LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

21/4/18 お題箱回:プラチナエンド、葬送のフリーレン、人狼etc

・お題箱80

264.ジャンプ+でプラチナエンドが少し読めたけどもどう評価してますか

最近完結したので読みました。ぼちぼち面白かったです。
途中でいきなりジャンルが変わってビックリしました。前半戦の1~8巻と後半戦の9~14巻で全く別の漫画になりますね。

前半戦では「12人の人間が天使から与えられた能力を用いて神の座を奪い合う」という露骨なバトルロワイヤル設定からスタートしてずっと頭脳派バトルをやっていました。前半戦のラスボスであるメトロポリスマンは激烈な差別主義者であると同時に「妹を蘇生させる」というわかりやすい目的を持っており、彼の暴挙を止めるという目的の下でバトルが展開していきます。
しかし8巻でメトロポリスマンが死亡したことにより「神になりたい人」が一人もいなくなり、バトルロワイヤルの前提が崩壊します。あとは残った参加者6人で「世界と我々はどうあるべきか」を冷静に話し合いつつ多数決で神を決めるという会話劇が7巻くらい延々と続くことになります(長!)。

当初は素朴に究極の目的として措定されていた「神」も後半になると疑問に付されることになり、登場人物たちの思索は「そもそも神とは何か?」にまで及びます。ここで言う「神」とは「作中で神と名指されているキャラクター」という設定上の固有名詞の話ではなく、普通名詞としての神です。よって「神は原理的に存在しうるか」「存在論的に循環しない神の定義は可能か」といった思弁的な議論が展開します。
バトル的な意味でエキサイティングな悪党がラスボスだった前半戦とは打って変わって、後半戦では象牙の塔に住んでいる無神論者の大学教授がラスボスになります(思弁的な意味でエキサイティングな悪党)。これもうエンタメやる気一切ないだろと思いつつ、僕はそういう話が好きなのでまあまあ面白く読んでいました。

この話って明確に『DEATH NOTE』の裏面でもあって、基本設定の類似度合いはセルフパロディの域に達しています。人間に憑くのが死神から天使になって、人を殺せるノートが人を殺せる矢になって、神を目指した月の意志は神争奪として残っている。神になりたいメトロポリスマンの選民思想も明らかに夜神月を引き摺っており、前半戦は月を葬る話として読むのが妥当でしょう。

だというのに、既に書いたようにメトロポリスマン以外はさっぱり神になる気が無く、後半戦ではほとんど神の押し付け合いという様相すら呈してきます。

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主人公も夜神月とは正反対に「自分は幸せになりたいし皆にも幸せでいてほしい」というナイーブな最大幸福思想があるのですが、その末路は月と同じです。つまり、彼の優しい思想もまた厳しい現実に直面して挫折していく物語でもあります。
というのも「殺人によってのみ幸福になれる人」が登場し、その幸福の実現に間接的に加担したことによって、幸福が両立できないこと、人によって幸福の形は異なるので全員が幸福にはなれないという当たり前の事実を知るからです。最終的には最大幸福を諦め、かつ、「皆に幸せになってほしい」という願いすら自分一人のローカルな幸福の条件でしかないことを認め、独断の境地に達します。

補足374:これは『仮面ライダー龍騎』で城戸真司が歩んだ過程とほぼ一致しています。

とはいえ、それって言ってしまえば開き直りであって、大義が無い分だけ夜神月より更に性質が悪いです。メトロポリスマンを殺したことによって夜神月を葬って民主主義が到来したように見えて、結局のところより悪い形で主人公がその座に返り咲くという極めて悲観的な末路があります。

 

265.功利主義についてですが、短期的な視点で観察した時に起きる一定の失敗(≒大きな犠牲)を長期的な視点で観察した時の小さな犠牲としてみなし許容することを前提とすれば理想に近い運用ができると思うのですが、どうでしょうか?

功利主義の枠内で見れば概ね正しいと思います。
強いて言えば、運用を開始した時点では「短期的な犠牲」も「長期的なリターン」もまだ起こっていないことの期待値に過ぎないので、その精度と説得力をどの程度確保できるのかという問題があるくらいです(実際にはそれが最大のボトルネックであることも少なくありません)。

また、功利主義の枠外から見れば、短期的であるとしても犠牲を引き受ける人々の反発をどう処理するのかという問題もあります。最大多数の最大幸福しか勘定していないプリミティブな功利主義は結果的に莫大な格差を許容するので、その折り合いをどう付けるのかという疑問は功利主義に対する典型的な批判の一つです。

補足375:この格差は典型的には階級格差ですが、時間格差も十分に含まれます。つまり、例えば現在は損をして未来に得をする場合、そんなに長生きできない高齢者や、そもそも未来を重視しない刹那主義者の幸福は明確に奪われるということです。

いずれにせよ、功利主義というのはそれ単独ではかなりアバウトな第一次近似にしかならない指針であって、結局どうすればいいのかについては功利主義とは直接は関係のない信条を混入させた二次的な規則を作らざるを得ず、そう簡単には運用には移せないという印象があります。
功利主義者の間でも父権主義と自由主義で割れたりするくらいですし、最も原始的な行為功利主義から現実的な運用を見越した規則功利主義になった途端に説得力が薄れてくることにも、やはり理念と実践の間に超え難い壁の存在があるように思われます。

 

266.「葬送のフリーレン」読みました?

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欲しいものリストから送っていただいたので読みました。ありがとうございます。
かなり面白かったです。フリーレンちゃんがダウナー最強系女性主人公で萌えでした。

「勇者パーティーが世界を救ったあとのエピローグ」というユニークな設定(と言いつつ多分探せば他にも結構ありそうな設定)は魅力的ではありつつも、「本当に全てが解決したエピローグだと面白くないので、ドラマを語れる程度には現在進行形のイベントを残しておこう」という作劇上の意志は感じました。

というのも、「葬送」というワードはフリーレンの二つ名である以上に「死んでしまった勇者パーティーを葬送する旅」を示してもいるわけですが、しかし言うほど世界が穏やかになっているわけでもないですよね。なんか普通に魔族の生き残りとバチバチのバトル展開になりますし、旅の行程上ではハンター試験みたいなものに参加する羽目にもなります。フリーレンが新しくパーティーを作っているのも、別に過去に執着しているからではなく、もっと前向きな次世代の育成という側面の方が強いです。少なくとも現状、タイトルで「葬送」と言っているほど後ろ向きな旅でもないということです。

そういう局面で「フリーレンが過去に一度世界を救っている」というエピローグ要素が活かされるのは、「フリーレンの持つ情報量が卓越している」という点です。彼女は一度経験しているために大抵の事情や技を既に把握しており、彼女自身の技量もあって割と余裕をもって事態に対処できます。
そのあたり、何となく異世界転生無双作品の変奏であるような趣きもあります。フリーレンが行く先行く先でもう知識があって「これがあのときのアレかあ」みたいなリアクションするやつ、なんか異世界転生主人公が「これがゲームでよくある〇〇ってやつかあ」みたいなリアクションするやつと若干似てません? 過去という経験も優越性を担保する一つの異世界であるというか。

とはいえ魔王については過去に討伐している以上、少なくとも過去と同じではいられないはずです。
復活しているのか死んでいるのか継いでいるのかはわかりませんが、まあ旅の目的地が魔王城でもあるあたり、そこに辿り着こうとするあたりで何か物語が大きく動くのでしょう。続きを楽しみにしています。

 

267.男子校はまだわかるんですがオタクコミュニティって所有の対象が2次元から3次元になっただけみたいなとこありません?

これは多分僕が「男子校やオタクのコミュニティって女性に対しては斥力が働くので、むしろ女性の所有による連帯を基本とする原義のホモソーシャルとは異なる」と言ったことに対するものですね。たしかにカスのオタクには三次元女性を所有する能力は無いが、代用品として二次元女性を所有しているのであって、その意味では原義のホモソーシャルの亜種に過ぎないのではないかという文脈でしょう。

そうであるとも言えるし、そうでないとも言えます。それは恐らく結論が出ませんが、とりあえずそうである要素とそうでない要素を書いておきます。

三次元女性の代わりに二次元女性を所有していると言える要素としては、なんと言っても女性ユニットを入手するタイプのソーシャルゲームの隆盛があります。ガチャで見られる「所有までにかなりの金銭が必要になる」「所有したことはSNSで共有する」「所有している女性の活躍を逐一報告する」という身振りは原義のホモソーシャルでマッチョ男性が行う動きそのものです。もっと言えば、ソーシャルゲームという新しいメディアがオタクにここまで適合的だった理由として、かつてはグッズやポスターが賄っていた「キャラを所有する」という身振りをデジタル化して原型を抽出できたからだ……という印象は拭い難くあります。

ただその一方で、二次元女性キャラクターはどこまでいっても無機物です。まさか「オタクがガチャで引いたカレンチャンのスクショを喜々としてTwitterに貼っている」という事態を、「オタクが彼女を作って匂わせ会食写真を喜々としてTwitterに貼っている」という事態と全く同一視するのは、いくら何でも喩えが行き過ぎているでしょう。
というのも、原義のホモソーシャル的な所有が権力と暴力という能力を示すのは、相手方の女性が意志を持つ主体であるという前提の下、その主体性の一部を剥奪する権利を持っていることによるはずだからです。あえて古典的な言い方をすればカレンチャンはもともとオタクが引いて喜ぶために描かれた「絵」であって、ゲーム内にいるカレンチャンに対して主体的権利の剥奪を行うことは無限に譲歩してもなお有り得ません。

むろん、「オタクはその豊かな想像力によりカレンチャンの主体性を前提できるのであり、少なくともオタク共同体の中では剥奪は機能している」とか「結果的に実現している営みが大きく乖離するとしても、根本にあるモチベーションは同一である(オナニーを性行為の代替とみなせるのと同じ)」のように食い下がることはいくらでも可能です。
個人的には、この話を進めるにあたっては(疑似)女性の扱いを見るのと同じくらい男性の連帯の方を見るのも有効ではないかとも思っています。それもコミュニティと語り手依存なので何かがスッキリ解決することは無いでしょうが……

 

268.見知らぬおじさんからリプ来た時に好青年っぽくなるの草

いつでも好青年です。

 

269.子供とかお持ちになられないんですか

これ聞く意味あります?

 

270.効率主義者な割にノート手書きなの何でなんですか(PCとかスマホで打った方が早くない?)

それ実はかなりあります。
僕はタイピングがまあまあ早い方なので、ノートよりPCのキーボードの方が数倍早いです。ノートに勝る点があるとすれば物理的なフェチズムを満たしてくれる点と図を書きやすい点くらいで、その二つが決して小さくないので現状はまだノートを使っているという感じです。

 

271.lwさんが理解した人狼の基本について教えて欲しい。

272.人狼論について語ってほしい

人狼で僕が理解したこととこれから理解しないといけないことは本当に無数にあって、その中のほんの一つに過ぎないのですが、この前超えた大きなブレイクスルーとしては「適当に投票をしてはいけない」と理解したことがあります。

例えば、初手からローラーをやっていて全会一致で「Aさんに投票しましょう」ということが決まっていて、Aさんも「俺は市民だけどこの流れなら仕方ないな」とか言って消化試合の投票をするとき、僕はだいたいAさんには投票せずに誰か他の人を指さします(代わりに指す相手を仮にBさんとします)。この行動には誰の役職も全く関係なくて、僕が人狼でも市民でもやりますし、Aさんが人狼でも市民でもやりますし、Bさんが人狼でも市民でもやります。
皆には「お前なんでそういうことするの?」って言われるんですけど、僕にとってはそれは全く頭を使わずに当たり前にやることで、逆になんでそんなに皆が引っかかるのかずっとわかりませんでした。皆は俺が何でそれをやるのかわからないし、俺は皆は何がわからないのかわからない泥沼で、「LWの人狼が終わってる問題」の未解決事項として長らく積まれていました。

僕がBさんを指すのは、僕がAさんに投票してもBさんに投票してもどうせAさんが吊られるに決まっているからです。現実的に考えて、僕の適当投票が全体の結果を左右することは有り得ません(ちなみに残り人数が3人とかで明らかに僕の行動が結果に影響を及ぼす場合は普通に投票します。今はまだ10人以上残っている状態を想定してください)。
「市民だったらそれをする理由が無い」というのは反論としては成立していません。人狼でもそれをする理由がないからです。人狼が「市民も巻き込んで奇跡が起きればワンチャン噛めるかもしれない」という砂粒ほどの可能性に賭けて莫大なリスクを背負って決死の行動をするというのは現実的に考えて有り得ず、僕の行動によって僕が市民か人狼か判明することはありません。実際、僕は市民だろうが人狼だろうがやるのでなおさらです。
また、「勝ちを目指していない行動だから良くない」という反論も謎です。僕の投票によって投票結果が変わらず、かつ、何も判明しないのであれば、それは勝ちにも負けにも関与しません。その類の行動は無数にあり、例えば「ゲーム中に右足を上に組んで座るか左足を上に組んで座るか」がその一つです。「Aさんのローラーが決まっているときにAさんに投票するかBさんに投票するか」は僕にとって足の組み方と同じなので、気分で適当に投票するというだけです。

しかしこの前、三時間以上かけて「自分から見た他者の自分への評価」と「実際の他者の自分への評価」が一致していない可能性があるので良くないということを教えてもらって、なるほどそういうことだったのか!とようやく理解しました。
というのも、例えば僕が幼稚園児で初めて人狼をプレイするとすれば、僕が適当に投票することは明確に僕を人狼とする理由になります。何故なら、まだルールがよくわかっていないので「よくわからないけど今吊りたい人を指すと吊れるゲームなのか」と思ってBさんを指さしている可能性が客観的に見ても十分にあるからです。僕が人狼というゲームを「殺したい人を指さすゲームである」と誤解している想定を加えるならば、たしかに僕がローラー作戦に逆らってBさんを指さすことは僕が人狼であることを支持する有力な根拠になるということです。
つまり、僕は「まさか俺はそんなに馬鹿だと思われていないだろう(俺は賢いので)」と無意識に思って適当に投票するのですが、他の人は僕のことを「こいつ幼稚園児並みに馬鹿な上に人狼じゃね?」と考える可能性はあって、だから適当に投票してはいけないということです。

僕は普段から「自分が他人から見てどういうポジションにいるか」を把握する自己マネジメント能力が完全に欠落しているというのは親しい友人たちからよく指摘されるところであり、その欠陥が人狼というゲームを通じて発露しているというのが真相のように思われます。
僕にとって他者認識のスタート地点は「私はあなたではない」であって、情操教育の根幹を成す「私とあなたは同じ人間である」という発想を何か根本的な部分で本当に理解していないようです。「自分と他人は異なるクラスの存在者である」というのは僕にとっては1+1=2と同じくらい当たり前の話なので、僕は他人と同じ行動を取らないことが当たり前だし、他人が自分をどう見積もっているかも把握できません。人狼という枠組みが決められた二次的なコミュニケーションゲームの中では、僕が普段わからないなりに何となく人まねをして補っている部分(えらい!)が完全に崩壊し、根本的に終わっている欠陥が露出するみたいな感じだと思います。

あと人狼についてはまだまだわからないことがいくらでもあるのでわかったら書きます。ちなみに次に理解したいと思っている問題は「議論中に何か喋ることと何も喋らないことは何が違うのか」です。