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19/10/14 トイ・ストーリー4の感想 道具と人間の狭間でキャラクターを考える

トイ・ストーリー4の感想

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トイ・ストーリー4』を見ました。
1~3を全部見直してから見たんですけど、このシリーズめちゃめちゃ面白いですね。キャラクター論としての射程も長く、オタクは『トイ・ストーリー』を見ろという気持ちになりました(主語デカ!)。

・道具と人間の狭間で

御存知のように、『トイ・ストーリー』は「生きているオモチャ」の話です。
そして生きているオモチャであるということは「道具」と「人間」にまたがる両義的な存在であると再定義でき、それがシリーズ全体を貫くテーマになっています。

まず、道具であるということは、生まれるのに先立って既にその用途が決まっているということです。
伝統に従い、ペーパーナイフの例で考えましょう。ペーパーナイフは「紙を切る」という目的で作られているため、紙を切るという用途に使用します(当たり前ですね)。その気になればステーキを切ったり穴を掘ったりすることもできますが、本来の用途ではないので使いにくいでしょう。
また、それはペーパーナイフは個体よりも種によって存在するということでもあります。何故なら、ペーパーナイフの用途を定めるという行為は、個々のペーパーナイフに対してではなく、ペーパーナイフ全般に対してでしか有り得ないからです。「ペーパーナイフAは紙を切る」、「ペーパーナイフBはステーキを切る」というように個体の差異に注目して機能を定義することはできず、「ペーパーナイフA, B, C......Zは全て紙を切る」という風に全てを括るのがペーパーナイフの妥当な定義です。つまり、ペーパーナイフが紙を切るのは、個体ではなく種としてそう決まっているからだと言えます。

その一方、人間は誰かに目的を伴って作られるわけではないので、生まれるのに先立って用途が決まっているということはありません。人間は道具とは違って何でもでき、紙を切ってもステーキを切っても穴を掘っても構いません。自由です。
そのため、「ペーパーナイフは全て紙を切る」が正しかったのとが違って、「人間は全て〇〇をする」というように括るのは不適切です。人間の場合はむしろ、「人間Aは紙を切る」、「人間Bは穴を掘る」というように個体ごとに記述する方が正しいはずです(Aさんは切り絵師でBさんは掘削作業員なんでしょう)。つまり、人間が何者かになるのは、種ではなく個体としてそう決めるからだと言えます。

補足209:ジャン=ポール・サルトル曰く、「実存は本質に先立つ」というやつです。

この対立を導入したとき、生きているオモチャであるウッディやバズは道具と人間にまたがる両義的な立ち位置にいます。
まず、彼らは人工物であるが故に、生まれた時点で用途が決まっているという意味では道具です。彼らの個体としての存在に先立って、種としてのコンテクストが複数存在しています。ペーパーナイフが生まれた時点で紙を切る道具であるのと同様に、ウッディたちも生まれた時点でスペースレンジャーだったり、アンティークグッズだったり、オモチャだったりします。また、これらは一つ一つのウッディ個体やバズ個体に対して定まる価値ではなく、集合としてのウッディ種やバズ種に対して定まる価値です(『2』で複数現れたバズが全てスペースレンジャーだったように)。
その一方で、ペーパーナイフとは違って意志のある存在なので、自ら考えて行動を決めることができるという意味では人間でもあります。また、彼らが色々と考えて判断を下すとき、その決定は明らかに種ではなく個体として行われています。『2』で主人公陣営のバズとオモチャ屋のバズはそれぞれ違う考え方をしていました。彼らは一度生まれてしまったら、意志を持つが故に個体として分化する歴史性を持つことになるわけです。

補足210:なお、もっと細かく見ていくと、『トイ・ストーリー』に登場する「生きているオモチャ」には明らかに二通り存在します。
一つはウッディやバズやスリンキーのように人型や動物型でキャラとして成立しているもの。もう一つは「お絵描きボード」や「手」のように能動的な用途が明確に定まっているものです。前者は人間寄り、後者は道具寄りです。どちらも満たさないオモチャ、例えば「立方体ブロック」や「レール」は意志を持ちません。


この対立軸を設定した上で、第一次近似としては、『トイストーリー』は生きているオモチャたちが道具であることを乗り越えて人間であることを目指す物語です。
例えば、『1』で乗り越えられたのは「作品設定」です。当初のバズは自分がスペースレンジャーだと思い込んでいましたが、その設定はバズが生まれた時点で存在しており、かつバズ個体ではなくバズ種にかかる道具的な価値です。バズは自分がオモチャだと自覚することによってアイデンティティの危機に苛まれますが、ウッディとの交流によって個人として生きることを引き受けるに至ります。
次に、『2』で乗り越えられたのは「流通価値」です。『2』では実はウッディはそこそこ価値のあるアンティークグッズということが明らかになりましたが、その情報もやはりウッディ個人とは関係のないところで存在しており、ウッディ種全般にかかっているという意味で道具的な価値です。ウッディが博物館に行くかアンディ家に帰るかという選択で問われていたのは、ウッディが道具=種として生きるか人間=個体として生きるかということです。結局ウッディが人間として生きることを選んだのは『1』におけるバズと同じです。

こうした「道具から人間へ」というストーリーには、何よりもまずディズニーらしいリベラルなメッセージが込められていると見ていいでしょう。
今まで人間は生まれたときから全く自由であると書いてきましたが、実際にはそういうわけでもなく、生まれた時点で決まるステータスに起因する価値に拘束されていることが多いです。その最も典型的なものは生物学的なセックスで、「男だから我慢強くあれ」とか、「女だからおしとやかに」と言うときの規範は個体ではなく性別に対して与えられています。そういうステレオタイプを打ち破って個人として思うように生きていきなさいというメッセージが、ウッディたちが道具から人間に変わっていく過程で実現されているのは間違いありません。

・リベラル論からキャラクター論へ

ただ、リベラルなメッセージ性はディズニー作品に頻出の主題であり、他のディズニー作品でも嫌というほど見られるものです。『トイ・ストーリー』の独自性を読み込むならば、リベラル論ではなくキャラクター論として読み替える方が建設的であろうと思います。

ウッディやバズを「作中作品のキャラクター」として読んだ場合(例えばバズはアニメ『バズ・ライトイヤー』のキャラクターです)、キャラクター全般も上で述べたような「道具と人間の狭間」=「種と個体の狭間」という両義的な立ち位置にいることがわかります。
例えば、誰でもいいのですが、のび太くんについて考えてみましょう。彼は創作された時点で「基本ダメだけど射撃がうまい小学生」というようなキャラクター設定を付与されています。のび太自身から見れば、それは彼ただ一人だけが持つ特徴であり、人間が何者にもなれるように、今持っている個性もこれからどのようにでも変えていけるものなのでしょう。
しかし、一度作品外に出て我々の視点から見てみると、のび太はそういう自由度を持つ個体ではありません。我々から見れば、キャラクター設定はのび太個人がどうにかして変えられるようなものではなく、創作された時点で永遠に背負う烙印です。『ドラえもん』がこの先どんな商品展開をしようが、この設定が撤回されることは絶対にありません。「基本ダメだけど射撃がうまい」というキャラクター設定はパラレルワールド的な劇場版作品や各話全てに適用されており、その意味でのび太種全般に付与された特徴です。
ざっくりまとめれば、キャラクターには作中から見れば人間だが、作品外から見れば道具という両義性があります。

補足211:『トイ・ストーリー』において計らずもこれを指摘してしまったシーンが、『2』でオモチャ屋で大量にバズが並んでいるのを見て「『トイ・ストーリー1』のときは在庫管理が大変だった」というような発言を行うところです。これは一種のメタジョークに過ぎず、恐らく意図したものではないのでしょうが、実は作品全体を揺るがす重大な言及を含んでいます。
何故なら、バズは『1』で作品設定を乗り越えて自分はスペースレンジャーではなく一人の人間であるという認識に至ったのですが、我々から見れば、バズは「スペースレンジャーではなく一人の人間であるという認識に至った」という作品設定を持つ道具に過ぎないという事実を指摘しているからです。バズがあんなにも苦労して獲得した個体としての立ち位置は、我々の現実世界でバズのオモチャが作られる段階では、再びバズ種が持つ単なる設定として再定義されてしまいます。
この仕組みが働いている限り、つまり、バズが『トイ・ストーリー』という映画のキャラクターである限り、道具であるという地獄からは絶対に逃れることができません。この問題は『トイ・ストーリー』内では全く解決されていません。


このキャラクター観を踏まえると、様々な現象に対してキャラクターの実存と本質の問題を見出すことができます。この話題はいくらでも展開することができますが、とりあえず今は卑近な話題を二つ、Vtuberと『アクション対魔忍』について簡単に考えてみましょう。

まず、Vtuberもとりあえず何らかのキャラクター設定を伴って生じるという意味ではのび太と大差ありません。しかし、Vtuberのび太が決定的に異なるのは、Vtuberは必ずしもこの設定に拘束されないことです。真っ向から破棄することはないかもしれませんが、「キャラが崩壊する」とか「設定を気にしない」という形で実質的に設定を無効化できます。
そうした営みが可能な理由は様々なレベルに求めることができます。まず一つには、キャラクターがアニメのような複数人の無時間的な連携ではなく、一個人のリアルタイムな判断によって構成されるという意味で、極めて「人間」的な背景を持っているからと言えます。他にも、Vtuberは種ではなく個体であるタイプの新しいキャラクターだからという言い方もできます。色々な領域でコラボするDWUを、汎化したDWU種として捉えるよりは、一つの個体であるDWUが様々な媒体に足を運んでいるだけと見る方が直観に合うでしょう。各論めいてくるのでここではやりませんが、ゲーム部やキズナアイの試みもこの文脈上で考えることができます。

次に『アクション対魔忍』です。このゲームって完全にネタとして消費されているんですが、キャラクターに新しい可能性を与える試みとしての高いポテンシャルを感じます。
アサギものび太同様に元々「ハード凌辱」ゲームのキャラクターという設定を伴って生まれており、それが彼女に定められた「用途」でした。この先天的な規定に彼女のキャラクターとしての在り方は拘束されており、彼女がキャラクターとして振る舞うということはとりあえず捕まって凌辱されることと同義でした。しかし、『アクション対魔忍』ではジャンルが「ハード凌辱」から「スタイリッシュアクション」に変わったことにより、彼女はかっこよく戦えるようにもなります。
そして、この「ハード凌辱」と「スタイリッシュアクション」という二つの側面が彼女の人生において矛盾なく接続するというのが最大のポイントです。「任務に成功したときを描くのが『アクション対魔忍』で、任務に失敗したときを描くのが『対魔忍アサギ』だから元々のキャラクターには何ら変更が加えられていない(『対魔忍アサギ』しかリリースされていなくても、本当は『アクション対魔忍』みたいなことをやってた)」という解釈が決定的に優れています。この解釈に従うならば、ハード凌辱というゲームジャンルがアサギというキャラクターの用途を制限していたのではなく、本来は豊かな人生を送っているアサギの人生のある一面を切り取ったらたまたまハード凌辱になっただけです。すなわち、彼女の実存は本質に先立っていたという転回をもたらします。
つまり、ゲームキャラクターにおいては「ゲームジャンル」がキャラクターを道具的に使用する烙印の一つとして機能していたのですが、設定上は矛盾しない形で全く別のジャンルを付け加えることでジャンルによる拘束を緩め、キャラクターを漸近的に人間化する試みとして『アクション対魔忍』を捉えることができます。
もちろん似たような試みは他にも色々あるはずで、いわゆる外伝作品やコラボ作品にそれは顕著です。例えば、最近ではグリムアロエも「QMAクイズゲーム=頭脳の世界」から「ボンバーガール=アクションゲーム=身体能力の世界」にジャンルを移行したことが類似事例として挙げられます。ただ、『アクション対魔忍』の場合は前後のジャンル落差とインパクトがあまりにも激しいのでメルクマールとしての立ち位置を与えやすいように思います。

・更なる人間化は成功したか?

脱線が長くなりましたが、『トイ・ストーリー』の話に戻りましょう。
『3』では作品設定も流通価値も乗り越えたウッディたちが、いよいよ個体として自らの人生をつかみ取っていくにあたってアンディ家を脱出して保育園という新天地にチャレンジしていきます。ただ、保育園で行われた階級闘争はあまり本質的ではないアドホックなもので、「自分の人生を生きることは時に辛く厳しいけど最後には良いこともある」という教訓程度しか読み取ることしかできません。
それでも唯一非常に引っかかるのは、ラスボスのロッツォが改心しなかったことです。「元は良いやつだったのに辛い人生で心が壊れてしまった」という改心フラグしかないキャラクターだし、作中で改心可能なシーンが明確に与えられているし、改心したところで何か物語上・設定上の問題があるわけでもないし、改心するということはリベラルなテーマとも特に矛盾しないにも関わらずです。
これって、自己決定を引き受けるのはそれだけ重大ということを表しているのだと思います。ロッツォもまた、最初から作品設定の束縛を受けておらず、ウッディたちと同様に個体として生きる段階に達しているキャラクターです。よって、彼の「悪のリーダー」としてのアイデンティティは、(「悪の帝王ザーグ」とは違って)決して誰かに与えられたものではなく、彼自身が選び取ったものです。そうである以上、彼が自分で選んだ個体としての在り方の責任は「絶対に改心しない」という形で引き受けなければならないのかもしれません。

さて、ようやく『4』についてです。
『1』『2』では作品設定と流通価値を乗り越え、『3』では人生の酸いも甘いも噛み分けたウッディたちですが、それでも最後まで残存していた道具としての価値は「オモチャであること」それ自体です。『3』で描かれたように結局ウッディたちは人間に遊ばれるという範囲でしか人生を選べないわけで、それは本当に個体として実存的に生きていることになるのかということが遂に問われました。
オモチャであることが問題になるにあたって、ゴミとしてのアイデンティティを持つフォーキーが登場するのは面白いところです。フォーキーはゴミとしての人生観を持っていて、オモチャとしての人生観を持つウッディとは相容れません。ウッディはオモチャとしてのルールをフォーキーに押し付けようとするけど、フォーキーにとっては意味不明なルールでしか無い様子を描くことで、ウッディが絶対だと思っていたオモチャとしての価値観が相対化され、それを見つめ直す契機が与えられています。

最終的にはウッディはオモチャであることをやめ、ボーと共に人間に遊ばれない人生をスタートすることになります。『3』までずっと道具から人間へという主題をやってきていた流れを踏まえるなら、『4』のラストは予定調和です。シリーズの動向に照らして、方向性は全く間違っていません。
ただ、それはあまりにも予見可能で安直な展開であると同時に、話が一般的になりすぎて本当に『トイ・ストーリー』でやるべきものだったのかについて疑問が残ります。そもそもタイトルに「トイ」が入っているように、生きているオモチャであるために道具と人間の狭間にいるという両義性がここまでの議論を可能にしてきており、キャラクター論として読み替えることでの批評的射程も確保されていたのでした。人間に向かって漸近するのは良いけれど、完全に人間化すると元々あった両義性が破棄されてしまいます。シリーズ最終作であることを踏まえるならばラストで振り切ってもいいのかもしれませんが、そこに至るまでの経緯が不十分だったように感じます。オモチャであることを活かして道具と人間の狭間で葛藤するようなことがなく、ただ単に人間方面に爆走していたように思えてなりません。
『4』って『トイ・ストーリー』ならでは、オモチャならではのアンビバレントな議論をやっていなくて、「ディズニー・リベラル・ストーリー」の外伝に見えるんですよね。そもそも、ボー・ピープって最近のディズニーに頻出の「自立した女性プリンセス」という類型キャラクターです。それはリメイク版『美女と野獣』にも『アナ雪』にも『マレフィセント』にもいますが、最もラディカルに提示したのは『シュガーラッシュ・オンライン』で間違いないでしょう。「女性は女性らしく」というステレオタイプを乗り越えて自ら決断して戦うこともできる女性、というモチーフを最近のディズニーは極めて好みます。つまり、ボーは偏在するリベラル・フェミニズムの旗手でしかなく、ウッディに対する啓蒙活動が行われただけという印象を受けます。

・『4』の積み残しと『5』への期待

実際、ディズニー的リベラル運動に容易に還元されてしまうような一般的な話題を扱いすぎた結果、「生きているオモチャ」としての議論が未消化のままで積み残されています。

最大の問題は、「道具vs人間」という対立の要石である「人間の前で動いてはいけないルール」に関する議論が全く尽くされていないことです(以下、「人間の前で動いてはいけないルール」では長いので、略して「不動ルール」と呼ぶことにします)。
不動ルールは『1』から一貫して存在する基本設定であり、恐らく「オモチャが見えないところでは動いていたら夢があるよね」的な発想レベルからトップダウンで導入された設定ではあるでしょう。ただ、その後の作中における扱いが全く安定せず、設定レベルでの謎が多い上に主題に対しても矛盾の温床になっています。
最初に言っておきますが、不動ルールを考えることでいわゆる「設定考察」をしたいわけではありません。不動ルールの不安定な運用が、主題に関する議論に対して欺瞞や隠蔽として機能している可能性があることを指摘するのが目的です。

まず作中設定レベルでは、不動ルールが存在する理由は語られていません。そのためウッディたちがこれをどう解釈しているのかは不明瞭です。単なる心得に過ぎず「見られない」という確信さえあれば動いてよいのか、それとも鉄の掟であり見られないことに何か重大な理由があるのか。稀に「騒ぎになるのはまずい」とか「ルールだ」というような言及は行われますが、深く掘り下げられることはありません。
とはいえ、最も素直に考えれば不動ルールが機能している理由は「それがオモチャとしての責務だから」というところでしょう。あくまでもオモチャである以上、人前で動くことはその領分を逸脱するというのは筋が通っています。最大限好意的に捉えるならば、人間的に生きる上での一つの倫理性というところでしょう。

ただ、そのように考えた場合、明らかに不動ルールを守る動機がない層が2タイプ存在します。
一つは、『1』初期でのバズのように自分がオモチャであると認識していないオモチャです。彼らはそもそも自分がオモチャだと思っていないので、人間の前で動いてはいけない理由があろうはずもありません。作中では「彼らは不動ルールを気にしていないが、結果的に幸運にも人間には気付かれない」という描かれ方になっていることが多いものの、やや無理がある描写と言わざるを得ません。
そうした無理のある描写が問題なのは、自らがオモチャだと認識していないオモチャ=作品設定の世界で生きているオモチャを不当に弾圧するからです。既に述べてきたように、このシリーズはリベラル的観点から道具から人間へなることを称揚していますが、その一方、道具的に生きるオモチャたちにも「人生の目的が明確なので迷わない」という強みがあることも事実です。
実はアンディ家のオモチャのうち、シリーズを通して自らがオモチャであると認めていないオモチャが一つだけ存在し、それは「グリーンアーミーメン」です(緑色でバケツに入ってる軍人のやつです)。彼らは『3』の冒頭において、ウッディたちがオモチャとしての責務を終えて打ちひしがれる中、「次の任務に向かう」と述べてあっさりアンディ家から離脱します。彼らは自由な意志を持つ人間ではなく、軍人としての設定に従う道具なので、目的が一貫していて逆境でも迷わない強さがあります。
同じことは不動ルールに対しても言えて、ウッディたちがオモチャであるために人前では動けないルールを遵守しなければならない一方で、グリーンアーミーメンは自らの軍人としての責務に対してのみ従い、人間にバレることを気にせずもっと自由に行動を取ることができるはずです。グリーンアーミーメンのような人種は、リベラルから見れば主体であることを放棄した権威主義的盲信者に見えるかもしれませんが、それでも確かに描かれたはずの「迷わない」という強みが、不動ルールの恣意的な運用によって隠蔽されているとすれば問題です。

もう一つの不動ルールを守る動機がない層は、『4』におけるボーのように自らの意志でオモチャであること=人間に遊ばれる存在であることをやめたオモチャです。
もともと、『3』までの時点で、不動ルールはウッディたちの個体としての生を描く上で決定的な違和感を招来していたことは否めません。彼らが個体として生きるということはオモチャとして生きるということであり、そしてそれは不動ルールを受け入れるということでもありました。つまり人間の前では物言わぬ無機物になるということです。物言わぬオモチャであることは、果たして自己決定を成していることになるのかという描写上の不具合がありました。
ならば、『4』でオモチャであることをやめたボーは不動ルールを破棄するのが道理です。一応、『4』では不動ルールはかなりの程度緩和されており、車を走らせたり遊園地で暴れても良いことになっています。恐らく、「オモチャが動いているとさえ悟られなければ、人間世界に重大な影響をもたらすことまではセーフ」というようにルールの解釈が拡大されたのでしょう。ボーたちの自立を扱う上で生まれた歪みが、不動ルールへの皺寄せという形で表れています。
そもそも、『4』におけるボーは人間の前で硬直するのでしょうか。『4』は「その議論自体を描かない」という形でこの問題に対処したことは明らかです。主題から考えれば、ボーは不動ルールを遵守しないべきです。しかし、実際にそれをやるためには、設定的な正当化にかかるコストがあまりにも大きすぎるので、不動ルールを解決するリターンと天秤にかけた結果、描写そのものを諦めたというところでしょう。ただ、それこそが『トイ・ストーリー』の独自性だったはずで、リベラル・プリンセスの活躍を描く暇があったらそちらを扱う方が続編として望ましい議論だったのではないかと感じます。

なお、不動ルールに関する矛盾を解決するに際して、「本当は作中でもウッディたちは動いていない」という解釈で筋を通すことは不可能ではありません。つまり、作中で描かれているのは誰かの妄想に過ぎず、あくまでも機械の不具合や風や地震でたまたま動いたオモチャたちにストーリーを読み込んだのが『トイ・ストーリー』と考えると、設定的・主題的な矛盾は消滅します。
ただ、この解釈は『1』のシドへの復讐シーンで明確に否定されます。そもそも、あのシーンで「ウッディたちは実際に動いているし、その気になれば不動ルールを破棄できる」ことが明示されてしまったので、それ以降オモチャたちが不動ルールを遵守している場合、「彼ら自身の意志であえて不動ルールを破棄していないだけ」としていちいち理由が求められるようになってしまいました。
監督は『トイ・ストーリー』は『4』で終わりだと述べていましたが、願わくば『5』を制作して不動ルールに決着を着けてほしいところです。

最後に、もし『5』があるならば掘り下げてほしい議論をもう一つだけ挙げると、『4』で突如発現したバズの異常性です。
『4』では「機械音声」がキーとなり、ウッディとバズは全く真逆の展開を辿ることになります。ウッディが自らの発声装置を切除してギャビーに譲渡した一方、バズは判断に際して常にボタンを押してシステム音声を参照するようになります。機械音声を排除するウッディと、機械音声に依存するバズが明確に対比されているわけですね。
ウッディの方は素直に理解できます。ウッディは道具=種であることをやめて人間=個体として生きるわけですから、カウボーイ設定として喋るだけの機械音声は道具の象徴に過ぎず、積極的に捨て去るべきものです。ウッディが「内なる声」と言ったときのニュアンスも、先天的に与えられた用途に従うのではなくて、もっと自分自身で考えた自己決定を行うべきだという意味に矛盾なく解釈できます。
ただ、バズは「内なる声」を極めて極めて曲解しました。「内なる声」とは機械音声のことだと考え、自ら考えることをやめて常にそれに頼るようになってしまいました。機械音声はスペースレンジャーとしての声であり、バズが『1』で卒業したはずのまさにそのものです。人間になったウッディとは反対に、バズは神の声に人生を委ねるようになってしまったという対比があります。シリーズを貫くテーマに対して、あらゆる作品で唯一完全に逆行しているのが『4』のバズです。

このバズの異常性を『4』で導入する意味がよくわかりません。
一応、『4』でもウッディの生き方が完全な正解として称揚されているわけではなく、他の生き方を否定していないのは事実です。例えば、ギャビーはオモチャであることをやめたウッディとは真逆で、新たな持ち主を見つけることでオモチャとしての幸福を掴んだことがハッピーエンドとして描かれています。よって、バズが作品設定の世界に出戻りすることも多様性として描いていけないわけではありません。また、最大限好意的に解釈すれば、バズは完全に機械音声の言いなりになったわけではなく、その都度自ら機械音声を解釈して有益な選択肢を引き出そうだけなのかもしれません。機械音声はあくまでもヒントであり、バズは新しい自己決定の形を披露しているという見方は可能です。
ただ、これら二つの解釈は「そう言えなくもない」というレベルで、強弁するにはまだまだ描写が足りないのは明らかです。願わくば、『5』で掘り下げてバズの行方にも決着をつけてほしいところです。