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20/3/14 劇場版ハイスクールフリートの感想 日常の延長にある戦争

・劇場版ハイスクールフリート

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終わりそうで終わらないコンテンツ、ハイスクールフリート
二期の音沙汰がない割には地域密着イベントやOVAパチスロをしぶとく展開し、でもゲームアプリは速攻で終わったハイスクールフリートの劇場版を見た。何故かサークルの後輩が余ってる前売り券をくれたので無料で見れた。無職ゆえありがたい。

後半の作画が事実上完成していない状態で封切りし途中から完成版に切り替えて「400カット以上をブラッシュアップした新バージョンでの上映」と言い張るという強気なムーブをかましてきたが、俺が見たのは旧バージョン(未完成版)だった。
普段あまり作画を気にする方では無いので別にいいのだが、かなり気合が入っていた日常パートから物語が盛り上がっていくにつれて作画がグダグダになっていくのは、ハイスクールフリートというコンテンツや放送版の展開に似ていてかなりウケた。

全体としてはまあ期待を裏切らない出来で面白かった。
前半で大量のキャラクターに一通りの見せ場を与える日常パートを消化したあと、後半で一気に海戦にもつれ込んで戦闘パートという、放送版で言うところのAパートとBパートの流れを踏襲したものになっている。

しかし放送版との大きな相違点として、海戦を繰り広げる敵にテロリストという「悪意ある人間」が導入されたことがある。これは放送版では人間の同士討ちでドンパチやっておきながらも最終的には「新種ウィルスの蔓延事故」が全ての元凶であることが判明し、「悪意ある人間」がいない結末に収束したのとは真逆の事態だ。

元々、ハイスクールフリートは放送開始までタイトルを『はいふり』と告知しておきながら、第一話ラストで『ハイスクールフリート』に改題するというタイトル詐欺によってスタートしたことは、今や知らない人も多いのかもしれない。
明らかに「日常系と見せかけたシリアスもの」という(まどマギ以降は手垢のついた)文脈で「味方艦隊から攻撃を受けて孤立無援になる」というハードな状況がスタートするのだが、そんな厳しいシチュエーションにも関わらず、キャラクターたちはとことん能天気だった。毎回Aパートでは水浴びだの誕生日だのと緊張感のない日常系アニメ的イベントが展開し、Bパートでようやく思い出したように戦闘を開始するという独特のスタイルで毎話が進行していった。
つまりタイトル詐欺で仕掛けたギミックとは完全に逆で、「シリアスかと思ったら日常」の方が実態に近い。むしろ日常の延長として生死に関わる戦闘をやるという異常性が際立つアニメとして俺の中に記憶されている。

実際、放送版では戦闘そのものがシリアスな主題になることはなかった。
戦闘は艦長のミケちゃんが毎回いい感じのアイデアで小気味よく切り抜けていくコメディに近く、精神的に疲弊することがない。ハードな状況にも関わらず、「味方から攻撃されて精神を病む」「味方を撃つことに葛藤する」という事態はまず起こらない。指名手配されているにも関わらず雑な変装で楽しそうに買い物に出かけ、「ごめんなさーい」とか言いながら普通に砲撃する。戦闘の代わりに一応シリアスなものとして精神的な主題になるのは「疑似家族コミュニティの絆」というテーマであり、これも美少女同士がキャッキャキャする日常系の延長線上にあるモチーフだ(それは指名手配されながらすることか?)。
また、物理的にも傷付くことはない。揺れて頭を打ったり炊飯器が壊れたりするくらいが精々で、皆が健康体のまま甲板を駆け回っている。普通に実弾をバンバン撃ち合っているし、絵的には一つ間違えれば死んでいる描写も結構あるのだが、死に怯える者は誰もいない。まるで死なないし怪我をしないことは暗黙の了解であると言わんばかりに、明るく楽しく砲弾を撃ち合うのだ。

つまるところ、放送版では「悪意と損傷の排除」が徹底していた。物理的にも精神的にも美少女をグロテスクさから隔離する偏執的な保護政策が戦闘とプロットの両面で機能していた。改めて確認すれば、それは各話単位ではAパートでの日常系のテンションを維持したままBパートで楽天的な戦闘を展開し、シリーズ単位では最終的に悪意の介在しないパンデミックとして黒幕が現れないまま事態が収拾されたことを指している。

補足244:本来こういう、悪意を介在させることなく、むしろ爽やかなイメージを伴って戦闘行為をさせるのは「スポーツもの」の専売特許である。実際、近年の美少女ミリタリーアニメとしてハイスクールフリートと双璧を成すガルパンでは、戦車戦という限りなくヘビーな戦いを部活として描くことによって、シリアスな生々しさを完全にパージして戦争と美少女を掛け合わせることに成功している。ハイスクールフリートもやろうとしていることは恐らくガルパンと同じなのだが、スポーツという手段を採用しなかったために、キャラクターたちがシリアスな状況に比してあまりにも能天気に見えるということは放送当時からよく指摘されていた。

劇場版では、こうした保護政策は単に引き継がれるどころか更に強化されて現れる。
象徴的なのはスーちゃんとかいう新キャラの立ち位置だ。彼女は実はテロリストの協力者であったことが判明したにも関わらず、その罪は不問に付されてすぐに仲間になる。騙されていただけとはいえ、犯罪者の仲間が次の瞬間には治安組織に加入するという限りない美少女への寛容さは、この作品がどこまでもキャラクターコンテンツであることを声高に主張する。

補足245:この「美少女の罪は不問になる」というシステムを最も強く感じたのは『ビビッドレッド・オペレーション』だった。ビビオペのメインヒロインは最初は敵として登場し、船を沈めたりヘリを落としたりと国防軍隊にただならぬ損害を与える(たぶん何人か死んでる)。しかし正体が発覚するシーンでは、彼女は主人公とのしょうもない行き違いについて逆ギレし、それ以降は「美少女同士の和解」という話題へとシフトしていく。それに伴い、当然のように過去の罪については有耶無耶になる。俺はそれを見て「美少女は人を殺してもいいんだ!」という気付きを得た。

放送版からの流れを踏まえ、俺はテロリストという悪をどう処理するのか気にしながら見ていた。戦闘が日常と連続した場所にあるならば、悪意を正面から扱って非日常を呼び込むわけにはいかないからだ。一番ベタなところで「実はテロリストも美少女で、何かのっぴきならない事情があって悪いやつではないし最後には和解する」的な展開になるのかと思いきや、それよりも遥かに単純な方向に話が転がっていく。
テロリストの男たちを限りなく弱体化させ、悪意あるキャラクターというよりは舞台装置に押し下げることで対応したのだ。テロリストたちの目的は深く掘り下げられることもなく、そもそも敵キャラクターとして成立していない状態のまま、本職の先輩たちがコメディじみたアクションで一蹴することによって退場していく。結局、最後まで主人公陣営(ミケちゃんとその仲間たち)がテロリストと直接接触することは無かった。
では主人公陣営がアクションシーンで代わりに何と戦うのかと言えば、オートマチックメカである。テロリストが敵だと生々しいので、戦争を障害物レースに置き換えたわけだ。これによって、やはりミケちゃんたちは悪意から隔離される。最後の最後にクライマックスとして立ち塞がるのも天井の崩落という無機物の障害であり、シロちゃんがそれを突破するところでアニメ版オープニングが流れて大団円となる。最終的に解決するのも「シロちゃんが疑似家族内に留まるか否か」というやはり日常系的なテーマに過ぎない(それはテロリストと戦いながらやることか?)。

もっとも、俺はキャラクターコンテンツとしてハイスクールフリートが好きなので、それで一向に構わない。テロリストを敵に設定してもなお対人戦を排除し、徹底して日常の延長に戦争を置くことにはむしろ好感が持てる。
これからもこんな感じでゆるゆると後続作品を作ってほしい。