LWのサイゼリヤ

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18/8/28 キズナアイは論理的に完全

・俺のレポート

既に就職した皆さんにとっては学校のレポート提出なんてもう遠い思い出かもしれないけど、俺はまだまだ学生なので、単位を求めて未だにそんなことをしている。
特にこの夏学期はレポート課題が多く(10本近く書いた)、その中にはサイゼリヤに書いてもおかしくない内容というか、サイゼリヤと同じノリで書いたものがいくつかある。せっかく書いたのを放っておくのももったいないし、関連して言いたいことも色々あるので、ここに転載していく。まあ評定が不可だったらそのまま封印する予定だったけど、いい感じの成績も付いた。
東大に提出された評定優のレポートを見る機会なんてなかなか無い……なかなか無くない?

・レポート1:正統な虚構世界の体験システム

レポート1(pdfファイル)
これは「面白いVRコンテンツをひとつ考えろ」みたいな課題で書いた(専門学校か?)。
PS VRとかのVR技術ってちょっと高級な遊び道具くらいの認識の人も結構いると思うけど、学術的に真剣に研究されていて、VR専門の研究室とかVR関連講義もたくさんある。とはいえ、このレポートは特に事前知識を要求しないので、普通に読めば普通に理解できる。

補足147:すごく適当にテクスト論とか文学理論とかいう言葉を使っているけど、いわゆるそういうものは別にこういう内容を指すわけではないので、あまり正しくない(分野的には分析哲学が一番近いし、別に大きな議論の対象にもなってない)。しかし他に適当な呼び名も思いつかないし、提出先は理系の教授だからどうせわからないだろと思ってそのまま提出した。

読んだ?
大筋を依拠した参考文献については、内容をまとめた記事があるのを今発見したので参考になるかもしれない→

少し書ききれなかった内容を補足すれば、映画の『ネバーエンディングストーリー』は明らかに状況説を踏襲しているので理解に役立つと思う。
ネバーエンディングストーリー』って「無」(英語版だと"The Nothing")が本の中にあるファンタジー世界を襲ってきて破壊するという話なんだけど→wikipedia、じゃあその「無」って何?ということは映画内ではほとんど説明されない。これはレポートで状況説として説明した通り、ファンタジー世界の外部は端的に何も無いことを踏襲しているものだ。地図の外側にも地面が存在している現実世界とは違って、ファンタジー世界では本の中で記述されている領域以外には何も存在しないので、「無」と呼ぶしかない。本の中では記述とその反転である「無」が絶対的な力を持ち、実際、「無」によってファンタジー世界は一度完全に破壊される。
ファンタジー世界は破壊されたあと、主人公が本の中の姫に新しい名前を付けるという「命名」によって回復する。これは、本の中から見れば無の領域であっても、本の外部から書き加えて補填することはいくらでもできるためだ。こういうあらすじだと主人公が本の中に入りこんで冒険しそうなものだけど、徹底して主人公は本の読者でしかないというのがよくできている。一度本の中に入ってしまったら、本に対して記述を行える特権的な位置を放棄することになってしまうから。

さて、レポートが提案するVRコンテンツ自体は実現したところで別に面白くもないだろうし忘れてもらっていい。
ここからが今日の本題で、レポートの中で紹介した理論を足がかりにしてバーチューバーの話をしたい。
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結論から言えば、バーチューバーは推論規則の破綻を回避して論理的な完全性を維持できる虚構キャラクター形態である可能性が高い。
何故ならば、「あなたの髪の毛は偶数ですか」と質問したとき、シャーロックホームズは答えてくれないけど、キズナアイはその場で自分の髪の毛の本数を数えた上で明確に「そうでーす!」か「違いますね~」と答えてくれるからだ。命題p「髪の毛の本数が偶数である」はシャーロックホームズについては真偽不明の不確定命題だが、キズナアイについては確定命題となる。
この意味は重大だ。ホームズでは不確定命題があるために論理的に不完全であり推論規則が破綻していたのだが、キズナアイでは全てが確定命題なので論理的に完全であり推論規則が破綻しない。よって、変な説を色々考える必要も無くなり、単純に全ての確定命題から構成される一世界説(この場合は世界ではなくキャラクターに適用しているので「一個体説」)を採用して、我々と同じ論理的立ち位置におけばそれで全てが済む。

ホームズとキズナアイを本質的に区別するのはコール&レスポンス機能の有無である。
「聞かれたことに答えてくれる」という機能が維持されている限り、(多少のタイムラグはあるだろうが)キズナアイは自身に関する全ての命題を無限に正しく確定できるのだ。「いやでも実際のところ時間が無限にあるわけじゃないし、全部の質問は処理できないでしょ」という反論に対しては、それは我々についても同じだということで再反論できる。
例えば、俺が「腸が全長何mか教えてください」と言われた場合、解剖が必要になるので事実上は回答不能だ。しかしそれは物理的制約によって実現が難しいというだけで、本質的に定まらないわけではない(実際に腸の長さを定める根拠は明らかに存在する)。物理的には不可能でも原理的には可能であり、ホームズの髪の本数のように、命題を確定する根拠自体が存在し得ないものとは性質が異なる。キズナアイについても同じことが言え、もし時間的制約によって定まらない命題があったとしても完全性は脅かされない。

補足148:この「コール&レスポンス可能性によって(過渡時間を考えなければ)理論上は無限に正しいことができる」という論理構造は、解析学ε-δ論法による無限の定義と同じ形をしている。
例えば、「xを∞に近づけると1/xは0になる」というのは直感的には明らかだが、これを証明するのは容易ではない。「x=100のとき1/x=0.01、x=1000だと1/x=0.001になるから、このままxを大きくしていけば1/xは0に近づいていくんじゃない?」というのは説明になっていない。次にxが2000にしたときに1/xが更に0に近付く保証はないからだ。x=2000で1/xが0に近づくことを確認してもじゃあx=3000のときはどうなの、x=10000のときはどうなの……という話は無限に続くので、xの値を変えていくという路線ではうまくいかない。
ここで発想の転換をする。xの値の例をいくつか挙げていくというのを諦めて、「もし1/xをある値にまで小さくしたいという要望があれば、xを適切に定めればそれが実現できる」ということを示す。「1/xをこの値まで小さくしてください」というコールがきたとき、「じゃあxをこの値にしてください」というレスポンスを返すことが常に可能だということを示せば、確実に1/xは無限に小さくできると言える。具体的には、「1/xをε以下にせよ」というコールが来たら、「じゃあxは1/ε以上にしてください」とレスポンスすればいい。この「やり取りができること」を極限の定義にしてしまうのだ。「本当に全てについて成り立つ」を証明する代わりに、「やろうと思えば出来る」を証明するとも言える。
これがε-δ論法の本質であり、「静的な無限性を動的な実現可能性によって表現する」というロジックは実に汎用性が高い。キズナアイが駆使するように、数学以外でも色々な領域で散見される。


以上、よく言われる「(一般のアニメキャラと違って)バーチューバーは相互交流できる」という性質は「実在してる感があって嬉しい」というだけではなく、論理的な完全性を担保する要にもなるという話だった。

この話を飲み会帰りの電車の中で研究室の先輩にしたとき(俺は酔っているときにこういう話を延々とする性質がある)、二点指摘されたのでそれについて補足する。

補足149:元々こういう話題に興味が無い人でも、やっぱり頭がいいと聞いたその場で内容を把握してただちに反論とか反例を提出してくるから凄いね。

一つ目が、「それってゆるキャラと何が違うの?」というもので、俺は違いは無いと思っている。
ゆるキャラの場合、きぐるみ絡みの表象と実体の溝をどう埋めるかという問題はあるが(くまモンに「体毛は何本?」と聞いたとき、くまモンが答えるべきなのは実体についてであってきぐるみに生えている繊維の本数ではない)、基本的にはコール&レスポンス可能なのでバーチューバーと同じだ。そう考えると、ゆるキャラはバーチューバーの先駆形態だったのかもしれない。

二つ目が、「それって久保帯斗がTwitterでファンから一護のプロフィールを聞かれて答えるのと何が違うの?」というもので、こっちはなかなか答えるのが難しい。もちろん、「コンテンツ内部からの定義か、コンテンツ外部からの補足かが違う」と答えることは容易だし、テクストとしてのシャーロックホームズと、単なるコナンドイルの発言を一文字レベルで分別することも難しくない。
しかしことバーチューバーに限っては、どこまでをテクストに相当するような正統なコンテンツの構成部分として定めるかが難しい。それはバーチューバーがキャラクターとして依拠する有限な物語を持っていないことによっている。コンテンツが開かれていることはコール&レスポンス可能性のような新規性を産出する一方で、コンテンツ内外の境界を引くことを難しくする面もある。

完全に物語から独立したキャラクターに関する虚構論を俺はあまり見たことがない。
というのは、実は虚構論は哲学的にも意外とよく目にする話題だ。存在や認識に関する何らかの論があるとき、「虚構に対して適用したときにどうなるのか」ということは皆結構気になってしまうらしい。「シャーロックホームズに適用した場合はあんまうまくいかない」だの「ここを修正すれば適用可能」だのという拡張はわりとよく行われている。しかし、その場合であってもキャラクター等の虚構要素は物語テクストの内部に、もう少し直接的には本の内容物として理解されるもので、まず物語テクストありきだ。

俺が思うに、バーチューバーの登場によって「本当に物語に拘束されていないキャラクター」が出現したというのは、我々が何となく感じるよりもかなり大きなパラダイムシフトだったのだ。
物語とキャラクターの切り離しと言えば、東浩紀伊藤剛が「キャラクターの自律化」について議論していたことを思い出す人も少なくないだろう。つまり、最近のオタクにかかればキャラクターが本来いたはずの世界を離れて二次創作先だのコラボ先の世界だのに登場することが普通になるという内容で、今でも有効性を失っていないどころか存在感を増し続けている論である。
ところが、その東浩紀でさえ2007年時点でキャラクターについて以下のような書き方をしている。

キャラクターは現実には存在しない。それが存在するのは、特定の物語のなかだけである。にもかかわらず、人々はなぜ、物語を離れたキャラクターを受け入れてしまうのか。

(『ゲーム的リアリズムの誕生』、38頁)

これは確かに物語を離れたキャラクターについての記述ではあるが、二番目の文章とそれに続く逆接に注目したい。キャラクターは特定の物語のなかにしか存在しないことは大前提であり、あくまでもそこからの派生として物語を離れたキャラクターという想像力が受容されていることを指摘しているのだ。大前提として特定の物語を離れたキャラクターがいると言っているわけではない。バーチューバーがキャラクターの自律化の極致にいることは間違いないが、それが物語から完全に切断されるまでには、少なくともこの時点ではまだ成し遂げられていないような大前提の大変革があったと考えるべきだ。
だとすれば、バーチューバーを指しての「コンテンツの内部はどこまでなのか」という問いはかなり最近発生したもので、前例がない。今の時点で急いで定義するよりは、問いを保持しておいてこれから折に触れて思い出す方が有益だろう。