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20/4/21 2020春アニメの感想(2/2) プリンセスコネクト!Re:Dive/かぐや様は告らせたい?/乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…/ギャルと恐竜/放課後ていぼう日誌

2020春アニメ感想(続)

saize-lw.hatenablog.com

前回の続き。

プリンセスコネクト!Re:Dive

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面白かった。多分全話見ると思う。

男主人公の処理がものすごく上手くて感心した。
美少女ソーシャルゲームが完全にオタク界の市民権を得た昨今、メディアミックス展開時のアニメ化において男主人公をどう処理するかという問題は重要だ。美少女ソシャゲなんて基本的に美少女をガチャで引いて収集するフィギュアケースに申し訳程度の説明書きを添えた程度のもので(もちろんタイトルにもよるが!!)、男主人公は彼女らを鑑賞するプレイヤーの視点として便宜的に付け加えられるに過ぎない。コンテンツの中核は美少女なのだから、男主人公には彼女らと必要以上に干渉しない存在感の薄さが要求される。
よって、アニメ化の際に男主人公を第三者視点から描いてしまうことは大きなリスクだ。ゲーム上では存在感が薄くプレイヤーと同化していた男性キャラが、突如意志を持って美少女動物園を侵略してくることがどれほど不愉快かは語るまでもない。実際、美少女ソシャゲをアニメ化する際には男主人公をオミットするのが最適解の一つであり、その方策を採用した前例は『ガールフレンド(仮)』『艦これ』『アズールレーン』などいくらでもある。

しかし、『プリコネ』ではアニメ版でも男主人公をきちんと立てる方針を採用した。
元々Twitter上では赤ちゃんネタがそこそこ面白がられていた「騎士くん」ではあるが、アニメを見てすごいな~と思ったのはニコニコのコメントやまとめブログの反応がかなり好意的なもので占められていることだ。上に貼った画像のように、主人公が頑張るシーンでは「えらいぞ」「かしこい」「かわいい」などの応援弾幕が流れてくる始末だ。これは本当に奇跡的なコンテンツコントロールであり、背後には相当高度なキャラクリエイト思想があると俺は踏んでいる。

騎士くんを美少女動物園に馴染ませるにあたり用いられている技法は基本的には「男主人公を萌えキャラする」というようなものだと思う。
「騎士くん」は美少女たちと干渉しないようにマッチョな男性性がとにかく排除されている。「記憶が混乱している」という設定を盾にして、一見すると知的障碍者に見えるレベルにまで発話能力を下げる。徹底的な無害さの演出、幼児レベルのナイーブな倫理観、バッファーとしての才能=アタッカーとしての非力さ。

特に最後の一つは原作から受け継がれたもので、ゲームにおけるジェンダーロールという観点から見てもかなり面白い。
『プリコネ』ゲーム版はユニット編成型のコマンドバトルなのだが、男性の主人公は後方支援魔法のプロであり、美少女キャラクターたちが武器を持つ前衛アタッカーという役割が固定的に割り振られている。古典的なRPGのイメージでは女性キャラクターはメディックや魔導士などのヒーラー・支援職を割り振られがちなことを踏まえると、いわゆるジェンダーロールが転倒している様子が伺える。

補足282:とはいえ、オタク界にはビキニアーマーのような「戦闘美少女」のフェチズムが古来から脈々と受け継がれていることも事実だ。よって無数にあるはずの例外を前にして迂闊なことはあまり言えないのだが、少なくとも偏狭な家父長制の価値観においては会社で「戦う」のが父親、家で「支援する」のが母親であるくらいのことは言ってもいいだろう。

もっとも、それは恐らく「(男の活躍なんて見たくないから)美少女に前線で活躍してほしい」という商業的な要請が先行して生まれたゲームシステムであって、男女のジェンダーロールを逆転させようなどというフェミニズム的意図があったわけではないだろう。しかし、アニメ版ではそれを更に強化して男性のジェンダーロールを完全に破壊することにより、第三者視点からヘイトを逸らすという副次効果が得られていると見ることはできる。

かぐや様は告らせたい

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面白いかどうかよくわからないが、たぶん漫然と全話見ると思う。

『かぐ告』に関しては、俺は原作漫画も読んでいる結構なファンだ。以前、「赤坂アカの前作『ib-インスタントバレット-』を踏まえると『かぐ告』ってセカイ系を葬送する作品だよね」という話を書いたこともある。

saize-lw.hatenablog.com

前作の内容も含めた入り組んだ話なので、詳しくは上の記事を読んでほしい。
簡単に要約すれば、『ib』の主人公たちが謳歌していた「世界を巻き込む特別な恋愛」のゼロ年代はもう終わってしまったということだ。『かぐ告』の主人公たちも「特別な恋愛」に憧れているからこそ「普通の恋愛」を拒絶するのだが、彼らが思い描く特別は歪んでいていつも上手くいかない。彼らはその挫折に困惑しながらも、結局は普通に告白して普通に付き合っていくことになる。この意味で、『かぐ告』はセカイ系の残党が平凡な人生を受け入れていく過程を描いたポスト・ゼロ年代作品でもある。

また、アニメ二期のタイトルである最後の「?」は原作カバー裏に頻出する自虐ネタを踏まえたものだ。連載が進むにつれてかぐやと白銀が割と普通にベタベタするようになったことを受けて、「言うほどかぐや様って告らせたいか?」「これってもう天才たちの恋愛頭脳戦じゃなくないか?」とタイトル詐欺を自問自答する思いが「?」に込められている。

そしてその反省は単なる自虐ネタに留まるものではなく、赤坂アカの実存的な動揺が確実に滲み出ていると俺は踏んでいる。
赤坂アカ自身が『ib』=コテコテのセカイ系作品に熱烈に執着していることはファンの間では有名だ。『ib』は人生を賭けた作品であり、打ち切られても諦めずに続編を描こうとしていることは『ib』最終巻のあとがきにはっきりと記されている。それは最近でも一向に変わっておらず、今でも折に触れて『ib』のツイートをしているくらいだ。

しかし既に書いたように、『ib』が特別な恋愛を描く作品である一方、『かぐ告』は特別な恋愛を諦めて普通の恋愛に向かう作品なのだ。口先では『ib』を描きたい描きたいと言っておきながら、『かぐ告』は『ib』を裏切る方向にどんどん展開していくことに対して作者自身が一番困惑していて、それがカバー裏の自虐ネタに表れているのだと言えば邪推の行き過ぎだろうか?
赤坂アカが『ib』を復活させたとき、それはかつてのセカイ系の輝きを取り戻せるのか、それとも『かぐ告』と同じように挫折して変質していくのかは一度見てみたいところだ。

乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…

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かなり面白い。全話見ると思う。

「女主人公で異世界無双転生系の需要が高い」みたいなことは以前に『防振り』の記事でも書いたが、この需要に応えているジャンルの一つが「悪役令嬢もの」であることは間違いない。

俺は少女漫画にはあまり詳しくないのだが、「悪役令嬢もの」は基本的には少女漫画の文法を踏まえた女性向けジャンルであるらしい。乙女ゲームとか夢小説の女性主人公には2パターンあって、皆に愛されるモテカワなタイプと、芯が強くてはっきり言うタイプがある(跡部景吾に「俺に意見する女は初めてだ」とか「おもしれーやつだな」とか言われてるやつ)。後者のタイプが「強い女性」として異世界転生無双ブームと融合して悪役令嬢転生というジャンルが誕生したという経緯であるらしい(知らんけど)。

その真偽はともかく、強い女性が無双しているだけで大満足なので、これからも楽しみに見ていきたい。

ギャルと恐竜

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かなり面白い。多分全話見る。

アニメパートはそんなでもないけど、蒼井翔太とか見栄晴がワチャワチャやってる実写パートが本当に面白い。内容自体はコテコテのループもの・パラレルワールドものなのだが、明らかにギャグとして扱っているのが見ていて気持ちいい。元々ループものが一種のメタフィクションであることを踏まえると、それを更に俯瞰する『ギャルと恐竜』はメタ・メタフィクションと言えようか。

なんというか、ループものアニメって何となく「深い」作品になりがちなのだが、『ポプテピピック』から『ギャルと恐竜』への流れで試みられているのは明らかにそういう「深い」ループではない。むしろ徹底的に「浅い」、それっぽい描写を組み合わせたキッチュな粗悪品、上滑りするギャグだ。視聴者も制作者も、『ギャルと恐竜』は『シュタゲ』のように本気でループをやっている作品ではないことは了解している。

ループものに実質的な内容を充填せず、形式的な演出だけをジャンブルにしたイメージの総体が『ギャルと恐竜』だ。ループものを良い意味では解体し、悪い意味ではバカにしている。押井守の『天使のたまご』と言うと流石にちょっと言い過ぎだが、ソリッドな物語もある種の拘束であって、そこから上手く抜け出すことは新鮮な解放感をもたらすのかもしれない。

こういう実験的なアニメの枠、毎期一本くらいあってほしいなあ~。

放課後ていぼう日誌

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面白くはなかった。多分二話以降は見ない。
萌えオタクなので女の子が可愛ければ内容問わず見ていた可能性が高いが、キャラデザもそんなに好みではない。上の画像の、主人公が(これだから田舎の野生児は……)って心中で毒づくシーンだけは結構好き。

一話切りする癖にゴチャゴチャ言うのは気が引けるが、主人公が「ぬいぐるみ趣味」を保留して「釣り趣味」に向かうのって、デフォルメされた虚構と生きて臭いを発する現実を対比する意図があるのだろうか。もしそうだとすれば、主人公がぬいぐるみから釣りに軸足を移すことには「現実に帰れ」という自然主義的なイデオロギー(?)を感じてしまうのだが、これは俺の被害妄想か?