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19/10/20 グランベルムの感想 闘争の中に己を見出すのをやめなさい

・グランベルムの感想

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グランベルム、面白かったです。

放送開始当初にも「このアニメ面白いな」と思ってちょっと長めのファーストインプレッションを書いたんですが→、期待を裏切らない出来でした。
論点はそこから全く変わっていなくて、「バトルロワイヤルの目的と手段が転倒していないか?」「バトルロワイヤルに勝ち残ることではなく戦うことが目的になっていないか?」という警鐘です。前回の記事を書いた時点では満月が第二話で「私には何もない、だから戦いに参加して何者かになりたい」という動機でグランベルへの参加を表明していました。これって「自分がアイデンティティを得るためだけに他人を蹴落とす」ということでもあって、典型的なバトルロワイヤル主人公が他人を蹴落としたくないがために戦いをやめさせようとするのとは真逆を行く異常性があるよねというようなことを書いたのでした。

話数が進むにつれ、満月が新月に作られた本当に何もない人形だったことが明らかになり、議論の前提は強化されます。また、それと並行して他にもバトルロワイヤルの目的と手段が転倒した人々が続出します。
例えばアンナは戦いの中で新月を傷付けることが目的になり、もはや勝ち残ることなどどうでもよくなっています。闘争の自己目的化、勝ち残りの軽視という二点で満月と同じ道を歩んだ者の末路が先に提示されたのでしょう。また、九音も「(姉を助けられるならば)グランベルムなど負けてもいい」というような発言をしているほか、新月の目的も最終的にはグランベルムそのものを終わらせることです。どうも参加者にイマイチやる気が見られず、本当の目的が正しくバトルロワイヤル的な人、すなわち「勝ち残って願いを叶えたい人」が実は特にいないことが明らかになっていきます。

満月が自らが人形であることを知って本当にアイデンティティを喪失したあと、彼女がどうやって自己救済するかが実質的なクライマックスとして描かれます。第二話のように闘争の中に己を見出すのか、それとも他の道が有り得るのか?
ここで注意すべきは、満月と仮面ライダー王蛇のようなバトルマニアの違いです。「自己目的化したバトルロワイヤル」といったとき、恐らく「戦闘狂」「戦うために戦う」「狂戦士」というキャラクター類型がバトルロワイヤルにありがちなプレイヤーとしてただちに連想されます。実際、そうしたキャラクターの典型である仮面ライダー王蛇と満月には多くの共通点があり、例えば二人とも「過去を持たない」「闘争が目的化している」という二点がその代表です。
しかし、二人の違いは優先順位にあります。王蛇の第一モチベーションが闘争であり、「闘争が目的である」→「だから過去には興味が無い」という辿り方をするのに対して、満月の第一モチベーションは過去の欠落であり、「過去を持たない」→「だから闘争を目的にする」という順序です。満月は王蛇というよりは、王蛇になりたいプレイヤーでしかありません。

ここに満月が付け入る隙があります。
満月は過去の欠落によって失われたアイデンティティを補完することが最大の目的なので、実はその手段が闘争である必要はありません。実際、本当に闘争が自己目的化して壊れた人間というキャラクターはアンナが代わりにやってくれたので、満月が他の手段で自分を救済することは間接的に示唆されていました。
満月の回答が提示されたのは四翠との会話においてであり、それは「身の回りの自然や星々にも素晴らしいものはある」「本当に透明な人間はいない、誰かが覚えている」というようなものです。自然主義者っぽいこの回答にあまり説得力があるとは思えませんが、記憶を修正された妹の希望と会話するシーンは結構感動してしまいました。妹との関係がリセットされたけど、また一から関係を築いていけばいいやと思って改めて悲愴感のない自己紹介から入るところ好きです。

結局、闘争によらないアイデンティティの構築経路を確保できた満月は、勝ち残りを待たずに戦いからドロップします。
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このアニメの要点ってこの「バイバイ」に全て集約されていて、要するに「バトルロワイヤルを勝ち残る」のではなく、「バトルロワイヤルからドロップする」という倫理性です。最終話で満月が叫んだ「誰もが欲しいものは存在しちゃいけないんだ」というセリフが、そもそも超越的な領域に存在を賭けることが既に誤っているということをよく表しています。
この満月のドロップに呼応する形で、もはや消化試合ではありますが超越性=魔力の消滅を賭けた戦いに新月が本格的に参入することになります。新月は表面的には勝ち残る気があるように見えますが、最終目標はグランベルムの消滅であり、個人的な欲望を叶えることではないので、根底にあるのはやはり満月と同様に「闘争からのドロップアウト」という倫理の体現です。
なお、満月や新月と真逆なのが何度もドロップすると見せかけてその度に諦めておらず戦い続けたアンナです。「自分の目標を絶対に諦めない」という意志の強さは美徳のように語られることが多いですが、『グランベルム』の問題設定ではその手の執着はもう求められていません。本当に強いのは満月のように勝負に執着しないでスルッと降りられるやつです。
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ラスボスの水晶って『グランベルム』以前の古いバトルロワイヤルの亡霊ですよね。
彼女は「バトルロワイヤルに勝ち残ることに意味がある」時代から戦っていたので、勝者には勝者なりのモラルを求めるし、今までの参加者たちが個人的なエゴで戦っていたことに嫌気が指しています。満月と新月は自分たちがエゴイスティックな存在であることは否定しませんが、「もはやバトルロワイヤルに勝ち残ることに意味を見出していない」という点で水晶と決定的に異なっています。実際、二人はグランベルムという超越的なシステムの無効を宣告することで水晶を葬送します。

「ラストが『まどマギ』じゃん」っていうのはまあ僕もちょっと思いましたけど、問題設定が違います。
まどマギは古いバトルロワイヤル的な話なので、各人の叶えたい欲望がまず何よりも最初にあって、それを叶えるための手段として莫大なコストの支払いが付随していました。一方でグランベルムではキャラクターたちはまず最初にコストとしての闘争の方を求めていて、叶えたい欲望の方が闘争に付随する賞品でしかありません。
だから『まどマギ』の場合は「まどかがコストの支払いとしての魔女化を解除したあと、最初にあった欲望はどこに行くのか」という問題があります。魔女システムを消したところで、人々の中にあるそれぞれの欲望は今まで通り残るはずで、その欲望は今まで魔女化してでも叶えたいくらい強烈だったわけですから、まどかが成就の手段を抹消したとしても欲望そのものが消滅するというのは成り立たないんです(因果関係が逆です)。だからコストなんて歯牙にもかけずに依然として欲望を成就させるプレイヤーとして、ほむらが叛逆の物語で立ち上がってくるのはむしろ必然です。結局まどかは副次的な手段の一部を奪っただけで、人々の欲望そのものを無効化できる理由はないので、ほむらの発生を止めることができません。

補足215:ちなみにエロゲーに詳しい人に「『まどマギ』の回答ってわりとちゃぶ台返しの欺瞞じゃない?」と聞くと、「世間的に有名になりすぎているだけで実は虚淵史としては『まどマギ』は例外的な作品なのだ、文学的に緻密な検討を何度もしてきた中でヒットした『まどマギ』がたまたまぶっぱ寄りの回答をしているのだ」という答えが返ってきて、「なるほどなあ」と腑に落ちました。

それに比べれば、グランベルムの場合はもう少し穏当な末路が示唆されています。まず最初にある目的はアイデンティティの獲得であり、闘争への参加はその一手段でしかなく、欲望の成就は更にその賞品でしかありません。よって夢を叶えるシステム=グランベルムが自壊してくれれば、闘争と欲望への意志も霧散する可能性が高いです。もっとも、満月は一般的には「グランベルムが無くなったって世界は何も変わらない、世界はそんなに簡単じゃない」ということを知っていますが、彼女自身はバトルロワイヤルからドロップする形で自らの目的にケリをつけることができています。

だから『まどマギ』を乗り越えて更なる解決手段を提示したというよりは、問題設定の方を変えてしまって、似たような回答を有効にしたというのが実情だと思います。
単なる論点ずらしではあるので「まどマギを超えた!」という持ち上げ方をするつもりは全くないんですが、以前にも書いたように「バトルロワイヤルの目的と手段が転倒している」ということはVtuberなどを見ていても肌感覚で感じるところではあるので、妥当な修正を加えたバージョンとして結構面白かったなという感じです。