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18/8/10 ユリイカの感想/バーチューバーのパフォーマンスとシリアスについて

ユリイカの感想

無題
赤月ゆにが買えって言ってたからユリイカのバーチューバー号を買った.
バーチューバーが今熱くて雑誌で特集されてるらしいって話になったとき,Vティークとユリイカのどっちを買うかって明らかにオタクとサブカルの分岐点で,俺はVティークを買うような存在でありたいけど,だからといって買うわけじゃないし買うようなオタクであった記憶もあまりない.ぼくなつに捏造されるあの夏の思い出みたいなもんですね.どうでもいいけど……


載っている記事は全てバーチューバーについてのものだが,バーチューバー(かそのスタッフ)の自己言及かおっさんたちの外部言及の二つに大別できて,意外にも前者がかなり面白い.バーチューバーは批評家じゃないから何か無難なコメントをするのかと思いきや,多くの人が現場からの迫真さを持った強力な思想をパフォーマンスを交えて伝えている.

特にキズナアイが<リアル/バーチャル>という対立自体を解体するラジカルな思想をチラつかせていて真祖の凄みを感じた.というのはどういうことかという話をしばらくする.
別に<リアル/バーチャル>の対に限ったことではないのだが,二項対立の関係にあるものを並べる際には,抽出と剥奪の二つの見方がある.例えば,<黒/白>の対を取り上げることにして,机の上に黒い碁石と白い碁石を並べて置いてみるとしよう.
BlogPaint
こんな感じ.
この事態を捉える方法の一つは,素直に差異を抽出することだ.これはまあわかりやすい.「黒い駒と白い駒は逆の色を持ち,それぞれ別のプレイヤーが使用するので,対立したものである」という解釈で,囲碁を作った人もそういう気持ちでデザインしたんだろう.
しかしもう一つは,差異を剥奪することだ.囲碁の内部にあるルールから離れてみれば,どっちも囲碁で使う遊び道具に過ぎない.「囲碁の駒」と呼んでみれば,白かろうが黒かろうが大した違いはないのだ.この横に将棋の駒やチェスの駒を転がしてみれば,もはや黒白の碁石は同じカテゴリーにまとめられるだろう.「黒い駒と白い駒はどちらも囲碁に使う遊び道具なので,同じものである」という感じだ.

こうして白黒の碁石を見ただけで,真逆か同一か二つの見方があることがわかった.
言葉遊びで煙に巻かれたように思うかもしれないが,二項対立なんてわざわざ対立する時点で何らかの共通点を持っているんだから,対立している点を剥奪してしまえばむしろ同じフォーマットに置かれることは珍しくない.コミケの徹夜勢とアンチ徹夜勢が白熱する議論を交わしていたとしても,そんな論点を持っている時点でどっちもディープなオタクなわけで,非オタクから見れば平等に気持ち悪いのである.

以上の話を踏まえて,バーチューバーが自身の存在を表明するのにも二つの戦略がある.
一つは<リアル/バーチャル>対自体を前提した上で如何にしてバーチャル足りえるかという方向性(抽出).もう一つは,対から差異を取り去り同じものとみなして仲良くしようよみたいな方向性(剥奪).俺の見た感じではキズナアイと赤月ゆにの二人だけが後者に属し,ほかはだいたい前者だ.
キズナアイは究極のフラットを志向し,哲学的ゾンビや無限再生産の話を絡めて人間とAIを同一視した上でその向こう側に興味を持っているらしい.また,この思想によって立てば,そうした興味を持つのはキズナアイのキャラクター設定なのかキズナアイの製作者であるのかという区別には大した意味がない.その論点は既に剥奪されているのでもはや機能しない.

さて,キズナアイホリエモンと対談したときにむっちゃ叩かれたことを悲しんでいた.別に対談内容に問題があったわけではなく,キズナアイホリエモンと絡むということだけで拒否感を示す人が一定数いる.
これは「差異を剥奪することでキズナアイホリエモン存在論的に同じ土俵に立つべきなのだ」という前提を持つキズナアイサイドからすれば,むっちゃ叩かれたことは「剥奪の失敗」という位置付けになる.リアルはリアル,バーチャルはバーチャルという古風で頑迷な人々を啓蒙して,碁石は等しく遊び道具とみなすようなステージに導かなければならない.

しかし,これはそういう問題なのだろうか?

<リアル/バーチャル>対を無効にした後になお残る別の対なのか,それとも対の根っこをを支えるより強固な対であるのかは定かではないが,<パフォーマンス/シリアス>という対を取り去ることは容易ではなく,その辺に原因があるのではないか.少なくとも,<リアル/バーチャル>対と<パフォーマンス/シリアス>対の二つは別途に考えないといけないという話に移ろう.
<パフォーマンス/シリアス>という対は「演技やゲームとしてやっているのか,真剣にやっているのか」ということだ.例えば,役者が演劇で怒る芝居はパフォーマンスだが,その巧みさを褒める先輩演者の称賛はシリアスである.テニミュリョーマの役者がするツイストサーブはパフォーマンスだが,構成作家が脚本を書くことはシリアスである(リョーマというキャラクターから見ればツイストサーブもシリアスだが,今回はその視点は導入しない.一貫して我々通常の人々の立場から見る).
このとき,パフォーマンスとシリアスを混在させることはあまり推奨されない.パフォーマンスが自分の機能するテリトリーをわきまえずシリアスにまで侵入してくると問題があるのだ.
想像してほしい.

あなたは舞台役者で,今上演している演劇では友人と一緒に双子兄弟の役を演じている.本来は同い年の同期だが,演劇中では「弟よ」「なんだい,兄さん」というようなやり取りを頻繁にする.友人はこの劇を非常に気に入っていて,稽古からの帰り道にも「弟よ,アイスを買って帰ろうじゃないか」などと言ってくることがある.あなたはそれほど劇に入れ込んでいるわけではないが,「そうだね,兄さん」と苦笑して答えるのも吝かではない.しかし最近,あまりにも弟呼びされる頻度が高くなってきた.というか,日常での会話全てが「弟よ」で始まる気がする.正直ちょっと鬱陶しくなってきており,「そうだね,兄さん」と答える頻度を下げているが,友人は気付く様子がない.ある日,急いでいるあなたが赤信号を無視して渡ると,それを見ていた友人が「弟よ」と呼び止める.「兄として注意しなければならない,交通ルールを守ってくれ,兄さんからの願いだ」.そして遂にあなたはキレた.「俺はお前の弟じゃないし,兄貴面のごっこ遊びをするのはいい加減やめてくれ」……

以上.
パフォーマンスにはパフォーマンスでしか対抗できないし,シリアスにはシリアスでしか対抗できない.その二つが混ざると,押し付けがましい,なんで俺が付き合わないといけないんだよ,距離を置かせろよというウザいことになったり,いつまで付き合うべきなんだろう,どこまでが演技なのかなという困惑を生んだりする.

赤月ゆにはまさにパフォーマンスの徹底という形で解体を提示する.

赤月ゆにの寄稿はだいたい上のツイートの添付画像そのままで,文京区に実在する私をバーチャル扱いするのは失礼なんじゃないの,というような話を延々と書いている.それを読んだ人の中には,過去にバーチャル吸血鬼扱いしたことについて本人が怒っているんだから謝った方がいいかと思って「ゆにちゃんごめん」みたいなことを言う人がいるかもしれない.怒られたから謝罪する,その流れ自体はおかしくない.しかし,その謝罪は他人のアイデンティティを侵害したことに対する本心からの謝罪だろうか.黒人の友人をうっかりニガーと呼んで激怒させてしまったときと全く同じものだろうか.
そんなわけはないだろう.パフォーマンスにはパフォーマンスでしか対抗できないし,シリアスも同じだということをさっき書いた.シリアスに謝罪をするならば,赤月ゆにの怒りをシリアスに捉えなければならない.吸血鬼の実在を本心で認め,彼女の生態を何の疑いもなく信じ,それに合致しない生物学教科書には内容の不足を指摘する文書を片っ端から送らなければならない.それは端的に異常だ.だから,赤月ゆにというコンテンツがパフォーマンスとして「怒ってみせた」ことに対して,謝罪のパフォーマンスで「謝ってみせる」のが関の山なのだ.
結局,キャラクターの怒りはパフォーマンスでしかないから,我々のシリアスの領分まで手が届かない.ここにパフォーマンスの壁がある.

逆にバーチューバーの方から謝るときも同じような現象が出てくる.さっきから謝るだの謝らないだのという話ばかりで気が滅入るかもしれないが,我々の感情のうちで真なるものはネガティブなものだけだから,シリアスさは負の感情と共に滲み出る.我慢してほしい.

ここに夢咲楓が動画編集に手間取ってコラボで指定された期限の時刻に動画をアップできなかったときのガチ謝罪ツイートがある.ガチで謝っているので,いつもの絵文字もない.このツイートに宙に浮いたような違和感を持たないだろうか.ここで謝っているのは誰だろう.別に解釈の真意を問うているわけではなく,これがキャラクターだったとして納得できるのか.本当に申し訳ないことをして謝罪をするのがキャラクターとしてのパフォーマンスで良いのだろうか.

そもそも,バーチューバーは真にシリアスな謝罪をすることができるのか?もう少し状況を極端にしてみよう.想像してほしい.
語尾に必ず「みょん」と付けるバーチューバーがいて,あなたは彼女のファンだったが,リプライで交流する際に彼女はうっかり軽口を滑らせた.あなたの人種的アイデンティティを大きく傷付ける発言をしてしまったのだ.あなたは激怒した.敬愛する両親や祖父母までも侮辱するツイートに対し,本当に心の底から激怒した.ただちに抗議するリプライを送ったところ,幸いにも彼女は非常にマズイ内容を口走ったことにすぐに気付いたようだ.
ここからが問題である.彼女からは「本当にごめんなさいだみょん」というリプライと共に,謝罪して頭を下げるMMD動画のgifが送られてきた.これでいいのか?よくない.今あなたがすべきことは,キャラクターの謝罪gifを入手することではなく,事務所に怒鳴り込んでスタッフを謝罪させることだ.今あなたが引き出すべき発言は,キャラクターからの「本当にごめんなさいだみょん」ではなく,当のツイートを担当したスタッフからの「本当に申し訳ありませんでした」である.
シリアスに対抗できるのはシリアスだけだ.あなたの本当のアイデンティティに対するシリアスな侮辱は,パフォーマンスの謝罪ではなくシリアスな謝罪でなければ贖えない.ひょっとしたら,「本当にごめんなさいだみょん」で納得する世代が将来的には現れるのかもしれないが,少なくとも今はそうではない.

殺伐とした例を挙げすぎたが,キズナアイホリエモンに関しても同じだ.
ホリエモンは比較的シリアスな人間である.シリアスな主張やポジションを持ち,彼に対しての好き嫌いも同じようにシリアスだろう.そうしたシリアスに政治的な立場をキャラクターというパフォーマンスが引っ掻き回すことに耐えられるのだろうか.あるいは,キズナアイがシリアスに変質してパフォーマーとしてのポテンシャルを失うことをファンとして見過ごせるだろうか.
俺はキズナアイがむっちゃ叩かれたのはそういうところにも原因があると思う(俺は叩いてないけど!!).シリアスとパフォーマンスの住み分けが減退すること自体に潜在的だが確かな脅威があるのだ.また,この対はリアルとかバーチャルとかとも深く関連しているものの,全く同じものでもない.さっき双子兄弟の演劇の例で挙げたようにバーチャルが絡まなくても発生するし,ホリエモンと対談するのがキズナアイではなくのじゃおじだったらそこまでは叩かれなかったと思う.のじゃおじにはキャラクター人格が存在しないため,主張もシリアスなものとみなされるからだ.

しかし,悲観的なばかりでもいられない.さっき「(シリアスな出来事に対してパフォーマンスの謝罪で)納得する世代が将来的には現れるのかもしれない」と書いたが,ここで「納得する」ために必要な能力は厳密には二つ考えられる.「キャラクターの謝罪をシリアスとして解釈する能力」か,「パフォーマンスの謝罪で矛を収める能力」のいずれかだ.これらは別のものだが,どちらか一つでよい.別に絶対原理があるわけでもないから,バーチューバーが浸透すれば世代感覚としてどちらかが醸成されるのかもしれない.