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20/4/25 『バットマンvsスーパーマン』感想 バットマンはアベンジャーズじゃない

バットマンvsスーパーマン

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バットマンvsスーパーマン』を見た。
MCUにだいぶ遅れてスタートしたDC版マルチユニバース作品群(DCエクステンデッド・ユニバース : DCEU)の一つであり、その先陣を切った『マン・オブ・スティール』に続く二作目にあたる。最初はアベンジャーズの劣化だと思ったが、『スーサイド・スクワッド』まで見てから考えると普通に名作だった。

アベンジャーズと同様の政治的な論点

バットマンvsスーパーマン』は前作『マン・オブ・スティール』のクライマックス、スーパーマンが大都市メトロポリスで戦うシーンからスタートする。
『マン・オブ・スティール』においては華々しく活躍してメトロポリスを防衛したスーパーマンであったが、実は戦闘の際に街を破壊して犠牲者も多数出していたことが明らかになる。バットマンことブルース・ウェインの会社及びその社員もスーパーマンの活躍から間接的な被害を受け、ブルースはスーパーマンヴィランと断じて排除に向かうことになる。

こうした対立の基本線からは『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』のソコヴィア協定を思い出さざるを得ない。『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』でもアベンジャーズが活躍した結果として街が破壊され、世論からバッシングされるという全く同じ構図が描かれたのだった。
更にヴィランのレックスが口にする「抑止力」という問題、及び「戦いを終わらせるための抑止力自体が戦いを生む」というジレンマも『アベンジャーズ』『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のヘリキャリアを巡る論点と一致する。

すなわち「強大な力は危険と裏表である」という、MCUではフェーズ2で前景化した政治的な論点がDCEUでは二作目から早くも提示されて問題提起が駆け足で進んでいく。

補足283:なお、アベンジャーズではこの対立に決着を付けられなかった。『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』においてキャプテン・アメリカとアイアンマンが袂を分かつことになった末、『アントマン』で導入された奇跡と実存のステージへ移行することでなし崩し的に解消された。

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また、MCUではこのテーマはクラシカルな愛国者であるキャプテン・アメリカと、現代グローバル企業の社長であるトニー・スタークの対立に代表されたが、DCEUでも同じテーマを論ずるにあたりスーパーマンバットマンのヒーロー像は上手く噛み合っている。
スーパーマンキャプテン・アメリカと同様、ナイーブな連帯を信じられるヒーローだ。彼は異星人であるために愛国者でこそないものの『マン・オブ・スティール』のラストでは「人を信じる」という結論に至っており、恋人・レインとの絆も「レインが一番最初にスーパーマンを信じた」という背景が裏付けている。彼は地球人ではなく圧倒的な力を持つ超越者であるため、自分の盲信に基づいて正義を執行することに迷いがない。
その一方、バットマンは自分自身を含めて誰も信じないダークヒーローだ。彼が戦う理由は個人的なトラウマと異常性に起因しており、超越的な大義からは最も遠い位置にいる。彼自身も含めた異常者同士の対等な信条が衝突する政治的な殺し合いの中でヒーローとヴィランの境界を歩む危ういヒーローがバットマンである。
よって、スーパーマンが表面的な正義を掲げるならば、バットマンはそれを異常者の信条にまで相対化して偽善と一喝できる立場にいる。スーパーマンvsバットマンは正義vs悪という構図に綺麗にハマっており、戦いへの期待は否が応でも高まらざるを得ない。

杜撰な展開と陳腐な結末

しかし、問題提起を終えたあとのストーリーの進みは怪しい雲行きになってくる。
スーパーマンの政治性というテーマが提示される割には、スーパーマンが周囲との軋轢とどう折り合いを付けるのかは一向に描かれないのだ。スーパーマンは自分探しをしたり恋人とイチャついたりするばかりで、あまり地球人の利害関係に興味が無いように見える(異星人だから?)。中盤ではアメリカ政府によって公聴会が開かれ、極めて政治的な場に召還されたスーパーマンがようやく立場を釈明するのかと思いきや、自爆テロが起こって一言も発さないうちに全てが有耶無耶になってしまう。

それでもタイトルが『バットマンvsスーパーマン』である以上、この二人が戦わないわけにもいかない。クライマックスではバットマンとスーパーマンが遂に対面してそれぞれの信条を戦わせる……というよりは、話を聞かないバットマンが一方的にスーパーマンをボコるだけだ。やはりスーパーマンからは思想らしい思想が見えてこない。

結局、この二人は母親の名前が「マーサ」であるという共通点を発見したことで和解する。
母親を救いたいスーパーマンの気持ちにバットマンが共感して一転して協力的になるという杜撰な展開で、真のヴィランを倒すという陳腐な結末へと突き進む。スーパーマンが相討ちで死んだ墓前でバットマンは「彼の遺志を継ぐ」などと喋っているが、最初の「強大な力は危険と裏表である」という問題はどこに行ってしまったのだろうか。スーパーマンが冒頭で街を破壊した問題は全く解決されていないはずだが、同じことが起きたらバットマンはどうするのだろうか。

以上、政治的な論点を提示する割には、「母親の名前」という極めて個人的な事情に和解の理由を帰着し、何も問題が解決していないままお茶を濁す駄作だなというのが第一印象だった。

しかし、バットマンアベンジャーズではない

しかし一晩眠ってよく考えた結果、思い直したのは「バットマンアベンジャーズではない」ということだ。アベンジャーズは政治的な問題に対処しなければならないかもしれないが、バットマンは必ずしもそうではない。

アベンジャーズは元々地球を危機から救うために組織された極めてパブリックなヒーローだ。人類全体の復讐者、地球の防衛者、人類全体の平和と存続に責任を負った管理団体。よって、彼らの活動によって却って人類に危険をもたらすことは大問題になるし、人類の永続的な安全確保のために社会的な軋轢も含めて対処する義務がある。
しかし、バットマンはそうではない。彼は人類を守りたいとか正義を体現したいとかではなく、幼少期のトラウマによって悪を憎んでいるという個人的な動機がオリジンだ。彼は極めて個人的な動機で行う「悪行」がたまたまゴッサムシティの利害と噛み合っているだけで、本質はむしろそのプライベートさにこそある。

よって、アベンジャーズが「人類を守れるか」という公的な結果を重視する一方で、バットマンは「自分の異常性に従っているか」という私的な動機を重視するという大きな違いがある。ここに真逆の価値観があり、これを踏まえるならば『バットマンvsスーパーマン』はMCU的には駄作でもDCEU的には名作と解する余地が出てくる。

実際、スーパーマンの「母親を救いたい」という意志を知ってバットマンが協力的になるのは、「バットマンは行動の動機だけを重視する」ことを示している。
バットマンがスーパーマンに対して本当に怒っていたのは「スーパーマンは人間を何とも思っていない」と誤解していたからに過ぎない。「母親を思いやる気持ちがある」という動機さえ承認できれば、いくら街を破壊していようとそれはバットマン咎めるところではないのだ。
バットマンは動機さえ正しければ、手続きの不当性や破壊的な結果には目を瞑る。実際、彼だって自分の欲望に基づき、不法な手段で不当な私刑を行っているのだから。

MCUアベンジャーズは結果と公正を重視する一方で、DCEUとバットマンは過程と欲望を重視する。その差異を踏まえれば、『バットマンvsスーパーマン』はバットマンのヒーロー像を大切にしてアベンジャーズとの差別化を図った名作として評価できる。

スーサイド・スクワッド』に見る動機と欲望の論理

そしてこの解釈は続編『スーサイド・スクワッド』で更に強化される。

スーサイド・スクワッド』でも、主人公のヴィランたちが最終的にフラッグ大佐への協力を決めた理由は「フラッグ大佐が自分の女のために戦っていることを認めたから」だった。それまではヴィランたちは政治的な利害調整(尻拭い)のために命を人質に取られて戦っていることを不服に思っていたのに、フラッグ大佐が自分の欲望を正直に語るや否や一転して敵を打倒すべく力を合わせることになる。言うまでもなく、この流れは『バットマンvsスーパーマン』における和解と全く同じ構図だ。
ここで表されているのは、バットマンと同様の動機=欲望への徹底したリスペクトに他ならない。市民のために大義を掲げるフラッグ大佐は信用できないが、世界の危機を巻き込んででも自分の女を救いたいフラッグ大佐は信用できる。根本的な欲望に素直であること、それがどれだけ破滅的な結果を招こうとも動機に正直でいることがDCEUでは重要なのである。

スーサイド・スクワッド』のラスボスであるエンチャントレスがヴィランたちの夢をバーチャルに叶える能力を持つのもそれを踏まえている。
エンチャントレスが見せる理想像の幻想は皆の欲望を外部から踏みにじるものであり、動機を抹消してしまうという点で糾弾されるべきものなのだ。エンチャントレスの能力はバットマンからヴィランたちにまでDCEUで通底する価値観に対する敵である。

補足284:クライマックスでハーレイ・クイーンが発した"You messed with my friends!"を「友達いじめんな」と訳しているのはほとんど誤訳だと思う。力点は"friends"ではなく"messed with"にあるはずだからだ。エンチャントレスが幻想を見せることで欲望を翻弄し、個々人の根源的な人生の動機を軽視して踏みにじることが問題なのだから、「私たちを舐めるな」くらいが妥当。

ラストシーンでは、牢屋に乗り込んできたジョーカーがハーレイ・クイーンを救出する。
この二人の愛はフラッグ大佐とジューン・ムーンの愛とパラレルだ。二組とも、その愛ゆえに世界を破壊していくのだが、その欲望が真正である限りはリスペクトされなければならない。バットマンが自身のトラウマに従ってヴィランを捕まえ、スーパーマンが母を愛するが故に戦うのと同じである。
個人的には、結果と公正よりも動機と欲望を尊重するDCEUの論理はMCUよりも好ましく思う。