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20/4/26 ソードアートオンラインの感想 チーターの偽装、拡張現実の倫理性

ソードアートオンライン

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昔から見よう見ようと思っていたソードアートオンラインを今更見た。
このアニメは単にオタクの間で有名である以上に、XR周りの技術・情報・デバイス界隈で取り上げられているのを耳にする機会が多い(そいつらも要するにオタクだが)。大学にいた頃、メディア論だの仮想現実論だのの第一回の導入では必ずと言っていいほどソードアートオンライン攻殻機動隊が引用されていたものだ。

SAO編はめちゃめちゃ面白くて評価が高かったのだが、ALO編が酷い内容でがっかりしてしまった。ただつまらないだけならまだしも、SAO編の優れていた部分を帳消しにするようなやり方でどんどん悪くなっていくので非常に残念だった。
有識者によると、ALO編以降はほとんど同じ内容のFDが延々と続くらしいので続きは見ない気はする。しかし、SAO編が確実に良かったことはきちんと書き残しておきたい。

1.チートの偽装と転倒した結婚

チートの偽装

SAO編で一番良かった話は間違いなく第二話だ。
この回で初めて、ソードアートオンラインを見たことが無くても「キリト」と聞いてただちに連想する「チート」というキーワードが出てくる。しかし、その表明の過程はかなり入り組んでいる。単に強さを意味するのでは全くなく、その強さが偽装されていることが最大の鍵になっている。

最初にキリトが自らがビーター(チーター並の強さを持つプレイヤー)であることを宣言するのは、弱者のヘイトを一身に集めて混乱を収拾するためだ。
元々、SAOでは事前プレイ経験のあるβテスターと初心者の間で

βテスター>初心者

という情報格差があり、その利益の分配をめぐる政治的な軋轢が生じていた。この対立状態を解消するため、キリトはβテスターを超えたビーターという最強のランクを仮設することで

ビーター>>>>>>>βテスター>初心者

という序列を作り出す。ビーターという最大の寡占者が現れることで、相対的にβテスターと初心者の間の違いは小さくなり、ビーター以外を攻撃する必要もなくなる。このスケーリングの論理によって、キリトはコミュニティの混乱を収拾した。

補足285:集まるヘイトを象徴するのが例の黒衣だ。単なる厨二病アイテムかと思っていたが、まさに露悪的であることが意味を持っていることを知って結構感動した。

よって、ビーターとは外向きの序列に組み込まれることで初めて意味を持つ称号だ。
「圧倒的に強い」というのはコミュニティを射程に入れた相対的な位置付けであり、絶対的な強さを示さない。キリト自身の高いステータスを表すというよりは、むしろそれよりも常に大きな幻想である必要がある。「誰も敵わない」という理想だけが先行し、現実は常に追いつかない。
逆に言えば、キリト自身は本当はチーターというほど高い能力を持たない。実際、三話では判断ミスによって仲間を何人も死なせるという手痛い失敗をする。それがトラウマとして付いて回り、孤高のソロプレイ志向に向かうことになる。

転倒した結婚

「キリトのチートは見せかけにすぎない」、つまり「キリトが本当はそんなに強くない」という前提がはっきり活かされるのは9・10話あたりから前景化してくるアスナとの関係においてだろう。
アスナとの関係を縮める中でキリトは仲間を失う恐怖から逃れられず、アスナに弱音を吐くようになる。キリトの弱みを知ったアスナは、「(キリトがアスナを守るのではなく)アスナがキリトを守る」と宣言するに至る。これが非常にクリティカルだ。「ヒロインが主人公を守る」という反マチズモの構図は、プロポーズシーンでは「キリトはアスナのもので、アスナがキリトを守る」というような台詞で明言される。
その夜のセックス未遂シーンも重要だ。初めからセックスする気で下着になるのはアスナであり、キリトの方が貞淑な乙女の如くセックスに引いて拒絶することになる。

補足286:アスカは男らしくなれないシンジくんに厳しく当たるが、アスナは男らしくなれないキリトくんに優しい。

補足287:第6話でグリセルダを殺したグリムロックを諫める際、アスナが「グリムロックは妻を自分の手元に置いておくことで所有欲を満たしているだけだ」と喝破しているシーンもそれを裏付ける。ヒロインは男性主人公の所有欲を満たす存在ではないというヒロイン人権宣言と、第十話の転倒したプロポーズは明らかに接続している(しかし、男性が女性の所有物になるというのは単に構図を裏返しただけではないのか?)。

こうした「男が女を守る」という古典的なジェンダーロールの転倒は「キリトの弱さ」に端を発し、その元を辿れば「チーターを偽装する歪み」に辿り着くことは言うまでもない。ヒロインとの転倒した関係はチート能力が偽物であることによって担保されているのだ。
キリトが持つ男性的な力強さとは決して本当のステータスではなく、外向きのポーズでしかない。それ故に、ヒロインとの個人的な関係においてはそれを維持しきれない。これが芯が強いハルヒ系のヒロインであるアスナの魅力を描写すると共に、後世で乱発されるいわゆる「チート無双もの」に対してはむしろアンチテーゼのポジションを取ってすらいる(例えば、強さも女も手に入れる『オーバーロード』のようなものに対して)。
総じて、SAO編は「チート」に関して最初から挫折を織り込んだ葛藤を提示し、ヒロインとの関係の中でそれを描き出したことが魅力的だった。

ALO編の失敗

しかし、ALO編ではキリトはただ単にSAOからの能力を引き継いで、ゲーム外の能力により他プレイヤーを圧倒するチーターと化す。「これじゃビーダーじゃなくて本当にチーターだな」みたいな台詞があったが、本当にそうなのだ。チーターを偽装するという立場は完全に崩壊し、本当に単なるチーターとして力を振るうだけの存在に変わり果てる。
それに付随して、チートの偽装に裏付けられていたアスナとの関係も変化してしまう。アスナはALO編では一貫して囚われの姫であり、スゴウとキリトの間にあるパワーバランスを示すためにやり取りされる通貨に過ぎない。SAO編で見られた転倒は消滅し、アスナはキリトに守られるだけの所有物になってしまう。

2.仮想世界への適応について

キリトが永続する社会を安定させるためにチーターとして振る舞わなければならないことは、キリトがゲーム世界に適応しなければならないことを意味する。誰よりもゲーム世界を理解し、まるで現実世界のように振る舞うことによって、チーターとしての強さを手に入れられるのだ。

適応する人、適応できない人

そんなキリトを筆頭にして「仮想世界への適応」はSAO編を通して徐々に進行していく。
はじめはデスゲームが繰り広げられる暗黒世界としてスタートした世界だが、数千人もの人々が長期的に滞在するとなると、じきに社会らしきものが構築されてくるのだ。ギルドという階級制度、精神的な安寧を担保する家、ステータスを示す資産、人間関係の極致としての結婚、教育を行う先生と生徒、義務を付与する納税システム。大抵の社会制度が出そろい、仮想世界はロールプレイというより異世界という色を帯びてくる。

この社会は基本的には実力主義メリトクラシーであり、アスナのように能力さえあれば子供でも大人を従えて結婚して家を持てる。子供にとってはむしろユートピアとすら言えるかもしれない。アスナが「現実世界を1日無くすのではなく、仮想世界で1日積み上げる」と語るように、仮想世界に適応した者にとっては現実世界と何ら変わらない人生での意味を持つ世界になる。

補足288:「強制参加への事後的な意味付け」という現象は非常にカルト的・セクト的だ。一般に強い教義が流通するコミュニティにおいて、「参加した瞬間」をどのように意味づけるかは重要な問題である。何故なら、カルトに参加した以後の事柄については全てカルト教義によって一面的に意味づけられる一方で、「参加した瞬間」だけは明らかに教義に従わない外部の事情が各人にあったはずだからだ。よって、人生全てを教義で染め上げるためには「参加の時点でも教義に従って行動していた」という事後的な記憶の書き換えを行う必要がある。

ただし、仮想世界に適応できる人とできない人がいることはグリセルダとグリムロックのエピソードでも示されている。グリセルダはノリノリだった一方、グリムロックはそれにドン引いており、夫婦の気持ちが離れたとして事件を起こすきっかけにもなった。後半ではかなり楽しく暮らしている人(釣り人の爺さん周りとか)が多く描写されるようになるが、適応できなかったものはもう既にゲームオーバーなり自殺なりで退場しているのかもしれない(適応できなかった者が悲惨な末路を迎えたことはユイが言及している)。

ゲームプレイとしての変質

また、仮想世界へ適応した人々をあくまでもゲームのプレイヤーと捉えると、「限りなく誠実で好ましいプレイヤー」と見ることもできる。TRPGにおいて100%ゲーム内のキャラクターになりきって全身全霊でプレイしているようなものだ。「所詮はゲームだから」というような一歩引いた視点を取ることがない。
常に命がけの全力プレイを強いられるのは本人にとってはデスゲームかもしれないが、ゲームクリエイターのカヤバとしては真剣に遊んでくれてこれほど嬉しいこともないのだろう。

補足289:ちなみに、一般的な社会のルールから離れてゲームのルールが適用される空間をゲーム研究用語ではマジックサークルと呼ぶらしい(例えばテニスコート)。

ゲームプレイヤーとしての性質に注目すると、ゲーム内での報酬が性質を変化させていることに気が付く。
一般的に言って、ゲーム内で得られる報酬は高々そのゲーム内でしか有効でないものだ。ゲームをプレイして手に入るスコア、レアアイテム、スキル、称号などはゲーム内でしか使えず、一歩現実世界に出れば何の役にも立たない。

補足290:もっとも、最近ではe-sportsの潮流でゲーム内での実績が現実世界での実績と見なされることも増えて一概には言えなくなってきた。ゲームの強さがSNSでのステータスを担保する場合なども同様。

SAO内でも高々SAO内でしか有効でない報酬は少なくない。例えば、家、資産、ギルド階級などはSAOの崩壊に伴って無価値なものになっただろう。一方で、キリトとアスナの愛、キリトの剣道スキルのように現実に持ち越されたものもある。こうした「持ち越し」が現実世界と仮想世界を一貫させるArgumented Realityの思想を補強するのだが、それはまた後で触れるとして、もっと興味深いのは曖昧な境界例だ。

例えば、キリトがアスナと初めてタッグを組む回で、キリトが使用した「クリーム」はどちらともつかない報酬である。クエストをクリアすると「クリーム」が手に入り、それを使うと食事が美味しくなるという効果がある。この「クリーム」は間違いなくSAO内のプログラムだから、その意味では家やギルド階級と同様にゲーム内でしか価値を持たない報酬と言える。しかしその一方で、報酬を享受する味覚システムは仮想世界特有のものではない。究極、SAOというゲームに全く参加する気がない人間であっても、「クリーム」報酬を受け取るインセンティブはある。その意味では、これはゲーム内で自己目的化した報酬ではなく、実際に動物的なレベルでの利益をもたらすわけだ。
他にも、暗殺者ギルドが使用していた「聞き耳」というスキルも同じ例に入るだろう。その発動はゲーム内のプログラミングで担保されている一方、それを行使する感覚は知覚レベルであるに違いない。「実際に物がよく聞こえるようになる」という感覚の強化体験を享受するというインセンティブは、必ずしもゲーム内でのみ有効なものとは言えまい。
以上のように、「真剣なプレイヤー」の登場に伴い、報酬系におけるゲーム内外の関係が揺らいでいる様子が見て取れる。

適応者キリトvs失恋する妹

仮想世界に適応できるか否かという対立において、キリトは明確にゲーム側に適応した人間として描かれる。
特にそれが明らかになるのは現実に戻ってきた回だ。キリトはSAO内に建てた家が崩壊する悪夢を見ており、SAOからの離脱がネガティブなイベントとして認識されている様子が伺える。
その後、ナーブギアの再装着時に「もう一度俺に力を貸してくれ」と語りかけるのがかなりキている。キリトにとってナーブギアは何年もの間自分の命を支配していた悪魔の拷問装置ではなく、自分自身をエンパワーするデバイスとして認識されているのだ。スゴウでさえも「キリトにもう一度ナーブギアを付ける勇気はない」と的外れな見解を述べており、仮想世界に適応しきってしまったキリトの異常性が陽に描写される。

こうしたキリトの振る舞いに対し、対抗する主張は妹から提出された。
妹はゲームと現実の距離が近付きすぎたことによりキリトが実兄であることを知り、失恋して深く悲しんでしまう。妹にとっては仮想と現実は完全に切り分けたままの方が幸せだったはずで、それはゲームと現実を一致させることの弊害だ。妹との関係からは、「必ずしも100%適応する必要はなく、仮想は仮想のままの方がよいこともある」という問題提起が読み込める。
俺はこれがALO編で最も重要な議論だったと思うのだが、しかし、この論点は大して掘り下げられることもなく終わってしまった。この話は「全部終わったらちゃんと話そう」的な感じで棚上げになり、オタクくんの告白とかラスボス戦とかがあって有耶無耶になってしまった。

Augment(拡張)の思想

最終話においては、カヤバが提供したTHE SEEDにより無数の仮想空間が繋がり、連続性のある世界を体現した。これは「現実と仮想で世界が変わってもそれをプレイする主体は一貫している」という思想に基づくものだ。この思想は珍しくSAO編でもALO編でもブレていない。それが最もわかりやすいのは「容姿が現実世界と同じ」というSAO編での破滅的なアバター設定だが、キリト自身がゲーム内での倫理性を現実世界と連続的に理解していることはSAO編でNPCの扱いやアスナとの恋愛を巡って論じられるほか、ALO編でもPKの否定に際して語られた。
特に、第6話の圏内殺人事件の顛末はかなりよく描かれていた。このエピソードでは「物と破壊エフェクトと人間の死亡エフェクトは非常によく似てはいるが、事態としては全くの別物である」ということが事件の鍵になった。仮想空間内でも人間に対するリスペクトを維持しなければならないことが、デスゲームとしての生死の連動以外からも伺える秀逸なエピソードだと思う。

しかし、こうした貫世界的な主体としてゲームプレイヤーを捉える発想は、オンラインゲームやVRではあまり一般的ではない(と断言するのに抵抗はあるが……)。キリトも慎重に譲歩構文を用いているものの、どちらかと言えば仮想空間では現実の枷を捨ててやりたい放題に全くの別人格でロールプレイを楽しみたいプレイヤーの方が多いのではないだろうか?
主体には本質的な一貫性を保ったまま世界だけを広げるという考え方は、Virtual(仮想)というよりはAugment(拡張)に近い思想だろう。最初のSAO編が命を賭けているから安易なロールプレイを許さない世界だったのを引きずっているのかもしれないし、そもそも連続性のある世界だからSAO編の設定を作ったのかもしれない。

こうした認識の裏面としては、ALO編での記憶操作への拒絶反応が挙げられる。
ALO編ではデバイスを通じて操作可能な対象が生死や感覚だけではなく感情や記憶にまで及んだ。しかし、そうした操作は倫理を無視した悪役の非道としてのみ描かれ、ポジティブな側面は全く掘り下げられなかった。
これはSFアニメとして見るとやはりかなり異質であるように感じる。攻殻機動隊でもトータル・リコールでも何でもいいが、同じように脳を弄って仮想世界を扱うタイプのSF作品では、記憶の書き換えも技術発展の産物として普通に許容されるか、肯定的な面を探求される傾向にあるように思う。
しかしソードアートオンラインでは、記憶操作技術は悪役のスゴウが用いる脅しでしかなく、アスナが強い拒絶反応を示すばかりだ。それはやはり人間には一貫性が必要だというある種のヒューマニズムが背景にあり、「変わるのは世界だけ、人間は変わるというよりはせいぜい拡張される程度だ」という拡張現実の倫理性を一貫させているからなのだろう。

3.プラットフォーマーの打倒

ソードアートオンラインでは仮想世界は技術的な産物であり、それを創造したプラットフォーマーが神として君臨している。『サイコパス』のシビュラシステムあたりと比べると人格的な神が存在する世界とも言え、人間でしかないプラットフォーマーに生殺与奪を握られている状態でそれにどう対抗するかは興味深い。

補足291:「仮想世界ではプロトコルの創造者が神に等しい」と『serial experiments lain』で政美が主張したことを思い出す。

プラットフォーマーを打倒する手段は、SAO編とALO編で全く異なっている。

カヤバ戦では、キリトは死亡判定というシステムを超えることによってプラットフォーマーの打倒に成功した。この描写に設定的な正当化は行われていないようだが、恐らくそもそも仮想空間が絶対的なプログラム空間ではなく、現実世界のようにある程度のゆらぎを許容する空間として想定されているのだろう。
これは既に述べた、THE SEEDに象徴される世界の連続性を仮定する世界観とも一貫している。世界を貫いて人間のパラメータは拡張されて引き継がれるので、プラットフォーマーが定義していない挙動も人間力で可能なのだ。キリトは「カヤバに勝つにはゲームシステムではなく自分の力で勝たなければ」というような台詞も発しており、システムに制約されない力を発揮する余地という想定が伺える。

一方で、ALO編ではシステムを超えるのではなく、逆にシステムの論理に依拠することになる。追い詰められたキリトはシステムの管理権限をカヤバから受け継ぐことによってスゴウを打倒する。「権限が上なので勝てる」という、システムのルールでプラットフォーマーに対抗しているわけだ。
この変化には理由があったのかどうかはわからない。SAO編のロジックの方が思想と一貫性があって良かったようには思うが、同じことを焼き直すのも面白くないし、続編でもっと掘り下げられるのかもしれない。

4.まとめ

かなり示唆的で色々考えるアニメだったので感想のトピックが取っ散らかってしまった。しかもその中にはALO編でオジャンになったものやきちんと議論されずに放棄されたものもある。
自分のために最後にまとめれば、ソードアートオンラインを評価するポイントは

  • 無双系作品として、チーターというステータスを相対化し、ヒロインとの関係の中でそれを描いたこと
  • 仮想現実作品として、一貫して拡張現実的な思想を持ち、倫理や戦いにおいてもそれを描いたこと

の二点に集約されるように思う。