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18/8/25 少女歌劇7話の感想 セカイ系・ユートピア・ループもの

・少女歌劇7話の感想

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セカイ系」「ユートピア」「ループもの」という三つのコンセプトは色々な作品に登場してきた。
これら三つは親和性が高いために複合することが多く、特にゲームのメタ性と結び付いたときに顕著だ。それは三つの要素がいずれもゲームプレイヤーが持つ性質から導かれるからで、具体的には、超越性・万能性・反復性が対応する。プレイヤーはゲーム外部の超越的な視点を持つためにセカイ系的な解離を意識するし、相互介入によって望むような結果を得られる万能性を持つためにゲーム内に理想のユートピアを築きやすく、システム的なセーブリセットロードの反復性を持つためにループものにも親しんでいるというわけだ。
しかし、ゲームという局面を離れれば、すぐ後に具体例を挙げて示す通り、これらは独立に持ったり持たなかったりできる別の特徴である。三つの性質がゲーム由来なのか、三つの性質を反映したのがゲームなのかという鶏卵論争は不毛なので避けるにせよ、実体として分離できる以上、それをゲームに還元しなければいけない理由は特にない。よって、この三つを切り分けようというのがしばらくの話の趣旨だが、そのスタート地点としてそれぞれの定義は以下のように与える(この定義が諸説あるのは承知だが、どれか一つに固定しないと話ができない)。

セカイ系:中間社会領域(組織・軍事・大人……)から見て、こちら側(学校・恋愛・日常……)とあちら側(宇宙の存亡・世界の組成・形而上学……)が短絡する構造を含む作品。
ユートピア:個人ないし集団から見た理想的な仮想世界を含む作品。
・ループもの:時間的なループ構造を含む作品。

補足141:ここで言う「ユートピア」はかなり俗な意味で、具体的な政治体制を含意せず、単なる理想くらいの意味。

補足142:ループものの定義がほぼトートロジーになってるけど、まあわかるだろ。

セカイ系ユートピア・ループものの3つの要素を持つか持たないかの二値とすると、全組み合わせは2×2×2=8通りあり、全ての特徴を持たない自明なパターンを除外した7通りの例をなるべく有名なところから示す。

<セカイ系/ユートピア/ループもの>
<+/+/+>:エンドレスエイトハルヒ
<+/+/->:エヴァ
<+/-/+>:まどマギ
<-/+/+>:ビューティフルドリーマー
<+/-/->:イリヤの空
<-/+/->:無限月読(NARUTO
<-/-/+>:シュタインズゲート

※+が「持つ」、-が「持たない」の意。<+/+/->は「セカイ系かつユートピアだが、ループものではない」。また、以下の説明では*を「どちらでも構わない(don't care)」として用いる。<+/-/*>は「セカイ系でありユートピアではない(ループものかもしれないし、そうではないかもしれない)」。

説明として、そうするのが一番わかりやすいと思うので、各要素二つずつの関係についてみていく。

セカイ系ユートピアの関係について
セカイ系の定義には諸説あるが、今回は中間社会領域の欠落をその要とした。
このとき、構造の中抜きが行われるモチベーションが思春期特有の自身の過大評価にある場合、煩雑な社会の排除によって幼児的な全能感が強調され、ユートピアが顕現する。ハルヒエヴァでは、思春期真っ只中の主人公がユートピアを構想すると同時にそれをそのまま外部の環境に反映することでセカイ系になった(<+/+/*>)。
しかし一方、セカイ系的な短絡がユートピア構想からの要請ではないこともある(<+/-/*>)。
まどかマギカは少女たちの個人的な感情がただちに世界の成り行きを決定するという意味では確かにセカイ系だが、終始苦痛に満ちた物語世界はまどかやほむらにとっての理想郷ではない。イリヤの空においても、イリヤが世界の命運を握っているのは単なる所与の事実に過ぎず、浅羽にとってもイリヤにとってもユートピアではないし、実際イリヤは精神崩壊して死ぬ。

補足143:まどかマギカはダブル主人公の思惑と行動が終始一致しないので、このあたりを正確に追おうとするとなかなか厄介。テレビ版のアルティメットまどかから見たときは彼女にとっての理想世界を実現したのでユートピアだが、まどかを救いたかったほむらにとってはそうではない。本当はセカイ系か否かについても微妙なところだと俺は思っていて、もともと個人的な領域から逸脱した懸念を持っているのはまどか(とQB)しかいないが、それも「同業者を救済しただけ」「ある宇宙人の生態」と見れば、社会領域の向こう側に踏み込んでいないローカルなお話と言えてしまう(アルティメットまどかの超越性は魔法少女に対してのみ発揮されるもので、万物に適用されるべき理由は特にない)。更に、TV版でほむらが溜め込んだ鬱憤は劇場版で爆発し、ほむらにとってのユートピアだが他のキャラにとってのディストピアが形成されるという逆転が起こったりもする。
概ねまどかから見て<+/*/->、ほむらから見て<-/-/+>、ほむら寄りに作品全体を合算すれば<+/-/+>くらい……というようなかなり歪な集計を行っていることは否定できない。


次に、逆にユートピア構想がセカイ系を作らないケースについて。
ユートピア構想が外向きに作用することで世界のありようを変えるのがエヴァハルヒだとすれば、ユートピア構想を内向きに作用させて世界から引きこもることで比較的個人的なありようを変えるのが<-/+/*>のケースである。無限月読では幻術にかけられた全員が繭の中で個人的に夢を見ることでユートピアに引きこもり、ビューティフルドリーマーでも文化祭前日を続けたいラムの気持ちが夢邪鬼に夢を見させたのであった。いずれにせよ、中間社会領域のあちら側にはノータッチという自慰的なユートピアなのでセカイ系とは呼べない。
なお、ユートピアという語が自由主義とか管理社会とかいう体制を含意しない俗な意味であることは補足141で宣言したが、アニメでは主にコミュニケーションへの見解に関してパターンが分岐するように思う。例えば、人類補完計画ユートピアとして示されるのはお互いに無限に分かり合うので傷つくことがないという究極のナチュラルコミュニケーションであるが、無限月読ではむしろ誰とも交流しない究極のディスコミュニケーションとして真逆の向きを向いており、ざっくり言って前者はセカイ系へ、後者は非セカイ系へと繋がる印象がある。また、マトリックスのようにコミュニケーションに対して中立的なユートピアも非セカイ系となるだろう。

ユートピアとループものの関係について
大雑把に言って、ユートピアが永遠性を要請した場合はループものになり、そうでない場合はループものにならない。
前者としては、ハルヒやラムの「この時間が永遠に続きますように」という願いを経てユートピアが永遠に繰り返される日々として現れたものが<*/+/+>、後者としては願いがそういう形を取らなかったものとして無限月読と人類補完計画が<*/+/->。ただ、ユートピアにはある程度は一般的に永遠性が要求されるように思う。エヴァで一時的に完成しかけたLCCの世界は確かにループする世界ではないが、個体が溶け合うことで寿命とか時間の概念がなくなっているように見える。無限月読だって名前に「無限」と付いているくらいだから、ループが明示されているわけではないものの、ある程度まで体験が進んだら記憶をリセットして最初からまたやり直したりするのではないだろうか。この点、機械にとってのユートピアとしてマトリックスを見れば、人生を終えた人間はきっちりと廃棄される仕様になっており、ユートピアでありながら永遠性を必要としないケースと言えよう。
また、ループものから見たときにユートピアが結びつくのは、何らかのユートピア構想を持つ主体がループを実現する能力を持った場合に限られていて、ループが所与のものとして与えられている場合とか、別の問題への解決手段として獲得したものである場合はそうではない。シュタインズゲートで岡部がループを行うのはリーディングシュタイナーという所与の能力に加えて、まゆりを救うためという目的意識によっており、別にユートピアを実現するためではないので、二つの要素は結びつかない。まどかマギカについても同様。

セカイ系とループものの関係について
これらが結びつくケースは割と単純で、ループ能力がかなり超越的な能力なために中間社会領域を経由せずに行使できるというだけなので、逆に結びつかないパターンを軽く述べる。
セカイ系ではあるがループものではないものは、単にループ以外の要素によって中間領域をスキップできる場合。エヴァではエヴァンゲリオン機体、イリヤではイリヤが持つ戦闘能力がそれに該当する。また、セカイ系ではないがループものである場合は、ループが個人的に行使される場合。既に述べたが、半径二キロの世界を守るための夢邪鬼、まゆりを守るためのリーディングシュタイナー。

以上を踏まえれば、少女歌劇は<-/+/+>、すなわちユートピアかつループものであるがセカイ系では無いパターンとして、ビューティフルドリーマー系の作品に相当する。

ここまでダラダラと分類作業を行ってきたのは少女歌劇への言及を整理しておくためだ。

補足144:あと「まどマギやん」「エンドレスエイトじゃん」的なコメントに対して「いや全然違うだろ」と思ったのと、この辺は前から整理したいと思っていて今が適当なタイミングのため。

まだフォーマットが提示されただけで展開はこれからなので今の段階で言うことはあまりないが、これから何について喋るのかはわかっていた方がいい。上で長々と見てきたように、99回公演がバナナにとってのユートピアであることとバナナがループしていることは独立に把握できる特徴なので、どちらに立脚した言及なのかを切り分けて抽出できた方がスッキリする。相互導出可能ではあるが自明な連結ではないことを踏まえ、演劇というテーマに由来する「ループもの」と物語レベルのキャラクター性に由来する「ユートピア」の接着自体が一つの試みであることは認識しなければならない。

補足145:当たり前のことだが、「セカイ系ユートピア・ループもの」という三つの軸は俺の興味を反映しているだけで絶対的なものではないから、他のグリッドを設定した結果、少女歌劇がまどマギと同じ領域に入ることは十分に有り得る。

一応、<-/+/+>である理由は「アタシ再生産」というフレーズに従ったからだ。「再」をループもの、「生産」をユートピアとして、フレーズに忠実であればこの展開が導かれること自体は、後出しジャンケンではあるが前回→予想したような期待の範囲内ではある(お話自体が劇中劇で再演であること)。
問題はこのフォーマットからどう収拾を付けるかということで、ここから雰囲気的に一番ありえそうな展開は光の参入で変わっていく99期を目にしたバナナが再演への執着を諦めて成長を受け入れてループを抜けるみたいな感じだけど、それだと再生産を否定することになるのでフレーズにはあまりそぐわない。

そもそもユートピア=理想の仮想世界の末路はそんなにパターンがなく、まあ大抵は崩壊するのだが(ほとんどの主人公は最終的には「ユートピアから現実に戻る」と発言するのだが)、その理由は大きく分けて二つある。
一つはユートピアの仮想性が忌避されるもの。まともに道徳的な作品では、「いくら理想的な環境でも仮想は仮想だから本当の現実に帰ろう」というようなありがちな現実賛歌へ落ち着くことが多い(特に洋画)。庵野が本当にそう言ったのかは知らないが、「オタクは現実に帰れ」ということでシンジがアスカにキモがられないといけなかった理由もこっちになる。
もう一つは、ユートピアの理想性が否定されるもの。「理想の世界を作ったと思ったけどそんなに良くなかった」とか「全員にとって理想の世界がそもそも作れない」というようなもので、ユートピアの是非以前にユートピアの成立自体が幻想であったもの。一つ目の派閥に比べると少数派ではあるが、ループアニメの開祖であるビューティフルドリーマーは明確にこちらを選択している。ユートピアを作成する夢邪鬼は「どんなに他人が見たい理想の夢を見せてもいつも結局は悪夢に変わって自壊してしまう」ということを気に病んでいるし、ラムが作った夢の世界もラムとあたるの見解の相違によって崩壊した。この辺は上でも書いた通りユートピアがどのタイプのものであるかにも依存し、例えばこのケースでは一般に信条の異なるメンバーのコンフリクトが避けられないので集団込みのユートピアが実現できないと解釈すれば、社会契約的な正義論にも繋がる。

個人的には、俺は前者にはうんざりしている。大抵無根拠に選択されるために単にオチとして面白くないし進展を生まないからだ。もちろん、「ユートピアが維持可能である」という第三の選択肢は常にあり、「アタシ再生産」というフレーズはそっちの方がしっくり来るので、どう転ぶかを楽しみにしている。

補足146:ちなみに「その他」とも言うべき雑多なパターンも結構あって、作品固有の設定的な事情とか、SF的技術的な原因によるものだったりするが、どうでもいいので省いた。