LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

21/2/21 2020年12月消費コンテンツ

2020年12月消費コンテンツ

まだ2020年から抜け出せないのか!?

メディア別リスト

映画(6本)

帝都物語
ブレージングサドル
ダーケスト・マインド
チャーリーとチョコレート工場
マッドマックス4 怒りのデスロード
アーチャー 地獄のデスロード

書籍(2冊)

フィクションとは何か
フィクションの哲学

ゲーム(1本)

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団

アニメ(12話)

Vivid Strike!(全12話)

漫画(28巻)

鬼滅の刃(全23巻)
アンサングシンデレラ(全5巻)

良かった順リスト

人生に残るコンテンツ

(特になし)

消費して良かったコンテンツ

鬼滅の刃
フィクションとは何か
フィクションの哲学
ダーケスト・マインド

消費して損はなかったコンテンツ

ブレージングサドル
チャーリーとチョコレート工場

たまに思い出すかもしれないくらいのコンテンツ

Vivid Strike!
アンサングシンデレラ
マッドマックス4 怒りのデスロード
アーチャー 地獄のデスロード

以降の人生でもう一度関わるかどうか怪しいコンテンツ

帝都物語
ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団

ピックアップ

鬼滅の刃

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以前15巻くらいまで出ていた頃にも軽く内容を把握するために流し読みしたのだが、今回全巻一気読みしたときの方が明らかに面白かった。その勝因としては、「もう社会現象だし流石にちゃんと読んどくか」と思ってコマの隅々まできちんと目を通したりあとで忘れそうな伏線はメモを取ったりしていたことがある。漫画に限ったことでもないが、コンテンツは気合を入れて消費した方が面白い傾向にあるのは間違いない。

見ればわかる中心的なテーマとして「相続」があり、血統主義ではないにせよ世代間の受け渡しに過剰な意義を見出す姿勢は細田守を思い出すほどだ。第一次近似として乱暴に言ってしまえば反リベラルというかわりと保守的な世界観だと思うが、その古めかしさは大正という時代設定とよく噛み合っている。
相続の重要性を表現するため、柱が鬼と戦うのは基本的に一度限りとしているのはなかなか気合が入っていた。個が強い鬼と対比して群として強い鬼滅隊を描くためには、柱の一人一人が無双できるほど強くては都合が悪い。だから柱たちは戦うたびに普通に死んだり後遺症を負ったりして脱落する必要がある。シビアなゴア表現が鬼滅隊の存在意義に説得力を持たせる仕掛けとして活かされているわけだ。
また、相続の力を描くに際して印象に残っているシーンとして、中盤で自信のない鍛冶屋の子供に対して炭治郎が「君には無理でも諦めなければ君の子供や孫が成し遂げるかもしれない」みたいな声をかけていたところがある。それは冷静に考えればかなり残酷な発言で、ほとんど「お前には無理だ」と言っているのに等しい。将来的に相続によって実現する達成のために個人の達成を埋却するという覚悟が見て取れる。

ただし、本当に個人の人生を潰して家族的な繋がりへの貢献に全てを帰そうとすると、それはそれで魅力のない家父長制に陥ってしまう(サムライ8にはそういうところがあったというのは以前にも鬼滅と比較して書いた→)。もっと局所的な「思いやり」や「優しさ」が並走することは、個人の抑圧を回避するロジックとして機能している。「繋がりを支えられる一人前の男になる」というマチズモ的文脈を徹底して追放し、「緩やかな共感によって繋がりを維持する」という気持ちベースの連帯を描いているのがそれである。個々人の大きな文脈への接続が、直線に長く伸びるレールを鳥瞰するのではなく、せいぜい局所的な接合が連続するチェーンになっているという比喩でイメージが伝わるだろうか。
特に炭治郎が初期には義勇や鱗滝や錆兎といった男らしい男である面々から優しさを糾弾されたり「冷徹であれ」「男であれ」と怒られたりしまくったにも関わらず、一向にスタンスを変えずに鬼を気遣い続けた。「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という台詞に象徴される厳しさは、炭治郎が棄却していくための踏み台として配置されたように思われる。

容易にマチズモを呼び込む規範的な大義を排除するため、敵についても常に情状酌量の余地があるように描かれているが、かといってそれをアメコミのように「善悪は立場の問題でしかない」「敵には敵の正義がある」と解釈するのもあまりしっくりこない。というのも、鬼滅の鬼はあまり大局観のない悪行をこなす割と素朴な悪だからだ。彼らが正義のオルタナティブであるような強い信条を持つようにはあまり思われない。鬼には「世界はこうでなければならない」という「彼らなりの正義」はあまりなく、せいぜい「世界にこうあってほしい」という「彼らなりの事情」があるくらいでしかない。
「鬼には思想はなく境遇しかない」ということを象徴するのが、最終盤での炭治郎の鬼化ではある。炭治郎は信条的には鬼になる理由は全く無いのだが、清貧な生活を送っていたというだけの理由で鬼になるポテンシャルがあるのだ(炭治郎は11巻で「俺が鬼になったら殺してくれ」みたいなことを言って自分が鬼になり得ることを予見している)。禰豆子の唐突な鬼化解除にも全く同じことが言えよう。

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フォロワーが言ってたこれはマジでそうで、禰豆子を取り巻く環境には若干の関心がある一方、禰豆子という一人の人間にはほとんど意識が向けられなかったような印象がある。敵サイドは掘り下げるべき悪い境遇が豊富にあるが、主人公サイドにはせいぜい「貧乏だったこと」と「鬼に襲われたこと」くらいしかないので、あまり語りたいことがないかもしれない。「自分とは?人生とは?」みたいな実存について一生ウダウダやってるセカイ系みたいなオワコンとは感性が異なることを感じざるを得ない。

特に「信条の無さ」としての敵を追求したのが無惨で、少年漫画のラスボスとしては稀に見る魅力の無いキャラ造形にはびっくりした。鬼滅を読む前に「無惨は子供達には全く人気がない」というようなツイートを見たときは「今の子供はDIOとかクロコダイルみたいなヴィランをもう好まない世代なのかしらん」などと思っていたが、そういう話ではないことがわかった。ただ単に、無惨には悪のカリスマが全く無いのだ。部下には徹底してパワハラを働いてるだけで、部下は怯えっぱなしだし会話も通じない。
無惨の空虚さを象徴するのが「しつこい」から始まる演説で、アレは本当によくできている。普通少年漫画では最終局面でラスボスと改めて対話するシーンでは主人公とラスボスがそれぞれの信条をぶつけ合って立場をはっきりさせつつ戦う理由を再確認すると相場が決まっているのだが、無惨には炭治郎にぶつけたい信条が一切ない。代わりにあるのは生存にかかる不快感だけだ。価値観が一致しないことへの断念ではなく、生存上の利害が一致しないことへの不快感を延々と述べるだけという異様な対話によって、もはや交渉の余地なしとしてラストバトルへと突入するシーンが見事。あの演説までは無惨も「実は何かあるボス」ではないかと疑っていたのだが、あのお気持ち表明ではっきり「マジで何もないボス」だと示したのは凄い。

「悪性を思想の危うさではなく境遇の危うさに帰す」というスタンスが相続というテーマから呼び込まれたことは言うまでもない。悪性ですらも個々の人間ではなく相続に由来するというわけだ。この背景には、規範的に機能していた昭和の家父長制からリベラルな時代を経由して、お気持ち的に機能する令和のSNS的連帯思想が出現しているという見解に俺はかなり同意する。

 

フィクションとは何か

芸術界隈の基本文献だが割と最近邦訳された……みたいな本らしい。ページ数が多いが、初出の単語や概念には定義を欠かさない明晰な書き方をするので読むのはそこまでしんどくはない(ただし中盤以降は若干読みにくいということを後で書く)。

「フィクションとは何か」という大上段のタイトルには偽りが無く、小説から見立て遊びまで含めた広範な営みをフィクションとして一括で議論の対象にできる汎用性の高い理論が強力だ。分析系の学者らしく、既存のフィクション論とは汎用性の高さで差別化していることは本文中でもはっきり明言されている。主に電子技術の発達によってスマホHMDを用いた新しい性質のフィクションが次々に出現する昨今、論の射程は広いに越したことはない。

大雑把に言えば、ウォルトンは鑑賞者のごっこ遊びという営みにフィクションのフィクションたるゆえんを見出している。作り手ではなく受け手にその根拠を帰すスタンスは、正典を緻密に読むというよりはSNSで盛り上がるような現代的な大衆娯楽の在り方とも相性が良く、もっとはっきり言えばマス層のオタクにはかなり使い道の多い理論のように思われる。特定のワードを流通させることでフィクションを駆動させるバズマーケティング的な手法や、Vtuberがリスナーとの合意形成の中で相互にコンテンツの内容を規定するインタラクティビティまで「受け手のごっこ遊び」という範疇に収まるのであれば、ごっこ遊び論の高い汎用性はいよいよその真価を発揮するだろう。

ただ、大枠の議論が非常に強力である一方、実際に小説や絵画への適用という各論めいた話になると途端に勢いが削がれる点はかなり気になった。語り口がモニョモニョしてきて「こういうこともあるしこういうこともあるよね、こういう理由かもしれないしそうじゃないかもしれない、結論は出ないけど筆を置きます」というような章が続いて少しゲンナリしてくる。
それは反論に対する再反論として想定されている細部の議論についても同じような印象がある。絵画に全く描かれていないことを言い立てるような不毛なフィクションをの消費態度を排除するために「非公認」とみなしたり、オペラで死に際に息も絶え絶えのキャラクターが雄弁に歌うという矛盾に疑問を呈するクソリプを「愚かな問い」として棄却することがそれだ。それら個々の判断が実際に恣意的であるか否かを議論する必要があるとは思わないが、個々の判定が可能性として恣意的であり得るか否かは気になるポイントだ。

そうした欠点は恐らく汎用性と裏表のものであり、受け手側に不当に高い自由度が与えられることを抑制するための理論武装の準備が形式的に必要なことは理解できる。とはいえ、その取って付けた感はもしかしたらウォルトンはそうした論点の具体的な判断を調停することは自分の仕事ではないと考えているのかもしれないとすら思うほどだ。

また、冒頭から一貫してフィクションの価値を予行練習や思考実験といった現実への適応能力を高める機能に見出している点にも疑問が残る。その見解は不自然なほど葛藤なく提出されているものの、もっと素朴にフィクションそれ自体が快楽であるとか、全く荒唐無稽なことであっても想像してしまうというような反論はいくらでも可能であるように思われる。ごっこ遊び論との整合性を保つために後付けで言っているような感触は否めず、どういう経緯でそのポジションを取ったのかの説明が欲しいところだ。

 

フィクションの哲学 

フィクションの哲学 〔改訂版〕

フィクションの哲学 〔改訂版〕

 

以前読んだが再読。

帯に「フィクションとは何か?」と書かれているように、全体的な著者の主張としてはウォルトンの議論に依拠しつつ問題点を修正するような話になっている。乱暴に言えば「何が描かれているのか」と「如何に描かれているのか」を区別する視点、フレーゲの言う意味と意義の区別をごっこ遊び論に上乗せしようというような話で、改訂としては非常に穏当で妥当であるように思われる。それは純粋に解像度を上げるもので特に反論が生まれるようなタイプの改訂でもないので、あまり思うところがない。

本論に入る前に議論を整理する各章には啓蒙的な色彩があり、議論の水準を切り分ける上でも便利だ。様々な既存の論点を提示して有名説を紹介し、反論と再反論を付していくというオーソドックスな構成でかなり読みやすい。ただ、それは決して悪いことではないが、作者に固有の関心が割と強く押し出されていることもあって、入門書としてベストかどうかはわからない。

 

ダーケスト・マインド

ダーケスト・マインド (字幕版)

ダーケスト・マインド (字幕版)

  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: Prime Video
 

X-MENのスタッフが作ったあくまでもX-MENとは別の映画らしいが、あまりにもX-MENと同じ設定なので外伝作品と言ってしまっていいような気がする(アメコミお得意のマルチバースか?)。

内容としても、X-MENシリーズが語り落としてきた部分をきっちり補完している。学校設定がある割には年齢層が高めで大人やジジイが戦いがちなX-MENとは異なり、ダーケストマインドでは明確にティーンエイジャーにフィーチャーしているのがそれだ。
ヒーロー映画では「守る側:大人と強者」と「守られる側:子供と弱者」は明確に区分されがちだが、実際にはその間には中間地点があるものだ。ダーケストマインドでは「チャイルド・リーグ」という組織がその両義性を表現しており、子供たちを守って収容所から脱出させたかと思えば、子供たちを訓練して兵士として戦わせたりしようとする。そうなると子供たちからチャイルド・リーグへの評価も割れてきて、自分たちを守ってくれる「味方」なのか、それとも自分たちの能力を利用しようとしている「敵」なのかは一向に判然としない。

だが、その二つはそもそも明確に分けられるものではないのだ。「実は悪の組織でした」「実は善い組織でした」という結論はついぞ出ることはなく、最終的には主人公は自分の判断で仲間を守るために仲間の記憶を消して組織の尖兵になることを受け入れる。その両義性はX-MENではプロフェッサーが繰り返し提示してきた論点でもある。精神操作能力は人々を正しく導くのに非常に便利である一方、他人を抑圧して反発を生むこともある。そうしたパワーバランスについての葛藤に年代的な問題を上乗せし、大人でも子供でもないティーンエイジャーを主人公として描かれたのがダーケストマインドだと言えよう。

オリジンストーリーとしては非常に面白かったが、これは主人公がポジションを決めるまでの過程に価値がある映画だから、続きがあったとしても単にX-MENの焼き直しになってしまうだろう。一作限りにしておいた方が無難そうだ。

 

Vivid Strike!

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別に面白くはなかった。流石に最終的にはリンネとフーカが決勝でバトルやろなあと思ったら、ヴィヴィオが前作主人公補正でリンネを倒して大会編が突然終わったのにはかなり笑ってしまった。

Vividからの流れで少女たちは世界の危機を云々しなくなり、代わりにリングに囲いまれた小さな世界で愛憎が描かれることは共通している。スラム上がりのフーカがリングにスポーツルールに組み込まれる中で規範を身に付けていく流れも前作のアインハルトと同じだ。A's系ならリンネとフーカのいざこざは世界を巻き込む大騒動へと発展するのだろうが、今作では街角で殴り合うだけで終わってしまう。個々人の問題を無駄に大袈裟に拡張させないという、アンチ・セカイ系みたいな趣きすら感じないこともない。

それに伴って二人の問題もかなり小さなレベルで収拾されることになる。回想が豊富な割にはフーカは一貫してリンネの過去を取り上げようとしないし、とにかく今現在に「嫌な目をしている」ことだけを問題視する。Vivid Strikeは更生物語であって復讐物語ではないのだ。
それは別にいいのだが、過去エピソードのインパクトが強すぎて「いや流石にいじめっ子が普通に全部悪くない?」みたいになるのは俺だけじゃないと思う。そこは素朴にプロットのバランス感覚がおかしい。リンネの抱える問題の設定が噛み合わないせいでフーカのスタンスもよくわからないことになっている気がするが……

 

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団 - PS4

ルフランの地下迷宮と魔女ノ旅団 - PS4

  • 発売日: 2017/09/28
  • メディア: Video Game
 

クリアはしておらず、結局ラスボス戦で断念してしまった。厳密に言えば消費コンテンツではない。アクションゲームではなくRPGなのでラスボスを倒そうと思えば倒せるのだが、恐らく倒すまでには十時間くらいの追加時間投資が必要であることが見込まれ、それだけの気力がもう残っていない。

面白いか面白くないかで言えば面白くなかったのだが、それは俺にゲームを楽しむ能力が欠如していたからで、日本一ソフトウェアの責任ではない。俺が消費コンテンツの質と量を稼ぐコスパ思想に毒されすぎて、ゲームに真剣に向き合っていなかったのが全て悪い。日本一ソフトウェアRPGなので色々と要素があるのだが、俺は無限にレべリングしてステータスで殴って突破するという攻略法しかとらなかった。レベリング中が退屈なのでガスキーのハースストーンを観戦を並行しながら遊ぶためのスマホ台を購入したくらいだ。

(↑これの後ろでプレイしているのがルフラン)

レベル上げで詰まることがあればもう少し真面目にやったかもしれないのだが、恐らくある程度はゴリ押しでも突破できるようにレベルデザインされているのがまた厄介なところだ。俺はレベリングを一生やめなかったし、俺の話を聞いたひふみが漏らした「キャタピーLv100×6で殿堂入りを目指すポケモン」っていうのがマジでそう。

そしてキャタピーの群れで辿り着いたラスボスは流石に強く、ゴリ押しレベル上げでは倒せないのだが今更相性やスキルをきちんとやるモチベーションもないのでここで挫折となった(ただ厳密に言えば転生システムがあるのでもっとレベリングすれば多分倒せないことはない)。「全然終わらないし面白くないなー」と思っていたのが全部自分の攻略が全て誤っていたことが原因であり、それほどまでに自分のゲームを遊ぶ能力が衰えていたことにかなりショックを受けてしまった。俺はこれでもゲームを初めてプレイするジジイではなく一応遥か昔のワンダースワンの時代からそれなりにゲームをプレイしてきたはずである。年単位でゲームを遊ばないでいるとそのレベルのプレイをしてしまうんだなあと噛み締めた。

今回の失敗を受け、少なくとも一人用ゲームは真面目に向き合って遊んだ方がいいという教訓を得た。映画とか漫画は「見さえすればいい」「読みさえすればいい」というコスパ至上主義で取り組んでも割となんとかなるのだが、ゲームは「クリアしさえすればいい」みたいなスタンスでやると明確に体験の質が落ちる。色々試行錯誤する時間を確保するような余裕と意識を作ってから取り組まなければならない。「この一ヶ月は絶対に他のコンテンツには触れずにこのゲームだけやる」みたいな覚悟を決めてから遊んだ方がいいのかもしれない。

ゲームの話一切せずに自分語りしかしてないけど、消費コンテンツじゃなくて消費失敗コンテンツだから別にいいか……正直なところ、俺の失敗を抜きにしても思い付きで作られたような物語的な統一感のないダンジョンとひたすら殺伐としているだけで何が問題なのかよくわからないストーリーは言うほど面白くなかったという話もある。

 

アーチャー 地獄のデス・ロード

アーチャー 地獄のデス・ロード(字幕版)

アーチャー 地獄のデス・ロード(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/01
  • メディア: Prime Video
 

戦闘美少女が好きな人は少なくないと思うが、洋画において戦闘美少女は一つのクソ映画ジャンルを構成しており、何となく女の子が戦うというあらすじだが主演の女優はまともにアクションができず内容も普通に面白くないというカスみたいな作品が一定数ある(アクションができる女優はギャラが高いのだ!)。マッドマックスに便乗した邦題が目を引くこの映画もその典型である。

★弓×女子高生 「トゥームレイダー」「ハンガーゲーム」に続く究極のヒロイン・アクション誕生!
トゥームレイダーアリシア・ビカンダー、「ハンガーゲーム」ジェニファー・ローレンス、「タイガー・ハウス」カヤ・スコデラリオに続き、
【弓】を武器に、誰よりも強く、賢く、美しく戦うニューヒロイン誕生! !

この内容紹介文はパッケージにも書いてあるのだが、よく読むと勝手に類似した内容の名作を並べて勝手に続いているだけで、 「トゥームレイダー」「ハンガーゲーム」「タイガー・ハウス」とは何の関係も無い。お前はポプテピピックの帯か?

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残忍な刑務官に、弓を武器に立ち向かう女子高生を描くヒロインアクション。女子高生のローレンは無実の罪で懲罰施設“パラダイス・リッジ”に送還される。そこは、刑務官による汚職やレイプ、殺人などが横行する地獄のような場所だった…。

あらすじも嘘だらけ。ローレンは無実の罪ではなく他人を病院送りにしているし、刑務所では汚職もレイプも殺人も起きていない。入浴中に風呂場の壁にある隙間からちょっと覗かれただけです。