢理捏造した安寧な原因からは安寧な結果しか引き出されず、ゆきを中心として仮初で痛々しい日常系が営まれることになる。
そして分裂のもう一つの極は、学園生活部が共同体として営む日常系である。りーさんや胡桃はゆきとは違ってここが過酷な現実であることは認識しているが、だからといってそれを正面から受け止められるほど精神的に強靭なわけではない。ゆきが妄想を作り出したのに対して、りーさんや胡桃はごっこ遊びに縋る。安寧な原因ではなく安寧な結果の方を先に作り出すという倒錯によって、やはり彼女たちは仮初で痛々しい日常系を手に入れる。

少なくとも高校編において、ゾンビによる生命の危機という限りなくシリアスな現実に対してこの二種類の日常が癒着していた。
日常という結果を得るために妄想で原因を捏造するゆきと、原因なき結果だけを得るためにごっこ遊びに縋る学園生活部。この二つが共犯関係にあることは言うまでもない。ゆきはりーさんや胡桃が「ごっこ遊び」に付き合ってくれることで「妄想」を維持できているのだし、学園生活部もゆきの「妄想」を支えにした「ごっこ遊び」で何とか日々を生き抜いている。
すなわち『がっこうぐらし』で一貫して問題になっていたのは、この共犯関係をどう調停していくかである。確かにゆきの妄想は精神的成長によって治療されるべき病気だが、だからといって、ゆきが完全に立ち直って「これからは正面からゾンビと戦っていくぜ」と言えば解決する話でもないのだ。ゆきだけが脱出したところで今度はりーさんや胡桃が取り残されてしまう。ゆきが妄想を打開して個人的な認識としての日常系を捨て去るにあたり、共同体によって営まれる日常系にもケリを付けてしっかりと葬送すること。

こうした問題設定に対し、ゆき自身が辿る道は漫画版でもアニメ版でも大きくは変わらない。妄想を卒業したゆきは、永続する安寧な時間を、すなわち日常系を諦めることをはっきりと宣言する。

生きるのは怖いよ……みんなと一緒にいたいよ 最期までずっと一緒にいたかったよ でも……それじゃだめなんだ

(漫画版 第77話)

でもどんなに良い事も終わりはあるから……ずっと続くものは無くて……悲しいけど、でもそのほうが良いと思うから……だから学校はもう終わりです

(アニメ版 第12話)

こうした台詞によって『がっこうぐらし』はわかりやすくアンチ日常系作品として幕を閉じる。漫画版でもアニメ版でも大雑把な枠組みは同じで、

①本編開始前にあった日常(回想で示唆されるもの)
②ゾンビによる日常の破壊と過酷な現実(本編の基本設定)
③現実への反動としての日常系の再帰(ゆきの妄想と学園生活部)
④日常系を諦めて現実に戻る(成長したゆきの演説)

という4段階で日常系が放棄された。冒頭で書いたような「まどマギっぽい」という解釈は極々部分的に①→②だけ捉えているに過ぎず、そこから更に「あえて」を2回変転する。

補足353:ちなみに漫画版ではゆきは5巻でゾンビに対面して妄想を維持できなくなり、その後は比較的まともな精神状態のキャラクターとして振る舞うようになる(相変わらずめぐねえを幻視したりはしているが、周りがどんどん狂っていくので相対的にまともになっていく)。ゆきが妄想から解放されつつあることの表現として、俺は6巻のこのギャグシーンが本当に好きだ。

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たまたま目を覚ましたときにみーくんと胡桃がりーさんに説教されているのを目撃してしまい、それを夢だったことにして再び眠りにつくゆき。妄想と現実の区別が全く付かなかったゆきが、現実と夢を峻別した上であえて現実を夢ということにして眠りに付くという極めて高度な判断によって事態に対処しているのだ。しかもそれが台詞ではなくモノローグでなされているため、彼女は自分自身の心理状態を正しく運用していることがわかるという、二重三重に情報が詰まった感動的なシーンである。ゆきが妄想から醒めるシーンそのものはそこまで明示的には描写されないのだが、こういう細やかな描写でゆきが正気に戻りつつあることを示しているのが素晴らしい。ここが漫画版のベストシーンまである。

さて、上のセリフで放棄されているのは直接的にはゆきが持つ個人的な認識としての日常系(=妄想)だが、それは学園生活部が囚われているような共同体で営まれる日常系(=ごっこ遊び)との共犯関係にあることを書いてきた。ゆきが妄想を放棄することに伴って共同体の方がどう変化するのかは、漫画版とアニメ版では大きく異なっている。

まず、漫画版ではシンプルにゾンビ騒動そのものが収拾され、医学的にまともなアプローチで対処していくエピローグが描かれる。日常系を捨てた先としてあるのは社会的な事態であり、モラトリアムを脱して皆がそれぞれ自分の道にコミットすることへの決意表明としてゆきの台詞を読むことができる。周辺の共同体それ自体がより社会的な場になっていくことによって、皆で中身もなくいちゃつくごっこ遊びは終わりを告げる。

漫画版がゾンビ退治にまで辿り着いた一方、アニメ版では尺の都合でゾンビ騒動は先行きが全く見えない状態でエンディングを迎えることになる。それでも漫画版の最終話と同じ境地にゆきが駆け足で辿り着いていることは先に引用した台詞で示されている。
しかし漫画版のように「社会へのコミット」というアプローチが取れないアニメ版は、ここに来てアクロバティックな解決法を提示することになる。先の台詞をもう少し前から引用すると以下の通り。

下校時刻になりました 学校に残っている生徒はおうちに帰りましょう
(中略)
皆も好きだよね ずっとずっと好きだから だからここにいるんだよね
でもどんなに良い事も終わりはあるから……ずっと続くものは無くて……悲しいけど、でもそのほうが良いと思うから……だから学校はもう終わりです

ここで「生徒」「皆」と名指されているのはゾンビである。ゾンビを「学校に残っている生徒」「学校が好きな人たち」と決めつけるのは若干唐突な印象も受けるが、ゾンビが生前の行動を漠然と繰り返すのはゾンビものの基本設定だし、言われてみればなるほど確かにしっくり来る。
つまりアニメ版ではそれまで日常を破壊する現実だったゾンビが最終話で完全に反転し、むしろ現実を見ずに学校に妄執する日常として再定義される。崩壊した学校で学校ごっこをしていたのは学園生活部ではなかったのだ。実はゾンビたちこそが学校でごっこ遊びをしている日常系の化身であり、ゆきによって葬送されるべき存在となる。
こうして当初の問題だった共犯関係も綺麗に清算される。ゆきの妄想と徘徊するゾンビは実は対立項ではなく同類項なのだから、ゆきが精神的に成長して日常系の妄想を破棄することはそのまま日常系のゾンビ(これは比喩である!)を破棄することでもある。

驚くべきことに、ゾンビこそを日常系の亡者とする視点は漫画版では一度も出てこない。漫画版でゆきが初めてゾンビの存在をはっきり認識する第29話では、焼け焦げたゾンビは見開きでグロテスクに描かれ、ゆきの甘い妄想を破壊する圧倒的な現実として飛び込んでくる。最終話においてもゾンビは解決すべき現実的な問題の象徴であることは既に述べた通りだ。アニメ版で離れ業が披露されたのは原作サイドが元々用意していた別案だったのか、それともアニメサイドにアイデアマンがいたのかは気になるところではある。

以上、『がっこうぐらし』は主人公のゆきが日常系を葬送する話であって、アニメ版でも漫画版でも過酷な現実と安寧な日常との対立を前提として、更に後者の中で個人的な執着と共同体規模のパフォーマンスの共犯関係をどう調停するかという問題を提起していた。これに対する回答は大きく異なっており、漫画版はゆきの成長をオーソドックスに現実に立ち向かって対立していくものとして捉えた一方で、アニメ版は最初から現実に潜んでいた矛盾を剔抉することで対立そのものを無化した。

問題提起の時点で優れているタイプの作品なので回答のどちらを高く評価するかは比較的些末な好みの問題だと思うが、脱構築っぽい感じとかオシャレな論理展開を好む俺がアニメ版の方に傾くことは言うまでもない。

補足354:ところで、漫画版でゾンビ騒動の真相を「人類はどっかのバカが手洗いをサボったせいで滅んだんだ」で終わらせてそれ以上遡らなかったのは非常に良いバランス感覚だった。確かに少しずつ真相が明らかになるサスペンスな魅力もあったのは事実だが、がっこうぐらしの主題はゾンビが発生する世界に対してどう立ち向かうかであってゾンビそれ自体ではないのだから、ゾンビ発生の原因や陰謀をあれ以上掘り下げていたら駄作になるのは免れなかったように思う。