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20/3/23 100日後に死ぬワニはなぜ失敗したのか

・100日後に死ぬワニはなぜ失敗したのか

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令和で最も成功した怪物コンテンツ『100日後に死ぬワニ』(『100ワニ』)。
一昨々日、遂に待望の100日目を迎え、ワニくんはタイトル通りに無事死亡した。数ヶ月に渡ってワニくんを見守っていた人々による様々な感想がTwitterを駆け巡り、全体としてコンテンツの完結そのものに対しては好意的な声がタイムラインを満たした。一人でこの漫画を描き上げた作者への称賛、無事に100日連続更新を終えたことへの祝福、無料でこれだけのコンテンツを体験させてもらった感謝。

しかしその一方、明らかにネガティブな反応を多く招いているのがワニくんの死亡を受けての商品展開だ。
ワニくんが死んだ瞬間(一部は死ぬ前から)、映画化、音楽化、グッズ化、書籍化といった様々な媒体でのメディアミックス的な展開が同時発生した。要するに『100ワニ』をキャラクターIPとしてこれからビジネスをバンバンやっていきますよということが宣言されたのだ。
これに対して様々な違和感を持つ人も多く、電通叩きやステマ扱いのような明確な攻撃を伴う批難も発生した。結果として、現時点で『100ワニ』は後味の悪い賛否両論の状態を作り出している。

それを受け、この記事では「商業展開はなぜ失敗だったのか」について書いていきたい。
もう少し具体的に言えば、「死と日常と資本主義」という三つ組の観点から、「メディアミックス的な商業展開は『100ワニ』というコンテンツの本質を否定するものだった」ということを明らかにする。

話を始める前に、まずは様々な誤解をここで全て潰しておきたい。
いま俺は「金儲けだったことを後出しにするのが許せない」とか、「純粋なクリエイティビティは無償であるべき」とか、「一個人の創作かと思ったら大企業がバックにいて幻滅した」とか、その手の話をするつもりはない。そういう考え方の人もいるかもしれないがそれは問題にしない。
実際、「『100ワニ』というコンテンツが好きであること」と「『100ワニ』の突然の商業展開に違和感を持つこと」は矛盾なく成り立つし、俺自身もそうだ。大きくなったコンテンツに必ず現れるアンチがなりふり構わず攻撃しているという状況でもない。

俺は商業展開に対して感じる違和感は『100ワニ』というコンテンツの本質に関わる問題だと思っており、誰が見ても明らかな「死」というテーマからそれを語りたい。
この記事で扱いたい「『100ワニ』の商業展開に違和感を持っている層」をなるべく正確に記述すれば、それは「『100ワニ』が好きだし、それを作った作者には正当な対価を受け取ってほしいと思っているのに、商業展開は『100ワニ』というコンテンツの大切な何かを破壊しているような気がして受け入れられない」という人たちである。

・「死」が豊潤な日常を回復するという謎

まずは『100ワニ』の最もポピュラーな感想から出発しよう。
「自分も100日後には死ぬかもしれないから一生懸命生きたいです」「死を意識して何でもない日常の大切さを再確認しました」というタイプの感想は『100ワニ』のどの回にも必ず付いている。
彼らが言っていることはただちに理解できるし、実際、「日常の大切さを再確認できる」という効果が『100ワニ』がこれだけ流行った理由の一つと言ってしまっても大きく反論されることはないだろう。以後、この感想を土台にして、『100ワニ』に共感する消費者ベースで「死」の意義について考えていきたい。

しかし一旦立ち止まってよくよく考えてみれば、「どうして死を意識すると日常が輝くのか」はただちに自明な答えが出る問いではない。
それどころか、死は一般的にはその本人にとって避けるべき事態のはずで、それがポジティブな効果を持つのは不可解とさえ言える。常識的に考えれば「好きなアーティストのコンサートに行く」とか「好きな漫画が発売する」とかいう予定の方が日常を輝かせる気がするのだが、なぜ恐怖の対象であるはずの「死」がそれらと同じような効果をもたらすのか。そもそも、別に何もなくても毎日を大切にすればいいと思うのだが、何故わざわざ死を意識しなければそれができないのか。言い換えると、どうして死を意識するまで漫然とした退屈な日常を過ごしているのか。

実際、似たようなシチュエーションをいくつか考えてみても、「死に至る人生」以外では同じ現象はなかなか起こらない。
例えば、「腐る鶏肉」はどうだろう。いつもは鶏肉が腐ることを意識せずに漫然と食べていた人が、ある日たまたま腐った鶏肉を見て、「鶏肉は腐るんだな」と意識したとする。それを知った瞬間、「鶏肉は腐る前に食べるからこそ美味しく感じる」などということが起こるだろうか。起こらない。むしろ腐った鶏肉のイメージのせいで少しマズくなるような気がする。
もう少し人生に近いものを考えると、「終わるオンラインゲーム」はどうだろう。普段プレイしているオンラインゲームで100日後のサービス終了が告知されたとしよう。その瞬間、サービス終了までの日数が突如輝いて見え始め、普段よりも力を入れて取り組むようになるということが起こるだろうか。確かにそういう人も一定数いそうだ。「終わったらもう遊べないから今のうちに堪能し尽くそう」という考え方は理解できる。とはいえ、逆に「じゃあもうやらなくていいや」とログインしなくなる人も少なくないだろう。「どうせ終わるゲームはもう遊ばない」という行動は全く不自然ではない。しかし、これを『100ワニ』に当てはめて考えてみると、「どうせ死ぬワニだからもうどうでもいい」という感想を抱く人は一部の捻くれ者だけだ(もしそういう人が大多数なら、『100ワニ』はコンテンツとして成立しなかった)。
やはり、「腐る鶏肉」や「終わるオンラインゲーム」とは異なり、「死に至る人生」でだけ「終わりを意識することで残りの時間が輝く」というよくわからない現象がそこそこ一般に発生するのである。

この議論を踏まえ、まずは「『100ワニ』がなぜ成功したのか」を考えるために以下の二つの疑問を解明しておきたい。

1.何故死のない日常は退屈なのか?
2.何故死のある日常は豊潤なのか?

・資本主義と死の対立構造

結論から言えば、「1.何故死のない日常は退屈なのか?」という疑問の答えは、「それが資本主義システムの効果だから」である。
いきなり出てきた「資本主義」と「日常の退屈さ」に何の関係があるのかと思う人が多いだろうから、二つの具体例ベースで説明していこう。二つを読み終わる頃には、「資本主義システムが日常を退屈にする効果を持つ一方、死が日常の豊潤さを回復する処方箋である」というロジックについて実感を伴って理解してもらえるはずだ。そして遠回りではあるが、それが最終的に商業展開が破綻した理由を考える上でクリティカルになる。

1.資本主義によって人生の目標が擦り切れることについて

あなたの人生の目標、夢はなんだろうか。「マイカーを手に入れる」かもしれないし、「会社を辞めて田舎で暮らす」かもしれないし、「大学で学び直す」かもしれない。どれもが生きていく上で大切な原動力であり、それを初めて得たときには掛けがえのないものとして人生を豊潤にしてくれたはずだ。
目標を立てたら、次に考えるのはそれを叶える手段だ。トヨタカーが欲しいならすべきことは何だろうか。新車を購入するための一千万円を稼ぐことだ。会社を辞めて田舎で暮らしたいならすべきことは何だろうか。田舎に家を買って悠々自適に生活するための一億円を稼ぐことだ。大学で学び直したいならすべきことは何だろうか。大学の学費と当面生活するための五百万円を稼ぐことだ。
もう明らかなように、資本主義社会においては、ほとんど全ての人生の目標が「〇〇円を稼ぐ」という目標に置き換え可能である。あらゆる価値が貨幣の多寡に還元される世界では夢さえもそれを免れない。

それが明らかになってくるのは、一つの目標を達成するまでというよりは、むしろ複数の目標を達成したあとだ。一般的に言って人生には常に目標が必要であり、一つの目標を達成したあとは次の目標を立てることになる。トヨタを買ったら次はフェラーリフェラーリを買ったら次はランボルギーニ。そのためには稼いで稼いで……あれ、次の目標って何だっけ?
車を五台も買う頃にはもう気付いているはずだ。最初は人生を豊かにしていた夢の内容が、いつの間にか「〇〇円を稼ぐ」という無味乾燥な数値ノルマにすり替わっていることに。金さえあれば何でもできることは何をするにも金がいることと裏表なのだ。
どんな夢も「金を稼ぐ」と同義であり、それを延々と繰り返しているだけだけなのだから、夢の内容はもはや重要ではない。有意義な夢を持った瞬間にそれは資本主義における貨幣システムに巻き込まれて数値に変わり、次々に更新される中で実体が摩耗していく。人生の目標が摩耗することで、そこに至る過程、すなわち日常も退屈なものに変わっていく。

しかし、資本主義社会でも数字に変わらずにいられる夢も無いわけではない。数字にならないとはつまり換金できないということだ。誰も値段を付けないもの、徹底して無価値なもの、純粋な害悪でしかないもの。
その究極形が「死」であることは言うまでもない。死には値段が付かないし、仮に付いたとしても絶対に売れない(売り主が死んでるから!)。
つまり、資本主義による数値化の呪いを受けない究極の聖域が死なのだ。死だけは価格に変換されない。あらゆる有意義さが換金されて消耗する世界において、一貫して完全に無意味であるが故に換金できず一切消耗しないという異常な性質を持つ所有物が死だ。

これにより、死を意識した瞬間に人生が数字に還元されない価値を持った意義深いものになる理由が分かる。死は摩耗しないので、他のあらゆる人生の目標を超えて人生の価値を保証する絶対的な最終目標になれるのだ。こうして資本主義がもたらす人生の消耗に対抗し、本来の豊潤さを回復することが可能になる。

2.大量生産製品によって失われるアイデンティティについて

一般的に言って、アイデンティティとは唯一無二であることがその条件である。誰もが同じように持っているものを持っていたところでアイデンティティにはならないが、あるものを持っているのが自分だけであればそれは立派なアイデンティティになり得るだろう。

ところが、資本の原理に従う工場生産が実現した消費社会において、唯一無二の何かを確保することはかなり難しい。朝起きるベッド、止める目覚まし、脱ぐパジャマ、食べるパン、飲む牛乳、注ぐコップ。何もかもが世の中に無数に流通している大量生産品だ。先ほど考えたアイデンティティの条件に従うと、これらはアイデンティティにはならない。
いや、正確に言うならば、「大量生産品によって唯一無二のアイデンティティを確保しようとする」というややこしい事態が起きていると言った方が正しいのかもしれない。何故なら、スターバックスの新商品を買ってTwitterにアップするという行為が私らしくてイケていると考える人はたくさんいるからだ。ちょっとSNSを開けば、同じ商品を同じように買って同じように自撮りをしている人たちがごまんといるというのに。
ひょっとしたら、アイデンティティは世界全体に対して唯一無二のものでなくてもよく、精々所属するコミュニティの中で唯一無二のものを持っていればそれで良いのかもしれない。とりあえず友達に自慢できればオッケー、同じことをしている人がいてもそれが友達じゃなければセーフ、という具合に。あるいは、個人的なアイデンティティなんてもう求められておらず、むしろ一つのコミュニティに同化して帰属するための集団的なアイデンティティの方こそが求められているのかもしれない。
いずれにせよ、「自分の人生がありふれている」という問題は解決されていない。少し視野を広くした瞬間、私の日常は誰かの日常でコピーできる程度のものでしかないということは否が応でも認識せざるを得なくなる。消費社会とSNSの合わせ技により、人生がありふれていて退屈であることは避けがたい宿命だ。

しかし、誰でも生まれたときから持っていて、人生が唯一無二であることを明証するものが一つある。大量生産されないもの、一度しか訪れないもの、完全に個人的なもの。やはり、それは「死」だ。
「人間は誰だって死ぬんだからむしろ死は大量生産品と同じくらいありふれたものじゃないか」という反論が有り得るかもしれない。しかし、冷静に考えてみてほしい。自分がスタバで買ったフラペチーノが他人がスタバで買ったフラペチーノと「同じ」だという意味で、自分の死が他人の死と「同じ」と言うことは有り得るだろうか。「統計的な消費調査を見る限り、自分の購買傾向はありふれているなあ」とがっかりするのと同じように、「統計的な死因調査を見る限り、自分の死はありふれているなあ」とがっかりすることが有り得るだろうか。いずれも有り得ない。自分の死はいつだって特異点だ。

つまり、消費社会による陳腐化の呪いを受けない究極の聖域が死なのだ。誰だって人生の死を考えるときだけは自分の人生がオリジナルの一つであって、私にとって私の人生はこの死を引き受ける私でしかないということを理解せざるをえない。恐らく、これは数の多寡が云々というよりはむしろ死の原理的な性質なのだろう。

これにより、死を意識した瞬間に人生が唯一無二の価値を持つ意義深いものになる理由が分かる。死は完全なオリジナルなので、他の大量生産品を超えて人生の価値を保証するアイデンティティになれるのだ。こうして消費社会がもたらすアイデンティティの喪失に対抗し、本来の豊潤さを回復することが可能になる。

以上の2点の説明により、「資本主義システムが日常を退屈にする効果を持つ一方、死が日常の豊潤さを回復する処方箋である」というロジックがはっきりする。
最初の疑問に答える形で改めてまとめれば、死が日常を輝かせるのは、死は「無意味」「唯一無二」という二点において、摩耗する夢とアイデンティティの喪失から人生を救ってくれるからだ。「資本主義」と「死」が対になるのが鍵だ。『100ワニ』においてワニくんの不可避の死が放っていた魅力は資本主義と対になる形で理解されなければならない。

・100日後に死ぬワニはなぜ失敗したのか

ここまでは「何故『100ワニ』は成功したのか」という話をしてきた。いよいよ「何故『100ワニ』は失敗したのか」に入ろう。

とはいえ、話は驚くほど単純である。
ここまで述べてきたように、「死が日常を輝かせる」という『100ワニ』の本質を分析すると、資本主義の呪いによって退屈になった日常を死の意識によって豊潤化させて取り戻すというロジックが見えてくる。
しかし、『100ワニ』でワニくんが死んだ瞬間に始動した怒涛のビジネス展開は資本主義の論理そのものである。本編でワニくんの死が排除したはずの資本主義が復活したことにより、ワニくんが死んだ意義の方が完全に無効化されてしまったのだ。
これを先ほど考えた二つの例に即して見ていこう。

まず、第一の例では「死は無意味であるが故に摩耗しない」という逆説のロジックによって死が日常を輝かせる効果を持っていたのであった。
しかし、いまや「ワニくんの死」は全く無意味ではないどころか、完全に商業的な意味を持ってしまった。ワニくんが死ぬことによってお金が生まれるのだから、その死は換金可能な死である。究極的な無意味さ故に超越的な価値を持って日常を豊潤にしていたはずのワニくんの死は、いまや一回いくらで買えて摩耗していく商品でしかない。

次に、第二の例では「死は唯一無二であるが故にアイデンティティを担保する」というロジックによって死が日常を輝かせる効果を持っていたのであった。
しかし、いまや「ワニくんの死」は全く唯一無二ではないどころか、完全な大量生産品だ。
もう少し具体的に書けば、Twitterに投稿されていた段階では、ワニくんが死ぬイベント=作者のツイートそのものは唯一無二だった。リツイートは複製ではなく拡散だからだ。ただ一つのツイートが多くの人に見られるようになるだけで、死そのものが複数化されるわけではない。
ところが、グッズや本ではそうもいかない。各自の手元にワニくんの人生が配布され、それぞれがワニくんの死を演じる。これにより、皆が所有するワニくんの死は唯一無二の重みを持たない。キャラクター商品という大量生産に巻き込まれたワニくんの死はどこにでもある、ありふれた死である。その命は軽く、彼の日常もありふれた退屈なものでしかない。

・100日後に死ぬワニはどうすべきだったのか

「じゃあ『100ワニ』は絶対に金儲けをしてはいけないとでもいうのか?」というもっともな疑問にも答えておこう。
というのは、現実的に考えて、『100ワニ』というコンテンツでお金を稼ぐ行為はどんなものであれ資本主義のロジックに従ってしまうからだ。よって、『100ワニ』の本質が資本主義へのカウンターにあるというなら、『100ワニ』は一切のお金を稼ぐべきではないということになってしまう。これだけのコンテンツを作った作者に一円も入らないのはあんまりじゃないかという反論ももっともだ。

まず勘違いしないでほしいのだが、俺は金儲けをするなという気は全くない。むしろ作者は正当な対価を受け取るべきだし、商売をする権利も当然にあると思っている。商業展開そのものを否定するつもりは全く無い。
しかし、『100ワニ』というコンテンツの特性を踏まえた上で、それを破壊しないもっとマシなやり方がいくらでもあっただろとは思う。「死が日常を輝かせる」という『100ワニ』の本質を大切にするのであれば、ここまでに二つ挙げた死の性質を踏まえた商業展開をすればいいだけだ。ワニくんの死が冒涜され続けている今の惨状に比べればベターな方法はいくらでもある。

例えば、『100ワニ』が終わるときに発表する展開は「映画化」一本に絞るべきだった。
そもそも、色々な商品展開を一気に同時発表するというやり方が極めて「大量生産的」なのだ。あっちにもこっちにもワニが湧いてきて、メディアを跨いでコピーされている印象が強すぎる。その中でも書籍やグッズは誰がどう見ても全く同じものが何万個と作り出される大量生産品の典型である。
それらに比べれば映画はまだ「大量生産感」がそれほど強くない。売る商品は体験であって物ではなく、消費者の手元に物質的なワニくんが届くことがないからだ。また、映画館では複数の観客が同時に一つのスクリーン映像を見るため、それぞれに大量生産品を配布されるというよりはリツイートと同じように唯一無二のものを共有する体験に近い。まずは映画だけ発表して、書籍やグッズは1日くらいおいてから付属のように発表しても良かった。

また、どうせ商業展開をやるならどこかでクラウドファンディングをやるべきだった。
金儲けのためではない。ワニくんの死をビジネスにする際、一回いくらで消耗する純粋な売買対象にするのではなく、容易には換金されないイベントとしての体験価値を付与するためである。
クラウドファンディングが優れているのは、数値の持つ意味がかなりファジーで、ひょっとしたら等価交換ですらないのかもしれないというところだ。好きなアーティストに5000円を投資する支援者は「この5000円はリタ―ンと価値が見合うのか」とはあまり考えていないだろう。この場合、支援者は貨幣を数値的な意味の少ない定性的なものとして利用している。これにより、「何でも数字に変えて摩耗させてしまう」という貨幣の呪いを緩和し、ワニくんの死を一回いくらで売るものから遠ざけることができる。

 

思ったより長くなったので、最後に内容を改めてまとめておく。
『100ワニ』は「死」が「日常」を輝かせるという逆説的な効果を最大限に発揮した非常に優れたコンテンツだったが、その根底には「資本主義」へのアンチテーゼがあるということを見誤った商業展開によってコンテンツの本質が完全に破壊されてしまった。他にもっとマシなやり方があっただろうに、単なる無理解により怪物コンテンツの可能性が潰れたことは本当に惜しい。