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19/10/17 ジョーカーの感想 扇動者はどうやって過去を語るのか

・ジョーカーの感想

visual
見ました。

正直に言えば、ちょっと拍子抜けでした。
僕はアーサーの気持ちがよくわかる(と自分では思っている)タイプの観客であり、それだけに全編を通じて非常に素直な内容というか、あまり葛藤なく水が流れるような映画であるように感じました。タイムラインで見かけたように「ジョーカーを理解できない観客は幸福である」とまでは言いませんが、主観的な幸福度があまり高くない人々のうちに燻っているイメージの忠実な描画ではあったのではなかろうかと思います。

補足212:とはいえ、それは実際に社会的なルサンチマンの当事者であることを意味しませんが。

『ジョーカー』がジョーカーのオリジンストーリーの映画だと知ったとき、僕がただちに気になったのは『ダークナイト』における「過去を持たない男」としてのジョーカーとの不整合でした。
ダークナイト』においてはジョーカーが過去を持たないことがほとんどヴィランとしての本質と言ってもよいほど重要な要素だったため、あれから十年経った今、過去=オリジンストーリーを語り直すことによってそのジョーカー観がどのように変化するのかに興味がありました。

補足213:ただ、『ジョーカー』を見終わった今、そういうやり方でこの映画を語るのはあまり意味がないんだろうなとは思います。
ダークナイト』のジョーカーはノーランの趣味によって再定義されたものであり、決してジョーカーのカノンではありません。ジョーカーの描き方にも様々な変遷があったこと、昔からオリジンストーリーも既にいくつかあること(例えばキリングジョーク)、どちらかといえば『ダークナイト』が「オリジン主義」のアメコミヒーローにおいて異端の作品であることは認識しています。
あえて並べるのであれば、『ダークナイト』『ジョーカー』のそれぞれを全く同じ程度の正統性を持つ、同時代的なバリエーションとみなす方が建設的なはずです。つまり、垂直な関係にあるのは現実時間の経過に対してだけで、作品系譜としてはむしろ水平な位置に置くべきです。もっと言えば、『ジョーカー』に対して誠実であるということは、(シリーズ内部での、それも『ダークナイト』からの限られた変遷を探ることではなく)現代社会に対して誠実であるということだとも思うのですが、かといって僕は格差社会とか無敵の人とかその手の議論にコミットする気はあまり起こりません。
よって、依然として僕の興味の対象は、基本的には『ダークナイト』トリロジーとの、社会を介さない作品レベルの比較です。あまりにも前言撤回が早すぎますが、まあ、今ジョーカーを語る上で『ダークナイト』を持ち出すことはそこまで不当で邪悪な試みでも無いでしょうし、身も蓋もないことを言えば、個人ブログにその手の公正さは必要ないよなと思い直すからでもあります。


ダークナイト』において、ジョーカーは過去を語りません。正確に言えば、様々なバリエーションを語るものの、それらは互いに矛盾しており、無意味なジョークであることが明示されます。過去によって彼をアイデンティファイできないのと同様に、彼の衣服はどこにでもある既製品で、持ち物もゴミばかりです。
ダークナイト』におけるジョーカーの目的は、バットマンとデントを正義の座から引きずり下ろし、正義も悪もないと証明することでした。そのためには、各人が拠り所にできるようなポジションの正統性を破壊する必要があります。客観的に実証できない倫理や道徳について、自分が本当に正しいのかどうか疑問に思ったとき、拠り所にできるのは自分が歩んできた歴史です。自分史を振り返って「だから僕は正しいんだ」というストーリーを組み立てることで自分の足元を固めることができます。とりわけ正義vs悪という二項対立に身を置くならば、この手続きは相対的なもので、「××という歴史があるから僕は正しいんだ」は「〇〇という歴史のあいつは間違っているんだ」の裏返しでもあります。
しかし、ジョーカーは過去を全く語らないので、正義とか悪以前に、そもそもそれを担保できる歴史そのものが欠落しています。ジョーカーは金も権力も欲しがらず、そこには何の経緯もありません。全てがジョークです。だからジョーカーの前ではバットマンもデントも自分のポジションを固めることができません。掲げた正義がハリボテに変わり、バットマンは犯罪的な盗聴を断行するし、デントは運だけを信じる殺人鬼に堕落します。
もし仮にジョーカーが何らかのオリジンストーリーを持っていれば、ジョーカーの異常性をジョーカーの人生に帰着させることで、「悲しく誤った過去を持つ人間」という異物として切って捨てることができたはずです。しかし、過去を欠落させることでジョーカーはその手の切り離しを拒絶します。過去を持っていないから、誰も倒せない代わりに誰にも倒されないのがジョーカーの強みです。ジョーカーの前では全てが均質なので、最も高潔な存在であるはずのデントまでも扇動することができます。これが「過去の欠落」がもたらす「扇動者の資質」です。

もう少し掘り下げると、「扇動者の資質」を担保する「過去の欠落」の本質は、恐らく「過去が特殊であるか否か」です。もしある人の過去が特殊なものであれば、彼の異常性を彼の特殊な過去に帰着し、異物として社会からパージすることができます。一方、彼の過去が特殊なものでなければ、彼の異常性を彼の普遍的な過去に帰着することはできないので、彼は異物としての根拠を持たず社会からパージできません。
そう考えるのであれば、『ダークナイト』のジョーカーは「過去を語らない」という戦略によって歴史的な特殊性を彼自身から追放しましたが、全く逆の戦略として、「誰でも持っているような過去しか持たない」という戦略でも同じ効果をもたらすことが可能なはずです。例えば「小学校と中学校を卒業した」という解像度の過去しか持っていない場合、その過去は誰でも持っているので、それによって他人と差別化することができません。
しかし、それでも小学校と中学校を出ていない人は日本にも少数存在しますし、そもそもグローバルに見れば教育制度が整備された先進国ローカルの特殊な過去に過ぎません。だから厳密に言えば「(先進国の中では、ほとんど)過去を持っていないのと同じ」という範囲限定が付きます。この、実際には完全に普遍的な過去は有り得ないために「一般化可能な範囲に制限が付く」というのが、実際に過去を語る戦略を取る場合の限界の一つです。
この戦略のもう一つの限界は、「現実的にはどうしても差異は生じてしまう」ということです。小学校を出た人間の過去をきちんと調べれば「〇〇小学校」卒業という固有名詞まで特定できてしまうはずで、そうなってくると、もはやその過去は「〇〇小学校の卒業者」という範囲でしか一般性を持ちません。それを阻止するためには過去の語りを「小学校」という普通名詞で止めておくことが必要になります。この意味で、これは「実際に過去がどうだったか」という史実調査よりは、「過去をどう語るか」という事後的な物語化の問題です。本当に重要なのは現実には異なっている過去を特殊ではないと思わせるレトリックであって、その結果『ダークナイト』でジョーカーが選択したのが「過去を真面目に語らない」という語り方です。このように事実と物語を切り分けるならば、『ダークナイト』のジョーカーでさえも、彼がユニークなオリジンストーリーを持つことと(事実)、彼がそれを語らずに過去を欠落させること(物語)は両立可能です。

ここまでを踏まえて、混沌の使者、大衆の扇動者、価値の転倒者としてのジョーカーが、『ジョーカー』においてどのようにオリジンストーリーを語るのかというところに興味がありました。
『ジョーカー』は一介の下層民アーサーが、扇動のカリスマたるジョーカーに至るまでの物語です。アーサーの悲惨な生い立ちはこれでもかとばかりに雄弁に語られており、彼の「実際の過去」は明らかに特殊なものです。アーサーの患う「笑いをコントロールできない」という外因性精神障害はその極みであり、むしろ誰からも理解されず彼を社会から疎外するものとして描かれます。仮にこの病気が直接ジョーカーのヴィランとしての異常性に結び付いていたら、例えばもしジョーカーが、『ワンピース』ではないですが「人々を強制的に笑顔にするガスを散布する怪人」だったとしたら、それはただちに彼の病気と結び付けて理解され、不幸な異物として社会からパージされてそれで全部終わっていたでしょう(大衆を扇動することはできません)。
また、アーサーは精神病院で自らの過去が空白であることを発見しますが、それがポッカリと欠落した虚無なのはあくまでも彼自身が振り返る主観的なレベルにおいてであり、他の人から見れば明らかに特異な過去です。如何に下層民といえど、自分の出生までもがジョークである人はそう多くないでしょう。事実のレベルで見る限りは、「本当に過去が欠落している」というのは格別な不幸です。だからこそアーサーは絶望して笑うわけです。

しかし既に述べたように、扇動者にとって重要なのは、事実としての過去ではなく、それがどのように物語化されるかです。
アーサーがジョーカーとして祭り上げられる過程では、アーサーの特殊性は下層民に都合よく隠蔽されます。殺人事件の報道という形でしかアーサーが知られることはなく、その過程で流通するのはピエロの仮面だけです。誰もがピエロの仮面を付けるのは、アーサーの過去が部分脱色されて下層民皆の過去に書き換わったから、まさしく文字通りの意味で「マスクされたから」です。個人史の特殊化を避けるにあたって、『ダークナイト』のジョーカーは「過去を語らない」という戦略を取りましたが、『ジョーカー』のジョーカーは「過去を汎化する」という手続きが本人の知らないところで勝手に執行され、結果的に「扇動のカリスマ」という同じ結果をもたらしました。

ただ、「格差社会の犠牲者」という一般性は、社会の下半分でしか機能しません。社会の上半分から見れば、それが依然としてパージ可能な特殊性であることは明らかです。
よって、『ジョーカー』におけるジョーカーに扇動者としての資質を担保する過去の欠落には、「(下層社会では)過去を持っていないのと同じ」という範囲限定が付随しています。彼は社会の下半分を転倒できますが、上半分を転倒できません。『ダークナイト』のジョーカーはデントを倒せましたが、『ジョーカー』のジョーカーにはデントは倒せないでしょう。過去を欠落させるレトリックの究極形はやはり「語らない」であり、(かなり普遍化しているとはいえ)過去を語ることと引き換えに影響力の射程が「世界の全て」から「世界の下半分」に縮小したという、扇動者としてのグレードダウン感は否めません。

補足214:過去の一般化及びそれが可能にする扇動が、「作中の大衆」に対するものなのか「『ジョーカー』の観客」に対するものなのかは意図的に混同して書いています。最初に書いた通り、その二つをきちんと切り分ける類の分析にコミットしたくないからです。

さて、階級社会を利用した扇動者としてただちに思い浮かぶのは、『ダークナイト』というよりは続編『ダークナイトライジング』のベインです。実はベインは『ダークナイト』のジョーカーよりもかなりうまく大衆を扇動することに成功しています。ジョーカーが結局のところ大衆が持つ無垢な善意に敗北した一方、ベインは数ヶ月にわたってゴッサムシティを無法地帯に作り替えました。
ベインが取った手法は『ジョーカー』におけるジョーカーの手法とかなり似ており、やはり階級対立を煽ることによる大衆の焚き付けです。ベインの出身は高度に象徴化されてほとんどファンタジーと言っても良いような地下社会「奈落」であり、ジョーカーの所属していたリアルな格差社会とは毛色が異なります。とはいえ、「奈落」という名前からも明らかなようにベインは社会の最底辺から這いずり出てきた抽象的な闇であり、それに呼応する形で大衆の下半分が反応したことは『ジョーカー』における構図と同じです。よってベインが扇動する影響力の射程も『ジョーカー』のジョーカーと全く一致しており、恐らくベインにもデントは倒せないというのもまた同じです。
ただ、ベインの詰めが甘かったのは、最後の最後で極めて特殊な過去を公開してしまったことです。実はベインの行動の原動力は奈落で出会った女性を愛したことだと終盤で明らかになり、この告白によってバットマンはベインを特殊な過去を持つ異物として社会からパージできるようになります。実際、ベインは過去を明かされた直後にあっさりと死亡して退場し、そこからはバットマンがまるで普通のスーパーヒーローのように活躍します。ベインを特殊性の中に疎外して悪として定義できたことによって、相対的にバットマンの正義も担保され、「自己犠牲による解決」及び「正義を受け継いだ後継者の誕生」という目も当てられない惨状で『ライジング』は終わります。

以上、同時代性を捨象したヴィランのカタログとして「扇動者としての資質」と「過去の欠落」について考えてきましたが、『ジョーカー』のジョーカーは『ダークナイト』のジョーカーからややグレードダウンしている一方、『ダークナイトライジング』のベインよりは強力なカリスマではないかという話でした。