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23/3/18 戦闘美少女ラノベ『ゲーミング自殺、16連射アルマゲドン』解説

『ゲーミング自殺、16連射アルマゲドン』解説

自分で書いた戦闘美少女ラノベ『ゲーミング自殺、16連射アルマゲドン(ゲーマゲ)』を自分で解説します。
ネタバレを気にしない人はこの解説だけ読んでも構いません。本編は気になったら読んでください。

表紙イラスト:えすけー様(@sk_kun) 表紙ロゴ:コタツラボ様(@musical_0327)

www.alphapolis.co.jp

『ゲーマゲ』はざっくり以下のような内容です。どれか一つでもピンと来たら読んでもらえたら嬉しいです。

  • エンタメとしては「戦闘美少女異世界転生チート無双もの」で、プロゲーマーの最強美少女主人公が異世界を渡り歩きながら世界を滅ぼしていく話です。
  • メインテーマとして「ゲーマーの哲学」を扱っており、勝ちたがりの戦闘民族ゲーマーの倫理や成長を描いています。
  • テーマのSF的な核心において「オートポイエーシス百合」というアイデアがあり、オートポイエティックな認識が拓く可能性を掘り下げています。
  • 世界観の構築に「分析哲学における可能世界論」を活用しています。
  • 表紙以外の全89話挿絵に「生成AIで作ったイラスト」を利用しています。

最後の生成AIイラストのみ既に記事を書いており、この記事では主にそれ以外について書きます。

saize-lw.hatenablog.com

Ⅰ. ゲーマーの哲学

『ゲーマゲ』のメインテーマは「ゲーマーの哲学」です。

主人公は戦闘民族タイプの対人対戦ヘビーゲーマーであり、彼女が色々な世界をプレイすることを通じて一つのゲーマーの完成形を目指す成長物語です。

 

「戦闘民族のゲーマー」ってどういう人?

まず「ゲーマー」とは一口には言うものの、ゲーマーにも色々なタイプがあります。例えば楽しさを求めてカジュアルに遊ぶライトゲーマー、賞金を目指して真剣に戦うe-sports選手がいますが、『ゲーマゲ』の主人公は勝ちたがりで戦闘民族タイプのゲーマーです。

それは決して架空の人格ではなくどこにでも一定数いるタイプのゲーマーではあって、特にそこそこ真剣にゲームをしたことがある人は「ああいうタイプのやつか」とピンと来ると思います。イメージを明確にするために対比とセットで説明します。

戦闘民族ゲーマーの特徴

戦闘民族のゲーマーはほとんど常にゲームのことしか考えておらず、誰が相手でも「絶対に勝ちたい」という確固たる意志を持ち、人生をオールインしてゲームに取り組み、諦めが悪く勝ちに貪欲です。

ポジティブに見ればエネルギッシュな活力に満ち、外部の評価に惑わされない強烈な自己像を確立しており、金銭を賭けずとも自らのプライドのために戦える理想主義者です。自己鍛錬にも余念がなく、自分に妥協を許しません。

しかしネガティブに見れば、その強烈な負けず嫌い故に紳士的ではない振る舞いが目立ちます。初心者も容赦なく狩り、勝てば相手を煽り倒し、負けを認めたがらず何度も再戦を挑んでくる振る舞いは見ていて気持ちの良いものではないかもしれません。

補足447:特に戦闘民族のマインドを象徴するのが「人生昇竜」、つまり「人生を懸けた昇竜拳」です。ここで言う昇竜拳とは「1000回打てば平均期待値は確実にマイナスになるが、ここぞというときに通せるとものすごく効果的な技」くらいの意味です。大一番で打つには「この昇竜を打ったら負けるかもしれないが、リスクを取ってでも今絶対に勝ちたいからこの一発に命を懸ける」という覚悟を完了したマインドが必要になります。人生昇竜を打てるのは安全圏から統計データでゲームをする理論派ゲーマーではなく、目の前の一戦に命を張れる戦闘民族ゲーマーだけです。

『ゲーマゲ』は主人公がどこまでも戦闘民族タイプのゲーマーとして完成していく話です。幼さを払拭して大人になっていく話ではありません。以後、単に「ゲーマー」と言ったときはこのタイプの勝ちたがりで戦闘民族のゲーマーを含意しています。

このタイプのゲーマーが持つ真剣さは明確に反社会的なものです。ゲームに対して適切な距離を取り、対戦相手を含め周囲を不愉快にしない大人のゲーマーとは相容れません。よって主人公の振る舞いは常に自己中心的で、いわゆる人間的な成長は一切せず、むしろ倫理的なモラルはどんどん低くなっていきます。

ただしカスのゲーマーにもカスのゲーマーなりの矜持があり、何度障害にぶつかろうとも反社会性を絶対に曲げずに追求し続ける姿には美しさがあります。主人公は自分と世界を理解するために苦難の中で足掻きながら課題をクリアし学びを得て、カスのゲーマーとしての自己を確立していきます。

具体的な戦闘民族ゲーマーとしての成長には三つのフェイズがあります。

  1. 前提:ゲームを成立させることを目標とし、ゲームの要件について理解する
  2. 発展:ゲームスキルを磨くことを目標とし、ゲームの成長環境について理解する
  3. 完成:ゲーマーとして自分を確立することを目標とし、ゲームの自己目的性について理解する

それぞれについて具体的な内容と作中での転導を説明します。

 

作中において

彼方はこのタイプのゲーマーであり、キャラの芯にはかなりカスなタイプのゲームへの熱さを持っているというのが造形のコアです。表面的なクールさは見せかけでしかなく、根本的にゲーミングお嬢様亜種です。

実際、作中で彼方に次いで最も熱い戦闘民族のマインドを持っていたキャラは学園編の冒頭に出てきたゲーセンチャンピオンのモブです(個人的にはこういうゲーマーのイメージはカードゲームで培いましたが、一般的にはこのゲーマー像は格ゲーマーと重ねられていることが多いです)。彼方はチャンピオンに対しては珍しく非常に優しく対応して喧嘩に付き合ってあげた上で「頑張っててイイネ」という旨の励ましの言葉さえ送っているのは、常軌を逸して負けず嫌いな精神構造に対して強いシンパシーがあったからです。

また、読者の格ゲーマーから「ジュリエット戦で立夏を殺しながら打った氷結魔法って人生昇竜だよね」と指摘されて確かにそうだなと思いました。いくら覚悟を完了したところでジュリエットは昇竜ぶっぱを通すほど甘くないので余裕のブロッキングが間に合っているのは解釈一致で熱かったらしいです。

 

1. ゲームの要件を理解しよう

ゲーマーであるためには、まず「そもそもゲームとは何ぞや」を知る必要があります。

ゲームの定義はゲーム研究領域で盛んに議論されていますが、今は初歩的でシンプルな以下の定義を採用します。

ゲームは、そのなかでプレイヤーが人工的な争いに従事するシステムである。

それは、ルールによって定義され、量化可能な結果に終わる。

(Salen and Zimmerman 2004)

ゲームとはすなわち「人工的な争い」であり、その具体的な要件としてルールによる定義量化可能な結果が挙げられています。

つまり「ゲームとはルール無用のしばき合いではなく、勝敗は明瞭に決定される」ということは直観的にも明らかです。特に日常的に何らかのゲームを提案するとき、「こういうルールで、こうしたら勝ち」という構文を用いるのは最も標準的な説明方法でしょう。

 

作中において

彼方は当初は既にゲームが普及した世界でプロゲーマーとして活動していたため、ここまで基本的なゲームの要件についてわざわざ意識することはありませんでした。

しかしゲームの無いゼロベースの異世界を渡るにあたって、異世界人をゲーマーである自分の土俵に引きずり込んでゲームを行うために必要な要件を学んでいくことになります。

具体的には「量化可能な結果」はエルフ編のテーマ、「ルールによる定義」はすめうじ編のテーマになっています。

補足448:灰火やジュリエットと戦った世界は過去作『皇白花には蛆が憑いている(すめうじ)』の世界なのですめうじ世界と呼んでいます。

エルフ編で樹にスマホを渡してオークを虐殺させることで彼方が得たのは、結局のところ「スコアはきちんと記録すべきだ」という学びです。もともとエルフは記録も記憶もちゃんとしていないため、オークが来て殺されても勝ったか負けたかがよくわからず事態が一向に進展しないことが問題の核心でした。そこで彼方が記録媒体を用いてスコアを意識させることでゲーマーの土俵に引きずり込むことに成功し、そこで一つゲームの要件を理解して成長しています。

すめうじ編ではルール無用で殺してくる殺し屋のジュリエットがボスであり、VAISや此岸との会話を通じて殺し屋に対抗してゲームを開始するには「ちゃんとルールを立てる」必要があることを学びます。

よってこれ以降はルールと勝利条件には常にこだわるようになり、誰が相手でも必ずきちんと(一方的に)ルールを宣言してからゲームをプレイするように成長しています。

 

2. ゲームの成長環境を理解しよう

ルールと勝敗を伴う争いに従事する以上、ゲーマーは争いで勝利するためのスキルを磨く必要があります。

ここでもやはりゲームの定義であるところの「人工的な争い」がキーワードになります。争いが人工的であるということは、逆に言えばその争いには自然ではない独自のルールや勝利条件が設定されるということです。よって、その中で勝利するためには自然ではないスキルを向上させなければならず、それは自然ではない方法によってのみ可能です。つまり、ゲームに必要なスキルを育むのはゲームをプレイすることによってのみです

「ゲームのスキルは実際にゲームに参加しないと育めない」ということは多少なりとも真剣にゲームをしたことがある人には地に足のついた話として理解してもらえると思います。格ゲーでもカードゲームでも机上の空論でゲームを分析して知識を抽出するやり方には限界があって、理論を踏まえて実際のゲーム中で確かめないことには使い物になりません。実践を通して調整するうちに本当にゲーム中に役立つスキルが醸成されていきます。

また、その際にはゲーム相手が自分と同じか自分以上に強いことも必須要件となります。自分より弱い敵を倒すのにスキルアップは必要ないからです。

こうした「実際にゲームをプレイして相手を超えることで実践的に成長していく」というスキルアップ方式は、一つのタイトル内では「強い戦略が現れるたびにそれに勝てる戦略が現れる」という運動形態をとります。それは「メタゲーム」とか「環境」とかいう言い方で表現され、ゲーマーとして成長したくば自分と同じように上昇志向を持つゲーマーと作る対戦環境が必要になります。

 

作中において

ゲーマゲでは連続的なスキルアップは連続的な世界遡行として表現されています。

彼方の『終末器』は一つ上位にいる者をどんどん倒して上っていくことでどんどん強くなっていくための能力です。彼方がいちいち個々の世界を蹂躙して滅ぼすのは、ゲーマーは実際にゲームと取り組むことによってのみ成長でき、知識だけの吸収は出来ないことに対応しています。

また、彼方以外にも神威や趙のようなクオリティの高いゲーマーは総じて世界を越える能力を持っています。どんな形であれとにかくステージをクリアして敵をどんどん変えていかないと実践的なスキルは向上しないため、世界を越えられること、上昇志向を持っていること、ゲーマー適性が高いことは全てイコールであり、これらが結び付いて貫存在というタイプを構成しています(ただし灰火や此岸などそもそもゲーマー由来ではない貫存在もいます)。

特にこの問題がフィーチャーされたのが魔法学院編です。彼方はより良い成長環境を求めて生徒たちをゲーマーとして育成することを試みますが、結局のところそれは失敗に終わります。生徒たちは「人工的な争いの中で絶対に相手に勝つ」という根本的な上昇志向に欠けているために世界を越えられず、戦闘民族ゲーマーとしての適性がなく、貫存在の水準に到達しません。

それは先天的な才能に属しており後から教えられるものではないことをVAISが指摘していますが、現実的にも根本的に「ゲームをガチれるやつ」と「全然ガチれないやつ」がいるという差異はゲーマーなら経験があるところだと思います。

 

カスのニーチェとしてのゲーマー

どうして彼方はあんなにも邪悪なのか? どうして彼方は平穏に生きている人々にゲームを吹っかけては殺戮して世界を滅ぼして去っていくのかについて補足します。

身も蓋も無いことを言えば「彼方はゲーマーであって人道家ではないから」ですが、それは彼女がたまたま倫理観に欠ける性格だからというわけではなく、ゲーマーとしての上昇志向は最初から日常的な物語を蹂躙する性格を持ちます。つまりゲーマーは弱者に忖度しないし弱者を慈しまないのが正しい態度です。

この「強者は弱者に優しくない」という強者像はニーチェが提示する強者像とかなり重なります。彼方の邪悪さの根源はニーチェ力への意志論を引くとわかりやすいため、少しだけニーチェの話をします。

ニーチェにおいて、強者と対立する弱者は隣人愛に代表されるキリスト教道徳です。

御存知のように、隣人愛を象徴する格言として「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というものがあります。これは敵ですら愛をもって接するという美徳を示していますが、ニーチェに言わせれば弱者の生存戦略に過ぎません。本当に強者であれば右の頬を殴られたら相手の頬を殴り返してボコボコにいいだけですが、弱者は腕力がなくそれができないため、「実はこの勝負って返しで左の頬を差し出したら勝ちなんですよ」と訳の分からないルールを新しく作って勝ったことにしようとします。つまり正面からの闘争では勝てない弱者がルールの方を変えて勝てるようにするいじらしい努力が隣人愛です。

しかし、そういう勝ち方は価値観一本だけで戦っていて何ら実体を持ちません。よってキリスト教の権威が失墜して価値観そのものが揺らぐニヒリズムの時代が来ると全く通用しなくなってしまいます。そういう世界で弱者道徳に頼らずに強く生きるにはやっぱり筋トレして右の頬を殴ってきた相手をボコボコにできるようになるしかありません。

こうやって現れるストイックな力への意志は、最初から弱者道徳に対するカウンターとして生まれてきています。優しくなるために生まれた力ではなく、優しさでは生き残れないから生まれた力です。だから「身体を鍛えているから心も優しい」ではなく、「身体を鍛えているから弱者をボコボコにするし別に心は優しくない」にならざるを得ません。

ゲームにもこれと似た構造があります。

まず、ゲーム外の日常的な世界は勝ち負けが全ての世界ではありません。「勝てなくても努力して偉い」とか、「勝ちにこだわりより協力した経験が大事だ」とか、そういう敗者にも優しい正当化の物語はいくらでも流通しています。勝負事に勝てない弱者にも優しい価値観が人間社会における標準的な倫理です。

ただし、ゲームという人工的な争いの空間はそういう日常的な空間とは切断されています。敗者にも優しくあれるのはゲーム結果を吟味するゲーム外の空間に限られ、ゲーム内はあくまでも明瞭な勝敗が全てを決定する空間です。そこではゲーム外の価値観は停止しており、敗者を慰める正当化の物語はゲーム内では失効します。

こういう世界での正義はただ単に勝つことしかありません。本当に勝負に真剣なゲーマーからしたら、ゲームという勝敗が明瞭な世界に参入している以上、努力とか協力とかはどうでもいいから何が何でも勝ち続ける以外に正義はないということです。

こうして生じた勝利への意志は、やはり敗者を慰める正当化の物語と真っ向から対立します。敗者に優しくするために生まれた意志ではなく、敗者への優しさでは戦えない世界を生き抜くために生まれた意志だからです。だから「ゲームに勝てるから敗者にも優しい」ではなく、「ゲームに勝つから敗者をボコボコにするし別に優しくもない」となります。これが彼方の標準的な振る舞いです。

ニーチェや彼方の強者観は「価値観が停止する場=ニヒリズム=人工的な争い」において、「弱き者の価値観=弱者道徳=敗者の正当化の物語」へのカウンターとして成立しています。だから強者は常に弱者を蹂躙します。この意味で戦闘民族ゲーマーの才覚とは根本的に反社会的なものであり、彼方が人や世界を滅ぼすことを何ら躊躇しないのはそのためです。

補足449:永井均はこうして現れた強者の意志もまだ弱者の戦略の変奏に過ぎないことを指摘します。というのも、強者が純粋な意味で強くあることを美徳とするのも、結局のところは「自分が勝てる価値観を擁立しようとしているに過ぎない」という点で弱者の隣人愛と同じ性質を持つからです。それを回避するためには「何の価値にも立脚せず無意志でただひたすら自分の強さを肯定する」という態度を取らざるを得ません。この矛盾はゲームにおいては「ゲームに勝つことを良しとする時点で、ゲームを始める瞬間には『勝てるから始める』というゲーム外部からの利害が混入せざるを得ない」ということとパラレルであり、それを回避するには、やはり「無目的にただひたすらゲームを遊ぶ」という態度を取ることが有効です。そしてこれはすぐ次で説明するゲームの自己目的性そのものです。

 

3. ゲームの自己目的性を理解しよう

人工的な争いに従事するゲーマーは最終的にどこにいくのでしょうか? 人工的な争いには自然な到達点が無いので、最終的には自己目的化せざるを得ません

つまり、日常的な利害に結び付いたゲーム以外の目的を設けることはできず、ゲームそれ自体を目的化するようになるということです。こうした「ゲームの自己目的性」はゲームの性質に関して非常に古典的な議論の一つで、1938年のホイジンガによる『ホモ・ルーデンス』における論が開祖として引かれることが多いです。

ホイジンガ以前では、遊びは自己目的化したものとは見なされていませんでした。遊びは遊び以外の生活に貢献する営みであり、生活で余った欲望の放出や仕事の訓練として行われます。現代的な例を挙げるなら、同じ部署の仲間とフットサルで遊ぶことで普段の業務も円滑に回すことを目指すようなイメージで遊びを捉えることになります。

一方、ホイジンガは遊びは遊び以外の利害を一旦停止したところで発生することを指摘します。例えばオセロなどで遊ぶとき、別にギャンブル漫画のように金銭を賭けてなくてもそれ自体で楽しくて遊ぶモチベーションがあります。「特に生活と関係しなくてもゲームはそれ自体で楽しむ目的になれる」という意味で「ゲームは自己目的的である」と表現でき、これはディープなゲーマーでなくてもただちに頷けるゲームの顕著な性質の一つでしょう。

また、ホイジンガを更に推し進めると、現代的で過激な立場として、遊びと生活の優先順位が逆転したものがあり得ます。すなわち「遊びは遊び以外の生活に貢献する営みだ」を逆転させて「遊び以外の生活こそが遊びに貢献する営みだ」とすることが可能です。この局面では遊びはもはや一切の理由付けを必要としません。人生の基盤に遊びがあることは自明であり、それに奉仕する限りで生活があるという状態です。

現代のゲーマーにおいて、こうしたプレイスタイルはそこまで珍しいものではありません。例えばガチャ課金で生活資金を切り崩している状態、昼夜問わずソシャゲを遊び続けて課金の捻出のためだけに働いているような人生は「生活が遊びに奉仕している状態」と表現できるでしょう。

上記をまとめると、生活と遊びの力関係は以下のような三派閥に整理できます。

  1. 「生活のために遊びありき」派
    生活に貢献する限りで遊びがある
  2. 「遊びと生活が並立」派
    生活と遊びが同程度に両立している
  3. 「遊びのために生活ありき」派
    遊びに貢献する限りで生活がある

これらは遊びそのものの性質の差異というよりは遊びに向き合うゲーマーのスタンスの差異として捉えられ、それぞれ具体的なゲーマー像としてイメージすることもできます。例えば1は程々の距離感を保ってゲームを嗜む大人のゲーマー、2がゲーム歴が浅く1日1時間を守っている子供のゲーマー、3が徹夜discordで生活が崩壊した廃ゲーマーが該当するでしょうか。

戦闘民族ゲーマーの終着点は3の立場を更に推し進めて完全に自己目的化を完了したゲーマーです。

実存的生の最優先事項がゲームプレイであり、何かを目指してゲームプレイしているわけではなく、何もなくても永遠にゲームする存在です。もはや全てが自明にゲームベースで駆動しているので、動機は特にないし、欲望は無限だし、目的も特にありません。毎日徹夜で雀魂を遊んでいるゲーマーに「何のためにやっているのか」と聞いたところで「何のためにじゃねえよ とにかくやるんだよ雀魂をよ……」と返ってくる状態が戦闘民族ゲーマーの理想形です。

なお、この無目的性は上昇志向という目的性と矛盾するものではありません(優先順位の問題です)。戦闘民族としての格が低いゲーマーはあくまでもスキルアップを目的としてプレイを行うのですが、完成化するとプレイが第一の目的でスキルアップの方が必須要件になります。

 

作中において

『ゲーマゲ』最終盤は主人公の彼方がこのような意味でのゲーマーの完成化に到達する、つまりゲームをそれ自体として自己目的化して遊べるようになるまでの話で、魔法学院編あたりから主題化し始め、現代編でようやく解決を見ます。

これは彼方自身のゲームに対するスタンスに関する問題なので、主人公が内面的に苦心するシーンが多いです。具体的な運びとしては、主人公が誤った選択をして困難に直面し、何が間違っていたのかを理解して解決するという典型的な課題と解決のログラインを取ります。

彼方の過ちは「究極の目的を目指してしまったこと」です。魔法学院編あたりから彼方は世界を遡った先にいる「創造の起源」に言及し始めるようになり、個々の世界もそこに到達するための足掛かりと見做すようになっていきます。強敵を求めること自体は悪いことではないのですが、ゲームそのものと直接関係しない形而上学的な外部目的を持ってしまったことが彼女のミスです。ゲームとは自己目的化した状態が究極であり、究極の外部目的は存在しません。

補足450:この言及はミスリーディングとしてのみ配置しており、起源に到達させる予定は全く無かったのですが、この最後の敵が登場することを楽しみにしていた読者から「あの話ってどうなったんですか?」みたいな感想がぼちぼち来てしまいました。

この間違った世界認識のしっぺ返しを受けるのが学園編です。実際には存在しない究極の目的を求めてしまったために、いざそれが実際には存在しないとわかったとき、目の前のゲームを自己目的的に楽しむマインドを忘れてしまった彼方はゲームの意義を見失って惑うことになります(なお、「究極の目的と戦う≒プラットフォームと戦う」という問題設定が現実的なゲーマーの営みとしても著しくリアリティを欠いていることはまた後で改めて取り上げます)。

しかし立夏や神威との会話を通じてゲーマー像を立て直し、最終的にはきちんと眼前のゲームを祝福できるようになります。エピローグに出てきた車椅子の「患者」は「モブのボス」みたいな存在で、黒幕とかでは全然ない、せいぜい彼方や神威と同じくらい強いだけのよくいるボスですが、それでもゲームそのものが楽しいから世界を肯定して戦えるハッピーエンドです。

僕はこういう流れはファンタジーではなく普通によくあることだと思って書いていました。「ちゃんと目の前の試合で相手に勝ちたいっていう精神がないとなんかもう全部駄目だよね」という気付きってゲーマーには覚えがあるものだと思うのですが、どうでしょうか? 例えば僕は今まで格ゲーをあまりやってこなかったので格ゲーの知識が欲しいと思ってGGSTを遊んだのですが、きちんと勝つマインドでやってないとシステムが全然頭に入ってこないし遊び方すらわからなくて全然ダメだったという話を前にnoteに書きました(→)。

 

ゲーマーの哲学まとめ

改めてまとめると、『ゲーマゲ』は

  1. 前提:ゲームを成立させることを目標とし、ゲームの要件について理解する
  2. 発展:ゲームスキルを磨くことを目標とし、ゲームの成長環境について理解する
  3. 感性:ゲーマーの自分を確立することを目標とし、ゲームの自己目的性について理解する

という順序でゲーマーが成長していく話です。

何にせよ、戦闘民族のゲーマーが抱える本質的な困難は「ゲームが成立しないこと」です。「ゲームに勝てないこと」ではありません。このタイプのゲーマーは何度負けてもどうせ何度でもやります。勝てなかったら当然キレますが、そのキレは上昇志向に直結した必要経費であり、むしろ負けてキレなくなったら戦闘民族は終わりです。

では、何故ゲームが成立しないのか? 理由は特になく、解決方法も特にありません。

日常の利害とは無関係に自己目的化した人工的な争いを求めるゲーマーの方こそ説明不能で意味不明な存在であって、ゲームの自然な動機など最初から存在しないからです。ゲーマーではない人を合理的に説得することは不可能です。ゲームは「自己目的化しているために外部に説明できる起源を一切持たない」という意味で、言語や自我と同様に語り得ず示すしかない営みです。

よって辛うじて勧誘が可能であるとすれば、とりあえずゲームに巻き込むしかありません。それでたまたま相手もゲーマーだったらラッキー、ゲーマーじゃなかったら残念でしたと弾くことしか出来ません。ゲーマーの基本姿勢は対話拒否です

 

作中において

彼方が何度も抱える課題も本質的には「ゲームが成立しないこと」です。

「ゲームに勝てないこと」はあまり重要ではなく、最強主人公なのでなんだかんだで割とサクッと勝ちます。「どうやってゲームに勝つか」というベタなゲームというよりはその前段階にある「どうやってゲームを成立させるか」というメタゲームの方が主題であり、彼方は世界を渡るたびにゲームの成立を目指して試行錯誤することになります。

ただし最初のKSD編だけは例外であり、ボスである神威の方から「戦って差し上げましょうか?」と提案してきて自然にゲームが成立します。神威は彼方と同じ戦闘民族のゲーマーで根本的なマインドは同じであるため、再登場したときには意気投合したりすることになります。

続くエルフ編、すめうじ編、魔法学院編、学園編はゲームが自然に成立せず、彼方自身がゲームを成立させるために苦労して要点を理解する話です。具体的なポイントは既に書いた通りです。

また、既に書いたようにゲームへの勧誘行為は根本的に不可能なので、彼方も対話しません。ゲームに参加してもらおうと言葉を尽くして勧誘するのではなく、「まず強制的にゲームに巻き込む、それでゲーマーだったらラッキー、ゲーマーじゃなかったら殺戮」という方法でしかコミュニケーションしません。それを象徴する能力が此岸の世界便です。「何故ゲームをしないといけないのか」という説得は不可能なのでスキップされ、「とりあえずゲームを開始します」という地点から世界との接触が始まります。

ちなみに師匠のVAISは最初から全ての論点を完全に理解しており、初登場した段階でもう最終話に必要なアドバイスまで終えてしまっています。

「切符の取り合い」という人工的なルールと勝利条件を明文化したゲームを彼方に持ちかけ、「補正を切っての新スキル創造」というスキルアップの上昇志向が彼方にあることをきちんと確認した上で、「無目的にゲームそのものを遊ぶ」という体験が彼方に欠けていることを看破して箱庭ゲームを体験させています。彼方自身はあまり意識していませんが、彼方の旅は「VAISが最初に言っていたことはやはり正しかったな」ということを確認する旅でもありました。

 

読者感想と読者アンケートを受けて

『ゲーマゲ』は主人公が目指すべき理想像の類型が明確にあり、師に導かれてそれを目指すという典型的な成長物語のつもりだったのですが、読者感想と読者アンケートによればかなり賛否両論であることは否めません。

まず最初に書いておくべき大前提として、彼方の倫理観が一貫して終わっていることは全て意図通りです。邪悪さはコンセプトから正しく演繹されるものであり、描写や造形のミスではありません。僕も「こいつめっちゃ邪悪だな」と思いながら書いていましたし、「本質的に邪悪なキャラが正しく邪悪に描かれた」というだけで「邪悪ではないキャラが邪悪に見えてしまっている」という事態ではありません。

補足451:一応念のために書いておきますが、テーマとかキャラの意図が伝わらなかったとしてもそれは「読者の読解能力が低くて伝わらなかった」という話では全くありません。別に創作に限ったことでもなく、文章の内容が伝わらないことは原則として書いた側の責任ですし、一度書かれた文章をどう解釈するかは読む側の自由です。存在する軸は「正しいか誤っているか」ではなく「たまたま作者の意図と合致したかしなかったか」だけであり、そこを改善する必要があるとも限りません。実際、彼方のキャラと振る舞いが賛否両論だとしても、もっと人好きのする方向に改善する選択肢は全くありません。

まずアンケートデータ(n=15)から見ると、「主人公の彼方は好きですか?」への回答は概ね半々くらいです。「主人公に抱くイメージ」についても「かっこいい」と「かっこわるい」が拮抗しているものの、「幼い」「自己中心的」「関わりたくない」といったネガティブ票も多いです。ただし「主人公の彼方の悩みや享楽に共感できますか?」には「少しできる」と答えた人が過半数を超えており、完全ではないにせよそれなりの共感を覚えた層が最大勢力であることが伺えます。しかし具体的に好きな・嫌いなキャラを回答する設問では彼方はぶっち切りの最下位になります(各キャラの人気模様はまた最後に触れます)。

賛側としては彼方のゲーマー哲学が伝わった上で共感する人もそれなりにいます。特に彼方を一番好きなキャラとして挙げた人は「可能な自己の在り方(人生哲学)を賭ける瞬間が物語内にある。ビルドゥングスロマンをやってる」と評しており、意図が完全に伝わっていて感動しました。

一方、否側には主に「そもそもゲーマーの哲学が伝わらなかった人」「ゲーマーの哲学を理解した上でそれでも彼方が嫌いな人」の二タイプがあります(もしくはそのグラデーション)。一番嫌いなキャラに彼方を挙げた人の彼方への評価には「他者へのリスペクトがない」「最初から最後までカスのゲーマーであってプロのゲーマーではない」「他者を振り回しといて(各世界単位での)結果に満足することが少ないのが印象に悪い」などがありました。

また、「ゲーム経験がある方が彼方に共感しやすいのではないか?」と思い、読者自身のゲーム経験についてもアンケートで質問しました。「彼方にどのくらい共感するか」と「対人対戦ゲームに真剣に打ち込んだことがあるか」でざっくり相関係数を計算すると0.38とそれなりのスコアであり、また明確に外れ値の回答をしている2人を弾くと0.8まで上がるため、けっこうな相関があるようです。ゲーム大会に海外遠征しておきながら対人対戦ゲームに真剣に打ち込んだ経験が「ほぼない」は嘘だろ

「ゲーマーの哲学」というモチーフそのものが伝わるかどうかということについてはcarbon13さんの感想を読んでいてかなり面白く感じました(面白がっている場合ではないかもしれませんが)。

note.com

ざっくり批判寄りの感想ですが、とにかくめちゃめちゃちゃんと読んでくれていて、彼方というキャラのワンイシュー小説であることを踏まえて諸々について非常に正確に指摘してくれています。多分僕より読んでいると思います。ありがとうございます。

ただ読みが詳しいだけに根本にある「ゲーマーの哲学」という部分が伝わらなかったことが浮き彫りになっていて、「サッカー知らない人にサッカー見せた」みたいな状態になってしまいました。サッカーというカルチャーを知らない状態で試合を見てもボールを籠に入れたいなら手で持って走ったほうが絶対いいのに足で蹴ってて何がしたいのか全然わからんのと同じで、ゲーマーカルチャーを知らない人から見ると全体をまとめる文脈がなくて意味わからん話である可能性があります。

正しく指摘してもらっている難点には全部クリアな回答があるのですが、いずれもゲーマーの精神構造がわかることが前提になっています。

Q1. 彼方が固有の物語を持たないのは何故?
A1. ゲーマーはベタレベルの固有の物語を必要としないから

Q2. 理論面で正しいだけで実践的な意義が伴っていないのでは?
A2. ゲーマーとしては地に足のついた話のつもりだった

Q3. 何故彼方は美少女無罪なのか?
A3. (無罪ではないかもしれないが)ゲーマーとして頑張る姿は美しいから

Q4. この物語に共感するポイントは?
A4. ゲーマーとしてはあるあるだと思ってた

という感じです。

彼方のキャラ自体は意図通りなのでもっと共感しやすい方向に曲げる選択肢はありませんが、ただ反省点があるとすれば、彼方の行動を相対化してきちんと邪悪である旨などを指摘してくれる非戦闘民族ゲーマーで常識人枠のキャラを置いても良かったかもしれません(主人公に水を差す相方ポジションの立夏とか灰火も別ベクトルで頭がおかしいのでツッコミを入れてくれなかった)。一応常識人枠として配置したキャラがツバメとツグミだったのですが、その凡庸さ故に速攻で自殺してしまったためあまり働きませんでした。

 

Ⅱ. オートポイエーシス百合

自己目的化を完成させたゲーマーは最終的にどこに向かうのでしょうか?

『ゲーマゲ』は永久に不定期更新するタイプのWeb小説ではなく完結するタイプのWeb小説なので、どこかに物語的な落としどころを付けなければいけません。

主人公は世界を遡上することでゲーマーとして成長していきますが、世界を遡行する旅はどんな終わりを迎えるのか、そして旅の経路を規定する世界の地図はどんな構造を取っているのか。

ゲーマーの旅の終わりは?

最終的には必要要件を全て満たす世界の地図としてオートポイエーシスシステムによる円環構造が採用されますが、その前にとりあえず棄却した案を検討して要件を洗い出していきます。

 

正しいゲーマーの世界像に必要な要件は?

棄却案1. 創造主との邂逅

始源に行き着く世界遡上

一番安直なオチが全ての世界の始源にある世界で創造主と戦うENDです。双六で言うとStartのS、ゲーム的には全てのゲームステージをリリースしているプラットフォーマー、哲学的な言い方をするならアリストテレスが根本原因とか不動の動者とか呼ぶやつです。

この世界観には彼方が何度か言及しますが、これはミスリーディングとしてのみ配置されており結局この始源は現れないという露骨な踏み台になっています。既に書いた通りそれは究極の目的を目指す姿勢は戦闘民族のゲーマーにはふさわしくないというゲーマーサイドからの事情もありますが、もっと現実的な理由として、単にこういう描像はゲーマーの営みとして著しくリアリティを欠いているというのもあります。

常識的に考えて、ゲーマーがプラットフォーマーと戦うことはまずありません。百歩譲ってナーフ調整とかで運営に文句を言うことはありますが、それはかなり些末な事柄であって、ゲーム文化全体について本質的なことではないです。

確かにゲームをテーマにした作品で最後が「vsプラットフォーマー」になるのは定番のオチではあって、例えば『ソードアートオンライン』とか『バトルロワイアル』がそうですが、あれはデスゲームという極めて特殊なゲーム設定だからです。この世でプレイヤーを殺したいと思ってるプラットフォーマーは存在せず(大事なお客様なので)、プラットフォーマーvsプレイヤーは超例外的なファンタジーでのみ成立する戦いです。

また、これはゲーム会社に勤めてつくづく実感したことですが、ゲーム開発者は別に敵でも神でもなくて普通にただのゲーマー仲間です。もちろん一つのタイトルにおいては開発者は神の如き存在かもしれませんが、ゲーマー文化という粒度で見るなら開発者もプレイヤーも同じような立ち位置でしょう。ゲーマーではない開発者は一人もいないし、ゲーマーの中にたまたまゲーム作る側に回るやつが何人かいるというだけでなんら特権的な位置を占めません。

また、この世界観では創造主が一人で全てのゲームを恣意的に動機付けていることになりますが、ゲームはそのように誰かに決められたからという理由でプレイするものではありません。超越的な他者に命じられたわけではなくともゲーマー自身の方に自己目的的にゲームをプレイするモチベーションがあるという実情ともマッチしていません。

 

棄却案2. 永劫回帰

終端があるモデルは駄目っぽいということで、終端が無いトポロジーとなるとパッと思い浮かぶのは円環かリゾームあたりです。

ニーチェの話も出たので円環状の永劫回帰モデルを検討してみます。全く同じ世界が無限回生起してそれを周回するという世界観です。

無限循環する永劫回帰

これはさっきに比べるとかなり良くて、単一の特権者がプラットフォーマーとして君臨するのではないため、ゲーマーの中からゲームを作る者が現れるというイメージに合っています。また、誰かに動機付けられたわけでもなく自律的に動くイメージがゲーマーの運動とも適合します。

ただ残る問題点は「ゲームはもっと創造的な活動のはずだ」という一点です。ゲーマーには上昇志向があり、全く同じプレイを続けるのではなく、スキルアップの余地がある程度には新規性を必要とします。無限循環では同じステージを同じスキルでクリアできてしまうので、一周したらあとはもうスキルアップする余地がありません。

また、創造主モデルのように外部から動機付けられているわけではないにせよ、ゲーマーとは無関係にシステムが完全に固定されているのもやや気持ち悪いポイントです。この構造をフリーズした外部の超越者みたいなものの気配が感じられなくもないため、この構造ならば最終話は結局「こういう無限周回を仕組んだ人を撃破して抜け出す」という仏教的な輪廻解脱みたいな変則プラットフォーマーオチになってしまう気もします。

 

要件整理

棄却案を二つ見る中で世界のモデルに欲しい要件が浮かび上がってきたので一旦整理しましょう。

まずプラットフォーマーが合目的的に作るのではなく、ゲーマー自身が自律的に形成すること。単線的ではなく円環的なイメージではあるが、全く同じ繰り返しではなくゲーマーの成長余地を表現できるものです。誰に動機付けられてもいないという反外部・反形而上学的な性質を持ちながら、それでいて自発的に立ち上がる創造性を内包しているモデル

これらの要件を全部満たすのがオートポイエーシスシステムのモデルです。

 

オートポイエーシスとは何か

オートポイエーシスは50年前くらいに出来たマイナーなシステム理論ですが、まだ発展途上で統一的な説明が困難です。何しろ論者によって見解が違いすぎて、定義が固まっていないどころか適用領域が経験科学なのか哲学なのかもよくわかっていません。よって今回は必要な範囲でのみ必要な説明をして必要な性質を取り上げます。

補足452:この混乱模様は山下和也『オートポイエーシス論入門』(→)が先行理論の批判書として非常に詳しいです。オートポイエーシス論者三人(ヴァレラ、ルーマン河本英夫)の見解を比較検討した上で整合的な理解が可能な理論を改めて再構築しており、説明が平易かつ明瞭で理解しやすいです。今回の話もこの書籍の内容をベースにしていますが、それでも複雑すぎるためいま必要な話のレベルに合わせて適宜捨象しています。

 

反目的性・反機能・反観察者

オートポイエーシスは元々は生命を扱うために考案されたシステム理論の一つで、反目的・反機能・反観察者という特徴を持ちます。これらの特徴も全て生命の特徴を捉えるためのものなので、例として自動車を扱うときと生命を使うときの視点の違いを比べることで意味するところを理解してみましょう。

まず自動車は明らかに目的に応じて人が作ったもので、システムとして見るときも「これは走って移動するためのオブジェクトである」というように目的ベースでシステムを同定します。また、発火するエンジンや回転する車輪のような各要素も「走る」という機能に向かって統一的に理解されます。そして自動車の外部にいる観察者が「ここからここまでが自動車だ」という境界を定めており、窓一個でも車輪一個でもなくこの塊が自動車だという区切りは外部の視点から恣意的に決まります。

一方、生命は誰かがこのために作ったという目的が決まっているものではありません。特に決まった機能を持っているわけでもなく、外部から恣意的に境界を措定しなくても「ここからここまでが生命である」という自明な区切りは最初から存在しているように感じます。つまり、生命をシステムとして見る場合は、目的を決めなくても自ずから立ち上がるものとして同定でき、「このために存在している」という外的な機能ではなくせいぜい「このように動いている」という自律的な内部作動によって理解でき、更には観察者抜きでも自発的に境界を生成できることが望ましいです。

こうした反目的・反機能・反観察者という特徴を備えたシステムの描像がオートポイエーシスです。

補足453:今は対比がわかりやすいように自動車vs生命としていますが、これはシステムそのものというよりはシステムの見方の問題であるため、生命を自動車のように合目的的なシステムとして捉えることも可能です。実際、生命科学的には生命は繁殖する目的を持ち自己維持機能に向かっているシステムのように捉えることが多いですが、そういう近代科学的な生命像に抵抗があってもっと自律的で自発的なものとして生命システムを扱いたいときにオートポイエーシスが使えるということです。

 

オートポイエーシスの定義

自然科学的なシステムは物理量をベースにして記述しますが、オートポイエーシスシステムは産出概念をベースにして記述されます。より具体的には、産出概念は産出プロセスと産出物を一組にして表現されます。

オートポイエーシスを構築する産出概念

例えば化学実験においては産出プロセスとしての化学反応式によって産出物としての化合物が産出されることは直観的に理解できます。

このとき、化学反応式と化合物はお互いがお互いを動かし合う関係にあるのがポイントです。化合物=産出物が生まれるためにはそのための化学反応式=産出プロセスが必要なので、「産出物は産出プロセスによって産出される」という言い方をします。また、化学反応式=産出プロセスが作動するためには反応元の化合物=産出物が必要であることを指して、「産出プロセスは産出物によって基礎付けられる」という言い方をします。大抵の場合、産出プロセスは概念的なもので実体がないですが、産出物は何らかの実体があります。

産出プロセスと産出物はそれぞれがそれぞれを動かし合う関係にあるので、交互に連鎖して一列になることができます。化学実験で言うと、何かの反応でできた化合物がまた次の化学反応を起こして次の化合物を作って……みたいな反応が連続していくつか起こっていくということです。

補足454:注意点として、「産出」というのは単に物質的な発生だけではなく変形や影響を含めたかなり緩い意味です。「物質的な産出というよりは概念的な産出」と言った方が理解しやすいかもしれませんし、却ってわかりにくいかもしれません。

他の例を挙げると、会話コミュニケーションにおいては会話の機会が生じることでアイデアが産出されたり、人体においては各器官が何らかの活動をして物質的に隣接する器官に何らかの影響を及ぼしたり、自動車はエネルギー変換を行うことで車輪の回転を産出したりすることが産出プロセスと産出物の関係として挙げられます。

かなりこじつけっぽいところもありますが、この世にある大抵の活動はそのようにしてイメージで捉えることができ、一般にはネットワーク構造を取ります。このネットワークは大規模な化学実験における化合物の変化かもしれませんし、ミーティングにおけるブレインストーミングでのアイデアの連鎖かもしれません。

産出概念のネットワーク

図を見ればわかるように、産出プロセスと産出物が一対一対応している必要はありません。二つ以上の産出物が協働して一つの産出プロセスを基礎付けたり、一つの産出物が複数の産出プロセスを基礎付けることもあります。

このようなネットワークにおいて、連鎖が一周して産出プロセスが閉域を成したとき、その部分をオートポイエーシスシステムと呼びます。図の右側でぐるりと円環を描いている部分がオートポイエーシスシステムです。

補足455:正確にはオートポイエーシスシステムに含まれるのは産出プロセスのみで産出物は含まれませんが、今は「一周したらオートポイエーシスシステム」くらいの理解で良いです。

オートポイエーシスの定義

一方、左側にある四角形で囲まれた領域は対比のために示したオートポイエーシスでないシステムです。これは観察者が目的に応じて2入力1出力の機能として一部を恣意的に切り取ってできるシステムです。

この左右のシステムを比較すると、オートポイエーシスシステムは当初生命システムを理解するために欲しかった色々な要件を満たしていることがわかります。

まず、オートポイエーシスの定義を作るのは「一周している」というトポロジカルな条件のみであるため、システムの目的を定めなくても自動的に同定できます。そしてシステムは何らかの機能のために設定されるわけではなく、一周する産出プロセスが今現に作動していることによって理解されます。しかも「ここがシステムである」という境界を観察者が恣意的に切り取らなくても、幾何学的な構造のみから判断できるため、観察者無しで自ずから成立することができます。

総じて、このように立ち上がるオートポイエーシスシステムは反目的・反機能・反観察者という要件を全て備えていることがわかります。

 

オートポイエーシスの特徴

いま定義したシステムの特徴をもう少し掘り下げてみます。

  1. 反目的・反機能・反観察者
    さっき説明した通りですが、本質的には形而上学的な外部を排除して作動するシステムであるということです。現にこのように産出連鎖が作動しているという事実だけで十分なのでそれ以上の原因を想定する必要がありません。

  2. 作動し続けることによってのみ存在できる
    オートポイエーシスシステムは外部にいる誰かが「これがシステムだ」と決めてくれているわけではなく、一周しているという作動にのみ存在の根拠を持っています。よってシステムが存在し続けるためには産出の連鎖が常に動き続けている必要があり、システムが止まったらそのまま消滅してしまいます。
    なお、生命システムとしては作動が終わって消滅した状態は死に対応しています。オートポイエーシスシステムの存在可否は円環が成立しているかしていないかのどちらかのみであり、「少し存在している」というような中間状態を持ちません。

  3. システムを構成する入出力・産出プロセス・産出物は任意に変更可能である
    オートポイエーシスシステムの定義は「周回が動き続けている」というトポロジカルなものでしかないため、円環を構成する具体的な要素は動いてる途中でどんどん差し替えることができます。産出の周回が成立し続ける限りにおいて入力や出力が増減しても良いし、産出物や産出プロセスを別のものに変えても問題ありません。
    これは生命システムとしては成長や変態に対応します。自己同一性を保ったままで人間が相似的に成長したり、昆虫が全く別の姿に変態したりするのはこの性質によって理解できます。
    補足456:入出力については「オートポイエーシスシステムには入力も出力もない」と表現されることが多いですが、「オートポイエーシスは入力も出力も根拠としていない」と言った方がわかりやすい気はします。わざわざ「入力も出力もない」と表現するのはオートポイエーシスでないシステムが入出力を備えたモジュールのように捉えられることと対比したものですが、オートポイエーシスにも常識的に見ていわゆる入出力に相当する要素自体は存在するように思います。
     
  4. 構成要素は最低でも二つ必要
    ネットワークがオートポイエーシスシステムの定義である円環状の閉域を成すためには、最低でも行って帰るための要素が二つずつ必要です。つまり、最小構成のオートポイエーシスシステムは産出物と産出プロセスが二つずつあって行って帰る形になります。
    補足457:「産出物と産出プロセスが一つずつしかない場合でも円環状の閉域は構成可能ではないか」、すなわち「ある産出物が直接的に自分自身を産出するような産出プロセスを基礎付けることは可能ではないか」という指摘があり得ます。論理的には不可能ではありませんが、ただ単独で存在しているだけの要素を「自律的に立ち上がるシステム」と見做す旨味は薄いので、ここでは最小構成要素を二つとしています(一般的なシステムでも入力と出力が完全に一致する自明なシステムを考える旨味が薄いのと同じ)。

 

オートポイエーシスとゲーマー

オートポイエーシスの基礎を説明し終わったので、そろそろゲーマーの話に戻ります。

まず産出概念を「世界創造」に適用し、産出プロセスを「創造」、産出物を「世界」と見做します。世界は創造行為によって産出されることは明らかであり、創造行為は世界内に存在する誰かが遂行するため世界が創造を基礎付けられます。

こうすることで世界の創造関係は産出構造のネットワークとして表現でき、創造が閉域を成した場合は定義によってその領域において世界群のオートポイエーシスシステムが成立します。

こうして現れる世界構造のオートポイエーシスシステムはゲーマーの哲学と完全に符合する性質を持ちます。さっき検討した諸性質をゲーマーと比較してみましょう。

  1. 反目的・反機能・反観察者
    自己目的化を完了したゲーマーは外部にある目的やプラットフォームに動機付けられることなく自律的に活動します。反形而上学的な性質はゲーマー自身が自ずから立ち上げるシステムに適合し、ゲーム文化全体は特権的な開発者によって駆動しているわけではないというイメージも合致します。

  2. 作動し続けることによってのみ存在できる
    自己目的化を完了したゲーマーは特に何を目指すこともなく自発的に走り続けることができますが、逆に言えばその意志を失ったときがゲーマーの終わりです。もっと卑近な言葉で言えば、ゲーマーはゲームをプレイし続けることによってのみゲーマーでいることができ、観客や実況視聴者などプレイしないポジションに移った瞬間に少なくともゲーマーではなくなります。

  3. システムを構成する入出力・産出プロセス・産出物は任意に変更可能である
    この性質によって永劫回帰モデルとは違ってゲームの創造性が表現できるようになります。各世界の具体的な内実はゲーマーの作動に伴っていくらでも変更可能で、常に新しいゲームが提供される世界観が構築できます。
     
  4. 構成要素は最低でも二つ必要
    ゲーマーが成長していくためにはゲーム内で相手を超えるような実践的な運動が常に必要であり、そのサイクルの最小人数は二人です。つまりゲーマーが最低二人いればお互いに相手を超克する意志によって成長し続けるゲーマーのサイクルが成立することと対応します。
    ただしその好敵手は誰でも良いわけではありません。ゲーム戦略を進化させるには仮想敵の深い理解が必須ですから、常にお互いにお互いを一つの世界として正確に創造し、更にその上を行く意志を持つような濃密な敵対関係である必要があります。

 

作中において

結局、作中におけるオートポイエーシスENDとは「プラットフォーム不在でも創造性溢れる円環を二人で自律してずっと走り続ける」という百合ハッピーエンドです。

最終話では彼方と神威はそれまでいた円環を破棄して、自分たちでまた新しく小さなオートポイエーシスシステムを作り出しています。

HAPPY END

元々本編で通ってきたゲーム世界群も一つのオートポイエーシスシステムであり、それ自体も創造性を表現できる円環ではあります。ただしシステムの肥大化に伴って各要素の変化が円環の中で分散して新規性がほとんど吸収されてしまうという劣化が起こっていたので、彼方と神威でもっと小規模で不安定なシステムを新しく再構築してそこでゲーマーをやることがソリューションになります。

そのためには互いに互いを創造できるほど濃密な相互理解が必要になるのですが、無数の世界を戦ってくる中で相手のことを深く理解していたので問題なくクリアできました。終盤で一気に距離が縮まっている百合要素にはそういうゲーマー的な理由があります。

 

Ⅲ. 可能世界論について

ここでは作中で頻出する可能世界のイメージを支える哲学的な基礎について説明しますが、まず最初にはっきり言っておきたいのは「これはそれほど重要な話ではない」ということです。

なまじ小難しい話になるので気合を入れて考えた重要な部分であるような気がするかもしれませんが、それは全く気のせいです。好きな趣味のモチーフを使うのは楽だから借用しているだけです。メインコンセプトの「ゲーマーの哲学」にはそれほど深くかかわらないしウェイトも軽い、あくまでもエンタメ要素です。

補足458:喩えるなら「『テラフォーマーズ』における昆虫図鑑」くらいの温度感です。『テラフォーマーズ』は主人公たちが昆虫改造手術によって特殊能力を得てバトルする漫画なのでいちいち昆虫の生態を詳しく解説しますが、それは能力バトルの味付けくらいの意味しかなく、『テラフォーマーズ』の本質的なテーマとは全然関係ないしそんなに真面目に読まなくてもいいのと同じです。

また、『テラフォーマーズ』の昆虫図鑑と同様、今からする可能世界論は『ゲーマゲ』の設定の話というよりはリアルな世界観の話です。『ゲーマゲ』という小説があろうがなかろうが僕は概ねこのような世界観が正しいかもしれないと思いながら暮らしています。

補足459:個人的に可能世界論が好きでかなりよく擦っているし、今回はさわりだけ簡単に書くので、既視感のある人は適当に読み飛ばしていいです。

可能世界とはいわゆるパラレルワールド、ここではない別のどこかの世界のことです。哲学的なツールとしては使い道がいくつかあり、例えば以下の三つが挙げられます。

  1. 様相の表現としての可能世界
  2. 命題の集合としての可能世界
  3. 虚構の創作としての可能世界

この辺を適当にチャンポンしてゲーマゲの世界観ができており、それぞれどういうことかを軽く説明します。

 

1. 様相の表現としての可能世界

まず様相というのは「事物の判断の仕方」、判断をどのくらい確かと思うかのことです。

例えば「雨が降りそう」とか「人は必ず死ぬ」みたいな言い方は、単に「雨が降る」とか「人は死ぬ」と違って話し手の判断が含まれているので様相的な判断と言えます。もうちょっと堅い言い方をすると、可能性とか必然性の表現です。

そしてかなり直観的なイメージとして、日常的に使う様相は可能世界を使って表現することができます。

例えば「もしかしたら遅れるかもしれない」という様相的な判断は「周辺の可能世界のいくつかでは遅刻していた」とイコールです。つまり「遅れるかもしれない」という予測は、「道を一本間違えた」とか「電車一本間違えた」とか何かを少しミスした近くのパラレルワールドのいくつかでは実際に遅刻しているのだろうな……という別世界の想像によって代替することができます。

必然性についても同じことが言え、「絶対に遅れるに違いない」という予測はちょっと急いだり走ったりして何かが少しずれた近くのパラレルワールドでも遅刻は避けられなかっただろうな……という別世界の想像で置き換えられます。

様相的判断の可能世界による表現

こういう描像はちょっとオシャレでSFチックなイメージであるだけではなく、哲学的なメリットとしては「可能世界を用いることで複雑な様相を分析できるようになる」ということがあります。

様相は日常的によく使われますが、複雑な構文を分析するのはけっこう難しいことがよく知られています。例えば様相が三つ重なった「雨が降るかもしれないことが必然的かもしれないことは必然的だ」という文章の意味が正確に取れる人はなかなかいません。しかし、文法として有効である以上はきちんと分析したい需要があります。

そういうときも上のような世界群のイラストを描いて表現してみると、複雑な様相文が示している状態が具体的に可視化できるようになります。そうやって描いたイラストに対して近くのパラレルワールドがどうなってるのかを調べると、複雑な様相文が結局何を言ってるかがちゃんとわかることになります。

補足460:この説明はかなり端折っており、本当は「周辺の世界」は到達関係を用いて定義するため実際にちゃんと議論するのはけっこう面倒です。今日のところは「こういう見方はSF的に楽しいだけではなく論理的にも良いことが色々ある」ということだけわかってもらえればOKです。

 

作中において

神威の『汎将(様相転移:モダリティシフト)』は様相的可能世界に転移する能力です。相手が「負けているかもしれない」ときは周辺の世界のいくつかでは実際に負けているので、そこに転移することで相手を負かしたり(VAIS戦)、転移を繰り返すことでどこまでも世界を渡っていくことができます(彼方の追跡)。

ただし彼方は神威のような勝敗の見方には反対しており、「勝ちは勝ちだし負けは負けでしかない」として他の可能性が実在していることを認めないのでよく喧嘩になっています(ただしそれは「ゲーマーの哲学」というメインコンセプトに比べれば割と些末な見解の相違ではあります)。

ちなみに本当に様相的可能世界が実在するかどうかは哲学的にも論争の種ですが、概ね彼方の方が普通で神威の方が異端です。つまり可能世界は分析の道具としては便利だけど実在はしないと考える方が一般的です。

 

2. 命題の集合としての可能世界

ある世界における事象は全て真なる命題として表すことができ、その世界は命題の集合と同一視できます。例えば現実世界を構成する命題には「太陽は燃えている」「バナナは黄色い」「人間の寿命は最大で百歳を超える」などがあります(他にも無数にあります)。

補足461:「命題」を厳密に定義するのは実はかなり難しいですが、今は「真偽が決まるようなもの」くらいの理解でOKです。

ただし命題はそのままでは形式的なテーゼでしかないため、実際に世界の在りようと対応しているかチェックする作業は必要になります。一番素朴なチェックのやり方としては、「命題の主語になっているもの」を実際に確認して「命題の述語が実態とあっているかどうか」を調べるという手続きが考えられます。例えば「太陽は燃えている」という命題の真偽を知りたいなら、実際に太陽を調べて、燃えているなら現実世界において正しい命題としてよいことになります。

こういう見方をすると、現実世界以外の可能世界の内実も命題の集合で表現できるため、変えたい部分をちゃっと書き換えるだけで可能世界の内実が得られるのがかなり便利です。例えば太陽が凍っている以外は現実と同じ可能世界を作りたければ、現実世界を構成する命題の集合から「太陽は燃えている」を削除して「太陽は凍っている」を追加すればフリージング・サンのSF世界が得られます。

こういう見方は直観的でかなりわかりやすいですが、本当はクリアすべき課題が色々あって、例えば「非存在命題の扱い」という問題が古典的によく知られています。

「河童は存在しない」という命題はこの現実世界において明らかに正しいですが、「太陽は燃えている」という命題を調べたときのように、河童を調べて「存在するかどうか」を確かめる方法は取れません。何故なら調査対象としての河童はこの現実世界に存在しないからです。つまり調査が行えないのに、何故か存在しない河童に関する命題が真として成立してしまうという意味のわからない事態になってきます。

これはかなり古典的な問題なので解決策はいくつも考えられていて、例えば「存在する・しない」という術語だけは扱いを例外にするとか、河童という生き物それ自体ではなく「河童という伝承」のようにカッコつきの存在についての命題ということにするとか、実は「河童は存在しない」は偽であるとみなすとか、やりようは色々あります。

 

作中において

此岸の『世界便(命題切片:プロポジションセグメント)』は世界の内実を命題の集合とみなし、その一部を任意に書き換える能力です。あらゆる事象を操作できる神に等しい能力なので信仰対象になっていることも多いですが、所詮は単一世界に対するものでしかないため貫存在に対してはそれほど影響しません。

ときどき此岸が「『世界便』で移動するのは面倒くさい」みたいなことを言っているのは存在命題の問題を受けています。此岸は自分自身の存在命題を発行することで世界間を移動しているのですが、ただでさえ面倒な存在命題に加え、論理学的に鬼門とされている自己言及まで絡んできて厳密にやるのがめちゃめちゃ怠いです。よって自分の能力ではなくVAISの次元鉄道に乗ったり鍵を借りたりして移動している……という裏設定があります。

 

3. 虚構の創作としての可能世界

物語の舞台である虚構世界は、現実世界と同じようにどこかに実在する可能世界と考えることができます。アニメの世界とか漫画の世界もどこかに実在しているという発想は直観的にもわかりやすいと思います(夢がある!)。

虚構世界の実在を認めた場合、虚構世界は現実世界の外部に同じタイプの存在者として構成され、「現実世界から虚構世界を創造なり発見なりはできるが実際の移動はできない」ということになります。なお対比のために逆に虚構世界の実在を認めない立場について考えてみると、こちらでは虚構世界は本当にあるものではなく、現実世界の内側で紙やメモリに書かれたテキストなりグラフィックのような、現実世界とは違うタイプの存在者ということになります。

虚構世界の実在を認めるメリットは娯楽消費における直観に合いやすいことで、典型的な例として「空白の充填」と言われる現象があります。

我々が普通に小説を読むとき、描写されていない空白部分は勝手に適宜補って読み進めるやり方が一般的です。例えばキャラが自動車に乗ったときにその色とか車種はいちいち書かれるとは限らないですが、我々はそういう空白部分を無と思って読んでるわけではなく、勝手に白とかスバルとかを適当に補完して一つの世界を構成しながら読みます。それは明らかに一つの整合的な世界を構成する見方であり、読書体験としては虚構世界を構成していると考える方が直観に合います。

 

作中において

彼方の『終末器(現実指標:リアルインデックス)』は現実世界から虚構世界を創造するのではなく、虚構世界から現実世界を逆創造する能力です。今いる世界を強制的に虚構世界だったことにして滅ぼし、それを作った上位の現実世界を創造した上でそちらに転移します。

主人公の能力がやたら難解で最近のジョジョのスタンドみたいになっているのですが、やっていることは「現実とゲームを区別しない強制エスケープキー」です。「どんな世界でも勝手にゲーム扱いにして電源を切る」というだけの能力が妙に難解になっている自覚があります。

 

宇宙の全体イメージ

ここまでの話をまとめると、宇宙の全体イメージはだいたいこんな感じになります。

世界群の構造

一つ一つの丸が世界で、その内実は命題リストで表現されます。そしてそれらが様相を定義する可能世界として近距離で固まることで島を作り、その島が様相を備えた一つの現実や虚構を表現します。また、島ごとに創造と被造の関係が結ばれています。

 

作中において

比較的わかりにくいと思われる灰火と趙の能力についてのみ補足します。

灰火と趙の能力

灰火の『蛆刺し(本質寄生:エッセンスパラサイト)』は対象の本質を書き換える能力です。

「本質」は哲学用語で「ある個体が持つ性質のうち、どの可能世界にもよらず不変である必然的な性質」を指します。どんな性質が本質なのかは明確に決まるわけではありませんが、例えばある人が自分は男性であることは必然的でどの可能世界でも自分を男だと思っているのであれば、その人の本質には男性であることが含まれるのかもしれません。

灰火の能力は単なる寄生ではなく本質に寄生するため、この世界だけではなくどの世界でも寄生していることになります。よって宿主の彼方がどの世界で何をしても絶対に分離できず、灰火自身も他人の本質に便乗することで世界を転移します。

趙の『黄泉比良坂(空集合近傍:ファイセットニーバー)』は死の国の縁を渡る能力です。

「どの世界でも生物は死にうる」という様相的判断に対して可能世界的な表現を適用すると「死の国はどの世界の周辺にもある=死の国はどの世界にも隣接している」ということになります。

趙は死の国を経由することでどの世界間でも常に一手で移動でき、また、死の国は何者も存在できず命題の空集合であるため、虹のポータルの向こう=死の国は常に黒く塗り潰されています。

 

付録 i. 前作『すめうじ』との関係について

『ゲーマゲ』は特に企画立ち上げ部分において前作『皇白花には蛆が憑いている(すめうじ)』と意識的に内容を対にしているのでそれについて補足します。

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まず『ゲーマゲ』を考え始めた時点で「とにかく全体的に前作と反対にしたい」という強い気持ちがありました。似たような主人公で似たような話を書いても経験値が溜まらないため、いっそ真逆になるくらい違う話を書きたかったということです。

『すめうじ』は多様性をテーマにしていたため、『ゲーマゲ』は主人公のワンイシューものにしています。全章が徹底して彼方の話であり、他のキャラクターから見た世界を全く描いていないのはそのためです。彼方の視点から離れた瞬間に世界観に矛盾が生じるのも意図的なもので、そういう他者的な整合性はゲーマーとは縁がないということは彼方も作中で言及しています。

また、主人公の性格も『すめうじ』の白花と『ゲーマゲ』の彼方で真逆にひっくり返しています。

逆の性格
  • 自分自身の認識:白花は自我が最弱で軟体動物のような性格だったので、彼方は逆に自我を最強にして絶対に止まらないブルドーザーのような性格にする
  • 他人に対するスタンス:白花は異様に寛容で敵でも友達になれたので、彼方は逆に友達でも敵と見做すほど狭量にする
  • 身体の在り方:白花は殺しても死なない柔軟性を持っていたので、彼方は殺さなくても死ぬ融通の利かなさを与える
  • 社会に対するスタンス:白花は厭世的で社会から距離を置いていたので、彼方は逆に異常に接近して社会を破壊していくような好戦的な態度を取る
  • 人格:白花は好かれやすく女性的で姉で成人済みで悟っているように達観しているところがあったので、彼方は逆に嫌われやすく男性的で妹で未成年という幼くエネルギッシュなイメージにする

主人公のキャラ造形の方向性は表紙ラフ案の選択を見るとわかりやすいです。

表紙ラフ案

発注時に三案頂いた表紙ラフ案のうちで最終的にC案が採用されたのですが、それぞれのキャラ造形との比較検討は以下の通りです。

  • A案:自殺のイメージを首吊りで表現しているが、パッと見たときの被害者感が強く、「このヒロインを救出する話」のように見えてしまいキャライメージに合わないため没
  • B案:自殺のイメージを飛び降りで表現しているが、こちらに向けて身体を広げてスタンスを取っているためにヒロイン感が強く、「このヒロインと一緒に旅に出る話」のように見えてしまいキャラのイメージに合わないため没
  • C案:自殺のイメ―ジを自身の殺害で表現しており、正面から敵対して見下しているのがキャラのイメージに合っていてGOOD

 

付録 ii. キャラ大反省会

キャラクター小説なのでキャラごとの大反省会をします。

なんか今までキャラの意図とか思い入れって「くぅ~疲れましたw」コピペくらいどうでもいい自己満足だからあまり表に出したくないと思っていたのですが、キャラが好きと言ってくれる人も多いし、キャラクター小説をやる以上は逃げてはいけないと思うようになったのでちゃんと書きます。照れ隠しで衒学的な話ばかりをしていてはいけません。

読者アンケートキャラ人気は以下の通りです(ご回答ありがとうございました)。人気順に感想を引用しつつ思うところを書きます。

読者アンケート結果(好きor嫌いキャラを3位まで聞いて加重集計)

ちなみにエピソードについても自由記述形式でアンケートを取ったのですが、人気が高いものはジュリエット戦、立夏の離脱、VAISの過去編あたりでした。賛否両論が激しいのは魔法学院編で、あまり捻じ曲がっていない生徒たちによるワチャワチャした集団戦はエンタメ性が高いという評価がある一方、彼方がのびのびと無双していてなろう系感が最も強いエピソードなのが不愉快であるという声もあります。

 

VAIS

・師匠キャラが好きだから、ビジュアルが好きだから

・生い立ちのエピソードがとても良かったです

・ビジュアルがいい 能力がカッコいい 話し方が面白い エピソードによりキャラが立っている

・やることがド派手で強烈。退場シーンも唐突で強烈。必要な時に必要なだけ仕事をして去っていった良いキャラ。

師匠です。好きなキャラに挙げる人が満遍なく多い上にネガティブ票も少なく、2位以降に大きく差を付けて最人気に君臨しています。

こんなに人気があるのは予想外でした(VAISに限ったことでもなく、僕の人気予測と実際の読者人気は基本的に全然一致しません)。だいたい彼方と同じ思想ですし同じようなムーブをしているはずですが、邪悪な側面がそれほど強調されず要所要所で主人公を導くポジションで登場したのが良かったのかもしれません。実際、VAISは初登場時の時点で彼方が物語全体を通して取り組むことになる問題を全て看破してアドバイスまで済ませていたのはもう書いた通りで、かなり良い師匠です。

また、彼方を差し置いて一人だけオリジンエピソードが描かれたことも大きく人気に貢献していました。彼方に「こういう背景があってゲームが好き」という説明を付けてしまうと「無目的にゲームが好き」というゲーマー像に反するためにバックグラウンドを持たせられなかったので、それを代わりにVAISにやってもらったという事情があります。師匠キャラとバックグラウンド掘り下げの強力さを実感しています。

 

神威

・凛とした感じのツインテール巫女って可愛い

・武器がそのままパーソナリティーに結び付いており、大変かっこいいため。

・思想への納得度が高い。自分と宗派が近い。

・彼方の敵対者に見えて彼方の鏡でしか無い

真ヒロインです。一番好きなキャラに挙げられることが最も多いキャラで、ヒロインらしくかなり好かれています。

固有武装の『汎将』がかなり人気なのと、再登場にインパクトがあった点やボス兼ヒロインとして色々な側面を見せた点などが評価されていました。個人的には彼方と堅物な性格が似通っているのは少し気になっているので、もっと序盤から萌えキャラっぽい挙動があっても良かったかもしれません(彼方に片思いしているとか)。

一応、本質的には彼方と同じくらい邪悪な戦闘民族のゲーマーではあるつもりでした。彼方が嫌いな人のうち、神威も同類であることを看破してネガティブ票を入れている人も少数いました(造形意図としては正しい)。

というのも、「重要なのは常に可能性の多寡です」と神威自身が何度も主張している通り、神威は「世界Aで+200人で世界Bで-100人なら総合収支で+100人だからOK」という計算が出来てしまうタイプの計量主義者だからです。その判断は世界Bの住人からすると堪ったものではありません。世界をいくつもまとめて大局的に捉えることができ、個々の世界への慈しみを欠いている点で彼方と同根の邪悪さを備えています。

全体の動きとしては「当初は正義キャラかと思ったら実は同じ穴の狢」という流れで描写していました。KSD編でボスとして登場したときはまだ世界のスケール感がよくわかっていないために個々の生命を尊重する人道的な発言を見せていたのですが、再登場する頃には無数の世界を渡って世界が膨大な数量存在していることがわかってしまったので、「世界を無限個破壊する彼方を止めることが出来るなら、数百個くらい滅ぼすことは問題が無い」と考えるようになっています。1999年東京戦では戦闘に巻き込んで普通に悪食で盛大に世界を滅ぼしているのはそのためです。

 

ジュリエット

・塵を飛ばして目つぶしとか無茶苦茶な戦い方がよかった。ぜひ映像で見たい

・抵抗者だから

・キャラとしては好きですが前作で強かったキャラがそのまま今作の最強なのは少し寂しいと感じました

最強バトルメイドです。神威と同列の二位で、かなり良いとこどりまくりの立ち回りをしていたので妥当な位置だと思います。

近接戦闘においては彼方やVAISを超える明確な作中最強キャラとして設定しており、それによって「『ゲーマゲ』におけるゲームとは単に生死を巡る殺し合いではない(殺し合いでは最強のジュリエットを殺す以外の方法でクリアできる)」ことを示す役割を担っています。

殺し屋のアナログ戦闘というバトルスタイルもいい感じにゲーマーのデジタル戦闘と対になってくれており、ジュリエット戦は特に高い人気があります。彼方に施した死に際の拷問(右目の封印)が後々まで尾を引いてそのせいで神威に殺されかけたり、彼方に明確な有効打を与えたほとんど唯一の敵として死後も存在感を放っています。

前作人気キャラだったので格が落ちないようにかなり慎重に扱っており、「彼方が頑なに負けを認めないだけで客観的に見たらジュリエットの勝ちじゃね?」という感じは意図したものです。ジュリエットは大物感を保ったまま死んでくれてよかったですが、その分だけ彼方の人気が思った以上に割を食ったという説もあります。

 

立夏

・かわいい。どこまでも合理的に動くのに、根っこのところが植物愛という不条理であるがゆえに、永久に理解できない存在なのが切なくて好き。

・このキャラクターとの会話においては主役がかなり人間臭くなるというか、ちょっと切ない感じがしてよかったです。

・あは、という口癖が気に入ったので。

仮ヒロインで、もともと「親しくない相方」が欲しいと思って造形したキャラです。

彼方は自我と思想が強すぎて一人にすると何でも淡々と独力でこなして誰とも会話せずノータイムで動く超つまらないキャラになってしまうので、「彼方は絶対に一人にしない」ということは最初から決めていました。道中で話し相手になって彼方に茶々を入れるような相方枠が必須です。

ただし相方を彼方の同調者にしてしまうと彼方の邪悪さが目立たなくなってしまうという問題があります。例えば相方が彼方のムーブに同意して称賛してくれるようなキャラだと、彼方の邪悪さが相方の承認由来になってゲーマー由来であることが見えにくくなってしまいます(真の問題がゲーマー精神ではなく相方との共依存関係にあるように見えてしまう可能性が高い)。

とはいえ最初から敵対的なキャラが相方というのも不自然なので、落としどころとして「徹底的に無関心なキャラ」になりました。立夏の離脱シーンはエピソード別でも人気が高く、上手く意図通りに動いてくれたと思います。

 

白花

・前作キャラが出てくると解釈の負担が薄まって安心感がある。

・共感できる。わりに誰の精神にでもある一側面を強調したやつ。

前作主人公です。前回は大卒ニートでしたが今回は女子高生です。

彼方のやや入り組んだ自殺へのスタンスを説明するために最初に出てきてもらいました。特に思想がなくても適当に死ぬ白花に対し、強い信条を持って確信して死ぬ彼方という対比があります。ちなみにゲーマーをやっている世界では蛆絡みの能力は特に持っていません。

 

ツグミ・ツバメ

・かわいい

・最初のエピソードが面白い。

・この作品で比較的目にした割には、思想も力もザコめな印象

「凡人の到達点」みたいなコンセプトのキャラで、ビジュアルが尖ったところのない凡庸な美少女なのも意図通りです。ツグミの方が主人公寄り、ツバメの方がヒロイン寄りなイメージで、そのせいかツグミの方が若干人気です。

一応は腕の立つゲーマーなので一般人ではなく戦闘要員ではあるものの、どの世界でも普通に頑張って普通に能力不足で普通に殺されるような立ち位置です。彼方にとってもあまり眼中になく流れでついでに葬る感じで、ラスボスになっていることは稀です。

 

ローチカ

・創造主的なの印象(登場時)

『すめうじ』のサークロという博士キャラでキャラ造形をめちゃめちゃ失敗したのでそのリベンジとして再び博士キャラを作りました。名前が似ているのはそのせいです。

サークロは博識で落ち着いていて何でも教えてくれるキャラとして作ったのですが、そのせいで設定をバーッと喋るだけの便利解説マシーンみたいな立ち回りになってしまって、三角コーナーみたいなキャラを作ってしまった~とずっと後悔していました。

その反省を活かしてローチカは性格にヤンキー要素を足してかなり感情的な言動をさせるようにしました。自分がやっている研究に対しても葛藤を抱えていてネガティブな本心を吐露したりともっと人間的なキャラになるようにして、僕は上手くリベンジできたと思っています。

 

レイ・ニース・パリラ

・彼方に対する無邪気な生徒としての振る舞いが好きです。

魔法学院編は生徒たちとの団体戦なので生徒側に人数が必要でした。しかし個別にキャラをたくさん出すと読者に認知負荷がかかるし、そこまで大量に紙面を割いて綿密に描写したい枠でもないので、チャンク化してまとめて処理できる三姉妹にしました。まとめて出てきてまとめて殺されるので読むのが楽です。

 

灰火

・捉えどころのなさが良い。

・過去作ファンサで適当に出して適当に便利キャラとして消費するだけじゃなく、ちゃんと物語を動かすキャラなのが嬉しかった。

・だるがらみ感

前作主人公で、すめうじの白花と黒華が融合した存在です。

白花の『蛆憑き(自我を拡散する能力)』と黒華の『蚊柱(傷病を感染させる能力)』がくっ付いた結果、『蛆刺し(自我を感染させる能力)』を発現しています。性格的にも白花の根暗ダウナー感と黒華の根明アッパー感が混ざった結果、テンション低い癖にぐいぐいダル絡みしてきたり、やる気ない割にときどき異様な戦力を発揮したりする躁鬱病みたいな人格になっています。

エルフ編で立夏が離脱したあとも彼方は一人にしたくないので相方枠を新しく補充する必要があり、寄生能力持ってるし都合が良いということで白羽の矢が立ちました。その後も薄暗い立ち回りで裏から話を回してくれてありがたかったです。そこまで自我が強くないキャラなので、彼方を食わずに程々に水を差してくれるのが便利でした。

 

レンラーラ

ブルアカのウイとかミユとか、ポケモンのオカルトマニアみたいなド陰キャラが最近流行ってるので出そうと思ったやつです。

なんか口下手で根暗でモヤモヤしてるけど別に性格悪いわけではなくて、むしろ良い寄りだけどとにかく自信がないみたいなやつです。ただ主張が弱いだけで結局それなりに強い意志は持っていたし、この人のキャラは最後までちょっとよくわかりませんでした。

 

麗華

ロリコン女キャラが個人的に目新しかったところ、自覚的に子供向けの魔法少女として振る舞う割りきりの良さ、ビジュアルの3点です。

・気持ち悪いレベルの濃ゆい設定つけられてる可愛い女だったからとても好き(可愛いとヤバいを組み合わせた女が好きなので)

・出番少ないけど主役みたいな雰囲気ある

・キャラの上っ面はすごく好きだが、詳細が不明すぎて困惑はしている。魔法少女文脈とかを知っていれば理解できるのか?

過去主人公の灰火→現在主人公の彼方→未来主人公の麗華みたいなコンセプトで「未知の主人公格」として出したキャラです。

言動のインパクトとビジュアルで人気はぼちぼちあるのですが、最終盤に出てきて断片的にしか紹介されなかったという立ち位置の都合で「よくわからなかった」とネガティブに挙げる人もいて打ち消されている感じです。

これがマジで正しくて、今回は特に本筋とは関係ない狂人が主人公だったために背後にある麗華と芽愛のストーリーがほとんど開示されていません。小児性愛者になってしまった悲恋の経緯とか魔法少女時代の能力とかも全部決まっていますが、今回は麗華の話ではないので秘密です。

元々10年前くらいに書いたラノベから流用されてきたキャラで、実際に主人公でした。

ただその話を書いたときはまだ若く「女の子の主人公はどこにでもいる普通の女の子がいい」という勘違いをしていたためにもっと地味なキャラでした。今は「主人公は虫食ったり猫殺したりしないと駄目だな」と学んだため、元々の設定と反しない範囲での異常性として小児性愛キャラが急遽足されました。名前の読みも当初は普通にレイカだったのですが、ありきたりすぎて属性負けするのでウルカに変更しました。

 

桜井

頼れるマネージャーです。登場シーンこそ少ないですが、彼方の戦闘の技術部分を支えていた影の立役者としてちょくちょく言及されています。

ジュリエットと同一人物(コスプレイヤーをやっていない世界線のジュリエット)という裏設定があり、「却って無個性なほどの美人」「美少女好き」「サブカルオタク」「肝が据わっている」「ミリタリや戦闘への造詣が深い」というような属性がジュリエットと桜井で被っているのは意図的なものです(ジュリエットが最期に自分が別の誰かであることを匂わせているのもこのため)。

ただ別に本編と何も関与しないのでこの設定あってもなくてもいいな~と思っているところです。

 

体制側のキャラです。貴重な常識人枠でもある予定だったのですが、基幹世界もエルフ世界も世界そのものの倫理観が若干狂っており、樹はその世界における倫理観を正しく内面化する人間であるため、世界における平均的な異常者みたいになってしまってそれほど常識を提供してくれませんでした。

書いているときに「ボスに敬語キャラ多すぎ問題(神威、イツキ、ジュリエット、レンラーラが全員敬語)」に気付いてタメ口になっていた時期があったのですが、やはり体制側のキャラが敬語を使わないのが不自然なことと、「社会性に乏しく誰にでもタメ口を利くカスのゲーマーvsきちんと敬語を使う敵キャラ」という構図はわかりやすいので敬語のままになりました。

 

・お金にがめついしお金出せばチョロそうで可愛いと思ってたらお金観をちゃんと持っててしかもかっこいい考え方だから良いなと思いました

・話し方が癪に障る

数少ないネアカ属性の人です。理知的で堅いキャラが多いので一人くらいはエンターテイナーとして軽々と動けるキャラが欲しいと思って投入されました。徹底して彼方と戦わず、本線とは少しズレた場所で話を賑やかす役割を担っています。金の亡者故にいつでも買収されてまともに戦わないムーブはそのあたりを反映しています。

「趙って死んだ?」と聞かれたのですが、神威が再登場したあたりで離脱しただけで最後まで生存しています。

 

芽愛

麗華のカップリングキャラです。

芽愛も麗華と同様に既にヒロインとして活躍するストーリーが存在しているので、時絡みの能力を持っていたり裏稼業の知り合いが多かったりと背景には色々あるのですが、今回は彼方の話なのでちょっとした戦力を持つ真面目系不良娘くらいの感じでした。ちなみに『すめうじ』にも魔神機は一瞬出ています。

 

此岸

・世界便が彼方をカスのままにした

・姉キャラなのに影が薄い

・貫存在の姉妹という貴重な設定なのにふわっと消費された感じがする。「世界便」以外の役割も持たせてあげてほしかった。

主人公姉妹が揃って大差で不人気です。

敵が多い彼方にとってはとても貴重な全肯定味方キャラですが、それはすなわち彼方が邪悪なら此岸も邪悪ということです。此岸は彼方の虐殺の片棒を力強く担いでおり、表面的には気の良い関西人みたいな顔をしておきながら倫理観は彼方と同じかそれ以上に緩いことが嫌われた格好です。

彼方が妹であることと姉キャラをどこかで出すことは確定していたのですが、序盤から彼方に妹っぽい印象が付いてしまうとキャライメージが壊れるのでだいぶ遅れて登場しました。それでも最初に姿くらいは見せておきたいので寝てるか死んでるか狂ってるか捕まってるかあたりの択だったのですが、立夏の義眼花と合わせて植物人間と人間植物って綺麗だよねくらいの理由で昏睡していることになりました。もうちょっと早い段階で出てきて軽いアドバイスくらいしても良かったかもですね。

ちなみに名前は主人公を「彼方」に決めたあと適当に対っぽいものにしたのですが、「病気で昏睡してる人ってどちらかと言うと此岸じゃなくて彼岸じゃね?」というツッコミが入って確かにそうだなと思いました。

 

彼方

・可能な自己の在り方(人生哲学)を賭ける瞬間が物語内にある。ビルドゥングスロマンをやってる。

・結局彼方さんほどガチることができなかったが、共感できる

・他者を振り回しといて(各世界単位での)結果に満足することが少ないのが印象に悪いと感じました。

・他者へのリスペクトがない 最初から最後までカスのゲーマーであってプロのゲーマーではない

・少なくともゲーム成立を試みるフェイズにおいてかなりしょうもないから

ゲーム大好き主人公です。好きなキャラに挙げる人が僅かにいる一方、それを帳消しにする膨大なネガティブ票を集めて無事最下位になりました。

倫理観に欠ける性格や反社会的な振る舞いが全面的に咎められています。彼方が不人気すぎて彼方をボコれるキャラや彼方がボコられるエピソードはそれだけで人気が伸びる傾向があります。

テーマを象徴する主人公なので彼方に関する好き嫌いやイメージも個別に聞いたのですが、「彼方は好きですか?」「彼方に共感できますか?」という個別質問では好き寄り・共感できる寄りの回答をする人の方が多い割に、好きなキャラとしてわざわざ個別に挙げる人はほとんどいないあたりにガチの不人気感があります。イメージ投票では「自己中心的だ」「関わりたくないタイプだ」「倫理観に欠けている」「幼稚だ」あたりが多く選択される一方で、意外にもポジティブ評価のうちで「かっこいい」だけは大きく票が伸びています(ビジュアル要素?)。

彼方のキャラ造形については意図通りである旨を延々と書いてきましたが、この人気の無さは意図通りではありません。つまり僕は「露悪的な主人公はこのくらい邪悪で終わってる方が萌えでしょ」と思っていたのですが、そのライン取りと予測を完全に外していたということです。僕は彼方が一番好きで、特にエルフ編のラストでイツキをエターナルフォースブリザードで葬るシーンがかなり好きなのですが(珍しく冗談の技名を言ってみたりしてすごく楽しそうだから)、そこを好きなシーンに挙げている人はいませんでした。

一応フォローしておくと、ゲームが絡まないか猫が前を通らない限りは彼方は割と友達の多い普通の女の子です。ゲーマー精神が発火したら異常者になるだけで、数少ないゲームが絡まないシーンでは不器用だったり親切だったりと年相応の穏やかなムーブを見せていることも多いです。

例えば敵として眼中にないツグミやツバメには親切心で戦い方を教えてあげようとしていたり、プロゲーマー同士の付き合いを大切にして懇親会には毎回きっちり出席していたり、立夏にクソ適当にあしらわれている割には頑張って不器用なアプローチを続けていたり、魔法学院では先生役として生徒たちへの面倒見がとても良かったり、白花や灰火や麗華のような変なやつとも割とすぐ友達になれたりします。

またゲーム外では意外と精神が脆くナーバスなところもあり、エルフ編でイライラして麻薬に手を出したり、すめうじ編では失恋したショックでしばらく言動が荒れたりもしています。アンケートでも「意外と豆腐メンタル」という感想を貰ったのは性格としては意図通りです。

 

付録 iii. ゲーマゲ批評会について

2023/3/5に木場でゲーマゲ批評会を催しました。ご参加ありがとうございました。

僕は創作仲間がおらず孤独に創作をやっているので、こういう意見を得られる機会は非常に貴重です。

当日出た意見・トピックやアンケートへの回答などについて書きます。

 

戦闘民族ゲーマー像について

彼方みたいなゲーマーは少数派じゃない?

僕も少数派だと思います。これはゲーマー全般の話では無く、ある種の勝ちたがりで戦闘民族であるゲーマーの話です。

ただこのゲーマー類型はそれなりには生息しており、自分自身がそうではないとしても遭遇したことくらいはあって、誰も見たことがない架空の人格というわけではないくらいの肌感覚で想定しています。

「押し付ける・脅迫するやり方でゲームを要求するのではなく、穏当に待つようなやり方もあるのではないか」という意見もあったのですが、実存的にゲームをしている戦闘民族タイプのゲーマーは待っている間にやれることもやりたいこともなく、ゲーム以外に価値を見ていないので待つ理由がありません。

 

相手を見下すプレイヤーは強くなれないのでは?

カードのプロゲーマーから「相手を見下すゲーマーはどこかで頭打ちになってそこまで強くなれない」という意見がありました。というのも、裏目を正しくケア出来るようになるためには相手の能力をそれなりに高く見積もるリスペクト精神が必要だからです。

それはかなり正しい指摘だと思いますが、僕は能力的なリスペクトがあることと相手を実存的に見下すことは両立すると思っています。「相手は強いから手は抜かないけど、それはそれとして勝敗は格付けだから」みたいな感覚です。

とはいえ、勝率を上げたくて自分でスタンスを選択できるのであればリスペクトを心がけた方がいいということには強く同意します(わざわざ自分から戦闘民族を目指すメリットはかなり薄い)。

 

彼方はゲームそのものにはキレてなくない?

確かに彼方が勝てなくてキレることはあまりないです。概ね最強主人公なのでゲームそのものは割とクリアできて、激昂したり困惑したりするのはあくまでもゲームの成立に関わるメタな部分になっています。

別にキレないわけではないのですが、ゲーム中であれば勝ちが最優先だしキレる前にやるべきことがいくらでもあるので、試合中の対処そのものは比較的冷静です。それで勝つので結果的にベタにキレるシーンはなくなってしまい、この手のゲーマーが勝ち続けてしまうと共感しづらいというのはあるかもしれません(ゲーミングお嬢様はキレながら負けていることがよくある)。

 

他のゲームでもいいのではないか?

彼方は実質的な殺人ゲームとしての「ボタン押し競争」にこだわるのではなく、他のゲームを嗜む道もあったのではないかという意見がありました。

論理的には全くその通りです。ゲーマーの哲学というテーマからゲームの種類は演繹されないので、彼方がカードゲームとか将棋とかもっと穏当なゲームで勝ちを目指すストーリーでもキャラ造形やテーマは成立します。

これはエンタメ的な立て付けからの要請があった程度の話で、象徴的には穏当なものも含めたゲーム一般についての内容を、小説設定的な立て付けとしてはビジュアルが華やかな世界の遡上を伴う闘争ゲームに喩えたという感じです。

 

彼方はもうちょっと長く一つのゲームを遊んだ方がいい

特に魔法学院編で顕著ですが、「彼方が一週間とかのかなり短いスパンで見限るのは早すぎない?」「勝利宣言するのが早すぎない?」「それじゃ勝てるものも勝てなくない?」という意見がありました。

これは描写上の比較的些末な問題ではありますが、確かに彼方が中途半端なところでゲームを切り上げているように感じるのはテーマ上でもあまり本意ではないため、もうちょっとリアリティを感じられる程度に長く取っても良かった気もします(でもスピード感が犠牲になるのでこのくらいで良かった気もします)。

 

最終的に多対多のゲームになったのが良かった

一貫してストⅡみたいな一対一の格ゲーの世界観で戦ってきた彼方が、最終的に神威と組んでLoLみたいな多人数ゲームの世界観に移行していたという読みがあって、それはかなり良い読みだと思いました。特に意図したものではありませんが、作者は知らなかったけど読者は知ってる良い話だと思います。VAISが最初の段階で多人数協力ゲームを提案していたことになるのもいいですね。

元々の意図としては、最終的に彼方がゲーマー仲間と協調するようになったのは「攪乱的な創造の余地を確保するためには最低でも二人が必要なので協調した方が有益」というオートポイエーシス的なソリューションの表現です。

ただ確かにゲーマーの成長として見ても複雑度が増して難易度の高いゲームに向かっていく妥当な道筋を辿っていて、ゲーマーの成長としては正しいでしょう。本編後では彼方のスタンスも多人数戦に合わせて変質していくのかもしれません(チームマネジメントとかやるようになるのか?)。

 

可能世界と世界観について

基底世界の世界観が凝ってると思ったらすぐ終わった

基底世界における「捻れたリベラル社会による自殺の容認」という世界観が興味深く、ここから自殺観がどう展開していくのかと思ったら強制終了してもう二度と話題にもならないのが残念だったというような意見がありました。

一応、基底世界が無駄に興味深い世界観なのはエンタメ的には意図通りではあります。最初の世界終了は主人公の不条理な能力が初めて発現する意外で劇的なシーンであってほしく、これからどうなるか気になる世界が強制的に終わってしまうという虚しさを味わってほしかったからです。

逆にそれ以降の世界はどうせ彼方が滅ぼして終わるだろうことが読者にもうっすら伝わっていると思われるため、それほど世界観が入り組んでおらず把握が容易な「どこかで見たような世界」を心がけています(ちなみにエルフ編の世界のモチーフはMinecraftです)。

彼方の自殺フェチ設定自体はその後もずっと生きていて、自殺のやり方がどんどんコンパクトになっていくものの、気持ち的には毎回きちんと自分の首を刎ねるつもりで終末器を押しています。「ゲームクリア時に行う自らと世界の清算という究極の意志決定=自殺と滅亡」という態度は基底世界から彼方が引き継ぎ続けているものでもあります。

 

可能世界は創造されているのか、発見されているのか

彼方の『終末器』は元々あった世界に対して創造関係を結ぶ能力なのか、それとも全く新しく世界を創造する能力なのかという質問がありました。

僕はどっちでもいいと思っていて決まっていません。主人公である彼方の視点を離れた客観的な視点で整合した世界を構築することにあまり関心がないからです。ゲーマーは形而上学的な欲求を断って目の前に見える範囲でゲームに取り組まなければならないというのは大きなテーマでもあるため、大局的な整合性は意図的にオミットしています(彼方も「そんなSF的な裏設定はどうでもいい」みたいなことを定期的に漏らしています)。

 

様相的な可能世界と虚構的な可能世界は同一視できるのか

僕はできる前提で考えています。

「似たような法則が同様に適用できるから」等の理論的な正当化を試みることも可能ですが、ハリーポッターの世界とポケモンの世界は「かもしれない」関係を辿ると到達できると考えることにそれほど違和感はないと思います。ハリーポッターの世界からスタートして、「なんか電気ネズミみたいなやつがいたかもしれない」みたいのを151匹分連鎖したり、「魔法は無かったかもしれない」「ヴォルデモートも別にいなかったかもしれない」とかを繋いでいけばいつかはポケモン世界に辿り着くということです。

神威の能力はこれが肝になっていて、「かもしれない」の連鎖を繋いで彼方の世界を追跡しています。よって彼方や趙なら一手で移動できる距離も神威は地道に一つずつ辿る必要があります。東京タワーで神威が追ってきたときに彼方が「神威が慣れて早くなってるね」みたいな評価をしているのはそのためです。

 

その他

結局立夏との恋愛はどうにもならなかったのか

彼方が立夏に見限られるシーンは人気が高いですが、その後に立夏との関係をどうにかクリアするのかと思ったら完全に諦めたのかという疑問の声がありました。

立夏との関係はそこで詰んで終わったのが意図通りです。彼方はゲーマーでしかないので、ゲーマーの文脈に回収できないものに対しては無力です。

ジュリエット戦でもゲームという狭い土俵では勝っても人間的には負けており、拷問と失明という手痛いペナルティがゲーム外で発生していることは明確に描写しています。『ゲーマゲ』は彼方がゲームで世界を変革する話ではなく、ゲーマーの彼方が成長する話です(ゲーマーとして誠実に頑張る話であって、全てをゲームで解決する話ではない)。

 

萌えキャラに歴史がない

主人公を含めて子供のキャラが多いにも関わらず両親の描写が欠如していることの違和感が指摘されました。「そこは普通は親が出てこない?」という突っ込みは『すめうじ』の頃からちょいちょいあります。

僕は一般に親とか家系を重要なものだと思っていないので、テーマに関与しないのであれば描く必要を感じないというだけです。特にサブカルチャーにおいて親との関係を主題化するのはゼロ年代世代とかに特有の感覚であって、一般には別にどうでもいいことだと思います。

今後の創作でも萌えキャラには親の影は希薄である可能性が高いです。僕は萌えキャラを赤子から少しずつ成長する歴史的な存在ではなく、一番萌える姿でスポーンする無時間的な存在のイメージで捉えています(エルフ編でのエルフの発生みたいな感じ)。

ちなみに設定レベルで聞かれれば彼方の両親は死んでるし、立夏の両親も死んでるし、大抵のキャラの親は死んでいると答えます。

 

格ゲー的な近接戦闘描写が適切かつ順を追ってレベルが高くなっていくのが良かった

近接戦闘描写が概ね高評価なのは良かったです(特にジュリエット戦)。

主人公の彼方が格ゲーマー感覚で戦うにも関わらず僕自身が格ゲーをほとんど通ってきていないという大きな課題があり、格ゲー描写はほぼ全てサイゼミの格ゲー回で得た知見に頼っています。

saize-lw.hatenablog.com

格ゲーマーからエアプ扱いされたらやべえなと思っていたのですが、イツキの風魔法による行動キャンセルやジュリエットのアナログ操作は格ゲーマーなら誰でも一度は考える(というのは盛りだが、少なくとも格ゲーマーの妄想として自然である)というお墨付きがありました。ジュリエットがシームレスに多段攻撃してくる謎の技能も評判がよくて良いです。

 

要所の言い回しがかっこよかった

とてもありがたいです。

『ゲーマゲ』ではボス戦開始時や貫存在登場時などの重要かつ何度も同じシチュエーションが発生するシーンでは同じ言い回しを用いています。これはゲーム的な演出として、ゲームでボスキャラ登場ムービーとかに一定のレギュレーションがあることに合わせています。

具体的には作中で使い回している構文が三種類もあり、「貫存在とエンカウントするシーン」「貫存在が能力の本質を開示するシーン」「ボスが宣戦布告するシーン」では同じ構文の台詞や地の文が使われています。三種類を五回ずつくらいは使っているので全部で十五回くらいは定番フレーズが擦られていると思います。

設定上の演出ではなくメタ演出であるため、全く面識がないはずのキャラも皆同じ言い回しを使っています。暇だったら探してみてください。

 

能力のビジュアルがわからない

終末器や汎将など、印象的なアイテムが多い割には挿絵に登場しないのはAIの限界です。単純な形状であっても、仕様がはっきり決まっているものはプロンプトではなかなか出ません。『ゲーマゲ』はキャラクター小説であって小道具はあまり重要ではないので諦めました。

本当に出したければBlenderとかでモデリングするのが妥当な気がしますが、あれからControlNetとか入ってきてまただいぶ成長した今の生成AIならいけるかもしれません。

 

他の世界のシーンを平行的に取り入れてもいいかなと思った

神威とか趙の別世界エピソードがあってもいいと言えばいいのですが、それは積極的にはやらないことにしていました。VAISの過去編が僅かに一話あるくらいです。

別世界編をやり始めると他のキャラでいくらでも出来てしまって収集が付かなくなるのと、テーマ上でも彼方という一人のゲーマーが下手に他世界を見ようとしないで目の前に見える範囲でやっていくということに大きな意味があって彼方の視点をブレさせたくなかったからです。

 

次は読者が好きになれそうな主人公の物語に挑戦してみて欲しい

今回は主人公を筆頭に尖ったキャラが多い話だったので、次回はあんまり衒学的ではなく比較的常識のあるキャラたちによる普通にエンタメとして面白い長編を書こうと思っています(もう20万字中8万字くらい書き終わっています)。作風みたいなこだわりは特にないので色々やっていきたいところです。

 

付録 iv. 参考文献等

それほど強く参考にしたわけではないですが、各トピックに興味を持ったときに読むと楽しいかもしれない本について軽く挙げておきます。

 

自殺について

タイトルが「ゲーミング自殺」の割には基底世界編以降は主人公がきちんと自殺するシーンが無くなりますが、一応主人公が自殺フェチという設定は常に生きていて、「自殺が示す意味」はサブテーマの一つではあります。

 

タイトル通りの自殺マニュアルです。

様々な自殺手段について「苦痛・手間・見苦しさ・迷惑・インパクト・致死度」を算出し、強みや実現可能性を滔々と解説しています。昔ブームになった本であり、「いつでも死ねると思った方が楽に生きられる」という考え方を提示する実践的な思想書と見做されていることも多いです。

作中では彼方が白花に対して自殺方法を指導するあたりで少し活用されています(彼方の愛読書です)。

 

自殺の様々なトピックについて網羅的にまとめた厚い書籍です。

死に方、ムーブメント、動機、場所、謎等々のトピックが多岐に渡っており、とにかく情報をかき集めることを優先していて話の信憑性が疑わしい三面記事的な内容ではあるものの、とりあえず目を通しておくとざっくり色々な自殺の雰囲気が掴めます。やや古いために「MOMOチャレンジ」「青い鯨」のような近年のネットと結びついた自殺ブームについては全く取り上げられていないのが欠点ではあります。

 

自殺を社会的利害という観点から扱っているのが面白い一冊です。

自殺を道徳的次元に留まる問題ではなく、家・警察・保険会社・遺族・会社・学校などの無数のステークホルダーを巻き込んで規定されていく社会資源の問題とした上で具体的な事例を検討しています。

「自殺という現象をどう捉えるのが社会にとって都合が良いか」という考え方は基底世界編の彼方と樹の会話あたりで少し活用されています。

 

タイトルが若干紛らわしいですが、デュルケム『自殺論』の訳書ではなくその日本語解説書です。解説としてはとても平易なもので原著以上の新しい主張があるわけではありません。

元々の『自殺論』は1897年に発行された社会学の源流の一つで、自殺現象を個人の問題に帰すのではなく社会と相互に影響しているものと考え、分類や分析を加えているところがアプローチとして革新的だったとされています。

「自殺は個人的気質ではなく社会的運動である」と考え方は基底世界編の世界観構築に少し活用されています。

 

死を扱う学問について浅く広く紹介する入門書です。「死をどう捉えるか」という話を割とフワッとやっていてエッセイ調に感じるところもありますが、「自己/他者」や「主観/客観」で死は全く別様であることや、死は常に二重否定でしか捉えられないことなど、死に対する基本的イメージを深める上では役に立ちます。

基底世界編で白花が彼方と会話するシーンで少し活用されているほか、死が視点によって全く異なるものになるという断絶的なイメージは全体でうっすら意識しています。

 

可能世界について

大量にあるので特にオススメのものに絞ります。

 

デイヴィッド・ルイスの可能世界論を説明する入門書はいくつもありますが、その中でも割と最近出ていてかなり読みやすいのでとりあえず触れるにはオススメです。

 

虚構世界について、存在論というからには単に存在するか否かだけではなくどのように存在しているのか等も含めた詳細な議論が含まれています。

特にキャラクターに軸足を置いた分析は地に足がついたものとして楽しく読め、Vtuberとかソシャゲキャラとか近年の変質していくキャラクター概念を捉える上でも有用です。

 

物語理論の観点から可能世界と虚構世界を整合的に接続する名著です。かなり分厚いですが、人工知能パートはあまり大したことがない話なので個人的には読まなくていい気もします。

神威の能力と彼方の能力を同じ土俵に乗せることが出来るという基本的なアイデアはこの本から来ています。

 

ゲーマーの哲学について

遊び概念の顕著な性質として自己目的性があることを指摘した古典です。

ただし戦前の本ということもあって想定している遊びの感じは全体的に非常に古く、ゲーム研究においてもそのまま使うというよりは叩き台として適宜引いてくるようなポジションではあります。

 

彼方のキャラ造形にかなり貢献している本です(ゲーマーの強さとニーチェの強さはよく似ている)。『ゲーマゲ』を書いている最中はあまり意識していなかったのですが、僕自身の強者像がかなり永井均ニーチェ像に影響を受けているため、後から読み返すと「彼方ってニーチェだな」と思うことが多いです。

 

オートポイエーシスについて

混乱しているオートポイエーシス界隈について先行理論の難点を指摘しながら整合的な解釈を改めて提示してくれるありがたい本です。

ただ先行理論の批判によって組み立てられている都合上、先行理論の話が多くなってしまっており、初手から勧められるかどうかは微妙なところでもあります。「この本が出るまでに一般的に流布していたオートポイエーシスの描像」が大掴み出来ていれば効果は覿面ですが、最初から前提と批判を一気に咀嚼するのは少し荷が重いかもしれません。

 

邦書としてはかなり初期に出たオートポイエーシスの紹介書です。

タイトルに「第三システム」とある通り、今までの既存システム論を総括した上で三番目の考え方としてオートポイエーシスを導入するという経緯の説明に紙面を割いています。よって「オートポイエーシスと似てはいるけどオートポイエーシスではない類似システム」との差異を丁寧に確認できるところが非常にありがたい一冊です。

ただ、その分だけオートポイエーシスではない話の記述を大量に読む羽目になるため、入門書としては少ししんどいかもしれません。

 

感想リンク集

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