LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

20/11/13 2020年9月消費コンテンツ

2020年9月消費コンテンツ

9月は『ルフランの魔女と地下迷宮』が終わらないばかりに50時間くらい奪われてしまい、変な和ゲーはもう金輪際やめようと心に決めた(この記事を書いてる今もまだ終わってない)。
俺が極稀にゲームを遊びたくなったときは「据え置き最新機種のパッケージで出てる」「オリジナル」「萌えとは言わないまでもJRPG系かアニメ系の絵柄」「願わくば女性主人公」みたいな基準でとりあえず選ぶのだが、これをもうやめたい。
この基準そのものが面白くないゲームを導くとは思わないのだが、これを満たすゲームを供給する国内サードが片手で数えられるほどしかない(ネプテューヌと愉快な仲間たち)。基本的に彼らのゲームを俺は面白いと思わないので、この基準で選んでいると終わることにようやく気付いた。

メディア別リスト

映画(4本)

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒
マッドマックス
バーフバリ
バーフバリ2

書籍(7冊)

蜂の寓話
カントの哲学 シニシズムを超えて
14歳からの哲学入門
寝ながら学べる構造主義
クリプキ 言葉は意味を持てるか
コロナ時代の哲学
フーコー入門

漫画(13冊)

がっこうぐらし(全12巻)
ドM女子とがっかり女王様(1巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

蜂の寓話
クリプキ 言葉は意味を持てるか
ドM女子とがっかり女王様

消費して損はなかったコンテンツ

バーフバリ
寝ながら学べる構造主義
フーコー入門
14歳からの哲学入門
がっこうぐらし
カントの哲学 シニシズムを超えて

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒
コロナ時代の哲学
マッドマックス
バーフバリ2

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

 (特になし)

ピックアップ

蜂の寓話

かなり面白かった。サブタイトル「私悪すなわち公益(Private Vices, Public Benefits)」がカッコイイ。
サブタイトルから予想されるように、いわゆる悪徳とされる利己主義が社会の繁栄と安定のために必要不可欠であることについて論じている。1714年刊行であり、「個々人が利益を追求していれば(=悪徳)、社会は勝手に安定する(=公益)」という文脈で経済学の祖たる1723年生のアダムスミスにも繋がっている。影響力の大きな書籍である割には内容はエッセー調かつシンプルに文章が面白いので非常に読みやすい。

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まもなくわたくしは小さなずんぐりした聖書を投げつけられ、頭を割られて死ぬであろう。そうした聖書は、真鍮の留め金をつけられて災いをおよぼすようにしかけが施されており、慈善学校の学習がやめになったので、閉じたままほかならぬ実戦にも真の論戦にも適するようになっているのである

ここで一分くらい笑ってしまった。「実戦にも適する聖書」という概念の世界観が『ベルセルク』だが。聖書に真鍮の留め金を付けると有利になる「真の論戦」って何?

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終始この調子で、主たる論旨に関してもデータを用いて客観性のある分析をしているというよりは、都合の良い主観的なエピソードを次々に出してきているガバガバ理論な感は否めない(だから面白いのだが)。
とはいえ、そのあたりの方法論を整備したらしいデュルケムが登場したのも19世紀後半だし、当時の社会学(?)の水準はこんなものなのかもしれない。数値に基づいた論証を行っていないために事実と考察が分離しておらず、常に経済的な側面と道徳的な側面が融合した独特のモザイクの中で主張がなされていく。

まず道徳的な側面については、「美徳とは追従が自負に生ませた政治的な申し子である」という金言が全てを表している。
人間の根源にある欲望とは自負すなわち自惚れであって、人に何かをさせようと思えば自惚れをくすぐるように賞賛や侮辱を与えれば事足りる。利他的な行為を持ち上げる価値観を形成しておけば、人々は賞賛を求めて追従し、逆の行為は侮辱を嫌って忌避するというわけだ。すなわち美徳とは、それに人間の自惚れをくすぐり模倣させることで社会を調停するものに他ならない。美徳とは結局私欲によってしか駆動しないため、それが退けたところの悪徳そのものである。

経済的な側面については、「結局のところ奢侈こそが社会を回すのだ」という旨の主張が無数の恣意的なエピソードによって延々と語られ続ける。
ただし、ここで「富めるものが富むことで社会が繁栄する」という理由で「富むべき」とされている範囲は上流階級に限定されている。「上流階級が富むことで結果的に貧者も富む」というトリクルダウンの構図は全く想定されていない。
むしろ貧者は貧者のままで過酷な肉体労働をして社会の下部を支えていてもらわなければ困るとして一貫して階級格差肯定の立場を取る。不用意な啓蒙をすることは社会を攪乱するので下級階層は無知のままで一生を終えてほしいという思いが「ロシアには知識のある人間が少なすぎるし、大ブリテンには多すぎるのである」という金言で表明されている(この本、金言が多すぎる)。

今から見ると相対的に過激な思想ではあるが、著者のマンデヴィルが公益を追求する気持ちが本物であることについては注意が必要だろう。
この本で公益と言われているものは本当に文字通りの社会繁栄と安定であり、マンデヴィルは利他主義者でこそないものの局所的な功利主義者で有り得る。よって、社会を攪乱して終末に追いやる破滅型の「悪徳」は、『蜂の寓話』においては「私悪」としてカテゴライズされていない。それは恐らくマンデヴィルにとっても忌避すべき対象である。

更なる実践編として、「慈善と慈善学校における試論」で(一般的に道徳的な行為とされているところの)慈善と慈善学校の二つに最強の攻撃を加える補論が収録されている。
道徳的には慈善学校など周りからよく見られたいという自負心によって作られているにすぎないし、経済的にも子供たちを啓蒙することは長期的に見れば労働層を弱体化させて社会を不安定にする。慈善とはもはや悪徳の手を離れて遊離してしまった美徳であるために公益に寄与しない。
冒頭で「聖書にぶち殺される」と卑屈になっているのは、慈善学校でしょうもない読み書きの教科書や聖書の手引きで教育するのをやめてほしいというマンデヴィルの主張が通れば仕事を失った製紙工場業者の恨みを買うからだ。

クリプキ 言葉は意味を持てるか

ウィトゲンシュタインを論じたクリプキを論じるという二重入れ子構造になっている本。
大雑把には「人間にとって言葉の意味など存在しない」という懐疑論について。この記事は内容解説記事ではないので詳述はしないが、「現実的に人間は人生の中で有限の知見しか得られないのにそこから無限の精度を持つ論理的意味を帰納することはできない」というような論旨である。
前回の機械学習回でもちょろっと言及したが(→)、この手の言説が「機械は意味を理解できない」というAI関連でよくある批判に対してのアクロバティックなカウンターとして機能するわけだ、「機械だって人間と同じように意味を理解している」という常識的な反論の逆を行くという意味で。
いま改めて考えてみても、確かにこの方向で人間と機械の意味理解(という錯覚)の間に差が見いだせるとは思われない。人間は意味を理解しないとすれば、況や機械をや。

ただ、論理的に考えて不合理なことなど主に自然科学の領域には無数にあるわけで、懐疑論を是認したあとは「よくよく考えたら不合理でありながら何故それを当然のように享受しているのか」という問いに進む方が建設的ではある。

バーフバリ・バーフバリ2

バーフバリ伝説誕生(吹替版)

バーフバリ伝説誕生(吹替版)

  • メディア: Prime Video
 

1は面白かったが、2で一気に陳腐な話になってしまった。

1の時点では主人公のバーフバリが宗教的な色彩を交えて超越的な存在として称えられており、それは主に絶対的な上下関係によって担保されていたように思う。具体的にはカッタッパからバーフバリへの揺るがない忠義や、バーフバリからシヴァガミへの崇拝じみた信頼がそれに当たる。
インドらしい身分が強い世界の中では人々は生まれた時点で能力や階級が固定されており、誰もそこから逸脱することはできない。それ故に上位の者には身分相応の誇りと強さが求められると同時に、下位の者は上を仰ぎ見て安心感を得ることができる。
こうした階級社会制度は今では反リベラルな「悪」と括られがちではあるが、それ故に(あまりにも粗雑で安直な対立ではあるが)自由主義に毒されたアメリカ映画に対するカウンターとして身分制度を重視するインド映画というポジションがハマっていたように感じた。

だが、2では泥臭い権力闘争が話の本筋になり、それに応じて上下関係も曖昧なものに弱体化してしまう。
シヴァガミが王族の誇りにかけて立てた息子への誓いよりもデーヴァセーナの自由恋愛の方が尊重されるようになってしまうし、ラスボスであるバラーラテーヴァの目的にも王としての誇りは全く伺えず、ただひたすらに強大な権力を握るというハリボテのヴィランなものでしかない。1の頃にあった天上界で営まれるような荘厳な雰囲気は消え失せ、地上的な悪を倒すヒーロー映画に落ち着いてしまった。

補足355:ただ、1の段階で「王族が奴隷と食事を共にする」というエピソードが「分け隔てなく接する」的な文脈で肯定的に語られていたり、バーフバリ自身が身分を隠して雑魚のフリをすることに躊躇いが無かったりと、身分制度を否定するような描写もいくつかある。俺は現代のインド文化がどれだけリベラルかとかインド映画の制作事情がどうなっているかとかは全く知らないのであまり迂闊なことは言えないが、そのあたり元々かなり海外向けに作られていたような気配も感じる。

上下関係が崩壊して話がリベラルに転換していくことによって、荒唐無稽な表現に対してもどんどん冷めていってしまった。荒唐無稽な表現とは、具体的には船が空を飛び始めたり、いきなり皆揃って踊り出したり、いきなり民衆が合唱したり、「そうはならんやろ」的なやつのことだ。
上下関係に担保されたバーフバリの崇高さが維持されていた1の頃はそうした描写にも「それだけ強大な存在だから」という納得感があったのだが、それが消えてしまった2ではただ単に幼稚で子供だましのものに見えてしまう(ヒーロー映画と同じ)。船が空を飛ぶような描写が聖書によくある盛り話のような神格めいた崇高さの表現なのか、ピクサーのアニメーションのような子供っぽいファンタジーなのかは本当に紙一重だ。

がっこうぐらし

saize-lw.hatenablog.com

上の記事ではアニメ版と漫画版をまとめて割と肯定的なことを書いたが、2020年9月に消費したのは漫画版だけなので正直なところあまり得るものがなかった。漫画版はアニメ版で示した枠組みを超えていない上に基本的にアニメ版の方が優れていたことは既に書いた通り。学校卒業以降は概ね蛇足で、アニメを見れば十分な感じだ。
せめて好きなキャラが一人でもいればキャラ萌えパワーで戦えた気がするが、残念ながらその路線でも戦えなかった。

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(字幕版)

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(字幕版)

  • 発売日: 2020/05/22
  • メディア: Prime Video
 

あのハーレイ・クインがあのジョーカーと別れたという期待の持てるキャッチーな導入に対して、続く内容は本当に面白くなかった。
男性に抑圧されてきた女性たちの結束というモチーフがあまりにも透けて見えすぎている。ドラマ版『ウォッチメン』と全く同じ流れで、前作『スーサイド・スクワッド』が面白かったのに続編がポリコレにやられたシリーズとしてガッカリしてしまった。

主人公がジョーカーという男性に抑圧されてきた女性、女刑事が男上司に手柄を奪われて抑圧されてきた女性、女暗殺者が男マフィアに家族を殺されて抑圧されてきた女性、ダンサーが男性ボスに暴力を盾にいいように扱われて抑圧されてきた女性。全く同じ背景を持つ女性が四人も出てきて、「男性に抑圧されてきた女性たちよ、今こそ立ち上がれ」と叫びながら実際にそれをするだけの話だ。

念のために言っておくが、俺は女性が戦ったり暴れたりする作品は(政治的な実効性を抜きにして個人的なフェチズムとして)かなり好きな方だと思う。『ファイナルガール』だの『セブン・シスターズ』だの『トラジディ・ガールズ』だのといった、名前からしてうっすら内容に想像が付く駄作たちを見かけるたび、とりあえず借りて目を通している。
『華麗なる覚醒』が面白くないのは、彼女たちが男性に対するカウンター以外にどういう人物でどういう利害関係を持っているのかが全然見えてこないことだ。特にハーレイ・クインなんて元々そこらをうろつくキャラをミキサーにかけて三回ほど濃縮還元したような「濃い」キャラのはずなのに、クライマックスに向かっていくにつれてどんどんプロットの操り人形になっていく様子には涙を禁じ得なかった。

更に悲しいのは、これがDCEUの続編であることだ。本来DCEUの世界観は欲望と愛に満ちている。悪名高い「母の名前がマーサ」が象徴するように、愛があれば結果を問わないという破滅的なヒーロー像がMCUへのカウンターでもあり得ることは以前にも書いた。

saize-lw.hatenablog.com

それは『華麗なる覚醒』の前日譚にあたる『スーサイド・スクワッド』でも一貫している。『スーサイド・スクワッド』ではヴィランたちが色々あって世界を救ったにも関わらず、ラストでは破滅の化身であるジョーカーが監獄を破ってハーレイ・クインを救出しに来るシークエンスがハッピーエンドとして描かれることで、世界の救済とジョーカーの破滅的な愛が同じ直線上にあることが示される。
それが『華麗なる覚醒』では異性愛というだけの理由で退けられてしまい、代わりに女性というだけで何となく緩く連帯するだけの熱力のないコミュニティが何となく勝利して終わってしまう(これがレズビアンコミュニティであるならばまだ納得もいくのだが)。

コロナ時代の哲学

コロナ時代の哲学

コロナ時代の哲学

 

時代の当事者としてコロナ禍を人文的に語るタイプの書籍を一冊くらいは読んでおくかと思っていたところ、あの大澤真幸が出しているものを見つけたので読んだ。面白くはあったが、値段と期待ほどではなかったという感じ。

メインの論文『ポストコロナの神的暴力』では主に中国をモデルケースに想定してコロナ対策と監視社会のトレードオフをどう捉えるかが論じられる。
常識的には対立項にある全体主義と民主主義が陰陽魚の如く交代する機構について論じるところは実に大澤真幸らしく読み応えがあったし、そこだけで読む価値はある(「徹底した末の反転」というモチーフは『虚構の時代の果て』でも主題となっていて親近感があるものだ)。

だが、監視社会への具体的な対抗策を挙げるところでは一気にガッカリしてしまった。

モニタリング民主主義のIT版ということについての具体的なイメージを与えるならば、それは、スノーデンやウィキリークスがやったことである。彼らは非合法なことをやったとして国から逃亡せざるをえなくなっているが、むしろ、彼らはモニタリング民主主義の英雄である。つまり、スノーデンやウィキリークスの活動を合法的な市民運動として許容すれば、これが、そのままIT時代のモニタリング民主主義の実践例になるのだ。

「それはそうだろうよ」と口をあんぐり開けてしまうのは俺だけではないと信じたい。それが出来ないから監視社会なのであって、これは単なるちゃぶ台返しだ。
もっとも、この論文は実践的な具体策ではなく哲学的な知見を交えて考察を加えることに力点があるため、ことさらに具体例を取り上げるのはアンフェアな失望かもしれない。ただ、コロナ禍の当事者としての期待を持ってこの本を読んでいる以上は具体策に関心が偏ってしまうのも仕方ないではないか?