LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

21/4/11 2021年2月消費コンテンツ

2021年2月消費コンテンツ

note.com

なんか消費コンテンツの輪が広がってました。2021年1~3月まで更新されていたので読みましたが、言われてみればそうだなと感心する解釈が多くて面白かったです。
2月号で言及している「邪神ちゃんで本当に召喚されているのはゆりねの方で、世界が反転したゼロ魔ではないか」みたいな話とか、3月号の「(一見したときの過酷さとは異なり、実は他の無双系異世界転生と同じように)リゼロもアスペルガーのスバルが元の世界よりは順応しやすい世界に召喚される話なのでは」みたいな話は確かに~と思いました。オススメです。

メディア別リスト

映画(6本)

ハッピーエンド
メランコリア
天使にラブソングを…
2010年
レオン
ハンガーゲーム

アニメ(6話)

ぶらどらぶ前半(1~6話)

書籍(2冊)

はじめてのウィトゲンシュタイン
宗教学の名著30

漫画(48冊)

約束のネバーランド(1~20巻)
フラジャイル(16~19巻)
お別れホスピタル(1~4巻)
薬師のひとりごと(1~4巻)
青のオーケストラ(1~6巻)
聖お兄さん(1~10巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

2010年
ハッピーエンド
約束のネバーランド
フラジャイル

消費して損はなかったコンテンツ

メランコリア
宗教学の名著30
薬師のひとりごと
天使にラブソングを…
はじめてのウィトゲンシュタイン

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

ぶらどらぶ前半
聖お兄さん
青のオーケストラ
お別れホスピタル

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

ハンガーゲーム
レオン

ピックアップ

ハッピーエンド

ハッピーエンド [Blu-ray]

ハッピーエンド [Blu-ray]

  • 発売日: 2018/08/03
  • メディア: Blu-ray
 

ミヒャエル・ハネケの最新作(2018年だが)。見た直後は面白くなかったのに後から思い出すと面白かった気がしてくる、本当に記憶に残る作品はそういうところがある。
タイトルこそ『ハッピーエンド』だが同監督の名作『ファニーゲーム』が一家が殺戮される映画だったのと同様、最初から最後までハッピーな要素は特にない。独特のぼんやりした嫌らしさも健在で、家族の中にそれぞれ隠し事や噛み合わないものがあり原因もよくわからないままそれぞれちょっと噛み合わない。それは決して華やかに解決しないどころか破局を迎えることすらなく、家族間の不協和音が上滑りしていくだけ。

もともと俺はそういう漠然とした不安感を扱う作品がかなり好きだが、特に現代らしくSNSのモチーフが見事に組み合わされている。確かにSNSにも「物語がきっちり終わらない」という悪辣な性質がある。
例えば人生の大問題について何か非常に重要な幕引きをツイートしたとしても、それがツイートである限りはすぐにプリキュア実況やウマ娘のスクショやよくわからんプロモーションに押し流されてしまう。締め切った部屋の一室であれば停留して固着したかもしれない言葉はTwitterでは霧のように拡散するだけだ。ネットに投げ出された物語は常に開放系、文脈の嵐の渦中にあって、終わりの線をきっちり引くことは誰にもできない。

特にラストシーンが非常に良かった。妻を殺した過去を告白した老人が車椅子を海に向かって進めていくが、しかし入水自殺という華やかな終わりは決して成功しない。黙って見送ればいいものを、気付いた家族が止めに入ってしまい、それを捉えているのは孫のスマートフォンだ。自殺すらピシっと決まらないグダグダ感だけがカメラロールに残り、それも結局適当にSNSにアップされて押し流されていくのだろう。

 

メランコリア

メランコリア

メランコリア

  • メディア: Prime Video
 

全体的に冗長だったがぼちぼち面白かった。開幕のシーンがあまりにも良すぎたのが唯一最大の失敗で、ラストシーンですらも開幕を超えていないため、優れたPVと残り膨大な蛇足という趣がある。

鬱病に陥った主人公の元に何故か全てを破壊する惑星メランコリアが衝突して地球が滅ぶ、『ザ・ワールド・イズ・マイン』の鬱病バージョンみたいな感じ。
今まさに地球が滅ぼうというときであっても鬱病の者だけは最初から未来を悲観しているので絶望することもない。健常者が取り乱す一方で鬱病患者は淡々と終わりに向けた準備を進める。とはいえ、鬱病患者は『インデペンデンス・デイ』の主人公ではない。迫る滅びへの解決策を提示できるわけもなく、終わりは回避できない。気休めの結界を作って穏やかに死を迎えるのみ、それがメランコリストの勝利である。

 

2010年

2010年 [Blu-ray]

2010年 [Blu-ray]

  • 発売日: 2010/04/21
  • メディア: Blu-ray
 

映画としてはそんなに面白くないけどかなり良くてガチで泣きながら見た。

前作『2001年宇宙の旅』で暴走したあのHALが遂に救済されたのが本当に良かった。
今作ではHALが前作主人公の位置におり、作中時間では9年越しに前作での暴走の真相が明らかにされる。前作でHALがバグった原因は、出発前に秘密の計画をインプットされたことにあった。誠実でいなければならないはずのクルーに対して秘密を抱えなければならない矛盾にHALの論理回路は耐えられなかったのだ。
今作のミッションでは地球に戻るためにHALを犠牲にせざるを得なくなり、博士はHALに対して計画を秘密にしたまま犠牲にするか、それとも真実を告げた上で犠牲にするかの二者択一を迫られる。悩んだ末に後者を選んだ博士に対し、HALが「真実をありがとう」と告げて死を受け入れるところでマジで泣いてしまった。AIが求める倫理が、自身の存亡よりも正確な真理値という意味での誠実さにあることには説得力がある。
2001年宇宙の旅』から立て続けに見ていたら予定調和感があってあまり感動しなかった気がするが、幸いにも『2001年宇宙の旅』を見たのがかなり前だったのが良かった。実時間を置いたという経験は強い。あまり認めたくはないが、『シンエヴァ』と同じでコンテンツ消費には時機というものがある。

また、本当の前作主人公であるところのスターチャイルド(元艦長)が肉体時間を超越した存在としてちょろっと登場するのも良かった。今作でも結局スターチャイルドの目的は何だったのかはっきり明かされることがなく、モノリスも同じく特に何も解決しない。「人類は漠然と進化を促されているが、進化後の世界は進化前の人類が簡単に理解できるようなものではない」というSF的理解できなさはそのまま温存されている。

もともと『2001年宇宙の旅』が観念的な内容の名作だったので駄作を覚悟していたのだが、想定外に良かった。
とはいえ、今作から導入された安直な米ソ対立のモチーフと安直な平和的解決は大して面白くなかった。前作へのリスペクトは充実していて前作ファンは満足できるがこれ単体で見るとあまり面白くない作品、『ドラッグオンドラグーン2』みたいな感じ。

 

ハンガーゲーム

ハンガーゲーム (吹替版)

ハンガーゲーム (吹替版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

二ヶ月前に見た超B級映画『アーチャー』が勝手に名前を挙げて寄生していたので(→)一応見たが、正直なところこれも『アーチャー』と大して変わらないレベルの駄作だったように思えてならない。

「国中の地域から学生24人が集められ1人しか生き残れないバトルロワイヤルが開かれる」という基本設定は使い古された陳腐なものでありつつも、それに並走する「スポンサー制」というオプションは独特で非常に面白い。
このバトルロワイヤルはアンダーグラウンドの賭け事ではなく、国が主催する見世物イベントとして催されている。よってイベントを大いに盛り上げるため、参加者には本戦開始前にサバイバル訓練を受ける機会や、スポンサーや国民に対して人気をアピールする機会が与えられている。人気になればなるほどスポンサーから支援物資が届いたりして殺し合いが有利になるため、単なる身体的強さだけではなく人気取りが勝敗を左右する。殺し合いに臨む少年少女は自身の人間的魅力をアピールするトークショーやエキシビジョンまでこなすことになり、バトルロワイヤルに参加したバックグラウンドやプライベートな恋人関係などをアピールして戦いをドラマチックに脚色することが戦いを勝ち抜く秘訣である。
この「バトルロワイヤル×スポンサー事業」というモチーフは実に興味深い。この個人の自己マネジメントが全盛を迎えたSNS時代において、一見するとフィジカルで全てが決まりそうな殺し合いですら人気取りが深く介入するという発想には説得力がある。バトルロワイヤルの正統なアップデートとして、高見広春バトル・ロワイアル』もいま続編が書かれたらきっとこんな内容になっていただろうと思わせる秀逸なオプション設定だ。

だが、この優れたモチーフはほぼほぼ不発に終わったと言わざるを得ない。バトルロワイヤル開始前に人気の取り合いに力を入れて描写した割には、本戦ではそれが活かされることはほとんどなかった。
バトル本体は主人公パーティーと徒党を組んだ連中がちょっとした機転を活かして戦うだけの前時代的なものでしかなかった。あれだけスポンサーからの人気を強調していた割には、それが活かされたのは御都合展開のために途中で救援物資が差し入れされたくらいのものだ。人気に鑑みてバトルロワイヤルが面白くなりそうな方向に主催者が介入してくるシーンも良かったが、設定のポテンシャルの高さに比べれば、プリミティブなバトルロワイヤルでも普通にありそうな些末な描写に留まっていたという感は否めない。

こんなに面白そうな設定からこんなにつまらない映画を作れるのか……という勉強にはなった。続編もあるらしいので、そっちも気が向いたら見る。

 

ぶらどらぶ

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すみません、このアニメ面白いですか?
なんかジジイのオタクが「ノリが懐かしいw」「シリアスじゃない押井守ってこういう感じだよなw」とか言ってるけど「面白い」って言ってみろよ、オイ!……と思って「ぶらどらぶ 面白い」でTwitterで検索すると本当に面白いと言っている人もいるのでわからないものだ。

アニメージュのインタビュー記事がぼちぼち面白かった。

animageplus.jp

押井 でも、出す気はまったくなかったので(キッパリと)。僕にしては珍しく女の子はいっぱい出しているけど、男はケダモノみたいな空手部の男子生徒が4人と、オッサンだけ。これは最初から決めてたから。

――何なんですか、その固い意志は。

押井 だって(美少年に)興味がないんだもの。こっちはいたってノーマルな男性で、実写の時だって可能な限り女性の頭数を増やそうと企むんだから。

この美少女は増やし得という発想は好感度が高い。「実写の時だって~」にはあんま思い当たる節無いけど、ひょっとして『東京無国籍少女』とかのことですかね……?
「血祭先生はさすがに古いかも」みたいなこと言ってるけど他の全員ももれなく十五年くらい古い(ただし主人公だけがかなり今風のやり方で女の子が女の子に萌える行為を自明に内面化していて、一人だけ違う文化圏から紛れ込んでいるようなアナクロな異物感がある)。

押井 改めて考えて思ったのは、要するに人間ならざる者、異文化ということ。人間そっくりなんだけど生態系と価値観が違う者を描くっていうことは、要するに人間の物語になるんです。価値観の相違を巡って血を流す、というのはあらゆるドラマに通底するものだからね。僕好みの非日常な舞台で、しかもとんがったキャラでそれを実現するとしたら、吸血鬼かサイボーグのどちらかですよ。これぞ身体性の両極ですから。で、サイボーグはもうさんざんやったから。

マイの異常性がサイボーグと同根であることは俺が察知した通りで、答え合わせに緊急オタクスマイルが発動した。

『ぶらどらぶ』全体を貫く、結局のところ何がしたいのかわからない、恐らく意図的な一貫性の欠如はヒロインであるマイに集中している。マイは基本的にはお嬢様らしくおっとりしているのかと思いきや、いきなり怒鳴りつけたり罵倒し始めたり性格が全く安定しない。素面の状態でもそんな有様なのに、「血を飲んだ相手の性格が上書きされる」という設定のせいで更にキャラクターは迷走する一方だ。
そういうあまりにも空虚なマイという人格の在り方は、『攻殻機動隊』を筆頭にして散々語られてきた肉体に紐づいた人格の寄る辺なさとパラレルである。サイバーパンクにおいて記憶や思想がゴーストとして着脱可能なパッケージと化した事態は、萌えの文脈から言えば、萌え要素たる言動や行動が生命の素である血液を仲介して次々に切り替わる事態として現れるわけだ。

 

約束のネバーランド

完結したので一巻から再読。ゴールディ・ポンド編くらいまではかなり面白かった。

主人公たちが直面しているのは偏見や差別ではなく、もっとプリミティブで解決し難い圧倒的な生の問題である。政治ではなく生存の問題であるからこそ、農園脱出編ではイサベラやクローネですらも死が迫って来れば翻意することは吝かではないのだが、しかし政治ではなく生存の問題であるが故に、彼女らが寝返ったところで大局を変えることはできない。ゴールディ・ポンド編でもレウウィス大公やソンジュの優れたキャラクター造形が状況の詰みっぷりをよく表わしている。彼らの敵性は決して悪意ではなく、人間への敬意と殺意が両立する。自然的な闘争本能や食物連鎖に由来しているが故に、和解という選択肢があり得ない(最初から敵対していないから!)。

こうした無人格的なシステムを敵とするモチーフは進撃の巨人(初期)や鬼滅の刃とも共通しており、これもまた時代を背負って立つ漫画か……と感心しながら読んでいた。しかし、この問題は明らかに二方向へと軸をズラして解体されていく。一方では政治的な問題への退却へ、もう一方では形而上学的な問題への過剰な発展へ。

第一に、政治的な問題への退却について。ノーマンが暗躍し始めたあたりから、明らかに人間の問題は鬼の問題へとスライドしていく。それは生存の問題から政治の問題へのスライドでもある、というのも、搾取されている側にとっては生きるか死ぬかの問題も、搾取している側にとっては利権を巡るパワーゲームだからだ(例えば奴隷船の劣悪な環境で死んでいく奴隷たちについて、黒人奴隷の目線から見れば生きるか死ぬかだが、奴隷商人の白人目線で見れば在庫管理に過ぎない)。
それ自体は問題を様々な側面から豊かに描くものとして歓迎できるが、政治闘争というモチーフを通して本来は独立しているはずの生存にかかる問題がなし崩し的に修正されたことは歓迎できない。主人公たちの問題系でソンジュかレウウィス大公がラスボスであることと、鬼たちの問題系で女王がラスボスであることは全く別の問題であるはずだ。

第二に、形而上学的な問題への過剰な発展について。序盤からのキーワード「七つの壁」がカントのいう時空の形式だったというオチは結構ウケたが、その哲学的な問答が当初の問題に貢献したとはあまり思えない。約束を結び直す、すなわち世界の根本的な法則を変更するという方向性自体は、(ファンタジックではあるが)自然法則に匹敵する無人格的なシステムを構成し直すという意味では一つの有効なソリューションであるようにも思われる。しかし、その際には当然それが都合の良い逃げではなく説得力を持たせるための仕掛けが必要になるはずで、その理由付けに成功していたとは言い難い。

両方向のいずれにせよ、「邪血の少女・ムジカ」というちゃぶ台返しデウス・エクス・マキナに全てを託してしまったのが敗因だったように思われる。「鬼は人間を食わなければならない」という最も根幹にある設定を無かったことにできるムジカの血は到底容認できないタイプの奇跡である。最初期から伏線が張られていたあたり収拾がつかなくなって後出しされたのではなく一貫した想定の元に提出されていたことはわかるが、それはムジカの存在に説得力を与えるものではない。

ただし唯一かなり優れていた点として、「二つの世界を完全にパージして行き来不能にする」という結論がある。殲滅と和解の中間にある完全相互不干渉という選択。政治力学ではなく無人格的に自然発生している問題の詰みっぷりから言って和解は有り得ず、かといって悪意が介在していないが故に敵として殲滅するのも気が進まない、だったらもう相互不干渉として完全に世界を切断するしかないという結論は、当初の問題設定に対して誠実だ(ムジカの血よりも)。
現実には世界に完全な線を引くことなど出来ずに更なる軋轢を生むに決まっているわけだが、そこは実現不可能であるが故に却って漫画的な想像力による優れたソリューションと言い繕えばよろしい。

 

聖おにいさん(1~10巻)

聖☆おにいさん(1) (モーニングコミックス)
 

遠い昔に読んだ気がするので再読ではある。

最初期には皆が知っているキリストとブッダのネタを知っている前提で擦りまくる話だったが、日本人が共有している宗教ネタの数などたかが知れていて枯渇も早く、三巻くらいから天界・仏界関係者が増え始めると共に宗教ネタから独立したキャラクターのコメディ要素が混ざり始める。
要するに宗教漫画からキャラクター漫画へのシフトが段階的に進んでいくわけだ。例えば比較的マイナーな仏界関係者の宗教ネタについては、(宗教がバックグラウンドにあることをうっすら察しつつも)「宗教ネタ」というよりはそのキャラクター固有の持ちネタとして読む人の方が多いのではなかろうか。

この「当初は歴史上のイエスその人であったはずのキャラクターが次第に独立した漫画キャラクターに漸近してくる現象」、もう少し一般的に言えば「一般的な寓意から出立した漫画が後からオリジナルなキャラクターの漫画になる」という現象は枚挙に暇がない。二次創作としてのパロディ漫画が一次創作としてのキャラクター漫画に転じるという逆向きの相転移、それは元々は何かの寓意であったはずのキャラクターが自律した魅力を獲得してもはや寓意に縛られなくなる事態でもある。

これはTwitter漫画やTwitterオリキャラ(うちの子)にありがちな光景でもあり、例えばらむちが投稿するメイドちゃんにはその変動の痕跡がリアルタイムに見て取れる。

最初(2020年初頭頃?)は主人公的な存在に奉仕するメイドキャラとして生まれ、メイド服を着てメイド的な営み(主人の求めに応じてパンツを見せたりすること)をこなしていた「メイドちゃん」であるが、2020年末頃から「オフの日」という名目でメイド服を着ないことが増えてくる。

このあたりからメイドちゃんは「面倒見の良い幼馴染」くらいのキャラクターに移行し、初見では彼女が何故メイドちゃんなのか理解することは難しい。

更に最近では友達と温泉に行く様子が描写されるようになり、メイド要素は「わりとしっかりものらしい」という振る舞いに痕跡を残すのみとなる。

このツイートはメイドちゃんがメイドで無くなる過程を念頭に置いたものだが、同じことはらむちのメイドちゃんに限らず漫画のキャラクター全般についてかなり一般的に言えるように思われる。ルフィだって最初は「夢見る陽気な少年の寓意」がどこかで「ルフィという個人」になったタイミングがあり、そこが真にキャラクターというものが発生する瞬間ではなかろうか。

聖おにいさんはその格好の題材でもある。当初出立している現実への寓意の立脚点が人類史上で最も有名なナザレのイエスであり、擬人化ですらなく本人という体裁を取っていたはずが、それでも彼が「ひょうきんで優しいジョニーデップ似の男性キャラクター」へと変質する瞬間は意外と早く訪れるものだ。