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20/7/6 『ポストモダンの思想的根拠』 ポストモダニズムから資本主義リアリズムまでの間に何があった!?

ポストモダンの思想的根拠

かなり面白かった。
議論が明瞭で書き方も平易なので、美容院で縮毛矯正をかけている間に読み終わった。

補足306:天パ以外は知らないと思うが、縮毛矯正は1回3~4時間かかる上に安くて1万円は取られる。天パ税である。

タイトルがややミスリーディングだと思うのだが、この本で主に議論されている「ポストモダン」とはいわゆる「差異の戯れ」としてイメージされる二十世紀的なそれではない。代わりに二十一世紀に君臨しているのは「ポストモダンの第二段階」であり、こちらはもはや陳腐化した差異の戯れなど完全にコントロールして支配下に置いている。「差異」としてのポストモダンphase1は9.11を境にして終わり、「管理」としてのポストモダンphase2が始まったというのが主な論旨だ。

2005年に出た本だが、スラヴォイ・ジジェクの引用を通じて2009年のマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』への接続として読める点が素晴らしい。俺がこの本で解決した疑問は、とどのつまり「ポストモダニズムから資本主義リアリズムまでの間にいったい何があったのか?」である。差異が戯れるポストモダン状況というユートピアが訪れたかと思いきや、何故フィッシャーをして「資本主義の終わりより世界の終わりを想像する方が容易い」と言わしめる再帰的無能感が世界を覆っているのだろう。ネオリベラリズムヘゲモニーポストモダンの延長線上に捉えることにより、プレモダン-モダン-ポストモダンphase1-ポストモダンphase2という年表の上に資本主義リアリズムを位置付けることが可能になる。
その際にキーワードになるのは「自由管理社会」、すなわち「自由と管理の共犯関係」というモチーフだ。ポストモダニズムで称揚されたような差異をベースとした自由は既に厳重な管理体制の下に置かれている。逆に言えば、管理という柵の中で囲い込まれた範囲でのみ自由の謳歌が可能になっているのだ。

最大のポイントは、「自由管理社会」は思想警察があちらこちらに潜んでいるような全体主義的な「統制管理社会」とは全く違う、むしろ正反対の社会だということだ。
もともと、「統制管理社会」はフーコーが規律権力として指摘したものの発展形として理解できる。フーコーは主体化と服従化を同一視し(subjectの両義性)、閉鎖空間において規範を内面化することによる近代における主体という擬制の完成を指摘した。例えばオーウェルの『1984年』において描かれたのも矯正プログラムによって主体化と服従を同時に完成させる人間の姿であり、この意味でビッグ・ブラザーはパノプティコンカリカチュアでもある。

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しかし、現代において街角の監視カメラが持つ機能はビッグ・ブラザーのモニタリングとは全く異なっている。監視カメラは社会の構成員にとって、「生存の担保」というこれ以上ない有益な効果をもたらすからだ。監視カメラが無ければ街中に犯罪が横行し、ひったくりやレイプによって我々は自由を失うかもしれない。我々には党派的な意図を全く経由せずに自ら監視カメラを街中に設置するインセンティブがあるし、クレジットカードの利用や指紋認証にも全く同じことが言える。
こうして監視カメラの存在によって示される、管理によって担保される自由が「自由と管理の共犯関係」だ。この監視カメラを国際レベルにまで拡大したものが世界警察と化したアメリカだとすれば、世界的に自由管理社会が成立したのはテロの脅威がセキュリティの無限なる延長を正当化した2001年9月11日だったと言えよう。
なお、こうしたセキュリティレベルの権力の在り方は、再びフーコーを引けば「生権力」として彼が指摘したものと同一視しうる。モダンな規律権力の影響下では、本質的に抑圧的な統一によって成立している主体の中では差異の戯れなど生まれようもなかった。しかし、情報社会において規律権力が生権力へと変質する中で、権力の発動は人命に関わるレベルでセキュリティを担保するだけの夜警国家的なものにまで縮退した。ここにはポストモダン的な自由を謳歌する余地も生まれるかもしれないが、しかし、それはあくまでも監視カメラによって担保された柵の中の自由であることには留意しなければならない。

さて、このようなポストモダンにおける「自由と管理の共犯関係」というモチーフはネオリベラリズムの両義性にも現れてくる。ここからが本題だ。
ネオリベラリズムは一方では市場原理や自由競争を肯定して最小国家を理想とするリバタリアニズム的側面を持つ反面、国家による思想的な統制をかなりの程度肯定する保守的コミュニタリアニズムの側面も持つ。この二つは通常は対立すると考えられているが、実はそうではないのだ。先ほどの監視カメラの論法と同様にして、自由な競争を担保することを目的として、国家が秩序を整流するパターナリズムが肯定されうるからだ。こう言ってもいい、市場原理という「ゲーム」を楽しむためには、最低限の「ゲームルール」を整備する管理者が必要ではないか。こうしてリバタリアン的自由をコミュニタリアニズム的管理が担保する「自由の管理」という捻れがネオリベラリズムとして完成する。

以上のように、「自由管理社会における自由と管理の共犯関係」をベースにして、「ネオリベラリズムにおけるリバタリアニズムコミュニタリアニズムの共犯関係」も同じ囲い込みの構造として理解できるだろう。もちろん、囲い込まれるのはポストモダン的な差異の戯れである。世界を自由に繋いで差異の多様性を提供したはずの情報技術と自由主義はもはや完全に柵の中の夢となり、ポストモダニズムの夢が謳歌されるのはマトリックス装置の中だけでしかない。
最後に『資本主義リアリズム』に戻っておけば、こうした囲い込みのモチーフはフィッシャーが「ヴァンパイア城」と評した資本主義リアリズム下での左翼の末路でもある。資本主義に囲い込まれて去勢された左翼はその枠組みと戦う「政治左翼」であることを忘れ、せいぜい枠内でポリコレを云々するだけの「文化左翼」に過ぎない。
拵え物の差異と戯れたところでいったい何になるのだろう、ネオリベラリズムによるポストモダニズムの攻略は既に完了しているというのに……