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23/6/17 東京卍リベンジャーズ感想 タイムリープにうるさいオタクもちゃんと読んどけ!

東京卍リベンジャーズ感想

令和Z世代コンテンツこと『東京卍リベンジャーズ』を全巻読んだ。

今更パンピー向けタイムリープ漫画読む必要ある?

pixiv百科事典を見ると「従来の二次元コンテンツと違い、TwitterよりもTikTokを中心にバズった経緯があり、令和時代のヒット漫画の象徴とも言える存在」とある(→)。確かに俺がTwitter世代の平成オタクジジイだからか、なんかこう薄い膜を一枚挟んだ場所にある若いブームみたいな感触はアニメ化当時からあった。

タイムリープ×不良もの」というテーマであることはうっすら知っていたが、何せ「恋人が死ぬ未来を回避するために何度も過去に戻ってやり直す」という厚い手垢に塗れたベタベタなあらすじである。

タイムリープも遂に不良漫画というSFから最も縁遠そうなジャンルにリーチするまでに民主化したんだな……」という感慨深さと共に、「じゃあ一般向けにテンプレートを焼き直した漫画を今更わざわざ履修しなくてよくね……」みたいな良くないタイプの忌避感がうっすらあった。タイムリープ要素にはツッコミどころが多いという噂もよく聞くところではあり、最悪な言い方をすればパンピー向け劣化版タイムリープブームという印象があった。

 

不良ものだからこそタイムリープ

しかし決めつけは良くないのできっちり全巻揃えてから読み始める(何があっても絶対に最後まで読むという強い意志)。

すると、一巻の時点でもう前評判に反してタイムリープというガジェットの使い方が非常によく練られていることがわかってくる。確かにタイムリープ要素自体に捻ったところはないが、不良ものと掛け合わせることによって画期的な効果が生まれてくる。

タイムリープ×不良もの」が初見ではアイスクリームラーメンのような異種融合のように見えて、実はとても相性が良い理由として、まず単純に不良が元気だった時代に戻れるということがある。

何もかもがインターネットの植民地となったこの令和時代では、不良的なものはすぐ闇バイトに吸われたりスシローから賠償請求を受けたりと速攻で社会の洗礼を受けまくるばかりだ。バイクで珍走して街角でドツキ合って川辺で抗争を繰り広げるオールドタイプな不良像は絶滅して久しい。だから現代の渋谷にコテコテの不良を出現させたところで著しくリアリティを欠くし、かといって今更20世紀を舞台にした古臭い不良漫画を描いたところで引退したチョイ悪親父(死語)が喜ぶのが関の山だろう。そこでタイムリープを使って現代と過去を行き来することによって、現代からの視点を維持しつつも不良時代をいわば観光として見に戻ることが可能になる。

補足463:2005年も不良全盛期世代からは少し時代遅れだったことは作中でも突っ込まれているが、懐古のためのコンテンツではないのでそこまで細かいズレはあまり問題ではないだろう。

主人公は現代出身であることに伴って、主人公のモチベーションが不良時代から令和時代へとアップデートされている点も見逃せない。不良漫画の主人公は「日本一の不良になる」「強くてカッケエ男になる」みたいな古臭い男像と相場が決まっているが、これも不良が絶滅した令和ではイマイチ魅力に欠けるキャラクターだろう。不良文化が終わっているということは不良の価値観を描いたところで訴求しないということでもあるのだ。

しかし、東リベの主人公は令和に生きる人間なので、「彼女を救う」という普遍的な恋愛の動機に加えて、「恵まれない境遇から抜け出す」という格差を下敷きにした動機が与えられており、いずれも不良要素とは全く関係ないモチベーションだ。この「不幸な身の上を返上する」という原動力はとても令和らしい。「海賊王になる」というデカイ夢が魅力的な時代は既に終わっており、現代的な少年漫画では主人公が「絶望的な境遇から人並みに幸福になりたい」という動機を持つことが多い。この「平成の不良モチベでは戦えないが、令和の格差返上モチベなら戦える」という自覚的な選択は、主人公自身の「中学時代には日本一の不良になる目標を掲げるも一瞬で挫折し、現代からリベンジする」という全体を貫くストーリーラインでもはっきり表現されている。

とはいえ不良漫画として展開する過去編においては主人公は「東卍の頂点に立つ」という不良らしい目標を掲げることになるが、これもあくまでも現代における不幸な未来を改変するための行動に過ぎない。現代パートで直人が設定するミッションがたまたま不良内で成り上がることでクリアされるものになっているだけで、主人公は日本一の不良になること自体に関心があるわけではない。周囲との認識には常にズレがあり、例えば最初にマイキーが主人公を認めるのも「絶対に諦めない」というタイムリープに由来する姿勢がたまたま不良文化における美徳と合致しただけだ。不良たちからの信頼を得るシーンでは常にすれ違いコント的なモチベーションのズレが根底にある。

これによって、他のキャラクターたちが見せる不良的なカッコよさも「主人公の良き理解者」という文脈で理解できるところは数多くいるキャラの魅力を語る上で大きなポイントになるだろう。他の不良たちが主人公を「諦めない」「仲間思い」などと評価するのは確かに不良の美徳ではあるのだが、これは主人公や読者にとっては明らかにタイムリープの戦いへの励ましとも読める。この「不良仲間が令和的な良き理解者にもなれる」というあたりが、ドラケンやマイキーのような美形キャラたちが汗臭くない女性受けを誘うキャラクターとして造形できている理由の一つだ。

いずれにせよ、もっと一般的な言い方をすれば「不良が絶滅して魅力的を失った時代に不良漫画をどうやって描くか」という問題に対して「タイムリープを用いて主人公のキャラクターを令和から密輸入する」というクリアなアンサーが提示されていることがわかる。

 

地味に珍しい時間指定型タイムリープ

タイムリープが不良を魅力的に描くガジェットとして活用されていることを踏まえると、東リベで描かれるタイムリープには形式的にもかなりの合理性があることがわかる。というのも、一見したテンプレ感に反し、東リベで採用されているタイムリープは実はかなり珍しいタイプのものだ。

フォーマルに言えば、『リゼロ』『シュタゲ』『All You Need Is Kill』『まどマギ』『スタァライト』のような他の名だたるタイムリープコンテンツが時刻固定方式であるのに対して、『東リベ』のタイムループは時間固定方式だ。

図示するとこんな感じである。

一般タイムリープ

東リベタイムリープ

他の一般的なタイムリープがいつどこでタイムリープしようが「2005年1月1日」のように特定の日付に戻るのに対して、東リベのタイムリープは「ちょうど12年前の今日」のように特定の時間幅だけ戻ることによって行先の日付が決まる(タイムリープ先の日付がタイムリープ元の日付に依存する)。過去から現代に戻ってくるときも同様で、東リベでは「ちょうど12年後の今日」というように必ず同じ時間幅が固定される。

過去と現在の往復はできるが、それはそれとして過去と現在のタイムラインはそれぞれ不可逆に進行しているのである。すなわち東リベは「タイムリープの繰り返し」ではあるが「ループもの」では全くない。これによって「現在の死亡は取り消せるが、過去の死亡は取り消せない」という巧みな帰結が導かれる。

まず、現在の死亡は取り消せるというのはタイムリープもので一般的な立て付けだ。一応ちゃんとタイムラインを書くと以下のようになる。

  1. 現在が2017年4月1日とする
  2. 翌日、2017年4月2日に誰かが死ぬ
  3. 翌日、2017年4月3日に過去へのタイムリープでちょうど12年前の2005年4月3日に戻る
  4. 2005年4月3日では現代で死亡した人物は生存しており、過去で上手く立ち回ることでこの人物が12年後に死亡する原因を消す
  5. 2005年4月3日から未来へタイムリープしてちょうど12年後の2017年4月3日に戻る、このとき過去改変によって当該人物の死亡は回避されている

しかし、過去編で死亡した人間はタイムリープでは蘇生できない。こちらのタイムラインは以下の通り。

  1. 現在が2017年4月1日とする
  2. 過去へのタイムリープでちょうど12年前の2005年4月1日に戻る
  3. 翌日、2005年4月2日に誰かが死ぬ
  4. 翌日、2005年4月3日に未来へのタイムリープでちょうど12年後の2017年4月3日に進む
  5. ここから過去へタイムリープしても戻るのはちょうど12年前の2005年4月3日なので、2005年4月2日に起きた死亡は取り消せない

SF的には諸々ツッコミどころがあるかもしれないが、今はとにかく「現在編では蘇生できるので命が軽いが、過去編では蘇生できないので命が重い」という時代によって異なる命の重み付けが行われることに注目したい。

既に述べた通り、現代編ではよくあるタイムリープものと同じように色々な人が死ぬことで主人公にタイムリープの原動力を与えてくれるのに対して、過去編はむしろコテコテの不良漫画だ。よって、過去編で命が軽いとストーリーが成立しなくなってしまうのである。

何故なら不良漫画では仲間の命が重くなければ抗争の中での絆も裏切りも描けないからだ。それを裏付けるように、作中では「病院送りはいいが殺人はダメ」「ステゴロが原則で武器は卑怯」という暴力を躊躇しない割には命を尊ぶ謎の倫理観が一貫して描かれている。これは特徴的なタイムリープ形式によって過去と現在のジャンルに応じて異なる倫理ラインが自動的に設定されているとも取れる。

また、このタイムリープ形式では主人公が取れる戦略が著しく制限されることにも注目したい。よくあるタイムリープものの主人公はループで経験した知識によってトライアンドエラーで困難を突破していくのに対して、東リベの主人公は同じ過去の時点は一度しか通れないので特に何か秀でた知識を持てるわけではない。過去編で襲い来る障害の数々に対して主人公がタイムリーパーとして優越していることはほとんどないのだ(一応「実際に12年前に生きていたときの知識」と「現代から逆算した間接的な知識」はあるが、間接的すぎてそれほど活かされない)。

よって主人公には「回数に物を言わせた力業」や「経験の繰り返しで得た知見」というタイムリーパーらしいスマートな手札が存在しない。他の不良たちと同じ目線でひたすら泥臭く立ち回ることを余儀なくされ、「殴られても倒れない」とか「人望に篤いので仲間が強い」とかいう賢くない根性ベースの戦法になる。これはファンタジー漫画ならば明確な瑕疵となるが、東リベの過去編は不良漫画なのでむしろジャンルを守るための措置と見做すのが適切だ。不良の抗争にループ戦法を持ち込んでしまったら、それはもうオタクファンタジーバトルであって熱いド根性バトルではなくなってしまうのである。

 

なぜ高校生編は蛇足だったのか

ここまで東リベは基本設定において不良同士の抗争を魅力的に描くためのガジェットとしてタイムリープを換骨奪胎してとてもよく活用していることを延々と書いてきた。つまりタイムリープによって令和でも通用する不良漫画の舞台とモチベーションを整えつつも、珍しいシステムを採用することで不良らしからぬ卑怯なメガネオタク戦法を取り除くことに成功している。

とはいえ真に優れているのは基本設定までで、全体のストーリーはやや単調で退屈だった感は否めない。というのも、作中では合計11回ものタイムリープが行われるが、その全てにおいて以下のワンパターンしかないのである。

  1. 現在で何か問題がある(誰かが死んでる)
  2. 問題を解決するために過去で達成するミッションを定める
  3. 過去に戻ってミッションをクリアする
  4. しかし何故か現代に戻ると新たに問題が起きている(1に戻る)

「結局のところ問題発生と解決の枠組みを繰り返すしかない」ということ自体は概ね全ての娯楽漫画が連載を続けるために言えることではあるが、東リベの場合はタイムリープを用いた極めて巧妙なシステムを設計してしまったが故に、そこからの逸脱が許されずバリエーションに乏しくなってしまっている印象を受ける。

もちろん、このワンパターンぶりには不良ものを擁立した経緯も大きく絡んでいる。既に書いた通り、東リベは周到な仕掛けの数々によって過去編では割とベタな不良の抗争の中で主人公が成り上がる様子を令和でも魅力的なものとして描くことができた。しかしその代償として、過去編は常に一回性でやり直しが利かないために「取り返しの付かない失敗をする」というタイムリープものらしい状況は描けず、死人が何人か出たりはしつつも概ね不良漫画としてはトントン拍子に周りから認められていくサクセスストーリーにならざるを得ない縛りがある。

だが一方で、連載を続けるためには「主人公は過去では成功しても現代では失敗して問題を抱えていなければならない」というギャップがある。主人公の過去編での成功が小規模なものに留まっていた頃は良かったが、不良として大成するにつれてこの「何故か上手くいかない」という歪みはどんどん大きくなっていく。つまり「現代編ではタイムリープものとして連載を続ける」「過去編では不良ものとしてサクセスストーリーを描く」という切り分けは見事だが、その間にあるギャップは12年という歳月で展開する理不尽な因果関係によって必ず清算されなければならない。結局のところ、東リベは「過去編と現在編の間に本質的に理解不能な因果関係を挿入しなければならない」というジレンマを抱えていた。

こうした設定の歪みは露骨な引き延ばしであるところの高校生編で処理が試みられたが、結局はマイキーの「黒い衝動」という便利ファンタジー設定が一手に引き受ける終幕となった。「過去編では上手くいったが現代では絶望」という立て付けを堅持するために「マイキーが過去編ではどんなにいいやつでも現代では必ず闇堕ちしてしまう」という無茶なキャラクターを設定せざるを得ず、それは現実的には不可能なのでタイムリープ要素の処理と絡めてファンタジーで埋めるしかなかったという詰み状態が評判の悪い最終回に繋がってしまっている。

補足464:ただし高校生編で唯一の功績として瓦城千咒とかいう萌えキャラが爆誕したことがある。

補足465:タイムリープにうるさいオタク的な読解を無理やりすれば、黒い衝動とは「パラレルワールドのツケ」の話であると読めないこともない。古くからパラレルワールドものについて回る議論として「タイムリープやルート選択によって放棄された世界はどうなるのか問題」というものがあり、kanon問題とか色々な名前が付いて散々論じられてきた。実際、全ての始まりである真一郎のタイムリープは障害を負ったマイキーを放棄することでスタートしており、その選択に対する責任をイムリーパーが背負う業として「黒い衝動」が生まれたという解釈は出来る。とはいえ、そのような読みをしたところでゼロ年代の亡霊を弔えるだけで特に面白いポイントはないのでこれ以上は掘り下げない。

 

東リベを読まずに現代タイムリープは語れない

以上、東リベは不良ものという時代遅れのジャンルを描くためのソリューションとしてタイムリープをフル活用していたことについて書いてきた。

「恋人が死ぬ未来を回避するため何度も過去に戻ってやり直す」という一見するとベタベタで浅薄なあらすじに反して実際には様々な工夫が凝らされており、主人公のモチベーションだけは令和的なものを密輸入して読者に訴求しつつも、不良漫画らしく根性のや仲間の大切さを描く舞台を構築することに成功していたのである。

より一般的な言い方をすれば、タイムリープそのものを作品の魅力とするのではなく、他のジャンルが抱える問題を解決するためのツールとしてタイムリープを導入する手法が取られている。タイムリープが一般化してそれ自体では魅力的ではなくなってきた段階での建設的な利用例として、東リベを甘く見ている平成オタクたちも3巻くらいまではきちんと目を通しておくことをお勧めする。