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19/10/11 『ダンベル何キロ持てる?』『Dr.Stone』『ソウナンですか?』の感想 実用系アニメのポテンシャルを評価せよ

・実用系アニメについて

前期の『ダンベル何キロ持てる?』『Dr.Stone』『ソウナンですか?』について。
この三作の共通点は、作中で「リアルな知識」が描かれることです。具体的には、『ダンベル何キロ持てる?』は「筋トレ知識」、『Dr.Stone』は「科学知識」、『ソウナンですか?』は「サバイバル知識」について、実際に視聴者が実用的に役立てられるような正しい情報を提示することを特徴としています。
それを象徴するのがニコニコ動画上では「教育アニメ」とコメントが付くようなミニコーナーの存在で、物語とは一旦切り離した場所で情報提供を行うパートがいずれにも存在しています。
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(『ダンベル』の情報提供パート)

硬い言い方をすれば、これらのアニメが提示する知識は「現実世界で真である」情報です。これと対比できるのが「虚構世界で真である」、つまり精々その作品の中の世界だけでしか正しくないような情報です。
一般的に言って、通常の娯楽フィクションは主に虚構世界で真である知識によって構成されています。例えば『NARUTO』のチャクラに関する設定は、NARUTO世界では正しいですが現実世界では正しくないということは誰でも知っています。しかし、『Dr.Stone』では「科学知識」に限っては現実世界でも虚構世界でも真であることが自明の前提となっています。もし『Dr.Stone』でいきなり「Dr.Stone世界では正しいのだ」と言って現実世界で誤った科学知識を披露したら、総バッシングは避けられないでしょう(『Dr.Stone』はノンフィクションではなくフィクションであるにも関わらず)。これは『ソウナン』も『ダンベル』も同じです。

補足208:「この作品で提供する知識(の一部)は現実世界でも真である」という了解が視聴者との間でどうやって構成されるのかは興味深いところです。例えば『Dr.Stone』においては「虚構世界では真だが現実世界では偽の知識」(例:石化やその復元について)、「虚構世界でも現実世界でも真の知識」(例:ガラスの生成や硫酸の危険について)が共存しており、いちいちそれらに注釈が付いているわけでもないのに、誰でもその二種類の知識を厳密に区別できるという高度な処理が当たり前のように行われています。が、そのメカニズムについては今日は脇に置いておきます。

これら三作品のような、「実用系」とも言える作品が「根本的に新しい」と言うつもりは全くありません(存在は前からしているので)。ただ、実用系知識って基本的には地に足が付いたノンフィクションやエッセイなどの地味な作品との親和性が高いのですが、前期ではもっと率直にオタク受けする作品が複数この手法を用いていたことに若干のムーブメントらしき気配は感じます。まあ、たまたま確率的にそういう作品が固まっただけかもしれませんが。

「実用系」に対して、ざっくり色々な評価はできると思います。
まず悪く言えば、そもそもリアルな知識を求めるのはわざわざアニメでやることなのかという疑問はあります。フィクションであることを活かした試みは他にもっと色々あるはずで、例えばSFがよくやるように現実では有り得ない設定を用いて思考実験を促したり、物語の表象を通じて時代や社会の雰囲気に対して問題提起をしていくこともできます。実用系アニメで得られる即物的な知識はちょっとした本を読んでも得られるわけですから、アニメのフィクションとしてのポテンシャルを活かしているとは言えません。また、実用系は誰が見ても「正しい」知識が持ち上げられるだけなので、リスクとリターンのような両義的な側面に対する葛藤を扱うことがなく、思想的には比較的単純なものにならざるをえません。
しかし良く言えば、極めて前向きな態度を汲み取ることもできます。実用系におけるリアルな知識に対比されるものって無数にあって、例えばハイファンタジーにおけるスライムやユニコーンに関するような虚構的知識、日常系における毒にも薬にもならないコミュニケーション、ちょっと深いアニメにありがちな実存的な問いetcです。こういう抽象的な知識の使いどころは限られていて、精々オタクコミュニティ内でしか有効でなかったり、内輪の知識マウントや批評空間でしか役立たないところはどうしてもあります。じゃあもっと開かれた、人生において最も直接的に効用のあるものは何だろうと考えたときに、「現実で正しい知識」が浮上してくるのはもっともな話です。遠回しに役に立つのか立たないのかもよくわからない主題を扱うよりも、スパッと直接役に立つ知識を共有していきましょうというのは限りなくポジティブです。
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いみじくもアスカが言うように、作中で提供される知識が実際に役に立つかはわかりませんが、とにかく「無駄にはなんない」という強みがあるわけです。

こうして評価の二極を並べたとき、前向きな側面に注目する方が建設的でしょう。
というのは、「実用系」に見られるような即物的で前向きな態度って明らかに「異世界転生」にもあって、それをポジティブに評価できなければ時代に置いて行かれるという危機感があるからです。異世界転生って20歳以上くらいのオタクが跋扈するインターネットでは「子供じみてる」「バカのファンタジー」とか馬鹿にされがちですけど、そんな老害を晒していないで、流行っているという事実を謙虚に受け止めてポジティブな効用を探るべきです。
実は正直そんなに見てないんですけど、僕が異世界転生から最も強く感じるものは「過程と結果の逆転」です。今までは苦労したり葛藤したりする過程を描くのが「深い」っていう感じだったのが、異世界転生ではとりあえず結果を出せれば過程はどうでもいい、能力はチートでいいし設定も適当でいいよっていう逆転がありますよね。
「過程vs結果」という軸で切り分けたとき、過程を評価する風潮があるのって学校教育のような子供の世界においてで、研究や会社のような大人の世界では何でもいいから結果を出す成果主義の方が優位です。つまり、異世界転生を一見したときの「子供っぽい」という印象とは完全に逆で、そこからむしろビジネスライクな態度を汲み取ることもできるはずです。過程にこだわってウジウジやってる旧世代のオタクたちの方がネオテニーの檻の中にとらわれている子供で、異世界転生はもっと現実主義でスパスパ結果を出していきますよ!という、そういうリアリスティックで前向きな態度を読み込むならば、それって実用系と全く同じですよね。
前期にママ太郎を結構頑張って見てたのも、実はそういう異世界転生ムーブメントに乗り遅れまいという危機感がちょっとありました(厳密に言えば、ママ太郎は異世界転生ではないですが)。その結果ママ太郎から感じた印象も実用系や異世界転生と全く同じものです(→)。「子供は痛みを伴って自立しなければならない」というモラルが当たり前のように流通しているけれども、「いや別にママに守られててもいいから出来る範囲で楽しく冒険しましょうよ」という現実的な前向きさを読み取ります。

アニメを安直に社会語りと結び付けるのって割とバカっぽいですが勢いに乗って言えば、実用系・異世界転生に見られる成果主義、現実主義、実証主義的な態度って今社会に希望がない状況での一つのリーズナブルなスタンスなのかもしれないと思います。モラルとか思想のレベルでウジウジやってても問題は解決しないから、そういう役に立たないものをかなぐり捨てて、もっと現実を見て、フィクションにおいてすら価値判断をリアル基準に移行し、自然科学的な実証性を尊重する態度に、貪欲なポジティブさを感じてなりません。
ちなみに、こういう現在進行形で現れている前向きな運動たちと対を成す、旧世代の後ろ向きな運動を象徴するのは恐らくセカイ系です。セカイ系って極めてフィクショナルに理想化された女の子を擁立して倫理性のレベルで正しさを追求する運動だったんですが、実用系は極めてリアリスティックな知識を擁立して実証性のレベルで正しさを追求する運動です。手段も目的も綺麗に逆転しています。

ついでに、日常系のバリエーションとして『ダンベル』を捉えてコミュニケーションの変化を探るという作業もやっておきましょう。『ダンベル』で描かれているコミュニティって主に女子高生がワチャワチャしているという意味ではかなり日常系チックではあるんですが、実用系の性質に由来する独特の特徴がいくつもあります。
まず、『けいおん』『らきすた』のような日常系が教室的な繋がりだとすれば、『ダンベル』ってSNS的な繋がりです。日常系の場合はたまたま同じ学校に入学した生徒たちが偶然にコミュニティを形成するので、興味も性格もかなりバラバラで、その不均質さが面白さの種になっています。例えば、『けいおん』における「軽音楽」は、『ダンベル』における「筋トレ」よりも明らかにそのウェイトが軽いです。軽音楽にフルコミットする姿勢が誰にもないため、四人は軽音楽に興味を同じくする同志というよりは、たまたまそれを口実に集まった偶然的な繋がりです。『らきすた』も「オタクたちの日常系」みたいなイメージはありますが、実はよく見ると四人の中でオタクなのって泉こなただけで、他の三人は一般人です。だからあの四人もオタク趣味で連帯しているわけではなくて、たまたま集まった四人のうちでたまたま一人がオタクだったという異質性をベースにした繋がりです。
一方、『ダンベル』の場合はまず「筋トレ」っていうテーマがあって、それに興味を持つ人たちが必然的にコミュニティを作ります。ひびきと朱美は設定的には同級生ですが、最初に出会った場所が教室ではなくジムであることは、教室よりも趣味の世界が先行していることを象徴しています。また、何よりもテーマに対する興味がコミュニティをまとめ上げるので、『けいおん』のさわ子先生が顧問としてコミュニティからは距離を置いていた一方で、『ダンベル』の立花先生が女子高生に混ざった「いつメン」の一人だったことにも頷けます。とにかく「筋トレ」という部分がコミュニティ形成上での最優先事項なので、社会的なステータスはそこまで重要ではありません。
また、コミュニティの維持が自己目的化している日常系に対し、実用系ではコミュニティに先行して明確な主題が定められているので、キャラクター同士の関係が持つウェイトは相対的に低下します。『ダンベル』を見ていて結構ひっかかるのって、「ボケキャラ」とか「ツッコミキャラ」みたいな立ち位置が固定されていないことなんですよね。誰でもボケられるし、誰でもツッコめるというところがあります。
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(↑ボケるジーナさん)
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(↑ツッコむジーナさん)

シーンによってボケる人がまちまちなの理由は誰もが「ボケどころ」を持っているからで、例えばひびきなら食事関連、朱美なら筋肉フェチ関連、ジーナならロシア関連、立花先生は年齢関連でボケに回ることが多いです。ボケるかどうかがコミュニティ内の相対的な力学ではなくて、個々人の絶対的なステータスに依存しています。こういうパワーバランスへの無関心さは、何よりもまず最初にコミュニティが「筋トレ」というテーマで連帯できている以上、コミュニティ内部の細かい立ち位置に気配りしなくてもコミュニティが自壊することはないという安定感によって生じていると感じます。

こういう『ダンベル』に見られるコミュニティの特徴って、このブログを読んでいるようなオタクの皆さんにとっては、Twitterでの趣味関係について同じように言えることではないでしょうか。何よりもまず最初に趣味が来ているので、学校での友人関係と比べて年齢やステータスの幅が広いし、キャラを確立したり会話の力学を考えたりしなくても何となく連帯していられるという安定感は身に覚えがあるところだと思います。
このように実用系アニメを「テーマを持つコミュニティ」を描いたものとして見た場合、それはSNSの隆盛とパラレルな、極めて同時代的なコミュニティの在り方でもあり得るように感じます。