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20/3/29 百合萌えラノベ『皇白花には蛆が憑いている』解説

『皇白花には蛆が憑いている』解説

自分で書いた百合萌えラノベ『皇白花には蛆が憑いている(すめうじ)』を自分で解説します。
キャラクターや世界の設定ではなく主に思想的な背景について書くので、ネタバレを気にしない人はこの解説だけ読んでも構いません。本編は気になったら読んでください。

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(主人公の皇白花さん)

kakuyomu.jp

『すめうじ』はエンタメ的には「百合ハーレムもの」で、容姿の良い女性主人公が容姿の良い美女や美少女にモテまくる『わたてん』みたいな話です。
主人公のことが大好きなヒロインは「天才妹」「毒舌後輩」「完璧メイド」「活発ロリ」「寡黙ロリ」など豊富です。台詞や名前のある男性キャラクターは一人もおらず、喧嘩したり疑心暗鬼になったりするギスギス展開は一切無いので安心して読めます。

思想的には「自己概念の転倒と拡張」が大テーマです。
それは社会的な領域では「リベラル多元主義への反発」として、実存的な領域では「個体ならざる主体としての群体」として現れてきます。
これら二つの小テーマに対応する主要文献は、それぞれ木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』とドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』の二冊です。『すめうじ』はそれらを百合的に再解釈して萌えラノベに仕立て上げる試みでもあります。

0.はじめに

僕は「作者は作品に対して何ら特権的な存在ではない」というロラン・バルト風の立場を支持します。つまり、作品は公開された時点で作者とは何の繋がりもない独立したものになります。

よって、僕の解釈は唯一の正解では全くなく、比較的読んだ回数が多い読者の読みの一つくらいです。作者が妥当性の低い読みをすることは全く有り得るし、読者の方が精度の高い読みをすることも有り得ます。実際、僕が知らなかった優れた解釈を読者から聞いて感心することは何度もありました。

また、『すめうじ』の思想的な背景は僕自身が持つ思想やポジションとは特に関係ありません。差別主義者のキャラクターが肯定的に扱われることは僕が差別主義者であることを全く意味しません。

1.概要

まずは以下の二つのテーゼから出発したい。

  1. 自由と平等は両立しない
  2. このジレンマの根本には近代における主体概念の成立がある

それぞれについて概観したあと、『すめうじ』内での扱いについて解説する。

1-1.テーゼ1:自由と平等は両立しない

フランス人権宣言において、「人は生まれながらにして自由かつ平等である」旨が宣言されたことはあまりにも有名だ。今でもこの二点は人権を確保するにあたっての重要事項であると考えられることが多く、誰もが持つべき当然の権利として要求される。

しかし、全人類に対して一応の人権が確保された現代において(少なくとも「確保されるべき」と大抵の人が考えている現代において)、実際には自由と平等は両立しない場合があることがわかってきた。すなわち、「自由」と「平等」は二者択一であり、「自由だが平等ではない」か「平等だが自由ではない」のどちらかしか可能ではないことが明らかになりつつある。
以下、「自由だが平等ではない」と「平等だが自由ではない」のそれぞれについて、当初は自由と平等を両立できると思われた社会体制が最終的にその理想を放棄する「末路」に辿り着く過程として見ていく。

まず、「自由だが平等ではない」はメリトクラシーの末路である。
本来、メリトクラシーとは「人類は皆平等なので生まれによって差別されるべきではない」という平等の旗印の下、出自ではなく能力によって社会的地位が定まる能力主義社会を指している。理想的には、平等な設定の下で自由な競争をさせることで、誰もが納得できる結果をもたらす望ましい社会と言える。
ところが、メリトクラシーの理念に従って受験戦争や学歴社会などが生じてくるにあたり、自由競争は結果においては全く納得し難い不平等状態を招くことがわかってきた。自由に競争した結果、却って各人の能力や家庭環境の違いが浮き彫りになり、「上流階級の子供は上流階級、下流階級の子供は下流階級」という格差の再生産すら生み出した。
ある意味では、このように生育の格差が固定化された状態は貴族制のような出自に由来する階級制度と大差ない。しかし貴族制よりも悪いのは、表面的には自由競争が担保されているために下層階級は自らの立ち位置について弁明する機会も根拠も与えられず、全てが自己責任として正当化されてしまうことである。これにより当初の理念とは全く真逆に、メリトクラシーは階級を固定するイデオロギーとしてすら作用する。
以上のように、自由に競争する権利が与えられてはいることは現実的には平等をもたらさない。つまり、「自由だが平等ではない」のだ。

補足246:最近では東京大学がよくこうしたメリトクラシーの問題点を取り上げている。去年度の入学式では上野千鶴子フェミニズムに絡めて「強者」である東大生に警鐘を鳴らす祝辞を述べたほか、今年度の国語現代文でもまさにこのメリトクラシーについて出題された。

次に、「平等だが自由ではない」はリベラル社会の末路である。
本来、「リベラル」とは「自由」の意であり、誰もが自由に自己決定権を持って社会に参加できる社会を理想とする。黒人や女性や性的マイノリティなど、周縁者として抑圧されていた層を解放して平等なスタートラインを提供し、彼らが自由に活躍できる社会を目指していた。
ところが、リベラルの理念に従って機会平等を提供するにあたり、現実的には様々な衝突も生じることがわかってきた。その典型例がポリコレ運動である。黒人俳優を映画に起用することで人種に左右されない活躍の機会を与えるという理念は公正なものと思われる反面、それで仕事を奪われる白人俳優からは反発が生まれる。メリトクラシーとは真逆に、機会平等の理念には実力を無視した登用という側面が付きまとう。移民政策や市場介入にも同じことが言え、誰かに配慮した結果として他の誰かが割を食うケースは枚挙に暇がない。その場合、他人の平等を担保するために自分の自由が抑圧されていると感じる人が生じる。つまり、「平等だが自由ではない」のだ。

1-2.テーゼ2:このジレンマの根本には近代における主体概念の成立がある

では、そもそも「自由」と「平等」は二者択一であるというジレンマはどこから生まれたのか。それは近代における主体概念の成立である。

近代における「主体概念の成立」とは、差し当たって「神の放棄」と同時発生したものと考えて差し支えない。それまでの世界観では人類とは神の被造物であり、神の意志に従って行為する存在だった。神の意志によって導かれるだけの存在は自由を持たないし平等でもない。全ての行為は神に定められた不自由なものであるし、神がそう作ったのだから不平等な身分制にも疑問を抱かない。よって、そもそも自由か平等かという二者択一さえ生まれようがない。

しかし神が放棄されると人間は自由意志を持つ主体として成立する。カントは理性が人間にアプリオリに備わっているとして、人間は本来的に理性的な存在であるという見方を唱えた。人間の認識システムを神ではなく自分自身に根拠づけることが可能になったことで神は捨てられ、主体というイデオロギーが誕生する。もはや主体と化した人間たちは自由意志を得たことによって自由を求めざるを得ず、身分を規定する超越的な存在が消えたことにより平等を求めざるを得ない。

以上のように、「自由と平等は両立しない」というジレンマが生まれた背景には主体の成立があった。逆に、主体の成立によってこのジレンマが招来されたとも言ってもよい。

1-3.『すめうじ』内での対応

後で詳細に解説するための準備として、ここでは形式的な対応だけ述べる。
『すめうじ』は前半部(第1章~第5章)と後半部(第6章~第10章)でテーマが分かれており、前半部が「1.自由と平等は両立しない」、後半部が「2.このジレンマの根本には近代における主体概念の成立がある」に対応する。
こうした各部でのテーマは、作中で一貫する大テーマである「自己概念の転倒と拡張」としてまとめられる。

・前半部
前半部では外面的・社会的な領域における「自己」、すなわち「唯一無二のアイデンティティ、尊重される個性」を扱った。「自己PR」や「自己紹介」と言うときの「自己」。
この題材は「リベラル多元主義への反発」というテーマに接続し、上に述べたテーゼのうち「1.自由と平等は両立しない」に対応する。
具体的には、「平等だが不自由な世界」が管理局、「自由だが不平等な世界」がアンダーグラウンドを指す。これら二つの世界は闘争関係にあるのではなく、メンバーに応じて適切に住み分ける形で決着を見た。
なお、百合萌えラノベとしては美少女文化におけるルッキズムと結合した。

・後半部
後半部では内面的・個人的な領域における「自己」、すなわち「自分を私として名指すもの=主体」を扱った。「自己愛」とか「自己意識」と言うときの「自己」。
この題材は「個体ならざる主体としての群体」というテーマに接続し、上に述べたテーゼのうち「2.このジレンマの根本には近代における主体概念の成立がある」に対応する。
具体的には、「群体」というイメージを近代的な主体概念に対するオルタナティブとして提案している。つまり近代的な主体が「個体としての主体」であるのに対して、カウンターとして「個体ならざる主体」を描いた。
なお、百合萌えラノベとしては日常系から派生する同質的なコミュニケーションと結合した。

2.前半部(第1章~第5章):リベラル多元主義への反発

まず「リベラル多元主義への反発」についての一般論を述べたのち、作中全体での扱いとキャラクターごとの役割を説明する。

2-1.一般論

地球全体を繋ぐ文化や経済が発展するグローバリゼーションにより、背景の異なる人間同士が接触することは全く珍しくなくなった。異質な人同士の衝突を回避するため、性別・人種・性的嗜好などの様々な多様性に対する寛容さが求められると共に、それらへの偏見を持つことなく人それぞれの素養や志向を活かすことを望ましいとするリベラルな価値観が広まっている。

しかし一方で、そうした風潮によって自分の自由が抑圧されていると感じる人も増えつつある。特に過激な一部の層は「もはや自由と平等は両立できない」として自由を求めて平等を放棄することを選択する。具体的には、白人至上主義などの反動的な思想に傾倒しダークウェブにコミュニティを成す。

こうしたリベラル多元主義への反動はもはや無視できない状況にあり、メイクアメリカグレートアゲインを掲げるトランプ大統領が誕生したほか、移民や市場の問題に嫌気が差したイギリスがEUから離脱したことも記憶に新しい。

2-2.『すめうじ』内での扱い

無差別同時変異現象「インタポレーション」により人間の身体や性質が多様化した「ブラウ」が多く発生したことにより、管理局が差別を防ぐための管理政策を推進しているというリベラルな構図がある。
これによって表面的には多様性に寛容な社会が実現されているが、実はそれはブラウの過度な活躍を隠蔽したり特異な才能を持つ者を迫害したりすることで成立している。そうした表社会の歪みに嫌気が差した人たちが、反動として政治的に不公正な住処であるアンダーグラウンドを組織している。主要登場人物もほとんどがアンダーグラウンドに生息しており、彼女らは多かれ少なかれリベラル多元主義社会に対する窮屈さを感じている。

補足247:新反動主義ではリベラル民主主義のオルタナティブとしては君主制都市国家群が置かれるが、『すめうじ』内ではもっと単純なリバタリアンアナキズムが対応している。当初は様々な思想を持つ都市国家群を描く予定もあったのだが、結局のところ各都市の代表キャラクターを一人ずつ出すくらいが関の山なので、それならキャラクターだけ描けば十分だと考えた。実質的に各キャラクターが各都市国家を擬人化したものと見てもよい。

インタポレーションで人の在り方がこんなに変わったのに、皆が皆ポリコレワールドでお行儀よく生きてるわけないじゃない。肉体と一緒に精神を変えたやつがアンダーグラウンドにダイブして、着水の衝撃でできた渦巻きは何もかも飲み込んでいくんだ。私のことを特異な外れ値だとか思ってると足元掬われるよ。これは個人の問題じゃない、世界がもう既に二極化してるんだ。管理局が守ろうとしてる平等と配慮に満ちたリベラルな世界と、私たちが飛び回る自由と混沌に満ちたダークな世界にね

(第6話より、黒華曰く)

黒華が言うように世界が二分されている構図があり、落としどころとしては「革命」ではなく「適切な住み分け」を目指した。
世界が二分されているのは単なる住み分けの結果に過ぎず、どちらが正しいわけでもない。もしアンダーグラウンドが表社会を飲み込んでしまったら、それはそれでその反動として表社会が復活するだけだ。リベラル社会の仕掛け人であるヴァルタルが早めに退場することで闘争の構図は排除され、むしろ部分的な協力関係が描かれることが多かった(椿と遊希のサイゼリヤでの交渉、自衛隊とサークロの提携)。
各キャラクターの振る舞いとしても、革命の御旗を掲げて表社会を攻撃するのではなく、自らの素養に応じて適切にアンダーグラウンドを選択する者がほとんど。主人公の白花も第15話で会食を機に居心地の良い住処としてアンダーグラウンドを選択することで、この論点はひと段落する。

2-3.各キャラクターの役割

前半部で特に重要な役割を担うのは主にジュリエット・白花・黒華の三人。

2-3-1.ジュリエット

インタポレーション以降、人間の価値を必要以上に複雑に考える風潮が蔓延りすぎております。……わたくしに言わせれば、人間の価値なんて文字通り見ればわかるものでしかありません。容姿こそ、先天的かつ無根拠であるが故に究極の価値を担保するので御座います。容姿など偶然決まるサイコロの目に過ぎないと仰る方もおられますが、逆にいったいどうして誰でも努力すれば得られるような能力に至上の価値を与えることなどできましょうか?

(第13話より、ジュリエット曰く)

強力な容姿至上主義、差別主義者。
美形の者に対しては非常に優しいが、美形でない者は人間扱いしない。自らが差別主義者であることを自覚しているために矯正の契機がないあたりどうしようもない。『すめうじ』は美少女と美人しか登場しない萌えラノベなので一貫してわりと常識的な協力者だったが、上の演説を代表に言葉の節々から差別意識が滲み出る。

思想的にはオルタナ右翼に対応しており、上の演説の「容姿」を「人種」に置き換えればかなり偏狭な白人至上主義者の演説として読める。既に述べたように、差別を徹底的に排除しようとするリベラル社会への反動として、あえて選択された差別主義が生じてくるという構図。

補足248:オルタナ右翼とはアメリカ版ネトウヨのようなもの。排外主義、白人至上主義、インセルなどのいわゆる偏狭な価値観を備えた白人男性が典型的で、インターネットカルチャーとの親和性が高い。ジュリエットがオタクなのもそれを踏まえている。

萌えラノベで人種差別を扱うのは社会派すぎて面白くないので、オタク文化内のルッキズムに論点をすり替えた。オタク文化には二次元でも三次元でも「容姿が正義」という強いルッキズムの風土があり、『すめうじ』内でも美少女には寛容だがモブ男はすぐに死ぬ。
しかし、オタク文化内のルッキズムが白人至上主義と明確に異なるのは、一般にオタク自身の容姿が優れているわけではないことだ。オタクが容姿差別に傾倒したところで彼自身には特にリターンが無いために一定の倫理性(?)を備えていると言えなくもない。
逆に言うと、容姿が美しいものが容姿差別主義を備えたオタクである場合、オタク文化ルッキズムのギャップが解消されてアンダーグラウンド内での反動思想の保持者という立ち位置を与えられる。実際、ジュリエットは猛烈な美人であると同時にアニメオタクでもあり、この要件を満たす。

補足249:ジュリエットは別に英国本場のメイドではなく、日本大好きコスプレイヤーに過ぎない。実際、メイドサブカルチャーに異様に詳しかったり(第10話)、萌え系の電波ソングを着信音に設定したりしている(第16話)。

2-3-2.白花

インタポレーションから今まで、白花の食事は自炊するにせよ出来合いのものを買うにせよ、基本的に家で一人で食べるしかなかった。誰かと一緒に食べたりお店で食べたりすると、白花の食事に蛆が湧いているのを見た他人を不愉快にさせてしまうからだ。インタポレーション以降は牙がある人なども増え、多少汚い食べ方をするくらいは許されるようになったとはいえ、いちいち大量の蛆を湧かせる白花の体質は社会的な許容ラインを大幅に踏み越えている。

(第15話より)

社会的弱者。リベラルな価値観ではカバーできない「弱すぎる」外れ値。
白花は「食事に蛆を湧かせまくる」というかなり社会許容度の低い性質を持っており、「人前で食事をしない」という生理的なレベルでの重い配慮を引き受けさせられている。

補足250:例えば第8話のサイゼリヤでの食事シーンをよく見ると白花一人だけ何も食べておらず、第10話の監禁シーンでは空腹だったのでクッキーやマカロンを食べまくっている。

白花は「各人の個性を最大限尊重する」という建前のある社会にあっても間接的な迫害を受けて窮屈な思いをしている弱者であり、ジュリエットや遊希との接触を通じてアンダーグラウンドに傾倒していくことになる。

思想的には肯定されないダイバーシティの持ち主に対応する。
リベラル多元主義社会でも現実的に許容できるダイバーシティには上限と下限があり、常識的に考えて問題の無いレベルの異常性しか許容されない。例えば「ペドフィリア」がその典型で、LGBTに対する寛容さと比べ、幼児性愛という嗜好性に理解を示す人はほとんど存在しない。リベラルはそういう抑圧を嫌っていたはずなのに、現実的な適用の局面では結局また常識によるスクリーニングが戻ってきてしまう。

白花が最終的にアンダーグラウンドへの所属を決定した理由は「皆と一緒に食事が出来るから」であり、自分と同じ異常者が集うコミュニティへの信頼が大きい(ペドフィリアがダークウェブ上で幼児性愛コミュニティを見つけるのと同じようなもの)。ちなみに「食事」は作中で一貫するモチーフの一つで、前半部ではコミュニティの社会的連帯を描く役割を担っている。

2-3-3.黒華

もともと私にはアンダーグラウンドの方が向いてたし、遅かれ早かれこーいう道を選んでたと思うよ。最低限、自衛できるくらいの能力があれば身一つで勝負できる世界だからね。アンダーグラウンドがそーいう風に作られたというよりは、インタポレーションで万人に無差別にスキルが降り注ぐと、自然にそーいう世界ができるんだ。

(第26話より、黒華曰く)

ギフテッド。リベラルな価値観ではカバーできない「強すぎる」外れ値。
十代のうちに独学でAtCoder黄ランクの技術力を持つ一点突破タイプの天才。自分の才能を活かすため、高校には進まずに中卒でアンダーグラウンドに潜った。主人公の白花が人文系なので技術方面で活躍する黒華を描く機会はあまりなかったが、よく見ると第7話で管理局の監視カメラを短時間でハックしたり、第24話で教会に違法な通信ネットワークを設計したりしている。

下限を突破しているために迫害される外れ値が白花であるのに対して、上限を突破しているために適切な扱いを受けられない外れ値が黒華。リベラルの理念から要請される機会平等の理想において、弱者を救済することに比べれば強者を適切に優遇することにはほとんど関心が払われない。プラスの人間を更に伸ばすよりマイナスの人間をゼロに戻す方が重要であるとしても、それはそれとしてプラスの人間だって自分の恵まれた生まれを活かしたいのだ。

思想的には、ピーター・ティールのようなリバタリアンのエンジニアに対応する。黒華が理系エンジニアなのはそのため。

補足251:乱暴に言えばリバタリアンとリベラルの違いは「自由を担保するためのお膳立て」を許容するか否か。リベラルは「お膳立て」を認めるので福祉政策や市場介入を受け入れるが、リバタリアンは「お膳立て」を必要とせず、「余計なことはするな」と言わんばかりに最小国家市場原理主義を理想とする傾向にある。

有能なエンジニアのイメージはリベラル国家への反動思想との親和性が高い。
その理由を二つ挙げると、まず一つにはエンジニアが行うバリュー創出は国家への依存度が低く、優れたサービスはインターネットに乗って国境を跨いでいけるから。もう一つには、エンジニアが専門的に扱える電子空間は、土地や建造物を含む物理空間に比べて国家による制約が緩く、リベラル国家のオルタナティブの設立さえ可能だから。

なお、黒華が教会をリノベーションしていたのは「カテドラル(大聖堂)」という俗語を受けている。カテドラルとは反動主義者の間で使用されるジャーゴンで、近代的な進歩主義を皮肉っている。黒華がカテドラルであるところの教会を勝手に解体して反動主義者の拠点を作ろうとしていたのは、象徴的にはリベラル社会の解体とアンダーグラウンドの設立を意味している。

2-3-4.椿

あーやだやだ、そういう堅苦しい雰囲気……不適切な発言も行為もやらせておいて放っとけばいいじゃないですか。

(第3話より、椿曰く)

異常者になりきれない社会適合者。
作中で最も頭が良いキャラクター。本音と建前の区別が手に取るようにわかるため、誰もが建前しか言わなくなるリベラル社会に閉塞感を感じている。建前しか言わないヴァルタルに舐めた態度を取っているのもそのため。
ただし、椿は黒華と違って官僚タイプのオールラウンダーであり、むしろどこでも重宝される社会的に有能な人材。何の問題もなく生きていける社会的強者であるために、却って社会からドロップアウトすることや社会的弱者である白花に対して屈折した憧れを抱いている。

思想的には黒人解放運動に困惑する良識派白人のような立ち位置。社会的弱者の立場を被害者として見直すことは社会的強者の立場が加害者として見直されることと裏表である。強者サイドに所属している良心的な人間が、ある日突然自虐的な内省を強要されることはよくある(日本でも痴漢や性暴力の問題で同じようなことが起こっている)。

2-3-5.ヴァルタル

ブラウ全体を危険視する偏見が社会に広がるのを防ぐためには仕方ないさ。社会の混乱を防ぐため、安定した世論を維持するのも管理局の大事な役割だ

(第4話より、ヴァルタル曰く)

リベラル社会の官僚、仕掛け人。
正義漢っぽい言動をしていたが、後から考えると登場シーンでは建前ばかり言っていたことがわかる。管理局が提供する政策には限界があり、白花や黒華のような外れ値を迫害して成立していることをヴァルタルは普通に知っていた(偉いから)。見た目と違って脳筋では全然ないし、むしろ本音と建前を使い分ける大人。
白花にも個性を活かした自己実現の機会を与えようとしているあたり、リベラルな理想に燃えているのは事実だが、そのために多少の歪みが生じることを許容できてしまうタイプ。ヴァルタル自身も活躍を隠蔽されるという形で自由を抑圧されているのは黒華と同じだが、それを必要経費として割り切っており、表社会の歪みと共犯関係にある。

思想的にはラスボスになっても良いポジションだが、別に社会の転覆を描きたいわけではないので早めに退場した。

2-3-6.遊希

イマイチ上手く書けなかったのだが、もともと遊希に担ってもらうつもりだったテーマは「オリジナル」と「カウンター」の違い。
ジュリエットや白花といった歪んだ大人たちが表社会への反動としてアンダーグラウンドに参入してくるのに対して(=カウンターとしてのアンダーグラウンド)、遊希は最初からアングラ生まれアングラ育ちだ(=オリジナルとしてのアンダーグラウンド)。「確かに平等は重要かもしれないが私は差別を肯定する(=カウンターとしての差別主義)」と、「そもそも平等は何ら重要ではないので私は差別を肯定する(=オリジナルとしての差別主義)」は決定的に違う。そういう感性の違いを描きたかったのだが、あまりそれをやるスペースがなかった。可愛いからいいか。

ちなみに、実は遊希はジュリエットが10代の頃に生んだ実娘(裏設定)。カウンターとオリジナルの違いは世代の問題でもあって、カウンターだったはずのものも一つ世代が経過するとオリジナルになるというようなことを書きたかった。

補足252:ジュリエットと遊希はお互いに親子関係であることを認識している。第13話で仲居に対して遊希のことを「わたくしの可愛い妹」と紹介するジュリエットに対し、遊希が「だーれが妹ですか!」と反応しているのは本当は妹ではなく娘だから。また、第16話でジュリエットが遊希に向かって「レズビアンではなくバイセクシャル」と訂正しているのも目の前にヘテロセックスの結果としての子供がいることを踏まえている。俺はこの親子関係を陽に描写したつもりだったが、すめうじ批評会(後述)では誰にも伝わっていなかったので反省した。

2-3-7.紫

紫はインタポレーションで蛞蝓が人間の姿に変わった存在(裏設定)。最初から人間ではないので、人間社会がテーマの前半部には関わってこないでずっと寝てる。

3.後半部(第6章~第10章):個体ならざる主体としての群体

まず「個体ならざる主体としての群体」についての一般論を述べたのち、作中全体での扱いとキャラクターごとの役割を説明する。

3-1.一般論

3-1-1.近代における主体の成立

「私」が全ての出発点に置かれ、世界のあらゆる物事が私との相関によって捉えられるようになって久しい。
誰もが「私」の存在を当たり前に前提し、私の思考を支配するのは「私にとっての人生」「私にとっての幸福」「私にとっての貯金」だ。以下、こうした考え方をしている当の者、「自分を私と名指すもの」を「主体」と呼ぶことにする。

補足253:「主体」という言葉の定義は難しい。他にも「行為・作用を他に及ぼすもの」や「自覚や意志に基づいて行動するもの」という定義もあるが、今は「自分を私と名指すもの」という定義を採用した。この定義では「自分」と「私」の定義が問題になるし、それらが似通っているので循環定義の気配もあるのだが、哲学をやりたいわけではないので日常語として意味が通ればよい。例えば「人間」は自分を私と呼ぶので主体だが、「石」や「水」は自分を私と呼ばないので主体ではない。

補足254:こうした主体概念の成立は近代資本主義の大前提でもある。マルクス風に言えば自分の時間を自由に切り売りできるという主体認識によって労働者が成立し(『資本論』)、ドゥルーズ+ガタリ風に言えば拡散する欲望を整流するために精神分析による主体の仮構が要求され(『アンチ・オイディプス』)、ボードリヤール風に言えば大量生産品の売買を通じて確立される主体が消費社会を支えている(『消費社会の神話と構造』)。よって、主体性の再検討は資本主義批判と結合しやすい。

しかし実際のところ、皆が当たり前のように前提している主体とは特定の時代が要求する一つのイデオロギーに過ぎない。その存在は自明では無いし、もっと自由な性質を持つことも出来るはずだ。

3-1-2.「群体としての主体」の定義

例えば、我々が日常的に主体として自分の身体を「私」と認識するとき、そこには「分割できない」という性質が暗黙に含まれている。我々は身体が二つや三つあるとはまず考えないし、それをイメージすることも難しい。以下、我々が認識している身体のように「それ以上分割できないもの」を「個体」と呼ぶことにする。

補足255:物理的に足を切断することは可能だが、その場合は切り離された足はもう「私」とはみなされず、単に切り離されたゴミのようなものになる。主体は足以外の残った部分にしか存在せず、主体そのものが分割されたわけではない。身体の切断という方法で問題になり得るのは、身体を正確に真っ二つに切ったときに主体がどちらに入るのかということだ(この実験は第29話で行われている)。

改めて上の定義を確認すると、「主体」とは「自分を私と名指すもの」、「個体」とは「それ以上分割できないもの」。定義に従うと我々人間は「主体かつ個体」ということになる。
考えられる組合せとしては「個体性」の有無と「主体性」の有無で2×2=4通りの存在者が考えられる。具体的には以下の通り。

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特に左下の「主体〇、個体×」=「群体としての主体」に注目したい(以下、「個体でないもの」を群体と呼ぶ)。虫の群れや軍隊が典型例だが、他にも様々なパターンが考えられる。理解を深めるため、群体としての主体の例を6つ挙げてみよう。

1.虫の群れ
虫の群れにとって「私」と名指すべき利害主体は個々の虫ではなく群れ全体である。何故なら、この群れの目的は個々の虫の生存ではなく群れ全体の存続だからだ。よって、主体の定義「自分を私と名指すもの」に従うと、虫の群れ全体を一つの主体と見なせる。
一方で、この群れは何匹かごとに分離できる。よって、個体の定義「それ以上分割できないもの」に従うと、虫の群れは個体ではない。
以上、虫の群れは主体だが個体ではない。

2.軍隊
軍隊にとって「私」と名指すべき利害主体は個々の兵士ではなく軍隊全体である。何故なら、この軍隊の目的は個々の兵士の勝利ではなく軍全体の勝利だからだ。よって、主体の定義「自分を私と名指すもの」に従うと、軍隊全体を一つの主体と見なせる。
一方で、軍隊は何人かの兵士ごとに分離できる。よって、個体の定義「それ以上分割できないもの」に従うと、軍隊は個体ではない。
以上、軍隊は主体だが個体ではない。

3.バーチャルアバター
バーチャルアバターを持つ人間は、バーチャルアバターの身体とリアルの身体のいずれも「私」と名指せる。よって、「私」と名指す対象にはリアルとアバター両方が含まれており、これらをまとめて一つの主体と見なせる。
一方で、リアル肉体とバーチャルアバターは分離できるのでこの主体は個体ではない。

補足256:サブカル的には「群体的な主体」というモチーフが一番よく使われるのは恐らくこのイメージ。例えば、キズナアイの人格分裂や『serial experiments lain』で扱われるキャラクターの偏在。

4.人工知能
擬人化された人工知能は自分の全データを「私」と名指せる一つの主体である。しかし、そのデータは複製して分割できるので、一つの個体ではない。

5.統計情報
何らかのアンケートを取った結果、「男性、二十六歳、大卒、日本人」などのステータスが自分と完全に一致するサンプルが複数見つかったとする。それらのサンプルはステータスが一致している限り全てまとめて「私」と名指せるが、該当するサンプルは複数存在して分離可能なので一つの個体ではない。

6.幼児
幼児は他の幼児が泣いたときにつられて泣いてしまうことがある。これはまだ「私」の境界が確定できておらず(特に「母」との境界は曖昧)、自分が泣いているのか他人が泣いているのか判断がうまくできないからだ。よって、他者を含めて「私」と名指せる一つの主体とみなせるが、当然、幼児と他者は別の人間なので一つの個体ではない。

補足257:以上のイメージは『すめうじ』内にも散りばめられている。「虫の群れ」は全編を通じて、「軍隊の兵士」は第18話の桜紋組、「バーチャルアバター」は第6話の黒華がアバター的人格を示唆、「統計情報」は第4話でヴァルタルが言及、「幼児」は第26話の回想に登場。

このように、「複製」「群体」「集積」などのイメージを組み合わせることにより、主体概念を一つの身体から解放して拡張していくことができる。

3-1-3.「群体としての主体」の性質

群体としての主体が持つべき性質について説明する。

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濃いオレンジの丸が群体の要素を表し(例えば一人一人の兵士)、薄いオレンジの囲いが群体全体を表している(例えば軍全体)。 この描像の下、以下の3つの性質が考えられる。

補足258:以下、「群体である主体」を指して単に「群体」と言うこともある。厳密に言えば「群体」には「群体である主体(虫の群れや軍隊)」と「群体である非主体(水や砂や空気)」の2パターンがあるのだが、後者をあまり扱わないので。

1.自律分散型
主体が分割可能である場合、分割され得る各部位はそれぞれ自律した動作が可能でなければならない。それぞれの部位が自律している限り、同じ動作をする部位に入れ替え可能なので、可換で頑健な構造と言える。
例えば、軍全体が持つ目的に応じて、個々の兵士が細かいことはそれぞれ自分で考えて行動するのと同じ。ただし、個々の兵士は主体ではないため、彼らが「私」と名指す対象は依然として彼ら自身ではなく軍全体であることに注意。
逆に、「個体である主体」は中央集権型と言える。ただ一つのトップに従属する形で全ての部位が位置付けされ、容易には切り離すことができないからだ。

2.運命共同体
主体が分割可能である場合、各部位の存続は全体の存続によってのみ決定されるという意味で、各部位は運命を共有している。
例えば、一つの軍隊が「死んだ」というとき、それは個々の兵士の生死を指すのではなく、所属する兵士が一人残らず死亡することを意味する。よって、個々の兵士同士は生死を共有していると言える。
逆に、「個体である主体」にはそもそも何かを共有するような分離がない(言葉の定義上、共有するためには前提として分割が必要)。

3.存在の混合
主体が分割可能である場合、各部位を交換することで新しい組成の主体を作ることができる。このとき、新たに取り込む部位を別の群体から取ってくれば、存在を混合できる。
例えば、ある軍隊を別の軍隊と混ぜ合わせて新しい軍隊を作れるし、所属先を間違えた兵士が勝手に別の部隊に混ざってしまうかもしれない。
逆に、「個体である主体」は混ぜ合わせることができない。せいぜい隣り合うのが精々で、内実を分解して組み合わせることはできない。

3-2.『すめうじ』内での扱い

黒華、白花、紫、椿の四人が「群体としての主体」であり、身体を生物の群れに変換できる。逆に、「個体である主体」としてはよく「人間の個体」が対比される。

そもそも個体を表すindividualとはdivideの否定形、つまり、分割できないのが個体の定義だ。しかし、白花はどこまでも分割できて、いくつに割っても生き続けて再生を目指す。よって、白花は個体ではない。群体なのだ。こいつは人間個体である前に蛆の群れだ。

(第29話より)

 群体が持つ3つの性質は以下のように描かれた。

1,自律分散型
存在を切り離して物理的に離れた場所に偏在できる。例えば、白花は井戸の中や自宅や広場に偏在することによる疑似的なワープ能力を持っている。
また、自律分散型の身体は物理的な損傷にも強く、爪で刺されても銃で撃たれてもダメージが入らない。これは各器官が自律した虫であるために可換であり、機能が集約された臓器を持たないから。

補足259:こうした身体の在り方はドゥルーズ+ガタリの「器官なき身体」から着想を得ているが、原典が難解すぎるので彼らがそういうことを言っていたのかはわからない(俺は各器官が機能分化する前の身体を指すと理解している)。第38話で自律駆動する機械である遊園地のイメージが群体の例として挿入されたのもドゥルーズ+ガタリの「機械」を受けている。

2.運命共同体
主に白花と黒華が持つ思想。「二人をまとめて一つの主体であること」を理想とし、声も生死も傷も何もかも共有し、意識と自我すら分かれていない状態を目指す。
第17話では白花がジュリエットとの会話中で「黒華が死んだら自分も黙って死ぬ」(生死の共有)と語り、第26話で黒華が白花に同じ怪我を負わせ(傷の共有)、第39話で白花が椿に声が届かないことを不満とし(声の共有)、椿との無理心中を試みる(生死の共有)。

3.存在の混合
異種のものが混ざり合うというモチーフは形を変えて何度も登場している。第1話の食事シーン(蛆と食事の混合)、第32話の幻聴(聴覚システムの混合)、第37話の蛞蝓の雨(主客の混合)、第38話の捕食(血肉の混合)など。最終的に、第41話で皇灰火なる融合体が誕生した(存在の混合)。

ちなみにラストシーンで灰火が産声を上げて終わるのは、産声は人間の言葉ではなく鳴き声だから。言葉は個体が発するものだが鳴き声は群体が発するものという対比があり、産声が世界中に響き渡ることは人間も虫と同じように群体であることを示唆している。

補足260:これはゆあさから指摘されて感心したのだが、言葉と鳴き声の違いはデリダ的な差延を用いて理解できる。言葉は二者間で伝達される際に記号体系を中継するため、必ずしも話者が意図した内容がそのまま確実に聞き手に伝わるとは限らない。よって、完全にはわかりあえない二人の主体の間で成り立つ行為である。一方で、鳴き声は言葉ではないために話者の起源をそのまま発露する。よって、完全に理解し合う一者の内部での行為である。以上、個体においてはズレのある言葉を用いて二者間コミュニケーションが行われる一方で、群体においてはズレのない鳴き声を用いて一者内のコミュニケーションが行われる。最終的に白花と黒華は境界なく一致する一者(灰火)になり、彼女(ら)のコミュニケーションは鳴き声の次元になる。

また、主体としての主観的な視点を表現するために「環世界」を用いた。

見えてるものが違うってことは、世界に何があって何がないかっていう根本設定から違うってこと。人間も蛇も蚯蚓も螻蛄も水黽も、それぞれの種にそれぞれの主観的な世界があって、どれが唯一の正しい世界ってわけでもないんだよねー。人間を含めたそれぞれの種に固有の世界、ユクスキュルが言うところの環世界ってやつだよ。

(第34話より、黒華曰く)

環世界に関しては、強い思想的な意図があって用いたというよりは、主体の性質が変化したときの主観性の変化という困難な描写を行うのに便利そうだったから道具として使った。一つの主体に一つの環世界が対応するという形で、各人の主体の切り分けを明確化する役割があった。

3-3.各キャラクターの役割

後半部で特に重要な役割を担うのは白花、黒華、紫の三人。

3-3-1.白花

主人公らしく、群体的な要素を寄せ集めたキャラクター。身体的に群体であるだけではなく、精神的にも群体の特徴を踏まえた性格をしている。

まずベースにある性格として、「私」という自己認識が非常に希薄。「私にとっての人生」「私にとっての幸福」「私にとっての貯金」という考え方が苦手で、適当にしか生きられない。自分から主体的に何かをすることができず、常に巻き込まれる形でしか行動しない。

その他細かい性格についても上に挙げた三つの性質に照らし合わせて理解できる。

1.自律分散型の性格
一つのものに集中せず脈絡のない行動を取ることが多いが、活動エネルギーそのものは低い。分裂病質。
それは人間関係に対して顕著。誰とでも適当に仲良くなれるが、関心の上限が低く、相手を本心から心配したり気遣ったり嫌ったりしない。

補足261:ハーレム系主人公体質とも言う。

2.苛烈な運命共同体思想
他人に深い興味がない癖に異常なコミットを試みる二面性を持つ。
傷や声や生命を共有することにこだわり、黒華と同じ傷を作り、呼びかけが一方向であることを嫌い、椿と無理心中しようとした。ただし、決して椿に強く執着しているから心中するわけではないことに注意(運命を共にする相手は別に誰でも構わない)。
コミュニケーションを群れとしての一体化に依存しているためにサークロのような自己完結タイプが苦手。

3.存在の混合への抵抗のなさ
何事にも流され体質で拒否反応がない。
拷問された直後でも一緒に食事ができたり、相手を銃殺しようとした直後でも一緒にジェットコースターに乗れたりする。紫の蛞蝓に喉をジャックされたり、椿に食われたりしてもあまり気にしていない。最終的に黒華と完全に混ぜ合わされることに対しても、白花は何とも思っていない。

補足262:白花は椿戦で「死」を手段として用いるようになるが、「死」を資本主義システムに対する対抗馬とする議論は資本主義批判ではよくあるパターン(ボードリヤール大澤真幸)。白花が独特の死生観を持ち、割とすぐ死にたがるのはそれを引き継いでいる。

3-3-2.黒華

メインヒロイン。対白花限定で群体的な心性を持つキャラクター。白花がノード的な意味で群体だったとすれば、黒華はエッジ的な意味で群体。

基本的には白花と似通った性格をしている。分裂病質、運命共同体思想持ち、存在の混濁に抵抗がない。
ただし、後ろの二つは対白花に限られる。白花以外と群れが交わることは嫌っているし、年上の椿やジュリエットに対しては他人行儀で必ず敬称を付けている(初対面の相手にすらタメ口を利くコミュ障の白花とは対照的)。白花よりはまだまともな対人能力を持っており、自分の人生を自己実現する意志もある。

白花と黒華においては、萌えラノベとして「群体と百合」という派生テーマがある。
少し前の日常系アニメでは「あまりにも美少女同士が仲良くなりすぎてしまいコミュニケーションが破壊される」という事態が散見された。あまりにも人間関係が自明なものになってしまうと却ってその関係が希薄になるのだ。わかりあいすぎていちいち言葉を交わす必要もなくなってしまい、予定調和のやり取りがあるだけで、他者との差異を感じる価値観の交換が何もなく、形式だけになった会話が上滑りする。「人間は分かり合えない」という前提があったエヴァとは違い、今や「美少女同士が分かり合いすぎる」という真逆の構図になっている。
こうした無限の分かり合いを突き詰めると、二つのキャラクターをまとめて一つのキャラクターとするような状態に到達するだろう。すなわち二つの個体が一つの群体になること、群体としての主体が現れることである。白花と黒華が灰火という群体を成したのは、こうした日常系アニメでのコミュニケーションの変質を踏まえている。

3-3-3.紫

元々人間ではなく蛞蝓であり、誰よりも群体に近い。白花以上に無気力、自分の意志を示すシーンが一つもなく、だいたいいつも寝ている(でも属性が似ている白花には少し懐いている)。

群体が持つ性質のうちで特に「存在の混濁」と、群体の生成論について掘り下げる役割を担う。そのためのモチーフとして「粘体」がキーワードになっている。つまり、「蛞蝓の群れ」とは、群体であり、かつ、粘体でもあるもののイメージ。

蛞蝓の能力はサルトルの粘体論をわりと露骨に引用している。

ねばねばしたものは、まず、われわれが所有することのできる一つの存在という印象を与える。……私は手でそれをつかむことができる。……ねばねばしたものは、従順である。ただし、私がそれを所有していると思っているまさにその瞬間に、奇妙な転換が生じて、ねばねばしたものの方が、逆に私を所有する。……突如として、危険にまきこまれる。

(『存在と無』、第4部第2章第3節「存在を開示するものとしての性質について」より)

粘体を握れば、同じ強さで握り返してくる……あなたが握っているのと、粘体が握っているのは、区別できない……動かないのに動き出す、意志の所在がわからないのが粘体。いつでもあなたの動きと形に追随する……粘体は、わたしとあなた、能動と受動、主体と客体、図と地の区別をしない

(第19話、紫曰く)

サルトルと紫が語るように、主客が転倒して行為主と行為対象が判別不可能になる事態とは、まさに存在(主体性)の混合に他ならない。よって、粘体を掴んだときに起きることは、私とあなたという区別が無化されて一つの群れに組み込まれることと同じである。つまり、粘体には「個体でない主体」を作り出すもの、群体の生成者という立ち位置を与えられる。ラストシーンで黒華が白花を刺すナイフに蛞蝓が必要だったのはこのため。

補足263:こうした群体の生成過程には分裂病のイメージが組み込まれる。精神病の説明仮説である「異常セイリエンス仮説」によれば、精神病は世界の事物に適切な注意を振り分ける能力が破綻することで発生する。紫の「蛞蝓の雨」が引き起こす「何もかも判別できなくなる」という事態も異常セイリエンスと同じ。なお、「分裂病」を資本主義システムに対する対抗馬とする議論は資本主義批判ではよくあるパターン(ドゥルーズ+ガタリ浅田彰)。白花が「死」という対案を担当したのに対して、紫は「分裂病」という対案を担当している。

3-3-4.椿

椿さんは根本的に群体向きの性格じゃなかったってこと。自分の生存とか生き方に執着するタイプの人、あんま群体に向いてないんじゃないかなー。そーいうのって個体としての価値であって、群体になってバラバラになったら消えちゃう部分なんだからさ

(第40話より、黒華曰く)

群体の成り損ない。黒華が指摘する通り、椿は群体向きの性格ではない。土壇場でまともさが振り切れず、群体の世界についてこられなかった。
椿はどこまでもまともな人間であり、性格は自律分散ではないし、運命共同体思想を持たないし、存在の混濁に向かうわけではない。それぞれ具体的に言えば、椿は自分の人生への執着を持ち、「私と相手」という二者を前提するまともな人間関係として白花が好きであり、白花を食うにしても存在を混ぜるのではなく白花を支配したいだけ。

しかし観察眼は非常に優れているため、白花を殺そうとする過程で「食事」が群体同士が存在を混合する手段になり得ることを発見した。

食べるっていうのは単なる傷害とは違うんでしょうね。もっと根本的な、被食者と捕食者の境界を新たに引き直す行為なんですよ。食べられた先輩の耳は私の血肉に取り込まれますから、不在の耳はもう先輩のものじゃなくて私のものです。

(第38話より、椿曰く)

椿が述べるように、相手を取り込む行為である「食事」もまた「粘体」と同様に存在を混合するものであり、群体の生成論を構成する。

3-3-5.サミー&レイス

個体の代表格その一。この二人は単一の存在感が非常に強い個体として群体と対比される。
天使と悪魔は神々しく完璧な身体を持つ一者であり、肉体が分割されることは有り得ない。サミーとレイスがいかにもバトル向けの過剰な武力を備えているのも個人としての完成度が極めて高いため。

補足264:ちなみにこの二人は人間の性を超越する天使と悪魔であるため、男性器と女性器を共に保有しているふたなり(裏設定)。それはファルスを持つ完璧な個体であることを意味する。

あたしの鎌は何でも切れるけど、ただそれだけ。どこをどう切っても死なないやつなんて殺せるわけないじゃない (第30話、サミー曰く)

サミーとレイスは個人としては最強だが、切るとか射るとかいう分割をベースとした個体のルールで戦おうとすると群体には勝てない。それに比べ、椿だけは「蚊取り線香の煙」という群体の一種を用いれば、群体である黒華に対抗できることを直観的に理解していた(煙は「主体でも個体でもない存在者」、水や砂と同じ)。

3-3-6.ジュリエット

個体の代表格その二。誰よりも我が強いナルシスト。

わたくし自身が群体になることは全くぞっとしない話です。わたくしにとっては個体としての外見を失うことが何よりも避けるべき事態であり、小さな虫の群れに変わることなど到底受け入れられませんので (第40話より、ジュリエット曰く)

サミーとレイスが肉体的な意味で個体的だったとすれば、ジュリエットは精神的にも個体を極めている。明確に群体を拒絶する人間。

補足265:ちなみに設定上はサミーとレイスよりもジュリエットの方が強い。サミーとレイスが肉体やスキルにおいては個体最強ではあるとはいえ、ジュリエットのセンスと経験はそれを上回るため。

主人公が群体であるために群体を持ち上げ過ぎたきらいがあったので、負の側面も示す役割を担っている。群体は誰にとっても便利な身体というわけではない。アイデンティティを失うリスクと裏表になっており、自己への関心が薄い人間にしか適合しない。

また、登場シーンでは主体性の欠落が完璧な行為者を招来するという逆説に言及している。

日本のサブカルチャーにおけるメイドは矛盾した存在で御座います。まずメイドは主人に仕える従者であるため、目的を自ら意志決定する主体性を持ちません。しかしそうであるが故に、迷ったりぼろを出したりすることもありません。選択しない者に失敗は有り得ないのです。すなわち、主体性の欠落こそが完璧な行為者を招来するという逆説がメイドの本質で御座います。ならば、主人を持たないメイドがいるとすれば、それは主体性を回復した完璧な行為者になりましょう。それこそがわたくしの理想とするキャラクターで御座います

(第10話より、ジュリエット曰く)

これは近代以前の神の被造物としての人間が主体性を持たないが故に実存的な課題に直面しなかったことを示している。ジュリエットによる主体性の回復宣言は神の被造物としてのステータスだけを継承しながら神の支配を自覚的に逃れて行動するという屈折した無神論に相当する。
サブカル的には、近年の作品で被造物としてのキャラクターが実存主義的なモチーフを伴う風潮を踏まえている(デトロイトやニーアオートマタ)。とりわけメイドキャラにおいてはアズールレーンのアニメでベルファストを中心にこの論点が展開しており、ジュリエットの基本的な性格や口調がベルファストを下敷きにしているのはその影響。

3-3-7.遊希

後半部でもイマイチはっきりしない立ち位置になってしまった。
11歳という年齢的にまだはっきりした主体性を確立する前の成長過程のキャラクターだし、ジュリエットの娘なのでかなり個体寄りの気質をしている。

補足266:一応、遊希だけが生物ではなく無機物である蜘蛛の巣を使役しているのには理由がある。「蜘蛛の巣」というモチーフはポスト構造主義的な精神分析のイメージを表しており、「蜘蛛の巣」が「構造」に、「蜘蛛」が「ファルス」に対応している。つまり、「蜘蛛の巣」を張るのに中心にいるはずの「蜘蛛」が一向に現れないのは、無意識的な「構造」のネットワークの中で「ファルス」が欠落しているため。

設定的にも思想的にも群体にする理由がなく、適当に考えた能力も拡張性が低いのでちょっと持て余した。富士急ハイランド戦では離脱したのはそのため。可愛いからいいか。

4.前半部と後半部の接続

前半部と後半部の基本的な関係は冒頭で見た通り。自由と平等が両立しないという前提の下で管理局とアンダーグラウンドが並置され、結局その原因の根本には近代的な主体概念があるために後半部では対案としての群体が提示された。

それを最もはっきり述べているのは第34話の黒華の演説。作中で一番の長台詞なのは、群体という主体のオルタナティブがリベラル社会のオルタナティブでもあることを明示する非常に重要な議論であるため。

私たち群体はトランプの裏面なんだよ、お姉ちゃん。インタポレーションで皆がトランプの表面になったのとは真逆なんだ。トランプの表面ってアイデンティティそのものなんだよね。そこに書いてあるスートと数字を見れば他のあらゆるカードと区別できる、っていうか、区別するためだけに記号が書き込まれてるんだからね。管理局が推進するリベラルな多元主義者と来たら、『あなたは誰ですか?』『はい、私はハートの9です!』ってな具合に、いつでもどこでも自分と他人を区別する記号を持ってるつもりでいるんだ。もちろんスートも数字も無限にあって、『私はスターの476です』とか『私はスクエアの28342です』みたいな自己紹介がいつでも街中にこだましてる。でも、私たち群体はそーいうのとは違う、何も記号が書かれてないトランプの裏面なんだ。他のカードとは区別できないし、むしろ区別できないことこそ裏面の定義だよ。あらゆるアイデンティティを消去されてて誰にも名指されないけど、だからこそ、いつでもどこにでもいて可換で無敵なんだ。例えば、トランプの束からスペードの4だけを無くしたとしようか。個性大好きクラブの連中なら、欠損したスペードの4を探し回って補充しないと気が済まないだろーね。スートと数字は唯一無二のアイデンティティであって、他のどのカードでも代替できないんだから。だけど、私たちはそんなこと気にしなくていいんだ。トランプを束ごとひっくり返して裏面にしてしまえば、無くしたカードのスートも数字もわからないからさ。そんなの何でも替えが効くから、補充するのはキングの13でもジョーカーでもブランクカードでもいいんだ。そもそも最初からカードを無くしたことにさえ気付かないかもね。私に言わせればワイルドカードのジョーカーなんてまだまだ甘いよ。ジョーカーは『誰にでもなれる』っていう立派なアイデンティティにしがみついてるんだから。ホントにワイルドカードになりたいなら、黙ってひっくり返ってしまえば、君がジョーカーかどうかなんてもう誰にもわからないのに!

(第34話より、黒華曰く)

 また、前半部での「表社会」と「アンダーグラウンド」の対比、後半部での「個体」と「群体」の対比は性質をパラレルに共有するものとして解釈することもできる。
つまり、「表社会」は「個体」と類似し、「アンダーグラウンド」と「群体」は類似している。例えば、表社会が管理局を頂点とした中央集権型の組織であるのに対して、アンダーグラウンドは超越者がいない自律分散型の組織である。表社会では縦階級や上下関係があるのに対して、アンダーグラウンドでは基本的に誰もが横並びで対等な関係。
このため、アンダーグラウンドでは協調or対立関係もコロコロ移り変わり、初登場時は敵対していたジュリエットと遊希が仲間になったり、黒華が椿を守ることを宣言したりする。パーティーとしての存在の混合と言うこともできるか。

更に、前半部と後半部を通じ、一貫して存在していた小テーマとして「食」と「美少女」の二つがある。

「食」というモチーフは前半では「コミュニティの連帯」、後半では「存在の混合」という役割担っていたことは既に書いた通り。
そして途中で白花が「食べ物を他人に食べさせてもらう」という行動を取り始めたことはこれらの中間的な意味を持っている。前半部の文脈では「食」はコミュニティの連帯を担っていたが、一対一の親密な関係でそれを行うことによって社会的な領域を縮小して個人的な領域に近付けている。また、後半部の文脈では「食」は存在の境界を崩す行為だったが、食べ物の所有権をやり取りすることで疑似的に身体を受け渡している。

「美少女」というモチーフは前半ではジュリエットを筆頭に「容姿差別」として、後半では白花と黒華を筆頭に「運命共同体関係」として提起されてきた。
これは一見すると真逆の内容だが同じことの裏表を表している。オタク文化においては容姿の美醜こそが全てを分断する唯一の基準である。美と醜という異なる領域の間にある溝は海よりも深い一方で、美という同じ領域の内部は水面よりも滑らかでどんな障害も存在していない。

5.反省

以上の思想的な流れを踏まえた反省点をいくつか書く。

・中盤のサークロ周りの話はもっと削ってよかった。
サークロが提示した「代替命について」と「インタポレーションの科学的解釈について」というトピックは主要テーマへの貢献が薄い。
一応、人たらしの白花にも受け付けない相手が存在することを描きたかったのだが、そのためにサークロというキャラクターが魅力的ではなくなったのはあまり良くない。また、メタ場の話は物理学的なイメージで捉えた環世界論の導入でもあるが、難解な割にリターンが薄い。

・代替命の話を引っ張りすぎ。
結論から言えば、代替命とはデカルトが提唱した「松果体」のこと。心身二元論の要、身体と心を結び付けるもの、心が命じるように身体を動かす器官。
「生命を軽視する心の持ち主(黒華、白花)の松果体は身体を軽視するように作用する」ということなのだが、作中では「生命の境を乗り越えるアイテム」と誤解されている。そこまで大したアイテムではなく、テーマそのものとは関連しないのに話を割きすぎた。

スイミーとジュリエットを絡ませるべきだった。
この三人はオタク文化の担い手という点が共通しているので話が合うはず。
サミーもアイドルとして容姿には一家言あるキャラクターだし、ジュリエットと議論させて掘り下げればよかった。そうすればジュリエットの差別主義とオタク趣味を明示する機会を与えられたし、登場の遅いスイミーのキャラクターを描写するシーンも作れたはず。何故それをやらなかったのか自分でもわからない。

・紫の能力をもうちょっと自然に描写すべき。
サルトルを踏まえた能力そのものが難解であるため、どうしても理解の難易度が高く、もう少し工夫して提示できればよかった。
例えば、喉を借りて喋るシーンはもう少し前の宿泊シーンとかでやっておいて、銃弾を止めるシーンとは分けるべきだった。「このキャラは人の喉を借りて話します」ということだけ最初に示しておいて後から原理を解説するという流れの方が理解しやすいはず。

・群体の話を詰め込み過ぎている。
ペース配分が悪い。白花がコンクリ詰めにされて以降、色々な事態が同時発生し、処理すべき情報量が多い。
前半部のテーマが第17話で決着している割に、白花が本格的に群体の話に参入するのが第31話。この間に14話も割かれており、群体の話をしっかり扱うべき後半部はたった11話分しかない。やはりサークロの話を削ってそこでもっと群体をフィーチャーすべきだった(無意識にワープしてしまう回を作るとか)。

・インタポレーション設定を持て余していた。
正直、インタポレーションが何だったのかは俺もわからない。ファンタジー設定を詰めることには興味がなく、どうとでも取れるような緩い設定にしたかったからだ。
第3話の時点で街には獣人が多いという描写をした割には、結局登場するのは普通の美人と美少女ばかりという不整合がある。俺はケモナーじゃないから、獣人とか変な見た目の美少女キャラクターを出すモチベーションがなかった。もうちょっと都合の良い基礎設定に書き換えた方が良いが、リベラルな人権意識の高まりが生じるためには外見が変化していることは必須条件なので、それもなかなか難しい。

・遊希は削除すべきではない。
主要登場人物の中ではイマイチ思想的に定位できないと書いてきたが、それは逆に貴重なエンタメ要員ということだと思う。多分いた方が全体としては良い効果をもたらすと思うのでこれに関しては修正する気はない。可愛いし。
俺が知らないだけで遊希の思想的な立ち位置についてもっと妥当な解釈があるのかもしれない。

6.設定資料集

思想的にはそれほど意味のないオマケ、キャラクターの細かい設定について。

・白花(ハクカ)
現23歳(インタポレーション発生時13歳)。その辺の公立小中高を経て東京外国語大学で宗教社会学を専攻した後、中小商社に事務職で入社。二週間で退職し、現在は引きこもり生活二年目。
人文社会学分野に関しては優秀だが、理系分野にはかなり疎く、数学は因数分解が限界。抽象的な事象の理解に強く演繹的な論理展開が得意な一方、現実を見る能力が低く帰納的な論理展開が苦手。部屋に籠って考え続ける作業ができる代わりにフィールドワークをしても大した成果が得られない。
ずっと引きこもってネトフリやアマプラを見ているため映画には強い。何でも見るが、映画館には行きたくないので流行からは一歩遅れる。基本的には実写作品を好み、アニメはあまり見ない。

・黒華(コクカ)
現17歳(インタポレーション発生時7歳)。白花と同じ公立小中を経て中卒でアンダーグラウンドへ。中学からあまり真面目に通っていなかった。競技プログラミングで研鑽を積んだのちアンダーグラウンドで実践経験を積み、エンジニアとしては極めて優秀。
何事も知りたいことはすぐに調べ、表面的な知識の吸収が早い。即物的な対応が得意で機転も効く。ただし、正規の教育を受けていないために物事を体系的に考えたり前提を積み上げる吟味が苦手(専門分野だけは例外)、複雑で長大な事件には弱い。
ギークでネット文化には強いが、それほど熱心に映像作品を鑑賞する習慣はない。作業中や息抜きで流し見して流行を抑える程度。DarkTubeに自分のチャンネルを持ち、バーチャルユーチューバーもやっている(ダークウェブで人気)。

・椿(ツバキ)
現22歳(インタポレーション発生時12歳)。名門女子中高一貫を出て東京外国語大学で宗教社会学を専攻した後、国家公務員試験に合格して管理局に勤める。新卒一年目なので今は現場の外回りをしているが、キャリアコースで幹部候補(だった)。
地頭が最も良く、他の誰よりも知能指数が高い(ジュリエットより上)。頭の回転が速い上にクリエイティビティもあり、実践的な現場では他の追随を許さないリーダーシップを発揮できる。その一方で、他人が考えた理論にあまり興味が無く知識量も少ないという弱点がある。アカデミズム向きではない頭の良さであり、学校の成績はそこまで良くない。
人並みに俗な映画を見る方で、流行りの作品を仕事帰りによく映画館で見る。ジョーカーとかパラサイト見てそう。

・ジュリエット
現28歳(インタポレーション発生時18歳)。ドイツに生まれて日本アニメ文化に目覚め、日本語を学んで留学してきたのち慶應大学医学部で学ぶ。研修医がタルかったので中退してアンダーグラウンドに潜る。殺し屋稼業はインタポレーションが起きる前からやっている。インタポレーション以前のアンダーグラウンドを知る、作中では数少ない人間。
普通にガチのアニメオタクで、本場英国メイドではなく萌えアニメ大好きコスプレイヤー。自分のメイドキャラを作っているしジュリエットも本名ではない。発言の節々から滲み出る差別主義とエリーティズムから明らかなように、素の性格はもっと破綻している。「容姿が醜い人間に負けること」が地雷で、それが起きると普段の落ち着きを全て失って恥も外聞もなく取り乱す。
典型的なインテリでもあり、物事の理解が早い上に広い教養を持ち読書量もズバ抜けている。豊富な知識や経験を動員して大抵の事態には上手く対処できる一方、知識が頭でっかちで学習と実践が融合するシチュエーションが苦手という弱点もある。全く未知の事態に対しては意外とテンパる。
実写作品はあまり見ないが、萌えアニメは毎期全部見てブログやDwitterに感想を書いている(ダークウェブで人気)。AKIRAとか攻殻みたいな硬派なやつも多分だいたい見てる。

・遊希(ユキ)
現11歳(インタポレーション発生時1歳)。アンダーグラウンド生まれで戸籍を持たず、小学校にも通っていない。ジュリエットが17歳の時に生んだ娘。ただしアンダーグラウンドの共同体的なところで育ったため、親子の情は皆無。一応ジュリエットのことを母親だと認識しているが、その関係に特に何の意味も見ていない(ジュリエットも遊希のことを娘だと認識しているが、その関係に特に何の意味も見ていない)。お互いに顔見知り程度にしか思っていないので、顔を合わせたところで反応がない。
学校に通っていないながらも、幸いにも知的好奇心が強く読書好きでそこらの小学生よりは圧倒的に賢い。身体能力も高いあたりはジュリエットの娘だけある。
子供なのでハリーポッターとかターミネーターみたいなわかりやすい名作が好き。

・紫(ムラサキ)
年齢は無い。見た目的に現12歳ということになっている。インタポレーションで蛞蝓の群れが人間になった存在。戸籍が無いままアンダーグラウンドの共同体的なところで育った。人間的な内面はきちんと備えており、白花や遊希を仲間と認識しているし協力的な行動を取ることもできる。
書籍やデバイスに触れるだけで主客を転倒して中身の情報を吸収できるという便利能力を持つ。それ故に知識量は豊富だが活かされる機会はあまりない。

・サミー&レイス
現20歳(インタポレーション発生時10歳)。幼馴染み。その辺の小中高出身、中学時代に軽音楽部に所属し、高校でバンド活動にのめり込む。大学には行かず高卒で本格的にアーティスト活動を始める。椿と意気投合して少し前は一緒にバンドをやっていた。椿はボーカル。
経歴と実力的には結構ちゃんとしたアーティストだが、容姿も込みで評価してほしいという思いがあるのであえてアイドルを自称している。共にふたなりでたまにセックスしている(椿を誘ったが断られたことがある)。恋人関係ではなく友人関係の延長なので、付き合っているわけではない。
Youtubeが主戦場でポピュラー音楽ファンなら誰でも知っているくらい有名。ただ、地上波テレビを嫌っているために一般的な知名度はそれほど高くない。アーティストとしてはかなり真面目で勤勉、音楽関係の知識には歴史・文化・技術等を含めて非常に詳しい。流行の最先端をキャッチするためにリサーチも欠かさない。
現在は足を洗っているが、かつて治安の悪いライブハウスを守るために血生臭い用心棒をやっていたことがある。その経験でアンダーグラウンドにも多少の知識やコネクションがあり、戦闘慣れしていたのもそのため。

7.参考文献リスト

思想的に関連するもののみを挙げる。カフカ『変身』のような、単なるモチーフの引用元や元ネタは省いた。

7-1.非常に重要なもの

1.『ニック・ランドと新反動主義 現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』

前半部の議論はほとんど全てこの書籍に由来している。
特にリベラル民主主義への反発と反動的な思想の形成、世界が表社会とアンダーグラウンドに二分されているという構図そのものがここからの引用。キャラクターに関してもジュリエットの差別主義や黒華のリバタリアン気質など、着想を得た要素は数えきれない。
一般的な評価もめちゃめちゃ高いので読んだ方がいい。ハードな学術書じゃなくて新書だから安いしコンパクト。

2.『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』

後半部の議論のうち、「群体としての主体」の定義を第二部「主体性と隷従」から得た。
ただ、この書籍においては、群体的な主体の在り方は資本主義へのカウンターというよりはむしろ資本主義の前段階として与えられている(脱領土化)。ここに改めて主体を統合していくイデオロギー(再領土化)が作用することで近代資本主義的な主体が完成する。脱領土化だけを推し進める思想はいわゆる加速主義と呼ばれるものだ。
よって、『すめうじ』も加速主義的な内容として解釈してもよいのだが、リベラル社会へのカウンターという立ち位置を明確にしたかったので、脱領土化・再領土化の過程は一旦脇に置いて、近代資本主義的な主体に対抗するものとして描いた。
『アンチ・オイディプス』よりこちらを上に置いているのは、『アンチ・オイディプス』は難解すぎてよくわからず、適度に噛み砕いたこちらの方が利用しやすかったから。

7-2.まあまあ重要なもの

3.『ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち』
ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち
 

『ニック・ランドと新反動主義』と同じ作者の書籍であり、思想的な立ち位置はほとんど同じ。向こうが理論的だとすればこちらの方がルポルタージュ的で、ダークウェブ上での反動思想の活動について具体的に描写している。
『すめうじ』ではそもそも「アンダーグラウンド」というワード自体がこの書籍からの引用。ダークウェブ上にインコレクトなコミュニティが形成され、アンダーグラウンドに生息するキャラクターたちがDarkTubeだのDwitterだのにアクセスしている構図もここから得ている。

4.『存在と無 (第三分冊)』

粘体論はここからの引用。
この書籍を読んでいて着想を得たわけではなく、人文書院の『実存主義とは何か』と読んでいるときに訳者注からサルトルの粘体論を知り、『存在と無』に遡って確認した。

5.『統合失調症
統合失調症  (岩波新書)

統合失調症 (岩波新書)

 

精神病の説明仮説である「異常セイリエンス仮説」について。紫の分裂病的な能力、「蛞蝓の雨」はここに由来する。

6.『オートポイエーシス論入門』
オートポイエーシス論入門

オートポイエーシス論入門

  • 作者:山下 和也
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本
 

個体と群体の差異に関する生命システム的な議論はここに由来している。
古典的な見方では生命は階層構成を含むホメオスタシスである一方、オートポイエーシス的な見方では生命はもっと自由度の高い流転する性質を持つ。群体はオートポイエーシスそのものであるわけではないが、個体的な人体のイメージに対抗して群体的な人体のイメージを掴むのに非常に役立った。
なお、「ホメオスタシス」は学術用語だが、『すめうじ』内で黒華が発する「トランジスタシス」はエヴァ第15話の造語。ホメオスタシスと対になる学術用語だと思っていると恥をかくので注意。

7.『アンチ・オイディプス

『ニック・ランドと新反動主義』や『アンチ・オイディプスの使用マニュアル』はここに依拠しており、元ネタの元ネタのようなポジション。本来であればこれを筆頭参考文献にすべきなのだが、『アンチ・オイディプス』そのものは難解すぎて俺はほとんど理解できず、解説書や要約を経て参考にしているので、結果的にこの書籍自体はそれほど参考にしていない。
器官なき身体」や「機械」というワードから色々と着想を得たことは既に述べた通り。しかし、ドゥルーズ+ガタリがどういう意味でそれらを書いていたのかはイマイチよくわからない。

8.『生物から見た世界』
生物から見た世界 (岩波文庫)

生物から見た世界 (岩波文庫)

 

「環世界」の定義と性質は全てここからの引用。
ただ、この書籍で示されている環世界とは蚤一匹や犬一匹のシンプルな世界のことで、生物の群れをまとめ上げる総意である「群体としての環世界」というアイデアまでにはかなり飛躍がある。

9.『コウモリであるとはどのようなことか』
コウモリであるとはどのようなことか

コウモリであるとはどのようなことか

 

タイトル通り、人間以外の生物であるとはどのようなことであるかを論じた本。人間以外から見た世界を環世界として論じている『生物から見た世界』とも関連が深い。
ただし、『生物から見た世界』が生物学的な議論であるのに対して、『コウモリであるとはどのようなことか』は哲学的な議論。内容は全く異なり、「そもそも他人であることなど可能なのか」という他我問題と接続する。
ちなみにタイトルの「コウモリ」には人間以外の生物の一例という以上の意味はなく、犬でも火星人でも何でもいい。『すめうじ』で吸血鬼の椿がコウモリになったのは偶然の一致。

10.『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』
逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

  • 作者:浅田 彰
  • 発売日: 1986/12/01
  • メディア: 文庫
 

椿が第38話で口走った「パラノ」「スキゾ」という人格類型の引用元。
『アンチ・オイディプス』で論じられた分裂病的な生き方をもっと噛み砕いてエッセイ調にした書籍であり、白花の性格も「スキゾ」をかなり踏まえている。

7-3.そこまで重要でないもの

11.『糖尿病とウジ虫治療-マゴットセラピーとは何か』
糖尿病とウジ虫治療――マゴットセラピーとは何か (岩波科学ライブラリー)

糖尿病とウジ虫治療――マゴットセラピーとは何か (岩波科学ライブラリー)

  • 作者:岡田 匡
  • 発売日: 2013/10/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

マゴットセラピーについて。
医学書ではなく一般書であり、医師である作者がマゴットセラピーを知って活用するようになるまでの過程がエッセイ調に描かれている。原理、発展、蛆の生態などが一通り含まれており、平易でサラッと読める。写真が一枚もないので蛆のグロ画像を見なくて済むのもポイントで、マゴットセラピーをもっと知りたい人にオススメの一冊。

12.『マゴットセラピー ウジを使った創傷治療』

こちらもマゴットセラピーについて。
ただし、これは医療従事者向けのハンドブックであり、患部を這う蛆のグロテスクな写真が無限に含まれている。実際のところ蛆はそこまでグロくないのだが、マゴットセラピーを用いる傷は基本的に切断や死亡が迫った致命傷であるため、完全に崩壊した患部がグロい。
ちなみに、マゴットセラピーを専門に扱う書籍のうち、日本語で読めるものは僅かこの二冊しかない。

13.『金枝篇
図説 金枝篇

図説 金枝篇

 

第21話で白花が言及した呪術論の引用元。
宗教学の基本文献の一つであり、椿の卒論が「呪術論を用いた現代SNS分析」だったため、その面倒を見てあげた白花は呪術論について少し詳しかったという背景がある。

14.『四方対象: オブジェクト指向存在論入門』
四方対象: オブジェクト指向存在論入門

四方対象: オブジェクト指向存在論入門

 

第19話で白花が言及している。

「そう。わたしもあなたも同じ、人も物も同じ」
「おおお」

この感嘆の声が「おおお=OOO=Object Oriented Ontology=オブジェクト指向存在論」というギャグになっている。
簡単に言えば、オブジェクト指向存在論とは人と物の関係は物と物の関係に等しいと主張する学説であり、相手が人なのか物なのかを気にせずに関係を結ぶ紫のスタンスとの親和性が高い。
とはいえ、思想的に深く関連するわけではなく、あくまでもギャグで使ったに過ぎない。

8.『すめうじ』批評会のまとめ

2020年3月8日に新宿で『すめうじ』の批評会を行いました。

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自分で自分の小説を批評するという意味不明な企画に10人も集まってくれ、多くの質問や批評を頂きました。批評レジュメは本当に宝物です。

アンケートを取った結果、キャラクター人気は以下の通り。

・人気1位:椿
「負けヒロインが好き」「一番人間っぽい、主人公っぽい」

・人気2位:ジュリエット
独我論者すばらしい」「差別主義者」

・人気2位(同率):白花
「引きこもり」「他者感がやや近い」

逆に一番人気が無かったのが黒華で、誰も好きなキャラに挙げなかった上にむしろ嫌いなキャラに挙げた人が多かったです。メインヒロインはだいたい不人気ってやつ?

会合で出た話のうち、参加者の批評、様々な質問とその答えについてまとめます。

8-1.参加者の批評

以下、引用形式で書かれた文章は参加者レジュメからの引用。

8-1-1.世界の二極化描写への違和感と背景に感じるエリーティズム

「すめうじ」最大の欠点は、主に第 2 章で示された世界設定、つまり非アンダーグラウンドの描写全般だと思う。「すめうじ」世界ではポリコレワールドとアンダーグラウンドの二元論が成立しているが、現実には連続的だ。寓話として設定するのは有効かもしれないが、それにしては描写が現実世界をベースとしており、強烈な違和感を受ける。

翼や牙が生えたら、素朴な感性として危ないと感じるだろう。拳銃すら効かないのは少数派だとしても、空を飛んだり車並みの速度で移動したりするのは日常茶飯事の世界。暴力は人間の最も根幹の部分であって、否定するのは難しい。

穿ちすぎかもしれないが、この設定の背後にはエリート意識があるように感じる。東浩紀の最近の発言にあったように、「大衆」は使う言葉が違うだけで、何も考えていない訳ではない。「大衆」を一つのイデオロギーで単一集団と見做し管理できているというような設定は、エリーティズムの発露ではないか。

これに対して反論はしないしできない。言っていることは概ね認める。
『すめうじ』はリアリズム小説ではなく萌えラノベなので、戯画化と単純化の結果として、設定のリアリティに違和感が生じるのはやむを得ない。ただ、世界観がこの手の歪み方をしようとも、基本的な世界が現実世界と同じという設定を放棄するつもりはない。

補足267:一応俺は作品と作者は関係がないという立場を取るので「(作者の)エリーティズムの発露」というよりは「(作品の)エリーティズムの前提」と言った方が妥当だが、それは大した問題ではない。

また、リベラルな価値観を世界規模で考えると整合が取れないという批判も受けた。

インタポレーションは日本だけなのか世界的なのか。
日本だけ→日本人が差別の対象になり成立しない。
世界的→リベラルの価値観なんてものは贅沢品。日本のいち管理局が情報統制できるレベルになるはずがない。

設定上はインタポレーションは世界規模で起きている。一応、日本の管理局が世界の情報統制をしているのではなく、むしろ逆で、世界規模で国際的なガイドラインが制定されたあとに日本はそれに従った政策を展開しているという設定はある(第20話でジュリエットが言及)。現実的にそれで世界が上手く回るのかと言われると、それもやはり萌えラノベの限界で、そこまでリアルなことは正直考えていない。

8-1-2.個体者と群体者のすれ違いについて

この作品で初めに提示される対比構造は「ロット―ブラウ」だ(「あえて馴染みの薄い外国語を使うことで無用なコノテーションを避けられる」(3)とされているが、この配色は日米の二大政党を連想させる)。「インタポレーション」によって多様性が増幅し、その衝撃により実現したリベラル・ユートピアを舞台に物語が展開していくことが予感される。この社会の成立を支えている論理には示唆的なものがある。

表面的には、私たちの外見の違い(すなわち、美醜(←だからジュリエットは「個体」側の差別主義者である)・人種・民族・性別・セクシャリティ等々)はたかだか包摂可能な多様性であることが明白になったということだが、その裏には「人間」であることが保たれていない者は(「ロット―ブラウ」を問わず(8))「アンダーグラウンド」へと排除されていくというシステムがあり、この社会にヒューマニズムが通底していることがうかがえる。

そこから、物語の関心は「アンダーグラウンド」へと移り、核心となる対比は「表の世界―「アンダーグラウンド」」へと移る。しかし、この対比は設定を構成するのみであり、現実社会の通念以上のものではない。この作品が描写する他者は、たんなるアウトローではない。伏線は散りばめられていた。「「現在、アンダーグラウンドで探求されているのはブラウの新たな生命の可能性なのです。例えば個体としての生命を逃れて……」」(14)、「「やはり姉妹ですね。以前、黒華様ともこうしてお話しする機会がありましたが、そのときも……」」(17)、「「そう。触った粘体も影と同じ、いつでもあなたと一緒に動く。だから粘体は、わたしとあなた、能動と受動、主体と客体、図と地の区別をしない」」(19)など、つまるところ「群体」であり、自他の不分別である。「群体」としての白花と黒華は共鳴し(26)(あと紫が群体側)、「個体」としてのジュリエット(17)やサミー(29)はその群体性に嫌悪感を顕にする。

椿による襲撃(28)以降、椿と白花の根底的なすれちがいが明らかになっていく。椿もまた蝙蝠の群体へと化した(38)のだが、それは黒華の代替命によるものだった。椿は、本質的には個体性に固執するパラノイアである。それが、少し軽やかに生きようとしているにすぎない。だから結局のところ「群体」になりきれないし、「食べる」という非対称の関係を結ぶことしかできない(39)し、白花の友達感覚が理解できない(33・39)。それに対して、白花はたやすく心中する(39)し、最終的に黒華と混合する(41)(筆者は「セックス」だと言っているが(小ネタ33)、ふつう、セックスは自他の分別を前提としているので、これはふつうのセックスではない)。

私は個体であるし、大胆に一般化すれば、私たちはみな個体である。フランス現代思想の担い手たちもそうだ。まず個体であり、個体に執着しているという事実があって、程度の違いこそあれども、そこから自由になったりならなかったりしている。それは厳密にいえば白花もそうである(完全に蛆虫であったならば私たちに読める言語へと翻訳できない)。が、それを指摘するのは不毛である。そういう他者としての「群体」の主観を描ききったところに価値があると思う。

読者は椿のように、白花に憧憬を寄せつつも逃げられてしまう。そういう残酷な作品。

これめちゃめちゃ精密な読みというか、俺と全く同じ読みをしており、全て完全に同意するので逆にコメントできるところがない。参加者が批評をしてから俺が批評するという順序だったので、俺が何か言う前にここまで見解が一致する批評が出てくるというのはちゃんと思想的な内容が伝わっていたんだなと思ってかなり感動した。

最後の一文がすごく良い。読者は当然個体だから、群体という異常者である白花ではなく、個体という凡人の椿にしか感情移入出来ない(だから一番人気ヒロインだったのか?)。白花が灰火となって読者の前から消滅してしまうのは、椿が最後まで白花を捕まえられなかったこととパラレルに理解できる。その読みには俺は気付かなかったので感心した。

8-1-3.人間関係モデルとして「未来にキスを」との比較

「すめうじ」では、二つの群体が同一化するという新たな人間関係が提示される。
これは原理上完全に対等な理想的関係でありそうだが、悲しいかな現実の人間は群体ではない。とはいえ「群体-同一化」モデルに相似な人間関係を想像することは無駄ではないだろう。

まずは(現実の)人間個体が群体に近いといえるのはどのような状態であるかについて考えよう。群体とはどのような性質を持つのだろうか。黒華による性格についての言及を参照してみよう。

これは私の考えだけど、たぶん性格の問題だと思うよ。椿さんは根本的に群体向きの性格じゃなかったってこと。自分の生存とか生き方に執着するタイプの人、あんま群体に向いてないんじゃないかなー。

これから、「群体としての生とは、自己の存在や生き方に執着しない」ことが言える。
また、作中で現れた群体者である紫、黒華、白花は、いずれも自分と他者の何かが対称であることに対するこだわりを持つか、対称にするような能力を持っていた。
よって、群体のような個体の資質とは、「自分の存在や生き方に執着せず、自分と他者が何らかの形式において対等であることにこだわりを持つ」ことであると言えそうだ。

次に、同一化とはどういうことであろうか。
同一化とは、自分と相手を同じように扱うということである。それは通常の仕方で相手を尊重するということと何が違うのだろうか。私が思うに、そこにあるのは通常に相手を尊重するという場合、相手の自分に対する感情をコントロールするために行動することがあるのに対して、同一化群体としての相手に対しては、相手から自分に向く感情をコントロールするためのパフォーマンスとして行動することはないという違いである。

相手から自分に向く感情が思い通りにならないことが人間関係の不和の主たる原因である。その点で「群体-同一化」モデルは安定した人間関係のモデルとして良いものといえよう。

「群体-同一化」は相手をコントロールしない新たな人間関係のモデルとして優れていそうだ。しかし、群体の条件である「自己の存在や生き方に執着しない」を満たす人ばかりではない。そのような人々はどうしたらよいだろうか。

「すめうじ」と同様に、新たな人間関係のあり方を示した作品に「未来にキスを」がある。「未来にキスを」は2001年に発売されたノベルゲームで、エロゲプレイヤーとしての生を肯定したものと評されている。そこで提示された人間関係とはどのようなものか。まず下記のセリフを見てほしい。

「ボクは、お兄ちゃんが好きだ。
そのお兄ちゃんは、お兄ちゃんのお兄ちゃんじゃなくて。
僕の中にある僕だけのお兄ちゃんだ。
そのお兄ちゃんがいれば、ボクは幸せだ。
お兄ちゃんの中のボクも、ボクの中のボクとは違うけれど。
お兄ちゃんはお兄ちゃんの中のボクだけ見てくれればそれでいい。
ボクとお兄ちゃんは、もうお互いを見なくてもいい。
ただ、自分の中だけを見ていればいい。」

要するに他者を認識する際、自己の中にある他者像ではなく自己の理想化した他者像を見る、ということである。このような方法で他者を認識するのが「新しい人」であり、その先には圧倒的楽園が待っている、という。それはなぜか。

今までの"人"は「相手を見よう」としていた。だからこそ絶対に相手に手が届くことは無かった。しかし、"新しい人"は自分の中の相手だけを見れば良い。だから他人を手に入れることが出来る。

相手のことを真に理解することは原理上不可能であり、そのため他者理解には不安定なものとなり、ときに不和やすれ違いが起きることがある。そこで現実に何が起ころうとも自分が理想化した相手の像だけを見続ければ、不和が起きることはない。ここに圧倒的楽園がある。
これは単にノベルゲームを楽しむプレイヤーへの肯定であると受けとられていることが多いが、実は現実にも十分適応可能である。
現実の相手が何を言おうとも自らの中に作った相手のモデル内で解釈する。厳密にいえばそもそも我々が現実を観測する際は常にそのような仕方でしか解釈できない。「新しい人」は加えて、相手の像がモデルでしかないことを自覚し、モデルの現実に対する精度を放棄して、かわりに自分の理想をベースとしたモデルの構築を重視する

「すめうじ」で提示される「群体-同一化」モデルと「未来にキスを」で提示される「新しい人-圧倒的楽園」モデル。これらは一見大きく異なっているが、現実の相手から自分への感情をコントロールすることを放棄するという点では共通している。

超越的なものの存在が信じられないいま、目の前の人間とわかりあうことは不可能である。そこで相手とどのように付き合っていけばよいのかという問題は大きい。
「すめうじ」の「群体-同一化」モデルは作中では完全に分かり合っているのだが、その関係のあり方は分かり合えない人々の関係構築のあり方を提示してくれた。

他者との関係のなかに悩んだとき、自分と相手が同一の群体であるとすればどのような意思決定がなされるか、そのような想像をしてみるのが助けになることもあるのではないだろうか。

エロゲーマーらしく、ヒロインとの人間関係について俺が運命共同体思想と表現したものを深く掘り下げている。

こちらも全面的に俺と同じ読みで、既に述べたように、群体者が関係の対等さにこだわるのは群体は存在を混合して同じ主体を構成する一つの群れになれるため。通常の人間関係が二者間コミュニケーションであるのに対して、群体者の関係は一者内コミュニケーションという形式を取る。

未来にキスを」を例として挙げられている「新しい人-圧倒的楽園」モデルはカントが解決した啓蒙のパラドックスを想起させる。
カントは経験の条件を問う超越論哲学によって、他者を他者として認識するのではなく、自らの理性の枠組みの中へと他者の鏡像を取り込むプログラムを完成させた。このロジックによって西洋列強は植民地から本来の意味での他者性を抜き取り、自らに同化させる啓蒙を行うことに成功した。
このようなカント解釈は一般的には他者性を殺して抑圧するものとして批判されるが、それは社会的な枠組みで二者関係の外部から見た場合に限られる。個人的な二者関係としてその内部にある一人からこの構図を見る場合は、むしろ他者を理想化して最大の一体感を得る理想的な人間関係であるという逆転が起こってくる。徹底的に主観的な恋愛対象との人間関係というエロゲー的な次元に来て、「他者の殺害」という批判を受けるカント的啓蒙のプログラムと、「他者との融合」である群体化が奇妙な性質の一致を見る。
更に、他者を抑圧する啓蒙のプログラムを批判するものとしてフェミニズムのようなリベラルを下支えする思想を見るならば、リベラルへの反動的な思想として出現した群体思想がまたカント的な地点に戻っていくというのは面白い。トランプを二回裏返すと元の面に戻る、再反転の構図が読み込める。

8-1-4.主体性と人称の問題について

レジュメは無いのだが、『すめうじ』はキャラクター小説である以上、結局主体性を捨てきれていないのではないか、誰かのキャラクターの主観的な視点が常に存在しているのではないかという批判が複数の参加者から上がった。
俺としては、『すめうじ』内では主体性そのものは比較的強固に保持されるものと想定している。主体性を喪失する事態とは石や砂のような無機物に近付くことだが、そういった現象は特に起きていない。個体か群体か、それが誰のものかという主体性の形式と内容が問題なのであって、キャラクターに紐づけされた主体性自体は常に存在しているつもりだ。

また、主体性と人称の結びつきに関する指摘を受けた。『すめうじ』は一人称と三人称が適当に混在する形式で書かれているのだが、個体が一人称的、群体が三人称的という対応関係が見いだせる。個体が明らかに唯一の視点を持つ一方、群れ全体に拡散した主体性を持つ群体の視点はどこにあるのか定まりにくいからだ。
実際のところ、俺は小説の書き方をよく知らないので一人称と三人称はかなり適当に使っていて全く意識していなかったが、そういう見方をすれば得られるものもあるかもしれない。

8-2.FAQ

Q1.結局ブラウとロットの比率は?
→半々くらい。正確な数値は誰もわからないが、少なくともそのくらいだと皆が思っている。

Q2.異種族レビュアーズみたいな性風俗産業はある?
→表社会には無いがアンダーグラウンドにはある。表社会に異種族風俗が無いのは、表社会ではブラウとしての個性を活かした職業は制限されているため(ヴァルタルが活躍を隠蔽していたのと同じ)。ちなみに、個性を活かした就業には管理局の認可を受ける必要があり、雇用形態はフリーランスとしての業務委託のみ可能、永続的な労働契約は不可。表向きは個性の搾取を避けるためだが、本当は扱いきれないダイバーシティを抑圧するため。

Q3.第27話でジュリエットと黒華が話してた「ともだち」「イマジンズ」「獏」とかの話って何だったの?
→本編では説明しない固有名詞を散りばめると作品世界の広がりが感じられてオシャレかなと思って書いた。一応の設定はあるが、一言も説明してない。

Q4.主人公を蛆にした理由は?
→一番グロテスクな群体だから。思想的には虻でも鼠でも群体なら何でも良かったのだが、可愛い美少女に気持ち悪いものを組み合わせるギャップ萌えをやりたかった。

Q5.群体の傷の概念がよくわからない、群体に傷が付くのは何故?
→第35話で黒華が説明しているが、個体性と群体性はデジタルにはっきり分けられるものではなく、その中間形態を取るアナログ値。よって、黒華も個体的な要素を含んでいるし、傷が付いて出血することもある。

Q6.黒華のまわりくどさ、最初から心臓交換持ちかけたらダメ?
→ダメ。白花が群体になるためには、本気で殺す気の人たちに襲われて生死の境を彷徨う必要があった。

Q7.ブラウあんまり関係なくない?
→後半はあんま関係なくなっていった感じはあるが、基本設定としてファンタジックな理由付けを一手に引き受ける設定は必要だし、前半部との接続は説明した通り。

Q8.食うときに蛆が湧く理由とかある?
→あまり深い理由はない。蛆は食べ物に湧くというだけ。

Q9.地の文の口語的な部分は狙ってやってるのか?
ラノベっぽい文章を書きたいとは思っていたが、文体とかはよくわからないしあんまり意識してない。

Q10.灰火ってどう読むの?
→「ハイカ」。これに限らず人名の読み方がわかりにくいという指摘が多く、振り仮名を付けるべきだったと反省している。白花は「ハクカ」だが「シロハナ」と読んでいる人もいた。特に紫を皆「ユカリ」と読んでいたが、正しくは「ムラサキ」。

Q11.第36話でサークロは徹夜で何してた?
→画像分析。第40話でサークロのおかげで椿の蝙蝠が心臓を持っているのがわかったということを黒華がチラッと言ってる。

Q12.黒華がジュリエットとの取引に一日置かないと応じられない用事って何だったの?
→教会の改装。黒華はジュリエットに拠点を紹介したかったので、ジュリエットと会うまでに教会で葬式を開ける状態までリノベを完了しておく必要があった。

Q13.第33話で蛆に視覚器官は無いのに蛆が見ているっていうのは矛盾してない?
→白花の環世界を切り替える能力には、蛆の身体を人体の器官として再解釈する能力が含まれている。群体としては蛆であるものを、個体としては眼球として使えるということ。第39話で腹から喋っていたのと同じ。「蛆が見ている」というのは混乱を招く書き方で良くなかったかもしれない。

Q14.蜘蛛の巣ってスカスカだし銃弾くらい抜けるんじゃないか?
→確かに。ひょっとしたら遊希の蜘蛛の巣は概念的なもので、隙間を通ろうとするものもキッチリ止めるのかもしれない。わからないけど。

Q15.黒華は何故両親を殺したのか?
→深い理由はない。白花も黒華も他人にあまり興味が無い性格なので両親のことも何とも思っておらず、何かの弾みで殺すこともある。

Q16.白花が両親に対してはドライなのに黒華に対してはウェットなのは何故?
→白花は誰に対してもドライ。それをはっきり表明しないで流されるので、相手がウェットなときは白花もウェットに見えるだけ。

Q17.白花がジュリエットや黒華に襲われているときに逃げようとしないのは何故?
→人生の解像度が低く、自分の命への関心が低いから。

Q18.最初に強すぎる虫食シーンで読者をフィルタリングしてるのは何故?
→尖ってない素人小説なんて誰も読まないので、最初に最大限尖って刺さったやつだけ捕まえる方が戦略として良いから。

Q19.群体の設定ってマトリックスのオマージュ?
→そういうわけではないが、マトリックスの兵隊とコピーのイメージは確かに群体として適切。実際、第18話でマトリックスに言及している。

Q20.能力の拡張を気付きによって拡張できるのってジョジョから?
→能力バトルってジョジョじゃなくてもだいたいそういうもんじゃない?

Q21.紫の「蛞蝓の雨」ってスタンド「ヘビー・ウェザー」?
→全然意識してなかったけど、確かに似てる。

Q22.環世界の表現って『2001年宇宙の旅』?
→全然意識してなかったけど、確かにスターゲートにちょっと似てる。

Q23.ジュスティーヌって何だったの?
→思想的にはあまり深い絡みのない、世界観を広げるためのキャラ。姉がジュリエットを名乗っていると知ってジュスティーヌを名乗る妹は結構可愛いと思う(マルキ・ド・サド悪徳の栄え』を参照)。

その他、聞きたいことがあればTwitterでもコメントでもお題箱でも何でも聞いてくれれば答えます。