・バーチューバーとカメラと表象の誠実さについて
まず、バーチューバーには自分を撮影しているという自覚がある。
補足119:今回は生成論や存在論ではなく単にコンテンツの方向性の話であるため、バーチューバーは実在するとみなす立場で話を進める。つまり「キズナアイの動画を撮影しているのは誰か?」という質問に対して、「キズナアイプロジェクトを進めている会社のUnityかなんかのソフト」ではなく「キズナアイさん」と返答する。上の文章を正確に補えば、「バーチューバー(が存在するとしたら、彼女)には自分を撮影しているという自覚がある(ように見えるだろう)」となる。
これはバーチューバー特有の性質というよりはユーチューバーのスタイルをそのまま受け継いでいるだけなのだが、彼女らは常に自分の意思で自分のカメラを使って自分を撮影して投稿するというスタイルを取っている。そのため、カメラは常に投稿したバーチューバーの意思の制御下にあるという自明の前提がある。キズナアイのカメラが何故その位置にあるのかと言えばキズナアイが撮影前にそう設定したからだし、よくミライアカリのカメラが顔をアップにしてブンブン揺れるのはミライアカリが自撮りスタイルで撮影しようと思ったからだ。
これは当たり前ではなく、二次元コンテンツとしては比較的特異な性質の一つだ。
大抵のアニメや映画のカメラは誰の意思の制御下にもなく、いわゆる神の視点にある。例えば、ココアちゃんとチノちゃんが川辺で戯れている様子を追いかけている映像は作中で名前のある誰かが撮影したようなものではないので、「誰かがそこにカメラを置いた」という前提もまた成立しない。
とはいえ、これが今までに類を見ない革新的な試みというわけでもない。
「本編の映像は(神の視点ではなく)登場人物の誰かが所持しているカメラで撮影したものだ」という体裁の映画はそれなりに数がある。ドキュメンタリー映画などのノンフィクションものは除外するにしても、フィクションとしてもブレアウィッチプロジェクトやクローバーフィールドなどが該当する(いわゆるフェイクドキュメンタリー)。このとき、単なる主観視点の映画は除外されることに注意してほしい。主観視点とはいわば登場人物誰か一人の眼球の位置にカメラを配置するという手法だが、今回は登場人物誰か一人がカメラを持っているタイプのものを扱っている(必ずオブジェクトとしてのカメラを経由する)。
補足120:カメラを経由しなければならない理由はバーチューバーがそうだからというだけだが、この差異が後で決定的な違いになる。
フェイクドキュメンタリーのカメラとバーチューバーのカメラの差異を挙げるのは難しい。
一応、フェイクドキュメンタリーは記録映像であるという体裁を取ることでリアリティを増すことを目的にしている一方で、バーチューバーのカメラは単にユーチューバーのスタイルを引き継いだものであるから、別にリアリティを増すという目的ではなかったと言えなくもない。しかし、そもそもバーチューバー=現前性を得たい虚構のキャラクターがユーチューバーというスタイルを選択した合理性は「ユーチューバーは投稿動画を介してしか現れないので実際に目の前に現れる必要がない」という隠蔽を利用したことにあるわけだから、それは結局フェイクドキュメンタリーと同じものだと言わざるをえない。
強いて言える違いとしては、
1.バーチューバーのカメラの方がそれが意思の制御下にあることを感じさせにくい
2.現実のものである必要がないので自由度が高い
ことくらいか。
1はジャンルの問題である。
単純にフェイクドキュメンタリーよりはそうでない映画の方が多いので、登場人物がカメラを持つという試みをした時点で比較的特殊な形式の映画であることがわかり、ひいてはそれに特有の効果を狙っていることが浮き彫りになってしまう。これに比べれば、バーチューバーのカメラは神の視点でないこと自体が直接に何らかの効果を狙ったものではないので、消費者に意識されにくい(「クローバーフィールドは作中の主人公が撮影しているのか!」と感服した鑑賞者に比べて、「キズナアイはキズナアイが撮影しているのか!」と感服した視聴者はほとんどいないはずだ)。
2は整合性の問題である。
フェイクドキュメンタリーは体裁上は現実に起きたことを撮影したものである以上、カメラは現実のものを逸脱できない。いくら空撮したいからといって「これは特殊なカメラなので空撮ボタンを押すと数秒間空中浮遊します」などという設定を付け加えるわけにはいかないし、何なら現実のカタログからどの型番のカメラを使ったのかも答えられるべきだ。
補足121:一応、「神でない誰かがカメラを持つこと」と「フェイクドキュメンタリーであること」は独立の事象である(スターウォーズをオビワンの所持するカメラによって撮影することは可能だ)。が、とりあえず現状としてフェイクドキュメンタリーへの利用が盛んであるということだけで済ませたい(超能力を扱ったフェイクドキュメンタリーなどではこの限りではない)。
一方で、バーチューバーはスーパーAIだったり電脳少女だったりするわけで、この辺の「縛り」はもう少し緩い。このあたりはむしろ、動画内で「電脳プリン」などという珍妙なものが登場しても、それはそれとして依然としてバーチューバーをユーチューバーと同列に把握可能であるという異常な感性の問題でもあるが、いずれにせよ、キズナアイが「これは特殊なカメラなので空撮ボタンを押すと数秒間空中浮遊します」と説明することは深刻な違和感を含まない。
以上の話を踏まえて、バーチューバーに特有のこの性質を活かしてなんかできないかな?と思って下のツイートをした(ちなみに、この先あまり大した話にならないので、「バーチューバーはそうとはあまり意識されない割にはカメラが神でなく人の制御下にある点が若干特異である」というだけでこの記事は終わってもいい)。
LW@lw_ru映画でカメラが神の視点ではなく誰かの意思の支配下にある作品にはクローバーフィールドとかがあるけど、これを更に推し進めて事実とは異なるものをスクリーンに映すような不誠実なカメラが登場した映画ってあるか?
2018/03/16 06:12:21
ここで、「不誠実なカメラ」というのは「誠実でない表象」の部分集合だが、この概念は歴史的には小説を主戦場としてきた(しばらく小説の話をする)。
というのは、いわゆる「信頼できない語り手」のことで、これは「小説や映画などで物語を進める手法の一つ(叙述トリックの一種)で、語り手(ナレーター、語り部)の信頼性を著しく低いものにすることにより、読者や観客を惑わせたりミスリードしたりするものである」(Wikipediaより→■)。フィクションの成立要件に言及しているという意味でのメタフィクションにおける代表的なカテゴリの一つだ。
信頼できない語り手が成立するための前提としては、小説内の文章が誰かの制御下に置かれている必要がある。これはただちに一人称小説を意味する……というわけでもなく、別に三人称小説でも不可能ではない。これに関しては「小説内の文章」の中でそもそも地の文や発話文はどういう立ち位置のテクストなのか、語り手の定義とはというような議論が必要になるが、今は語り手とは情報提供者くらいの理解で良い(単に言い分が食い違ったり、会話で嘘を吐いている人も広い意味でここに含んでよいことにしよう)。
重要なのは、信頼できない語り手が存在する場合はテクストが存在する世界(=語り手のいる世界)とテクストが主張する世界(=語り手が語る世界)が一致しないということである。信頼できない語り手が何をもって信頼できないかといえば彼の「主張」と「実際」が一致しないからであり、その二つは分けて考える必要がある。非常にシンプルな例としては、留守番中にプリンを食べた子供が帰宅した親に「プリン食べてないよ」と語ったとして、それが彼の人生譚の物語だとすれば、彼の存在する世界では彼はプリンを食べたのだが、彼の主張する世界では彼はプリンを食べていない。
補足122:厳密に言えば、語り手が不誠実であるにも関わらずテクストの存在する世界とテクストが主張する世界が一致する状況も考えられる。語り手が嘘を吐くことを目論んだが、何らかの勘違いによって結果的に真実を喋ってしまった(嘘を吐くことに失敗した)というケースがこれに該当する。
では、これを映像に適用することは可能か? すなわち、カメラが誰かの制御下に置かれているという前提の下、彼の意思によって実際とは異なる主張としての映像は生成されうるか? バーチューバーがカメラの性質を活かしてそれをできたら面白そうだよね……というのが今日の関心事である。
上のツイートに対して優秀なフォロワーたちから報告された事例としては、ひぐらし・シックスセンス・メメントなどがある。いずれも事実として起こっている事態と主要登場人物の認識が乖離しており、かつそれが映像としても画面に現れるという意味では不誠実なカメラの一種であると言える。しかし、いずれも神の視点か主観視点における出来事であり、誰かが所持しているカメラの映像(「誰かの意思の支配下にある映像」)ではなく、そういった例も探したが見つからなかった。
これは結局、物理デバイスとしてのカメラはどこまでも誠実であるというだけの話だろう。そのために、不誠実である場合には必ず主観的なものを陽に含まなければならない。一方、文章はどこまでも誰かの主観を経由しなければ成立せず、発生している物理現象をただただ記録するカメラのような概念は存在しない(もちろん物理現象を記録する映像の信憑性を疑うことは可能ではあるが、かなり大きく常識に反することになる)。
裏を返せば、映像自体が証拠的な機能を持つものと認識されているため、文章と同じように誠実さと不誠実さを自由に織り交ぜることは出来ないという言い方もできるかもしれない。先のプリンを食べた子供の例で言えば、ただ文章で
「僕はプリンを食べていないよ」と太郎は言った。
と書いてあるだけならば、読者にとってまだこいつが嘘を吐いているという可能性は十分残る。
しかし、太郎がプリンを食べることを我慢している様子を映像で流したとしたらどうだろう。仮にそれが事実ではなかったにせよ、少なくとも太郎自身はプリンを食べることを我慢したと思っていることにならなければならないのではないだろうか? もし太郎が自分で嘘を吐いていると自覚しており、かつ親も太郎が嘘を吐いていることを確信している、すなわち主観的にすら太郎がプリンを食べていないと考えている人間が一人も存在しないとき、プリンを食べていない回想シーンのようなものを流すことは不自然ではないだろうか。実際、先に挙げた3つの作品の例でもいずれも画面に映る不誠実な映像は少なくとも圭一・マルコム・レナードにとって正しい世界を映しており、主観的には真実である。
結局、不誠実な表象のうちで
1.最低でも一人にとって主観的に真実であること
2.主観的にすら誰にとっても虚偽であること
の二種類を排反に分けたとき、1は文章でも映像でも可能だが、2は映像には難しいように感じる。
バーチューバー関係なくなった上にあんまり得るものが無いけど、万が一そういうことをしているようなやつが出現したときにこの記事を引っ張ってくることにするか。