LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア300円

19/10/10 ArcVとデュエルの相対化

・ArcVとデュエルの相対化

前回→の続きです。

結局のところ、ArcVがやろうとしていた試みは「デュエルの相対化」と言ってよいと思います。
相対化されるということは、それまでは絶対視されていたということです。「デュエルで世界が回ってる」「デュエルの結果は誰にも変えることができない」「デュエルは誰にも邪魔されない」みたいな、デュエルを神聖視するような世界観がGX・5D's・ZEXALを通じて強化されてきていました。それはいわゆる「ホビーアニメのお約束」というやつでもあって、ホビーアニメはカードを売るために毎週当たり前のようにあらゆる物事をデュエルで解決しないといけないからです。
実際、まだホビーアニメ路線が確立していなかった初代ではデュエルってそれほど神聖なものではありませんでした。パンドラやキースなど汚い盤外戦術で勝利を狙うプレイヤーが多く存在するし、バトルシティ編ラスボスである闇マリクとの戦いも表マリクのサレンダーで強制終了しました。その一方で、ラストバトルである闘いの儀はデュエルを極めて神聖な儀式として再定義しており、あの戦いから続編に続くデュエルの神聖視がスタートしたと見ることは可能です。

ArcVはデュエルの神聖視にメスを入れたわけですよね。
デュエルの途中に乱入を許容したり、外部要因で中断させたり、神聖で邪魔されないデュエルというものを積極的に解体していきました。
4a5f34ca-s
榊遊勝による衝撃の拘束剣はなかなかショッキングでしたが、一番驚いたのはシンクロ次元編でデュエルで囚人を止めようとした看守が普通に腕力でボコられて退場したところです。デュエルをさせるにはそれに足るだけの理由が必要で、デュエルというだけで皆が足を止めて向き合ってくれるわけではないらしいんですね。「あっ、それやっていいんだ」っていう。
で、ここまでは多分一般に共有されている認識で(ニコニコ大百科にも書いてあったので)、このあと概ね「デュエルを相対化したから駄作」っていう評価が続くように思うんですが、僕はそうは思いません。僕はあまりデュエルに執着がないので、逆張りして「シリーズ初の面白い試みが始まったな」とむしろかなり肯定的な目線で見ていました。

そもそも、こういう「それまで絶対視していた主題のモチーフを相対化する」という運動は、遊戯王に限らず結構色々な作品・シリーズで長期化に伴ってたまに発生するものです。
具体例を挙げると、この前も少し書きましたけど、今の『カイジ』がそうです。『カイジ』の主題は「ギャンブル」ですから、ギャンブルのルールが正しく運営されることは長らく当たり前の大前提になっていました。しかし、和也編からはルールが属人的で曖昧になり始めて、現在連載中の24億編ではギャンブルで得た金を誰も保証してくれなくなっています。いまやギャンブルで勝っても得た金を自衛しないといけないので、ギャンブルに勝つことは最終目標ではありません。ギャンブルというルールの枠組みが壊れたという意味で、ArcVでデュエルが壊れたのと同じ現象が見られます。
スター・ウォーズ』における「ライトセイバー」もそうです。エピソード6まではライトセイバーを使った戦いってジェダイとシスにだけ許された神聖な決闘だったんですが、エピソード7や8以降は(まだ)ジェダイでもシスでもないその辺の黒人とか女性がその辺に落ちてるライトセイバーを使って敵と戦うようになります。ルークはライトセイバーを投げ捨てるという渾身のギャグを披露するし、ライトセイバー及びそれを用いた決闘の神聖さが破壊されたというのは、やはりArcVと同じです。
そして一般的に言って、こういう「モチーフの相対化運動」をうまくやるのは至難の業です。というのは、作品を規定していた枠組みを一度放棄してしまうと、次に何をすればいいのかが非常に難しいんですよね。典型的なのが「人生とは何か?」「どう生きるべきか?」みたいな実存的な問いに移行することです。これって「ギャンブルとは何か?」とか「ライトセイバーとは何か?」という狭い問題に比べて、良く言えば本質的ではあるかもしれないけど、悪く言えば誰でも考えるありふれたことでもあって、相当上手く処理しなければわざわざその作品でやる意味がよくわからなくなってしまいます。後日またブログを書きますけど、『トイ・ストーリー4』はまさにそれにハマっていて、「オモチャ」というテーマを解体して「人生」というテーマに置き換えた結果、シリーズの独自性が消滅しました。

だからArcVで行われた「デュエルの相対化」は、シリーズが長く続くと自然と起こる発作みたいなもので、長期シリーズの常として、いつかどこかで向き合うことになる話題だったのではないでしょうか。事後的に見れば特異点かもしれないけど、歴史的に見ればむしろ予定調和です。だから「デュエルの価値が下がったから良くない」という局所的な評価をするよりは、「デュエルの相対化運動がうまく実行されたか否か」という視点で評価をした方が、シリーズ全体の動向に照らして建設的ではないだろうかというのが僕の立場です。
実際、陳腐な末路を辿ってしまう作品に比べれば、ArcVはもうちょっとましなやり方で「モチーフの相対化」に取り組んでいたと思います。デュエルの価値が下がったからといって「デュエルはもう放棄する」というわけではなくて(販促アニメなのでそれでも毎週デュエルはしないといけないため)、「様々な用途があり得る」っていうポジティブな描き方をしたのがうまいです。目的化していたデュエルを、道具として読み替えたわけです。それによってデュエルをどう使うかが次元や立場に依存したものになっていて、シンクロ次元のトップスにとっては階級固定に用いるプロパガンダ的パフォーマンス、コモンズにとってはそれに乗じた抵抗の契機、融合次元ではもっと直接的な武力として。そういう複層的なデュエルの捉え方って、次元を割って価値観を多様化させた設定ともうまくシナジーしていて、「建設的な解体の仕方をするなあ」と思って見ていました。
特にシンクロ次元編の評価はかなり高いです。今までのようにデュエルは自明に行われるものではなく、あくまでも階級社会の利害に応じた見世物としての役割があって、それがエンタメデュエルという主題ときっちりリンクしつつリアリティのある状況を描いていたと思います。我々の現実世界ではデュエルって神聖なものではないので(人によりますが)、アニメ内でデュエルを相対化して合理的な立ち位置を与えることって、e-sportsシーンを考える上でも何か示唆してくれるものがありそうな感じがします。

しかし結局のところ、この試みは失敗しました。決定的に不味かったのは、デュエルの相対化に取り組んでいたにも関わらず、最終的にはデュエルの絶対視でそれを収拾するという自家撞着に陥ったことです。
せっかくデュエルには色々な使い方があり得るっていう建設的な提案をしているのに、それを最終的には遊矢がエンタメデュエルで「デュエルは神」みたいな感じで一元化して話をまとめてしまうので、提案が破棄されてしまうんですよね。デュエルを解体しきれずに絶対視を出戻りさせてしまったことが僕の評価を決定的に下げています。もし解体をやり切っていれば、遊戯王好きからの評価は下がったかもしれないけど、僕は意気揚々と高く評価していたと思います。
ただ、途中でも書いた通り、問題提起の仕方は優れていたため、遊矢がラストデュエルで皆を笑顔にする前のところまではこのアニメは本当に面白いと今でも思っています。「デュエルを解体して問い直す異端のシリーズ作品」になるポテンシャルは確実にありました。実りませんでしたが。