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20/9/25 サムライ8は何故失敗したのか

サムライ8の感想

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あまりにも世間でボロクソに言われているので読んでみたが、思っていたより全然面白かった。漫画としてのクオリティは間違いなく高い。緻密に練られた設定とそれを表現するだけの画力がある。特に身体の描き方の自由さは『ワールドトリガー』以上であり、頭が前後にパックリ割れてホルダーが露出する表現を露悪的でなく爽やかに描いているのは見事。
確かに説明が回りくどくてわかりづらいものの、それは「どんなことも自分で決められる」というテーマの裏返しに過ぎない(このテーマを徹底すると「どんなことも決まりきってはいない」という前提が必要になる)。登場人物自身が何を言っているのかわからないことをネタにすることからも明らかなように、説明のわかりづらさは計算ずくで用意された自覚的なものだ。この難点は少なくとも単なる作者側の配慮不足ではなく、せめてチャレンジングな試みの失敗と捉えるべきだ。

「父」「姫」に見る父親としての男

『サムライ8』が面白くない致命的な原因は設定の不親切さではない。作中で描かれる価値観がとにかく古く、古典的な少年漫画から感性をアップデートできていないことだ。
一見すると難解な説明に反し、『サムライ8』が提示する価値観は少年漫画では長く大切にされてきたお馴染みのものでしかない。「義」や「勇」や「三位一体」といった専門用語の役割は少年漫画の美学を洗練してシステムとして完成させることにある。むしろコテコテでテンプレートなポリシーを世界観と上手く組み合わせて独特な設定を作り上げたことは感嘆に値する。
しかし、完成度が高いが故に却って岸本の絶望的なまでの感性の古さが浮き彫りになってしまう。複雑な設定が提示する、「父親として自立する」「女性を守る」「男の意地」「絶対に曲げない信条」がカッコイイ時代は少年漫画ですらもう既に終わっている。

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例えば、「父から認められることで守られる存在から守る存在になる」という古い親子像はその最たるものだ。父親は息子を男として承認する絶対者であり、それは父親の死亡によって主人公に継承されて息子は初めて一人前の男になる。

補足332:「父親の背中を追う」という主人公の目的意識は無数の少年漫画に見られるテンプレートの一つだが、そのモチーフからスタートしながらも途中で父親の扱いを転換した漫画として『ハンターハンター』が挙げられる。ハンターハンター』でも連載当初は主人公であるゴンの目的は父親のジンを探すことであり、『コロッケ!』さながらに父親との再会が物語の最終目標として想定されていた。ところが、ゴンとジンの再会は会長選挙編で唐突に果たされることになる。
驚くべきは、この二人の再会が連載当初には最大の目標であったことに反し、実際にはあまりにも軽いエピソードで片付けられたことだ。ゴンとジンは世界樹の上でぽつぽつと会話しただけで、これを機にゴンに何か決定的な変化が起きたわけでもない。実際、「『ハンターハンター』で最も印象に残った回を一つ選べ」と言われて「ジンとの再会」を挙げる読者は極めて極めてレアなはずだ。
ジンの登場によってゴンが物語からフェードアウトすると共に、「父親」という記号に象徴されるような絶対者を素朴に措定できる世界観が本格的に終了する。続く暗黒大陸編で描かれるのは、何重にも絡み合った利害を持つ無数の登場人物たちが織り成す政治的な闘争だ。ジンも顔の見えない神秘的存在であることをやめ、それなりには強いがそれ以上の超越者ではない一人のプレイヤーとして闘争の中に参入していくことになる。

こうした親子像と対極にある最近のジャンプ漫画としては『彼方のアストラ』や『約束のネバーランド』が挙げられる。これらの作品では主人公たちにとって育ての親たちは尊敬の対象どころか生存を賭けて殺し合う闘争対象でしかない。彼らは自分の親を何の躊躇いもなく葬り、自分の足で立とうとする。

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そして、「主人公が父親になることで姫(妻)も守る」という構図もやはり同じくらい古い。
確かに「戦闘要員ではなくバフ・回復要員」という女性の描き方は少年漫画に古典的なものだから、それをもう「三位一体」というシステムとして設定レベルで組み込んでしまうというのは上手い発想だ。システム化されているが故にバッファーであることが周知されている姫は戦闘時に狙われやすく、武士が姫を守る必要が生まれるという流れもよく出来ている。
ただ、「守られるヒロイン」はもう埃の積もった歴史的遺物だ。「戦えるヒロイン」の隆盛はもはやオタク内でのローカルなフェチズムに留まっていない。王道の少年漫画でもヒロインが主人公より強いことはいくらでもある。ミカサはエレンより強いし、禰豆子は炭治郎より強い。

補足333:女性の扱いという意味では、大作完結後の次作として『サムライ8』と似たポジションにいる久保帯人の『Burn The Witch』は本当に興味深い。『Burn The Witch』で戦う女性たちはなんかめちゃくちゃオタク臭いというか、深夜アニメ的な感性を強く感じる。

「義」「勇」に見る男の信条

この作品を象徴する専門用語である「義」と「勇」もやはりコテコテの古い価値観を示すものだ。
ネットでは謎用語として扱われていることも多いが、実際に『サムライ8』を読めばすぐわかる。ざっくり言って「義」は「自分で決めた信条を守ること」、「勇」は「誰かを守るために強がること」である。いずれも少年漫画に脈々と受け継がれてきた男の美学であり、他の少年漫画でも幾度となく描かれている。
例えば、『ワンピース』で描かれる「義」の例として、サンジが「腹を減ったやつには食わせてやる」というルールにこだわることが挙げられる。内容の意義云々ではなく、とにかく自分が決めたことは絶対に守るという形式性が美しいとされているのだ。「義を失えば散体する」という設定は、「自分が決めた約束を破った男は、男として死ぬ」という共通認識をバトルシステムとして表現したに過ぎない。

補足334:ネットでは「負けを認めなければ絶対死なないってことじゃん」と叩かれているのを見るが、それはその通りだ。「義を失えば散体する」という設定があろうが無かろうがそういう文法で描かれるのが少年漫画である。繰り返すが、『サムライ8』の設定は少年漫画的な価値観をシステム化したものに過ぎない。システムに注目して重箱の隅を突いてもあまり大したことは得られない。根本的に少年漫画的な価値観がどう運用されているかに注目すべきだ。

また、「勇」において、「強くあること」というよりは「強がること」「強くあろうとすること」の方が価値が高いものとして明示されていることにはかなり感心した。確かに、最強の力で無双するより、震えながらでも剣を手に取って立ち向かうその心意気こそが「男」なのだという感じはよくわかる。それは主人公が完成した「男」ではなくあくまでも発展途上の「少年」である少年漫画に独特の事情でもあるだろう。その微妙な違いを看破してきちんと描く技量は流石だ。

炭治郎は散体しない

『サムライ8』の様々な設定が古き良き少年漫画の美学をシステム化した手腕は実に見事だ。しかし、そもそも素材となっている価値観自体が絶望的に古いという難点は、直近で最も成功した少年漫画であるところの『鬼滅の刃』の美学と比べるとはっきりする。

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これは俺が『鬼滅の刃』で一番好きなコマだ。『サムライ8』の古い美学に引導を渡す、『鬼滅の刃』の新しい美学がこの一コマに詰まっている。炭治郎には「義」も「勇」も無いのである。

まず、優しい主人公が珍しく不快感を露わにするシーンであるにも関わらず、「こう…何かこう…すごく嫌!! 何だろう」から入る歯切れの悪さが凄い。
古典的な少年漫画なら、男がキレるシーンとは大見得を切るシーンであると相場が決まっている。「俺は女を殴らねえ!!!(ドン!!!」のように、「俺は」で始まる格言めいたセリフを見開きでバーンと言い切るのがカッコイイのだ。それによって『サムライ8』では「義」とされたような、「自分で決めた信条を守ること」の美しさが描かれる。
しかしそれとは対照的に、炭治郎は「こう…」「何だろう」と言い淀み、「信条を守る」以前に信条の言語化すら上手くできていない。注意点として、炭治郎の歯切れが悪いのは決して場当たり的に適当なことを言っているからではない。炭治郎が人間らしい思いやりを大切にする優しい少年であることは全体を通して描かれているし、「配慮が欠けていることに怒る」という反応も一貫している。
単に炭治郎は自分の信条を頑なに保持したり、外向けに規範として提示すること自体が得意ではないのだ。悪く言えば感情的に、良く言えば柔軟なスタンスで世界と向き合っており、一度決めたことを貫く「義」の精神と真っ向から対立する。

更には、「配慮かなぁ!? 配慮が欠けていて残酷です!!」という怒り方も凄い。相手に配慮を要求することは、自分が強がらないことの裏返しだからだ。
『サムライ8』で描かれる「勇」とは、我慢して意地を張る美学だ。逆境に直面したとき、自分一人で強がって何とかするという強情こそが美しいとされている。例えば、上のシーンは嫌がる他人に暴力をチラつかせて無理矢理従わせようとする霞柱に対して炭治郎が怒るシーンだが、「勇」のある男なら手をもぎもぎさせていないので黙って切りかかればいいのだ。勝てないとわかっていても、不正と思うことには断固として反対する強がりこそが「勇」なのだから。
しかし炭治郎は相手に配慮が欠けていることを口頭で糾弾する。「勇」がない炭治郎は自分だけで強がらずに相手にも対応を要求するという形で逆境に立ち向かうことができる。更に言えば、配慮というのは形式的で単純なものではなく、状況如何で変化する極めて複雑なものだ。何をどう配慮すべきかはその人自身が考えなければならないし、「女を殴らない」のように形式的に実行できることでもない。根本的に「男の信条」にはそぐわないものであり、『ワンピース』に「他人に配慮しろ!!!(ドン!!!」と言うキャラが登場することはとても想像できない。

男性的な自己完結vs女性的な他者目線

総じて、『サムライ8』が描いてきた美学に共通するのは徹底した自己完結性だ。自分が決めたことを絶対に守り、逆境にあっても自分一人で強がること。それこそが自立した男であり、その精神は父親から受け継がれて女性を所有することで完成する。これがサムライ8の男性的な美学だ。
一方、真っ向から対立するのが炭治郎の女性的な美学である。その場の感情を重視して柔軟な意見を述べ、逆境にあっても相手に配慮を求めることを忘れない。炭治郎は自分一人で価値観を完結させることがなく、他人にも相応の期待をするという他者への目線を持っている。

この対照的な美学のどちらが素晴らしいとかどちらが時代に合っているというつもりは無いし、イデオロギーに優劣をつけることは目的ではない。しかし、『鬼滅の刃』は漫画史を塗り替える大ブームを作り出した一方、『サムライ8』は超大作としてプッシュされた末に5巻で終了したという現実は動かせない。『サムライ8』自体は非常に完成度の高い「少年漫画」であっただけに、「古き良き少年漫画」の時代に弔鐘の鐘が鳴っていることもまた事実であるように思う。