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19/12/7 MCUの思想変遷:正義の時代から政治の時代、そして実存の時代へ

マーベル・シネマティック・ユニバースMCU)の感想

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MCU映画シリーズの『アイアンマン』から『アベンジャーズ/エンドゲーム』までの22作品を全部見ました。無職なので1週間で見終わりました。個々の作品で見ても面白いですし、シリーズ全体を通じてもそれぞれの作品が一貫した文脈の上に位置付けられるのが興味深かったです。

全体を通じた思想の変遷を最もよく象徴しているのは『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のポストクレジットシーンの「もうスパイの時代じゃない、ヒーローの時代でもない、これからは奇跡の時代だよ」というセリフだと思います。ヒーローとは正義、スパイとは政治、奇跡とは実存のことで、概ねフェーズの変化にこの3つが対応していました。すなわち、以下の通りです。

・フェーズ1:超人が平和を担保する「正義の時代」
・フェーズ2~フェーズ3序盤:多元主義の下で超人の力が調整される「政治の時代」
・フェーズ3中盤以降:奇跡を通じて超人の個人史を問い直す「実存の時代」

こうした変遷はアベンジャーズのコアメンバーであるアイアンマン、ハルク、ソー、キャプテン・アメリカの4人を軸にして語られながらも、時折他のヒーローの外伝が新たな示唆や解決策を持ち込んでくるという形でMCUは展開していきます。

・フェーズ1:正義の時代

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MCU一作目の『アイアンマン』は中東情勢を反映した映画としてスタートしました。横流しされたアメリカの兵器を使う中東のテロ組織がメタファーですらなく直接敵として描写されており、同時多発テロから続く国家と兵器への不信感を背景にしていることは明らかです(あまり詳しくないので必要以上に現代アメリカ社会と結び付けた話をするつもりはないのですが)。
『アイアンマン』において軸になっているのは「兵器」と「拡張身体」の対比です。爆弾やミサイルといった兵器は手にすれば誰でも使用できてしまう一方で、アイアンマンスーツのような拡張身体は使用者と融合しているため特定の一個人しか使用できません。よって、アイアンマンスーツはミサイルとは異なり、奪取される危険なく常に正義を執行して平和を守る武力になり得ます。
つまり、拡張身体においては、兵器とは異なり使用者の精神と武力が不可分であることがポイントです。このモデルの下、正しい精神を持つ超人が拡張身体を用いて平和を担保するのがフェーズ1で提示されたヒーロー像です。なお、『アイアンマン2』では理想化された英雄である超人は信用を失った政治機構とも対比されており、冒頭でスタークが平和の防衛を国家から彼に移譲する「平和の民主化」を宣言しました。

実際、フェーズ1で登場するアベンジャーズのコアメンバーは全てアイアンマンと同じように身体と融合した能力を持っています(フェーズ2以降はその限りではありません)。変身によって怪物に変貌するブルース・バナー、王の血筋によって力を得ているソー、肉体改造によって超人的な能力を発揮するスティーブ・ロジャースはいずれも身体と武力が完全に一致しています。
拡張身体においては使用者の精神と武力が一致するため、使用者が正しい精神を維持できるかどうかが武力の正当性を左右することになります。よって、フェーズ1で主に問われたのは超人としての精神の正しさでした。武器商人として内省するスターク、科学者としての責任を果たすバナー、王座を継ぐものの資質を学ぶソー、空虚なプロパガンダを乗り越えて確かな実績を勝ち取るロジャースという、個人が他者に対する精神を研鑽する成長物語がフェーズ1では描かれます。
それに伴って、フェーズ1におけるヴィランは全て「主人公と同じ能力を持つが、それを悪い方向に使う敵」というモチーフになっています。『アイアンマン』のヴィランはスタークが破棄したスーツを流用したオバディア、『インクレディブル・ハルク』のヴィランはバナーと同じ薬で変身するアボミネーション、『マイティ・ソー』のヴィランはソーと同じ出自を持つ兄弟のロキ、『キャプテン・アメリカ/ファースト・アベンジャー』のヴィランはロジャースと同じ超人血清を投与したレッド・スカル、『アイアンマン2』のヴィランはスタークと同じ技術を引き継いだイワンでした。
敵にも主人公と同じ武力を与えることによって、「誤った使い方をする敵」と「正しい使い方をする主人公」が対比されるという構図が繰り返されます。また、敵も拡張身体を用いているために精神と武力が一致しているため、組織的な後ろ盾や大義があるというよりは、主人公に対する個人的な怨恨や暴走が戦うモチベーションになっています。

その後、フェーズ1のラストである『アベンジャーズ』で初めて「抑止力」という政治的な論点が登場します。

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具体的には、それはシールドの長官であるフューリーが秘密裏に開発していた膨大な武力を誇る超兵器であり、それが発覚したところで以降幾度となく繰り返される喧嘩シーンに繋がっていきます。しかしよくよく聞いてみると、この時点ではスターク、バナー、ソー、ロジャースの4人の思想がはっきり割れているわけではありません。兵器製造を隠していたフューリー長官が叩かれて空気が悪くなっているのが主で、アベンジャーズ間の対立は些細な言葉をあげつらう程度のものです。
強いて言えば、この時点では協調を重んじるロジャースとリベラルな考え方をするスタークの相性が悪いことや、ソーがかなり上から目線(神目線)で他のヒーローに接していることが描写されており、こうした歪みは後に増幅されて『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』や『マイティ・ソー バトルロイヤル』に繋がっていくものではあります。
しかし、結局のところ『アベンジャーズ』の時点では抑止力に関する議論から垣間見える政治的な断絶は深堀りされることはなく、チタウリを撃退するためにひとまずは連携するという形で幕を閉じました。『アベンジャーズ』はフェーズ1の集大成としてナイーブな正義に収斂しながらも、フェーズ2以降に前景化する抑止力という政治的な論点を導入したに留まります。

・フェーズ2~フェーズ3序盤:政治の時代

フェーズ2では政治的な議論が前景化する前段階として、フェーズ1で得たはずの正義が疑問視される話が続きます。
なお、ここで言う「政治的」とは「異なる考え方をする人が複数存在するときに生まれる、利害に関する調整」という程度の意味です。そもそも皆がヒーローを信じて同じ方向を向いていれば「色々な考え方をする人」は存在しないわけですから、政治的な議論は生まれません(それがフェーズ1の状態です)。逆に言うと、抑止力のような政治的な議論が発生する時点で、ヒーローが賛否の分かれる一つの考え方として相対化されている多元主義の環境が暗黙に前提されています。

フェーズ2最初の作品である『アイアンマン3』では、人工知能ジャーヴィスによってアイアンマンスーツが自律駆動するようになります。

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アイアンマン2』ではヴィラン側がスーツを改造した自律駆動兵器を開発していましたが、『アイアンマン3』ではスタークも同じ技術を使うようになりました。『アイアンマン』では拡張身体は兵器と異なり使用者と分離不可能であることが超人の正義とその執行を担保していたことを鑑みると、スーツの自律駆動はアイアンマンスーツの正当性を根底から揺るがす変化です。スタークという個人と彼の持つスーツの武力が分離できてしまうならば、『アイアンマン2』までのヴィランと同じように、アイアンマンスーツもまたミサイルのような潜在的な脅威と考えざるを得なくなります。
そう解釈すると、アイアンマンスーツが自律的に駆動できるようになることと、スタークがヒーローとしての責務に耐え切れず精神の均衡を失っていくことは同じ事態を示しています。すなわち、超人という個人に全てを委ねて平和を担保するモデルは維持できないということです。スーツは個人と分離してミサイルと同じ兵器になってしまうし、個人の方もスーツと一体化し続ける重荷に耐えられません。実際、ラストではスタークはスーツを全て爆破することでヒーローとしての責務から降りることになります。

続く『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』はあまりにも『アイアンマン3』と同じ話で笑ってしまったのですが、ヒロインとの関係に注目すると、どちらも「ヒロインが主人公の戦いに巻き込まれて超人的な力を得てしまう→主人公は自分が超人的な力を持っていると危険であることを理解する→その力を手放す」というストーリーです。ソーはスタークに比べてヒロインに関するラブストーリーという色の方が強く、最終的には王座の継承を放棄し、スタークと同様にヒーローの責務から降りることになります。
ちなみにこの時点ではソーは「恋人と一緒にいるため」という理由で王座を離れるのですが、後の『マイティ・ソー バトルロイヤル』では恋人と破局していたことが明かされます。また、スタークも『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』で恋人と疎遠になっていると語ります。彼らは『アイアンマン3』『マイティ・ソー/ダーク・ワールド』で恋人を守るためにヒーローをやめたはずが、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で復帰してしまったために恋人から見限られてしまったんですね。

キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』ではいよいよ『アベンジャーズ』で導入された超兵器=抑止力の失敗が描かれました。
実はシールズには壊滅したはずのヒドラの残党が潜んでおり、彼らが超兵器を悪用しようとしたから破壊せざるを得なくなったという流れです。「結局兵器は悪用されるからダメだね」という話と見てしまうと『アイアンマン』と同じですが、この段階では『アイアンマン3』を通じてヒーローが兵器のような潜在的な脅威と化していく様子が描かれています。破棄されるシールドの超兵器は明らかにヒーローとしての責務を降りたスタークやソーの姿と重なっており、ヒーローと超兵器を抑止力として同一視した上でそれらが全て失敗していく様子として位置づけられます。
また、『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』でヒドラの暗躍と並行して描かれていたのは、ロジャースとバッキーの強い友情であり、ロジャースはバッキーを何があっても絶対に見捨てません。終盤で星条旗の盾を捨ててバッキーに殺されることを選ぶシーンによって、ロジャースにとってパトリオティズムよりも友人の方が優先順位が高いことが示されています。
これは「超人としての正義よりも友人を選んだ」と見れば、「超人としての正義よりも恋人を選んだ」というスタークやソーと同じです。しかし、スタークやソーは正義と隣人が両立不可能であるが故に片方を選ばざるをえなかったのに対して、ロジャースにとってはその二つは矛盾していないという大きな違いがあります。よって、この選択はスタークとソーにとっては諦めと妥協である一方で、ロジャースにとっては戦時中から一貫したスタンスの提示に過ぎません。シールドの正義は破綻した一方、ヒドラを仕留めたキャプテン・アメリカの正義はスタークやソーと違ってきちんと維持されていました。この背景には多元主義に関するスタンスの違いがあり、これが後に『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』で決定的な対立を引き起こすことになります。

アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』でも『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』と同様に抑止力の失敗が描かれます。
キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』でのシールドの超兵器に対応するのはスタークとバナーが生み出したウルトロンです。超兵器がヒドラの悪用という政治的な理由で破綻した一方で、ウルトロンは人工知能の暴走という技術的な理由で破綻することになります。前者が抑止力を悪用しようとする外的な要因だとすれば、後者はそもそも抑止力自体がうまく動作しないという内的な要因だとも言えます。
また、このあたりから「戦いがあるから抑止力が生まれる」のではなく、「抑止力があるから戦いが生まれる」のではないかという因果の逆転を指摘するセリフやエピソードが増えてきます(双子がスタークを恨むきっかけになるエピソードは本当に秀逸です)。ヒーローが抑止力と同一視されつつあることを鑑みれば、「そもそもヒーローがいなければ戦いは起こらないんじゃないか」という身も蓋もない問題提起でもあります。
ただ、『アベンジャーズ』と同様、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』でも結局のところ抑止力の是非はそれほど掘り下げられなかった印象を受けます。一番良くないと感じるのは、ウルトロンが失敗してジャーヴィス=ヴィジョンが成功したところです。ヴィジョンが暴走を避けたことを受けて、なし崩し的にウルトロンとの戦闘に移行し、なんとなく世界を救うというフェーズ1的なオチを迎えます。

政治的な議論のクライマックスはフェーズ3最初の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』に持ち越されることになります。

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キャプテン・アメリカとアイアンマンが衝突する理由は表面的にはイデアリストvsリアリストという性格の違いではあるんですが、この対立は時代背景に裏打ちされたものです。具体的には「多元主義の時代に対応できているか否か」に決定的な違いがあり、グローバル企業の社長であり情報ネットワークをフル活用している現代人のスタークが多元主義に適応している一方で、戦時中のプロパガンダに出自を持ち情報化社会に付いていけないキャプテン・アメリカパトリオティズムの独善性から抜け出せていません。
ロジャースが生まれた頃の正義では、アメリカという価値観が統一された一つの国の中で連帯出来ればそれでよかったのです。ロジャースにとって友達のバッキーを救うことと正義を守ることが矛盾なく両立しているのは、皆が同じ方向を向いた愛国者という前提があるためです。友達は国の一部であり、国は友達の集合であるため、友達を信頼して守ることがただちに国と平和を守ることになります。そういう戦時中の母国内でのみ成立していた、実際にはローカルな愛国精神の共有をそのまま世界全体に拡張できると思っているので、ソコヴィア協定なんて作らなくても皆が臨機応変に助け合っていけるという素朴なヒューマニズムを捨てきれていません。
スタークも『アイアンマン』『アイアンマン2』で愚直にアメリカを守ろうとしていた頃はロジャースと同じ愛国者っぽかったのですが、『アベンジャーズ』で世界全体を防衛することになった際に思想を更新しています(ロジャースは更新していません)。スタークは『アイアンマン3』で悩み抜いた結果、ロジャースのように愚直に隣人を愛したからといってグローバルな正義は実現されないことを理解しました。一般に人々の利害は一致せず、国は友達の集合ではないため、スタークが恋人を愛することは世界の平和を守ることに繋がりません。その代わり、自律駆動するアイアンスーツを抑止力として配備して強権的に武力を行使するなり、ソコヴィア協定を採択して脅威を管理するなりという、利害を調整するための政治的なアクションを取る必要があります。
最終的にはキャプテン・アメリカが勝利したものの、和解したわけでは全くありません。ラストでロジャースがスタークに送る「助けを求めるならいつでも助けに行く」という手紙は、依然としてロジャースがナイーブな友人ベースの信頼関係を保持していることを示しています。また、ロジャースは自分の正義を執行する過程で刑務所を破ることで犯罪者となると共に、星条旗の盾もスタークに没収されてしまい、彼のようなパトリオティズムがもはや時代錯誤であることが明示されて終わります。
正義ではなく政治が問題であることを示すため、ヴィランのジモがウィンター・ソルジャーを全て破棄しているのが凄くいいですね。これってフェーズ1へのカウンターになっていて、フェーズ1的なヴィランであれば「正しいウィンター・ソルジャー」であるバッキーと「悪しきウィンター・ソルジャー」が戦い、バッキーが勝利することで正義が体現されるというストーリーになっていたはずです。しかしジモはそれではアベンジャーズを倒せないどころか大義という餌を与えるだけだとわかっているから、ウィンター・ソルジャーを処分してそもそも闘いを成立させないという、フェーズの移行を象徴する敵になっています。

さて、フェーズ2ではアベンジャーズのコアメンバーたちが延々と政治的な戦いを繰り広げている傍らで、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』から始まる外伝作品群が成立していきます。これらは本編に対して別の角度からのソリューションやカウンターを提供する役割を担っています。

外伝作品群の先発である『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』では、主人公のクィルを中心に異なる出自の人々が疑似家族を構成する様子が描かれます。

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これが本編の方で繰り広げられている、多元主義に端を発する政治的な議論のオルタナティブであることは明らかです。本編では人類60億人に対して適用される抑止力やソコヴィア協定などのグローバルで強権的な仕組みの是非がクローズアップされる一方、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』ではもっとローカルで小規模な和解が描かれます。もちろんこの方法で60億人をまとめあげることはスケール的に不可能ですから本編に対する回答になるわけではないにせよ、利害の調整という問題に対する新たな示唆ではあります。
「ローカルな信頼関係を重視する」という部分はバッキーとの友情に固執するロジャースと同じですが、クィルが明確に異なるのは、全く異なる出自の種族との和解に成功していることです。ロジャースとバッキーはどちらも戦時中のアメリカという時間的にも空間的にもかなり限定された同じコミュニティの出身である一方、クィルの仲間になるロケットやドラックスは生まれた国どころか星まで違う、全く異なる文化的背景を持つ完全な他人です。内輪に籠りがちなロジャースと異なり、クィルは外に開いたコミュニティを維持しているところに(最近はリベラル御用達の舞台になった感のある)スペース・オペラらしい先進性があります。
また、もう一つ本編へのカウンターになっているのは、クィルやその仲間たちが大義を持たないというところです。本編のヒーローは皆がエリートで、スタークは社長、バナーは天才、ソーは神、ロジャースは英雄です。よって、彼らは最初から責任や大義を背負っており、大きな目的のために戦います。しかし、クィルたちは自らを負け犬と認識しており、壮大な目的もありません。彼らが世界を救うことを決心するシーンも「負け犬だからこそデカいことやろうぜ」というテンションです。これは本編で正義を失ってゆくヒーローたちに対応しており、それならば最初からそれを持たない新たなヒーローとしてクィルが台頭してくるという流れです。

アントマン』の主人公のラングもクィルと同様に脛に傷のある前科者であり、愛娘のためという、世界に比べると非常に矮小な目的のために頑張る父親です。仲間たちとの共通点も同じ犯罪者であることくらいしかなく、なんとなく結び付いた貧弱なコミュニティが彼の力になっています。
この作品では「昆虫」が兵器と仲間の中間的な存在として描かれているのが面白いところです。『アイアンマン3』のアイアンマンスーツのように完全に自律駆動する兵器だと、それはいつか脅威に転じるという『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』及び『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で提示された課題を解決できませんが、かといって大量の人間を軍隊のように起用してしまうと、人間集団の利害は一致しないため一枚岩にはなれないという、フェーズ2を象徴する多元主義的な世界線と一貫しません。このジレンマに対し、蟻は元々どこにでもいるのでミサイルのように奪取される危険が無い上に、虫なので相互に対立するような複雑な意志を持たず、しかもアントマンの仲間として描ける程度にはキャラクターらしさもあるという風に様々な問題をクリアしています。
また、更なるクィルとラングの共通点は、彼ら自身は超人的な力を持たないということです。クィルの武器はよくわからないマスクや銃しかなく、主に疑似家族と協同することによって目的を達成します。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』ではクィルが実は神の力を持つことが明かされますが、それをあっさりと放棄することで超人的な力への需要の無さが強調されています。ラングも博士が開発したスーツを着ることでしか能力を使えません。スーツという点ではスタークと同じですが、スタークがスーツを着る理由が「天才的なエンジニアにしてマッチョだから」であるのに対して、クィルは「窃盗の手際が見事だったから」に過ぎません。実際、『アベンジャーズ/エンドゲーム』ではヒーロー皆がアントマンスーツを着用することになり、ラング自身の独自性の無さが逆に武器になります。このように、むしろ精神と武力を一致させないことで、フェーズ1で頻出した拡張身体のモチーフとは距離を取っていることがわかります。

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ドクター・ストレンジ』は作中で「アベンジャーズは物理的な世界で戦うが、我々は神秘的な世界で戦う」と語られたように、アベンジャーズとは完全に軸の異なる戦いがテーマになっています。本編で示された前提を転倒させるカウンター的な色が濃い、異色の作品です。
例えば、ドクター・ストレンジは時間操作能力を持ち、戦いによって破壊された香港の街を元通りに再生させてしまいます。『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』ではヒーローたちの戦いが街を破壊する二次被害が問題となってソコヴィア協定が採択されたことで衝突が始まったのに、時間を巻き戻して被害を抑えることが可能なドクター・ストレンジはそれを気にする必要が全くありません。ミラー・ワールドに入る能力も同様で、現実世界に影響の出ない別次元での戦いがソコヴィア協定を要求することは有り得ないでしょう。
この時間操作能力やミラー・ワールドによって、ドクター・ストレンジは物理的にも政治的にも現実世界から完全に隔離された領域で戦いを繰り広げます。ヴィランとの戦い方も異様で、ドクター・ストレンジは時間ループの下で負け続けることで相手を根負けさせるという戦略を取ります。これもまた、アベンジャーズたちがチタウリやウルトロンに対して劇的な勝利を収めてきたことと対比できます。外敵に勝つことは抑止力や管理機構の問題の大前提であり、負けても良いのならやはりそれらは必要なくなってしまいます。ドクター・ストレンジは戦いの後始末ですらも時間操作能力でそれを「なかったこと」にして収拾するため、誰にも批難されない代わりに、誰に感謝されることもありません。

以上のように、フェーズ2~フェーズ3前半において、本編では主にキャプテン・アメリカとスタークの闘争を軸にして政治的な問題が解決困難なアポリアとして提示される一方、外伝の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』『アントマン』『ドクター・ストレンジ』などでは新鮮なソリューションやカウンターを提供するという構図が展開されていきました。

・フェーズ3中盤~:実存の時代

フェーズ3の『スパイダーマン:ホームカミング』から『キャプテン・マーベル』までは外伝的な作品群が連続しますが、「出自の正統性の否定」「敵との和解可能性」という二つのモチーフが通底しています。前者はフェーズ2で本編を中心に提示された正義の疑問視からの流れ、後者はフェーズ2で外伝を中心に提示された小規模な和解からの流れです。

「出自の正統性の否定」というモチーフが組み込まれたのが主に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』『マイティ・ソー バトルロイヤル』『キャプテン・マーベル』です。

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マイティ・ソー バトルロイヤル』ではアスガルドという国家を担保していた歴史が実は捏造された偽史であることが明らかになり、ソーは血塗られた過去の象徴である姉と向き合っていくことになります。その過程でソーは奴隷闘技者にまで身を堕とし、底辺から這い上がっていくことを要求されます。外伝では『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』と『アントマン』から続く、ヒーローは底辺から始めようという精神が遂にソーにまで及びました。
これはいわばヒーローの欺瞞を暴く話であり、『アイアンマン3』でスタークがアイアンマンスーツが破棄せざるをえなくなった様子を更に推し進めていると言えます。しかし、『アイアンマン3』のラストではスタークは静かに去るだけだった一方で、ソーは土地を無くした人々を守っていくという新たな使命を背負うラストシーンを迎えます。この前向きさもやはり『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』から受け継いだものであり、「場所・歴史・過去」というグローバルな大義が一度破壊されたあとに、「人・事実・現在」というローカルな正しさを自ら考えて作っていくという代替案が提示されています。これはソーたちが結託する際に「Avengers(アベンジャーズ)」ではなく「Revengers(リベンジャーズ)」を名乗ったことにも象徴されており、大義に基づく報復であるAvengeに対して、個人的な復讐であるRevengeの方がフェーズ2以降は適切と言えます。
また、最初期から反目し続けてきたソーとロキが遂に和解を迎えたのも見逃せないイベントです。ロキは根っからのトリックスター気質であり、まともな考え方では理解できない行動を取り続けるため、『アベンジャーズ』ではロキを説得するも受け入れられず苦悩するソーの姿が描かれました。しかし『マイティ・ソー バトルロイヤル』ではロキを無理に理解することをやめ、「裏切ることを信頼する」という境地に達することで良好な関係を築くようになります。正義の押し付けをやめたことは正しく多元主義への適応です。

キャプテン・マーベル』も『マイティ・ソー バトルロイヤル』とかなりよく似た話であり、キャロルが元々所属していたクリー帝国が侵略者であることを知り、それを裏切って自らの正しさを掴むというプロットです。
やはりヒーローの欺瞞を暴く話ではありますが、キャロルは唯一の女性ヒーローということもあってフェミニズムの文脈が導入されており、クリー帝国の欺瞞は男性優位社会の欺瞞と重ね合わせられています。クリー帝国はキャロルにしきりに「感情を殺せ」とアドバイスしますが、それは過去から由来する反発を忘れさせ支配構造を保つための方策です。この支配はキャロルがかつて女性軍人として男性に抑圧されていたことはパラレルであり、自分探しを終えて主体性を確立したキャロルは双方を同時に乗り越えることになります。特にラスボス戦で「正々堂々と能力無しで戦って勝てばお前を認めてやる」と述べる男性の敵に対して全く相手をせずにそのままブッ飛ばすところが非常に象徴的で、女性には男性の承認は必要ないことが描かれています。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』では、『マイティ・ソー バトルロイヤル』と『キャプテン・マーベル』における偽史と真実の関係が、家族と疑似家族に姿を変えて描かれました。本当の家族である実父こそが棄却すべきものであるというところが若干ねじれていますが、支配的な体制に盲目的に追従することなく自ら正しいと思う方にコミットしていくという姿勢は一貫しています。

一方で、「敵との和解可能性」というモチーフが組み込まれたのが主に『スパイダーマン:ホームカミング』『ブラックパンサー』『アントマン&ワスプ』です。これらに共通するのは、敵を否定するのではなくむしろその意を汲む形で事態が収拾されるということです。

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スパイダーマン:ホームカミング』のヴィランであるトゥームスは家族を守る良き父であり、違法な武器製造や窃盗行為を行うのは家族や会社を守るためです。スパイダーマンはトゥームスを倒すと同時に爆発から救い、それに呼応してポストクレジットシーンではトゥームスもスパイダーマンの秘密を守ることを選びます。また、ラストシーンでは「親愛なる隣人」というスパイダーマンのキャッチコピーがアベンジャーズと対比する形で再解釈されており、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』以来のローカルな信頼を重視するというパーカーの姿勢が描かれます。その一方で、スタークはパーカーに対しては強がって見せたものの、実際には「親愛なる隣人」ではなく「アベンジャー」を求めているという二人の間にある溝もコメディタッチとは言えはっきりと示されており、このスタークの頑固さは『アベンジャーズ/エンドゲーム』まで持ち越されることになります。

ブラックパンサー』に至っては、ヴィランであるウンジャダガはワカンダの高い技術力を世界の黒人の立場向上のため活かすべきだという壮大な大義を掲げており、ワカンダ国内の安寧ばかりを気にするティ・チャラよりもヒーローらしくすらあります。ウンジャダガはワカンダを乗っ取るための手続きもテロ行為ではなく正統な決闘を選択し、ワカンダ国内でウンジャダガ側に共感する人間も増えていきます。終盤でウンジャダガの復讐者としてのキャラクターがクローズアップされるのはヴィランとしての体裁を無理矢理保つためという感がありますが、最終的にはティ・チャラはウンジャダガの遺志を継ぎ、(ただし黒人だけではなく人類全体の利益となるように)ワカンダの技術を解放する形で決着します。

アントマン&ワスプ』はかなり異色の作品で、もはやヴィランとの戦いはメインコンテンツではありません。主な目的は量子世界に消えたジャネットを救うという『アントマン』と同じく家族にフォーカスしたものです。一応黒幕として登場する闇の商人(?)は終始何の活躍もせず、ヴィランらしきゴーストはジャネットが治療することで和解して終わります。
世界の危機を救わず、政治的な問題も扱わず、ただ愛する者を救うだけという極端に縮小した目的意識は量子世界という場に象徴されます。量子世界は時空間の概念がなく、世界のルールが通用しないメタ領域であり、それ故にそこから帰還するためには極めて個人的な家族の絆だけが通用するという世界観が提示されます。常識が通用しないメタ領域では正義も政治も退潮して人生の条件を問う場になる、すなわち実存こそが全ての鍵になるというモチーフは『アベンジャーズ/エンドゲーム』に継承されることになります。

以上のように整理してみたとき、「出自の正統性の否定」「敵との対話」はコインの裏表です。フェーズ2で多元主義の世界において人々には様々な立場があり得るという政治的な論点の前提を確認した結果、ヒーローという立場の特権性を解体するのが前者、ヴィランという立場の正当性を擁立するのが後者です。結論としては権威に固執しないことや敵を理解することという、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』から主に外伝でたびたび提示されてきたところに落ち着いていきます。

さて、ここでそれぞれの作品が描くスケールに注目したとき、問題提起は拡大の一途を辿ってきたと言えるでしょう。フェーズ1で価値観の統一された国内規模でヒーローの正義が語られた一方、フェーズ2では様々な価値観が共存している多元主義の世界規模で政治的な調整が描かれていました。抑止力もソコヴィア協定もヒーローが守るべき領域が広がったが故に発生する論点でしたが、その議論が一度は落ち着いたあとも舞台は広がり続け、北欧神話(『マイティ・ソー』シリーズ)さえもスペース・オペラ(『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズ)に飲み込まれていきます。
その一方で、問題に対するソリューションはどんどん縮小していきます。フェーズ1ではヒーローは全面的に称賛されていたのが、フェーズ2で政治的な問題に関しては賛否両論が生まれるようになり、フェーズ3ではヴィランとの戦いの結末は個人的な分かり合いに収束しがちになりました。その果てに、『アントマン&ワスプ』では量子世界という実存的な領域が登場します。

こうした、「問題提起の拡大」「回答の縮小」という相反する二つの傾向が究極まで行き着いたのが『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』『アベンジャーズ/エンドゲーム』です。

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まず『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』において、ヴィランであるサノスは「人口増大に伴う資源問題の解決」という新たな論点を導入します。これは明らかに多数の人間に対する調整であるという意味で政治的問題の一つであり、論点が抑止力→管理機構→資源問題というように推移しているのがわかります。
この「資源問題」という論点は、サノスの最終目標である割にはそれまでの二つに比べて明らかに背景の掘り下げが足りず、若干唐突な印象を受けるものではあります。サノスの故郷の惑星が資源問題に苦しんだことをサノスがちょっとだけ語るものの、地球でそれが大問題になっているという描写はありません。よって、今人々を苦しめている問題に対するソリューションを提供するというサノスの大義はやや見えづらいところはあります。更に悪いことには、『アベンジャーズ/エンドゲーム』ではサノスが最終的にアベンジャーズへの復讐を誓う底の浅い悪党になり果ててしまいます。
しかし、一見すると唐突な資源問題という論点は、確かにここまでの政治的な議論の集大成です。防衛すべき世界という問題意識のスケールがどんどん拡大していることは既に書きました。正義の時代にはアメリカという国レベル、政治の時代には地球という星レベル、ここに来て宇宙レベルまで拡散しています。スケールが増大すると同時に問題のメタレベルが一つずつ上がり、それに伴って具体性の解像度は徐々に下がっていることがわかります。というのは、アメリカ国内で完結していた正義の時代にはそこで流通している大義について中東情勢や第二次世界大戦を引いて固有名詞で語る余裕があったのに対して、政治の時代には衝突している思想それぞれを具体的に考察して調停するというよりは、そもそも多元主義的な状況そのものをどう捉えるかというメタレベルの高い議論に移行しました。ここから更にレイヤーを上げるとイズムの地平自体が超越され、存在の条件を探る形而上学に近いレベルの議論になることは必然でもあります。

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アベンジャーズ/エンドゲーム』では、メタレベルが上昇した果てに遂に時空間を超越するメタフィクションに到達します。一応量子力学を用いた科学的こじつけがなされてはいるとはいえ、ほとんど奇跡の範疇と言っても問題ないでしょう。
メタフィクションのギミックを用いてヒーローたちが実際に行ったのは、フェーズ1のように正義を示すことでも、フェーズ2のように政治を調整することでもなく、自分の出自と向き合うことでした。時空を超越してインフィニティ・ストーンを集めるという名目で始まった時間旅行は、それぞれの人生の振り返りという様相を帯びていきます。例えば、スタークは幼い頃に生き別れたはずの父親と、ロジャースも70年前に生き別れた恋人と、ソーは死別した母親と再会します。彼らが出会う人々はフェーズ2のように社会的な領域にいる他者ではなく、極めて個人的領域にいる最も大切な者たちです。
フェーズ2までは、問題は常に社会的な他者との関係の間にありました。他者に対して正義を示すフェーズ1、他者との政治を調停するフェーズ2。それが『アベンジャーズ/エンドゲーム』では他者の存在しない、徹底的に個人的な領域で各ヒーローたちは個人史と向き合うことになります。形式的なメタ領域への撤退と主観的な実存領域への進出が同時に行われるというモチーフは、完全に『アントマン』から受け継いだものです。タイムトラベルそのものはアントマンの能力の異常な拡大解釈によって実現されたわけですが、それによって問題へのソリューションも『アントマン』から引き継がれたわけです。なお、モチーフの系譜をもう少し掘れば、物理世界ではなく精神世界で戦うという発想は『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』で登場したスカーレット・ウィッチの能力からの流れです。更に言えば、冒頭にも書いた通りスカーレット・ウィッチの登場を予告する『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のポストクレジットシーンで「これからは奇跡の時代だ」というフレーズが登場しており、数年越しにようやく奇跡らしきものが前景化してきたと言えます。

補足228:この正義→政治→実存という流れは今トレンディというか、他の様々な作品にも見られるものです。例えば、『進撃の巨人』の29巻時点での経緯と全く一致しています。当初は絶対悪である巨人に対抗するヒーローが描かれ、島の外に出るあたりで複数の利害組織が調停する政治の問題に移行し、その後ユミルの民は生まれてくるべきか否かという人生の条件を巡る実存的な問いに移りました。こうした流れは『彼方のアストラ』や、『スタジオパルプ』に向かう久米田康治などにも見出せます。また、「異世界転生」が現実世界を去ることで政治的な領域から退却し、現実のルールが通用しない異世界に参入することで実存的な領域を探求するジャンルであるというのは言い過ぎでしょうか?

最終的に、サノスはスタークの指パッチンにより命と引き換えに倒されます。これって結構ツッコミどころのある描写で、あの局面でスタークが指パッチンしてサノスを倒せるなら、もっと早くにガントレットをリレーしている間に他の誰かが指パッチンしていても良かったはずで、何故かそれを誰も選ばなかったんですよね。指パッチンが命と引き換えになるから(誰も死にたくはなかった、スタークだけが自己犠牲を選べた)という解釈は可能ですが、その直前に指パッチンしたハルクは普通に戦えるくらいにはピンピンしていたので、それはやや無理がある説明です。

そもそも指パッチンでサノスを倒すことの最大の問題は、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のサノスと同じになってしまうということです。アベンジャーズとサノスの目的が同程度の正統性しか持たないということはフェーズ2を通じて散々確認されてきており、また、インフィニティ・ストーンは一貫して超越的な力の象徴としてヒーローたちの武力の延長戦上にあるものです。よって、サノスが彼の大義のために指パッチンでデシメーションを引き起こすことと、誰かがそれを否定するために指パッチンでサノスを倒すことはフェーズ2のメタレベルから見れば同じ行為と言わざるを得ません。これを正当化するためには、フェーズ1のベタレベルに立ち返り、サノスと地球を区別するためのポジションニングを行わないといけません。
それができる人間はあの場にはスタークしか残っていませんでした。他のキャラクターは全て「出自の正統性の否定」「敵との和解可能性」というフェーズ3の洗礼を受けており、大義のためにポジションを取ることが出来ません。例えば、ソーは『マイティ・ソー バトルロイヤル』においてアスガルドが血塗られた歴史の上にあったことを知っており、たとえアスガルドを守るためであっても偽史という強権的な手段を用いてはならないことを既に知っています。それ故、たとえ地球を守るためであっても敵と同じ手続きであるガントレットを用いることは正当化されません。
その点、スタークは『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』以降は一貫して強硬派であり、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の冒頭でも「抑止力を配備すべきだった」という姿勢を崩していません。また、既に『スパイダーマン:ホームカミング』のところで述べたように、隣人と親愛を築くスパイダーマンとは違って、大義の下に報復を行うアベンジャーであることを諦めてはいません。『アイアンマン3』においてスタークは思想を国レベルから地球レベルへは更新したものの、それ以降の地球レベルから宇宙レベルへの更新は頑なに拒んでいたのです。恐らくその理由は彼が徹底したリアリストだからで、リアリティを持って防衛できるのは人類まで、スペース・オペラ以降はファンタジーの範疇だという線引きを行っていたのではないでしょうか。

タイムトラベルによる実存的な探索が身を結ぶのは、スタークではなくソーとロジャースです。彼らはいよいよ本格的にヒーローを廃業し、人生を謳歌することを選びました。ロジャースはタイムトラベル中に勝手に自分の人生をやり直して老人になって帰ってきますし、ソーは「あるべき自分よりありのままの自分でいたい」というリベラルのキャッチフレーズみたいなものを述べて宇宙船に乗って旅立っていきます。

ところで、サノスを倒したあとは改めて資源問題を扱わないとおかしいと思うのですが、そこに全く触れられなかったのは不満の残るところです。サノスがいなくても資源問題が生じないのであれば、サノスの思想って何だったのということになってしまうからです。問題を提起する割には最終的な回答が雑というのは『アベンジャーズ』タイトルに共通する傾向であり、これに関しては他の作品がまた扱ってくれるのかもしれません。『アベンジャーズ/エンドゲーム』で一区切りではあるものの、MCUはこれからもまだ続いていくらしいので楽しみにしています。