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18/4/29 拙者はバーチューバーとはいふりの行く末を真に憂う者

・バーチューバーの未来

バーチューバーがニコニコ超会議にも現れ(それってユーチューブ超会議では?)、現場やファンからの語りが積極的に行われるに至り、アクター重視の勢力とアバター重視の勢力の溝がいよいよ顕在化してきている。

補足127:キズナアイというキャラクターがアバターキズナアイを演じるいわゆる「中の人」がアクターである。

補足128:アバターavatar)の語源はサンスクリット語のアヴァターラ(avataara)、アクター(actor)の語源はラテン語アクタスactus)。似た言葉だが語源的な繋がりはない。

スタート地点としては、ねこます氏の認識を参照するのがわかりやすい。


アクター重視の勢力を特徴付けるのはコミュニケーションとしてのVRだ。彼らの主張は「アバターを代表とするVR要素によって、コミュニケーションの内容や様式が変化する」というところに集約される。
コミュニケーションというのは、バーチューバーで言えば上にある通りアクターとファンとの対話であるが、もう少し一般化すれば「アバターを被った個人」と「その対話相手(アバターを被っていてもいなくてもよい)」になるだろう。アバターを被った個人=発信側は自身のアバターに応じた振る舞いを意識的・無意識にするようになり(自信のないおじさんでも美少女アバターを被れば語り口が堂々とするかもしれない)、対話相手=受信側は見えているアバターに対して同様の振る舞いの変化を起こす(おじさんに対するより美少女アバターに対する方が語り口が優しくなるかもしれない)。
彼らにとってアバターはコミュニケーションのツールに過ぎない。アバターを用いた活動はアクターが行うコミュニケーションにどう作用するのかという点に興味の中心があるという意味で、彼らをアクター重視と呼ぼう。

これに対し、アクターにほとんど興味がなく、アバターに焦点を合わせている勢力をアバター重視と呼ぶことにする。アバター重視の勢力はアクターを見ていないため、当然ながらアクターとのコミュニケーションも想定しない。彼らが見ているのはもっぱらアバターだけであり、注目は「アバターがどのような存在であるのか」という地点に収斂する。
アクター重視派の主張に比べ、アバター重視の人間が何を言っているのかはやや理解しがたいと思うが、俺は全面的にアバター重視の勢力である。今までに何度か書いたバーチューバー絡みの記事はアバターにしか注目していない。一番長い文章を書いたのはこの回→(別に今読まなくていいです)だが、これは結局「のらきゃっとというキャラクターが発声方式によって偶然に獲得した性質について」である。中身のおじさんとのコミュニケーションは興味の対象外であり、キャラクターのステータスだけを問題にしている。

いずれの派閥も同じことを同じように語ることは十分に有り得るが、それでもどちらがメインかという重みづけに埋めがたい断裂があるように思われる。
例えば「月ノ美兎トークスキルは魅力的だ」という主張の理解に対し、アクター重視の人間はこれを「月ノ美兎のアクターのトークスキルは、アクターが行うコミュニケーションという点に照らして魅力的だ」と解する一方、アバター重視の人間は「月ノ美兎のアクターのトークスキルは、アバターをより強力なキャラクターに見せているという点に照らして魅力的だ」と解する。どちらかといえば直球にアクターに対する評価を下せるアクター重視派に対して、アバター重視派にとってはアバターに貢献する限りにおいて構成要素としてのアクターを評価するという迂回路が引かれる。

バーチューバーが出現してからもう半年くらい経つが、今まで俺はアバターだけを見る(=アクターを見ない)のが正しい態度だと思ってきたし、そのように語ってきた。
再び自分の過去記事参照となり恐縮だが、俺が一番最初にバーチューバーについて言及した記事→(別に今読まなくていいです)はそのスタンスが最も強く出ている。俺の興味はミライアカリがアクターではなくアバターとしてのキャラクターを貫徹できるのかという点だけにあり、その壁を踏み越えようとしてしまうコミュニケーション行為(生放送)に対して我ながら病的に敏感に反応している。きりがないのでこれ以上のリンク貼りは避けるが、俺のにじさんじ語りも結局はアバターのリアリティの担保に向かう。

しかし、超会議あたりで外部からバーチューバーを語る声が増えるにつれてアクター重視の勢力の台頭を最近感じている。
上に貼ったねこます氏だけでなく、先日話したVR研究者(にわか研究者ではなく本物の教授)の見解も概ねこれに一致する。向こうも向こうで自身の立場を自明に考えている節があり、バーチューバーというシステムによってキャラクターのステータスがどう変化したのかなどにはあまり興味を示さない。

時代を辿れば、始めからアクター重視を押し出していたのはねこます氏の狐娘だけだった。
「中身のおじさんとして喋りキャラクターとしてのステータスを持たない」というのは他の同時期の美少女バーチューバー四人と全く異質であった。「似たようなものだが別物」と俺は適当に分けて置いておいたのだが、バーチューバーの普及と展開は恐らくその方向に進んでいるところもある(一概には言えない。にじさんじ内にも、トークスキルで勝負する委員長に対し、ロールプレイで勝負するクソガキウミウシの派閥がある)。アクター重視のスタイルは同人的な個人の自己実現と容易に結び付くので、在野に下るほど勢力を増す。
これは個人の関心の問題だからどちらが正しいかという話ではないのだが、なんというか、アクター重視の方が語るモチベーションがあり、聞こえが良いし、身近なのだ。動画作者自体が一つのキャラクターになるニコニコ動画的な製作者のあり方とも親和性が高い。それに比べれば、アバター重視の方はなんだかビジネスライクな印象になる。キャラクターでない個人やその立ち位置から行うべきコミュニケーションも存在しないから、「開発者ブログ」の次元で語るのが精々だ(逆に、企業型バーチューバーがアバター重視でいられるのはそれがビジネスだからなのかもしれない)。
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話題が少し変わるが、このアバター重視とアクター重視の違いは、固有名詞としての社会と一般名詞としての社会の嗜好に概ね対応する気がしている。
固有名詞としての社会とは我々が今まさに生きているこの世界の特定の社会であり(人によってまちまちだと思うが、ざっくり身近な現代日本社会という程度のイメージでいい)、一般名詞としての社会とは時や場所を限定しない無名のシステムである。我々が異世界Aに転生したとしてそこで営まれている社会生活Aと、次に異世界Bに転生したとしてそこで営まれている社会生活Bと、我々が異世界Cに……という具合に想像可能な社会を世界に限定せずに抽出したものが一般名詞としての社会となる。

これらへの嗜好性を分けたとき、

1.固有名詞の社会を好む
2.固有名詞の社会を好まないが、一般名詞の社会ではこの限りではない
3.固有名詞の社会を好まないし、一般名詞の社会全般も好まない
(「4.固有名詞の社会を好み、一般名詞の社会を好まない」は有り得ないことに注意)

の3つに分類できる。

アクター重視の人は2なのではないか?と思う。
生のままのコミュニケーションをそのままでは受け取らず、変質させる必要を感じてはいるのだが、逆に言えば変質したコミュニケーションであれば受容できるということだからだ。もう少し具体的に言えば、今俺はアクター重視の人間のことをVRchatという別の社会に活路を見出す人々に重ね合わせている(ねこます氏がその典型というか開拓者だ)。VRchatを愛好するタイプの人間はバーチャル領域を拡充することに積極的であり、バーチャル仕事やバーチャル食事やバーチャル睡眠ということを半ば冗談で言うのだが、そうやって一定数の人生がバーチャルワールドに移ったとき、彼らは現実ではないが完全な一つの社会に行き着くことを是としているのだろうか?

俺は3に寄っているので(完全にではない。俺よりも徹底して3であるタイプの人間も多い)、VRchatのことをもう少し冷ややかに見ている。バーチャル社会が魅力的な気がするのはそれがバーチャルだからではなく完全な社会として成立していないからであり、コミュニケーションに対しても同様だ。バーチャルだろうがリアルだろうが人間同士のコミュニケーションにそう大きな期待は無く、最初からそれに参加しない非人間としてのキャラクターに活路を見出す方が建設的なように思われる。

はいふりの未来(前回の続き)

前回は、美少女と戦闘を結び付けるにあたって流血じみたグロテスクな事態を避けるためにガルパンが取った策についての話をしていたのだった。

肉体的には戦車がその役割を担っていることは今更詳しく説明しなくていいだろう。美少女は戦車によって物理衝突から隔離されているから、バチバチにぶつかりあっても誰も傷付くことなく、砲弾の応酬をいくらでも力強く描くことができる。

また、精神的には登場人物の動機が強迫的でないことによる。
ガルパンにおける「戦う動機」は通常主題になるようなシリアスなテーマではなく、取って付けたような物質的なものであるということは前に指摘した→。更に言えば、物質的であれ戦う理由が語られるのは主要メンバーだけで、他の面々についてはもっと描写が薄い。彼女らが戦う理由はせいぜい部活レベルの理由に留まっており、あれだけたくさんいる仲間たちは基本的に個性的な図像でしか区別されない。アンコウチーム以外の面々が基本的に「一発芸キャラ」なのは、中身を掘り下げない以上は相対的に外面を盛る必要があるからだ。「深刻な内面を持たない大量の美少女キャラがたわいもない動機で行動する(戦闘する)」という有様は、日常系的と言ってしまってもよいと思う。そういう意味で、前回は「物理と精神を乖離させた上で日常系の延長に戦闘を位置づけた」と書いたのだった。

はいふりはそのシステムを受け継ぐ、ガルパンの正統後継者だった(十話までは)。
はいふりではあってないようなフワフワした日常をAパートで描いてからその空気感を維持したままBパートで戦闘に突入し、「真剣ではあるが深刻ではない戦闘」を経てなんとなく勝利するというのが一つのパターンだった。ガルパンの系譜としてみれば「バチバチの戦闘をすること(ただし戦車や戦艦の保護下で)」と「日常系であること」は戦闘を娯楽化するという目的の下で手を取り合うものであり、むしろ毎回どうでもいい日常尺を律儀に取ることで後者を強化してみせた点で、はいふりガルパンの発展形とも言える。
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(↑律儀に挿入される日常パート)

ただし、その日常感の貫徹が設定との齟齬を生んでいたという批判は理解できる。
部活動で戦車戦をするガルパンと異なり、はいふりの方は「味方から攻撃を受けて孤立状態」という、どう考えても能天気ではいられない状況にあったからだ。もっとも、それは「取って付けたような理由」の具体的な内容作りに少し失敗したというだけだから、俺はあまり重要なことだとは思わない。細部はともかく、ガルパンシステムが生きていたというだけで評価に値する。
ちなみにはいふり全体を貫く戦争の元凶は最終的には「一種のパンデミックだった」というオチがつくのだが、そのパンデミックは偶然の産物であって黒幕的な意志が介在していないということは注目に値する。事後的に見れば、はいふりの戦闘は一貫して自然災害からの救助であり、誰かと誰かの意思が衝突するとかそういうシリアスな話ではないのだ。彼女らが能天気でもよい理由と日常系の矜持を一応オチから逆流させることはできる。

ただ、十一話と十二話はこの文脈に位置付けられるものではなく、終盤に来て明確にしくじったと言わざるを得ない。一応ストーリーを言えば、艦長の主人公が戦闘で仲間を失う恐怖に(突然)目覚め、色々錯綜した末に自信を回復するというのが最終二話だった。

うーん、ナンセンス!
どのくらいナンセンスなのかといえば、西住みほが特殊カーボンの信頼性に言及してその検証が始まるのと同じくらいだ。物理的にも精神的にも、ガルパンシステムはそういう風に動いていない。戦闘が娯楽化するための要請として戦車や戦艦に守られたキャラたちが絶対に傷付かないことは当然に保証されると了解されているのであり、実際今までそうしてきたというのに。

「本当にやりたかったのは最終二話」みたいなことを監督がインタビューで言ってたので劇場版にもやや不穏なものを感じるのだが、まあ別にいつまでもガルパンのフォロワーでいないといけない理由も無いので、適当にいい感じにシリアスをやってくれてもいいし、思い直してくれてもいい。ガルパンだってアニメ放送時点ではまあって感じで劇場版で一気に火が付いたから、はいふりもまだその路線を狙えるはずだ。陸のガルパンと海のはいふりが並び立つ日は近い。

補足129:ガルパンで西住みほが直面していた精神的問題である(例外事項であるところの)黒森峰との確執と何が違うのかについては、あちらがキャラクター同士の人間相関図形成を兼ねていたのに対してこちらは完全に個人的な問題という言い訳が出来ないこともないが、単に程度問題かもしれない。